ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

私が間違っているかもしれない

ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド キャロライン・バンクラー ナビッドモディリ 訳・児島修 サンマーク出版 2025.7.20
読書日:2025.3.18

スウェーデンのエリート経済人が仕事を辞め、タイで仏教の僧になり、17年間の修行の末に還俗し、求められるままに、修行で得たことを話した本。

1983年に23歳でストックホルム商科大学を出たビョルンは国際的なガス器具会社AGA社に勤め、3年後の1986年の26歳にはスペイン支社のCFOにまでスピード出世する。しかし仕事にまったく興味を持てず、朝、瞑想しているときに、仕事を辞めるべきだという強い衝動を覚え、その日のうちに辞表を提出する。その後、数年間ふらふら世界のあちこちで過ごした後、タイの森林派の僧院に入るのである。1992年1月のことである。

タイでナッティコ(知恵の中で成長する者)という名前をもらい、7年間修行したあと、イギリスの僧院に移り、そこでも7年間過ごし、その後スイスの僧院に移り、2008年に僧をやめるべきだという衝動を受け、始めたときと同じように辞めたのである。

しかし、スウェーデンに帰ったあと、どうやって普通の人の生活をするか分からずに、1年間なにもせずに過ごすうちにうつ病を発症してしまう。ここがちょっと面白いところだ。僧院で修行した人は精神のコントロールのプロだと思っていたが、そういう人でも、社会の厳しい現実の直面し自分の存在意義について疑問を生じるような状況にあると、うつ病になるのだ。

ところが、彼のことをスウェーデンのテレビ局が興味をもって、インタビューの放送をしたら、それが反響を呼んで、彼は人気講師になるのである。

そのように忙しく過ごしているうちに、ALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかって、その後本書を出版したあと、2022年に亡くなっている。

では、彼は仏教の僧院で何を学んだのだろうか。

簡単にいうと、すべてを手放すことによって自由になる、ということのようだ。それは物質もそうだし、自分の精神的な信念すらもそうなのだ。そして、全てものは常に変化し、同じものはないから、いまを受け入れるということでもある。

タイの僧院で、イギリス人僧院長のアジャーン・ジャヤサロがこういったのだそうだ。「今度、誰かと衝突しそうになって心に葛藤が芽生えたら、この呪文を3回唱えなさい」と。その呪文は、

――私が間違っているかもしれない。
――私が間違っているかもしれない。
――私が間違っているかもしれない。

というもの。ビョルンは20年以上経ってもそのときのことを鮮明に思い出すという。自分が正しいはずだという信念は間違っているのだ。

わしが印象に残ったエピソードは、ビョルンがフェリーで旅をする話かな。

森林派はお金を持ってはいけない、ということになっているのだそうだ。そして、物乞いもしてはいけない。たとえ、空腹になっても自分から求めてはいけないのだ。なので、フェリーのチケットを買うお金はなかったが、誰かにねだることもできなかった。そこで彼は、フェリーのチケット売り場にただ立って、どうなるかみてみたのだという。

2時間立って、ある人がどうしたのかと聞いてきた。ビョルンは、立っているのです、と答える。そうしたところ、その人は、ビョルンがチケットを必要としていることを察して、往復のフェリーのチケットを買って喜捨してくれたのだそうだ。

僧の時代はこういうことがよく起こっていて、本当になにも所有する必要はなかったようだ。このような生活を長年していたのだから、還俗すると、心が対応できず、うつになってしまったようだ。

心が楽になるには、なにも所有しないことのようですよ。資本家にはちょっと無理な話かもしれませんが(笑)。

★★★★☆

ホルムズ海峡問題 中国はどう出るのか

AIによる生成画像。

4月2日(日本時間)のトランプ大統領の演説は、従来の主張を繰り返しただけだった。つまり、トランプ大統領の主張によれば、すでに目標を達成したのでイランへの攻撃はあと数週間で終わる、ホルムズ海峡の管理はしない、石油のほしい国が自分で石油を取りに行け、ということである。

アメリカが本当に戦争を止めて引き上げるのなら、それはそれで喜ばしいことである。アメリカもイランも両方とも勝ったと主張できる。そして、ホルムズ海峡に関してようやく世界の国々が具体的に動けることになる。

この場合、事実上、イランがホルムズ海峡を管理することになる。そして、中国がどう出るかがここでのひとつの焦点である。中国はエネルギー供給の観点から中東への関与を強めており、とりわけイランとの関係は経済・安全保障の両面で深化してきた。こうした背景を踏まえると、中国がイランによる「安全航路の管理」に積極的に協力し、影響力を高めていくシナリオは十分に考えられる。

その手段は必ずしも軍事に限らない。港湾整備、監視システムの提供、共同演習など、比較的低リスクな形で関与を強めることはすでに現実的な選択肢となっている。しかし状況がさらに不安定化した場合、中国が限定的な軍事力の派遣に踏み切る可能性も排除はできない。例えば、商船護衛や機雷除去といった名目での海軍展開は、国際的にも一定の正当性を持ち得るからである。

