橘玲 文藝春秋 2024.3.20
読書日:2024.9.17
シリコンバレーなどにいるテクノオタクたちの多くは、自由をもっとも価値が高いと考えるリバタリアンで、あり得ないほどの財力とテクノロジーの力を使って、世の中を変えようとしていることを報告した本。
リバタリアンは自由原理主義者とか自由至上主義者とか言われる人たちで、個人の自由が最も大切と考える人達だけど、日本では説明がなかなか難しい。でも、橘玲はなかなかよく説明してくれている。
左のリベラルも右の保守も自由を大切にするところは同じだが、リベラルは平等を重んじ、保守は伝統や共同体を重んじるという違いがある。しかし、どちらもそれぞれの大義のためには自由は制限されても仕方がないと考えるという点では同じだ。
一方、自由至上主義者のリバタリアンは、もちろん自由が制限されてもいいなどとは考えない。自由が最高の価値で、そこは妥協したくないのである。
そもそもリバタリアンは人々が集まって話し合うことで何かを決めるという民主主義自体を嫌っている。多数派の考えを個人や少数派に押し付けるのが民主主義だからだ。しかも多数派は簡単に衆愚におちいるとさとっている。
もちろん国民を管理しようとする政府も嫌っている。だから無政府主義(アナーキズム)的な発想も入っている。しかし、リバタリアンにとって単純な無政府主義も困るのである。なぜなら、そもそも安全でなければ自由もないからだ。秩序は絶対に必要だ。
民主主義も嫌、政府も嫌、でも安全を担保する秩序はほしい、などという都合のいい方法は普通はありえない。しかしリバタリアンの中には数学に秀でて、テクノロジーに詳しいひとたちがいる。この人達は数学やテクノロジーを駆使すれば、そんな都合のいい社会をデザインできるのではないか、と発想する。このへんが人をまとめて徒党を組み、数の力でなんとかしようと考える従来型政党との違いだ。
能力主義(メリトクラシー)が主流の現在、そういう超理系の人たちの中には何兆円レベルの巨大な富を築いている人もいる。この本でもイーロン・マスクやピーター・ティールについて多くのページが割かれている。でもたぶん、富自体はそんなに重要じゃない。こういう社会をデザインしようとする発想自体が重要なのだ。
実際にそのような発想で作られた成果物を、すでにわしらは知っている。ビットコインなどの暗号通貨(クリプト・カレンシー)がそれだ。
政府が強大な影響力を誇っているのは、ひとつには経済を握っているからで、その根源は通貨の発行である。通貨を政府と無関係にできれば政府の機能の一部を削ぐことができ、その分個人に自由を取り戻せる。そういうリバタリアン的な発想で作られたものが、暗号通貨なのである。
実際に改ざん不可能なブロックチェーン(電子帳簿)技術と組み合わされて、暗号通貨は数学的に完璧な存在だ。ビットコインがきちんと機能して受け入れられていることからも、この発想はなかなかいいと言える。
政府の主な機能のひとつは、個人と個人資産を守ることだ。それは資産を帳簿に付けて、管理することである。このような作業はブロックチェーンと相性がいいから、ブロックチェーンで政府機能を代替できるという発想が出てくる。これがクリプト・アナキズムだ。けれど、困ったことにたぶんこれはうまく行かない。
この本ではイーサリアムの分岐の話が出ているけど、ビットコインだって何度も分岐している。考え方の違いから、こうしたシステムはすぐに分岐してしまうのである。ブロックチェーンが分岐しても、通貨だったらそれぞれ独立した通貨になるだけだから影響は限定的だけど、これが不動産登記の帳簿だとすると分岐なんてありえない。そうなると、人を介在させるしかない。そして人の管理が必要なら、それは結局、政治になってしまうのである。つまり数学だけで自動的に処理するということは無理なのである。
安全の問題はどうだろうか。
自由な社会のためには安全な社会が必要だ、とリバタリアンは考える。ピーター・ティールはプライバシーより超監視社会のほうが安全として、そんな会社を作っている。普通のリバタリアンとは真逆だけど、その考え方も理解はいちおうできる。すべてのデータを掴んで、国民の幸福を最大限にする超功利主義の社会を総統府功利主義と言うんだそうだ。だが、その総統府がほんとうに機能しているのか、誰がどう監視するのだろう。総統府功利主義はやっぱり人が介在せざるを得ないから、政治的になり、うまく機能しないだろうと思う。
そういうわけで、橘玲が次世代のテクノ・リバタリアンとして強く推しているのが、資本主義の構造自体を根本から変えてしまおうというグレン・ワイルの「ラディカル・マーケット」の考え方だ。
資本主義の問題点は、資産は使われない限り無くならないということだ。つまり富はどこまでもいつまでも「蓄積」できてしまう。そして蓄積されている限り、その富は使用されずに眠ったまま、不平等は拡大し続ける。もしこれらの富を強制的に流すようにすれば、市場の力によってより適切に配分され、人々の幸福は最大になるだろう、というのがラディカル・マーケットの発想だ。
具体的には、富の所有に税金をかけて、所有するだけでコストがかかるようにするというものだ。秀逸なのは、その値段を所有者が自分で申告するようにしていることだ。税金を払いたくなければ、安く申告すればいい。ただしあまり安くすると、その値段で買うという人が現れた場合、売らなくてはいけない。
確かにこのようにすれば、強制的に供給が増えるので、分配の機能が働いてよりよく配分されるだろう。実際にはなかなかうまく行かないだろうが、発想としては理解できる。新世代のリバタリアンといわれるゆえんだ。
わしは富の蓄積自体は別にしてもいいけれど、他の人から「それがどうしたの?」と言えるような社会をつくりたいと思っている。つまり、富を蓄積しなくても快適に暮らせる社会で、それは生活にかかる費用が劇的に少なくなればいい。実質、無料が理想だと思っている。わしは未来の社会は生活費や教育費が無料になると信じている。テクノロジーの発展でそうなればいいな、と思っているが、ワイルの発想にも似ているものを感じる。
ワイルは民主主義自体についても、多数派の数の暴力を減らす方法を提案している。うまく行くかどうかはわからないが、こういうふうに、過去の発想にとらわれずに社会をデザインする思考が大切なのだと思う。
最後に橘玲はべジャンのコンストラクタル法則を持ち出して、世界は階層構造を生じるのが自然という話をしている。だから人間社会は階層構造を持っている方が人々は自由で、社会は安定するらしいのだ。つまり格差OKの世界である。(SF「すばらしい新世界」でも同じことが言われていたのを思い出す。あるいは「タテ社会と現代日本」での、階級社会は意外に悲惨ではない、という話を思い出す。)。
うーん、この辺は、べジャンの本「流れと形」を読んでから考えたいな。
正直に言って、知らない話はそんなになかったけれど、いつも思うのは、橘玲がとてもうまくまとめて説明してくれることだよね。こういう才能は本当にうらやましいなあ。
★★★★☆