中国は焦らずに長期戦略でくるであろう。イランは現在、ホルムズ海峡に通行料を課しておりその代金は中国通貨の元で支払うように通告している、との報道がある。これだけでもすでにアメリカにとって打撃であるが、中国がホルムズ海峡の管理にじわじわ入っていくと、湾岸諸国にも元決済が広がっていく可能性がある。こうして、10年後にホルムズ海峡が中国の実質的な影響圏に入っていないと誰が言えるだろうか。決してありえないシナリオではないだろう。

このような状況は、日本にとって最悪の展開である。従来はアメリカの安全保障体制の下でシーレーンの安全が確保されてきたが、その前提が揺らぎ、日本は新たな現実に直面することになる。中国の関与が強まり、その影響力が航路の運用や安全確保、さらには元決済に及ぶようになれば、日本は外交・安全保障の両面で中国を無視しにくくなる。結果として、対中政策の選択肢が狭まり、経済安全保障や外交姿勢において制約を受ける可能性が高い。このようなことにならないように、日本政府には戦後のホルムズ海峡の国際管理には積極的に参加して影響力を確保してもらいたい。

このような展開は、覇権の変化を論じるレイ・ダリオの議論とも響き合う。すなわち、重要な海上交通路への関与のあり方は、大国の影響力の移り変わりを示す指標となりうる。ホルムズ海峡をめぐる中国の関与は、その一つの試金石として注視すべきテーマである。

中国がいま、ホルムズ海峡を熱烈な関心を持って観察していることは間違いない。わしとしては、近い将来、「中国のためのインド・太平洋」になっていないことを祈るばかりである。

(参考:レイ・ダリオのホルムズ海峡をめぐる論考)

 

#100日チャレンジ 毎日連続100本アプリを作ったら人生が変わった

大塚あみ 日経BP 2025.1.14
読書日:2026.3.13

何事にも集中できず、楽をすることには熱心な著者が、ChatGPTを使ったプログラミングだけは集中することができ、毎日必ずアプリを作って連続100本、Xに投稿しするチャレンジをしたら、プログラミングの腕がメキメキ上達して、その経緯を国際学会で発表したら評判を呼んだ、という体験を出版したベストセラー本。

たぶん、この本を読んだ人は、彼女がチャレンジをしていくうちにプログラマーとして成長していく姿に感動するのではないだろうか。彼女はプログラミングのコードは自分では書かないかもしれないが、プログラミングというものの本質を理解するようになり、プロのプログラマーのような考え方をするようになるのである。そして、ChatGPTのようなAIを使うと、トライ、エラー、改善のサイクルが異常に速くなる。学びにAIを使うメリットに誰もが驚くのではないだろうか。たぶん、それはプログラミングだけではなく、すべての学びに有効なはずだ。この本を読めば、我々はAIにより全く新しい教育の次元に入ったことを実感するだろう。

この100日チャレンジを始めたとき、大塚あみは経済学部の4年生だったそうだ。大学4年生のこの時点で、まず彼女は卒業のための単位がまだ揃っていなかった。だから彼女がChatGPTを使ったプログラミングを学ぶ講義を取ったのは、卒業のための単位を確保するためだった。当然この講義の提出物が少なく、取りやすいことを確認して申し込んだ。

もうひとついうと、この時点で彼女は卒業後の展望がまるでなかった。通常は3年生のときから活動を始めているはずの就職活動は、このとき全く手つかずだったという。

彼女は熱心なゲーマーでもあり、プログラミングについては興味があった。しかし、プログラミングの本を読んでもまったく頭に入らず、最初の数ページを読んで放り出しているような状況だったらしい。でも、VBAで数当てゲームを作った経験はあったらしい。そしてそれは大変苦労したという。自分はプログラミングには向いていないと思っていたそうだ。

そういうわけで、ChatGPTでプログラミングを生成できるという話を聞いたとき、彼女はさっそく講義中にオセロゲームのプログラムを書かせてみた。そうしたら、見事に動いたのだ。それは単純なものだったが、簡単にできてしまったことに感動する。

このへんが素晴らしい。興味を持ったら、すぐにやってみるという習性が彼女にはあったのだ。そしてChatGPTを使えば面倒なプログラミングのことを学ばなくても良いということが分かった。講義をしていた教官の佐々木さんがそれに気がついて、「講義中にゲームを作ってみせた生徒は君が初めてだ」と言われる。

こうして、ゲームをいくつか作って調子に乗った大塚さんは、100日間ゲームを毎日作ってXにアップするという挑戦を開始するのである。

それはこんなふうに進む。大塚さんが、こんなのを作って、とChatGPTに頼むとすぐにコードが生成される。しかし、大抵は動かず、エラーが出る。そのエラーがなぜ出るのか、またChatGPTに訊いて、その答えをみて改良する。

やっているうちに、もっとこんなふうにしたいという希望が出てきてそれをChatGPTにやらせてみる。すると、ChatGPTは、それならばこんなふうに設計を直したほうがいいというような提案が出てくるので、それはどういうことかをさらに質問する。

こんなふうにChatGPTと二人三脚でやっていくうちに、ライブラリとかクラスとかの概念を理解して応用していくようになる。

ChatGPTを使ってプログラミングを学ぶということは、トライして失敗してその改善をするということを、非常に高速に行うということだった。

そして大塚さんはいろいろ学びながら、たくさんの気づきを得るのである。それは例えば、ChatGPTは自分を超えることはできない、ということである。自分が成長しないと、ChatGPTに適切な質問ができない。質問の質に回答の質はリンクしているのである。

また、ChatGPTはたくさんのコードを出力してくれるが、そのなかからふさわしいものを選ぶという作業にもプログラム全体の構成を理解していないと適切なものを選択できない。全体の構成を考えるという習慣を身につけたのだ。

チェレンジには1日12〜13時間費やしたのだという。大塚さんは、興味を持てないことにはまったくやる気が出ないが、興味を持つとそれを延々とやれるという、全集中の人だったのだ。おそらく100日間で、1500時間ぐらいをプログラミングのことを考えるのに費やしただろう。作ったプロンプトは8123個だったそうだ。

もうひとつ大事だったのは、プログラミングをしている間、メモをきちんととっていたのだそうだ。同じ問題が起きたときに、昔の知識を再利用するためだったのだそうだが、結果的にこのメモがそのまま論文になり、学会に発表することができた。

さて、このような成果を出した大塚さんは、卒業間際になっても就職には興味が持てず、心配した教官の佐々木さんに言われて、しぶしぶ面接をうけていくつか内定をもらう。こうして就職したようだが、しかしもともと興味がなかったところで、この本がベストセラーになったということでもうすでに退職し、いまはタイに移住をしようとしているようだ。年収は2000万円だそうです。いまのところお金持ちライフを満喫しているみたい。

まあ、今後とも、作家、起業家として、なによりAIを人生にどう味方にしたらいいのかについての実験を今後も続けて報告してもらいたいな。

★★★★☆

締切と闘え!

島本和彦 筑摩書房 2025.10.10
読書日:2026.3.8

漫画家の島本和彦が、21歳のデビュー以来40年以上締切と闘ってきて、締切と付き合い、締切を超える方法を伝授する本。

島本和彦の「アオイホノオ」のファンなのでこの本を読んだわけです。なにしろ1980年代を舞台にしたこの漫画はわしの青春時代と重なっているわけですから、読んでいて素直に楽しい(笑)。当時はわしもほとんどの週刊漫画を読んでいたのです。

しかしどうも最近、アオイホノオのコミック化のペースが落ちているようだ。どうしてなんだろうと思っていると、この本のなかで、「コミケが忙しいときには32ページの連載を16ページにしてもらっている」と書いてあるではないか。

なにー!

いま島本和彦は、「ヴァンパイドル滾(たぎる)」を絶賛、週刊誌連載中。たぶん、こっちに精力を取られて、アオイホノオはページ数を減らしているんだろう。

しょうがないなあ、仕方ないから滾(たぎる)も読むかな。

というわけなのだが、締切に関して言うと、島本和彦は締切に追われる漫画家の生活に憧れて漫画家になったような人だから、締切に追われるのは彼にとっては「漫画家ごっこ」の延長なのだ。

この本を読む限りは、島本和彦は、締切があるのにどうしても出たかった小学館の謝恩会を優先して、落とすギリギリまで行ったことはあるが、本当に原稿を落としたことはこれまで一度もないらしい。これはとても偉いことだなあ、と思う。

そしてなぜか締め切り間際になると、スーパー島本が降臨して、評判のいい作品ができるんだそうだ。ただし、これは体力が削がれるので、何度も続けてやるわけにはいかないのだという。

しかも島本和彦は還暦をすぎてもいまだに成長していることが分かる。

今まではイチャイチャを描くことが苦手だったが、最近はそれを克服して、それができるようになったのだという。アオイホノオの女子アシスタント、「マウント武士」のような可愛い女の子も描けるようになった。

結局、本当の締切とは、自分の壁なんだという。そして、その壁を超える原動力になるのは、嫉妬なんだという。なんか手塚治虫からも同じような話を聞いたような(笑)。

もっとも彼が研究しているのは漫画ばかりで、漫画以外からネタを持ってくるというような意識が乏しいのだけれど、これだけ長くやっていると、いつの間にかいろんな手法を駆使できるようになって、幅が広がっているような気がするね。長くやっていることにも意味があることが分かる。

どうやら島本和彦のピークはこれからのようだ。楽しみー。

★★★☆☆

蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか

紀田順一郎 松籟社(しょうらいしゃ) 2017.7.14
読書日:2026.3.1

紀田順一郎が蔵書の扱いに苦慮し、世の中の何万冊もの蔵書を持っている人がそれをどう処理したかを考察した本。

この本は紀田順一郎が自らの半生をかけて集めた蔵書に別れを告げる、衝撃的な場面から始まる。

紀田順一郎は終の棲家と決めたマンションに移り住むために600冊の本を厳選し、その他のすべての本(数万冊)の処分を古書店に依頼する。その蔵書がトラックに積み込まれて去っていくとき、紀田順一郎はわざわざ表に出て、トラックにいる店主に挨拶をし、トラックが去っていくのを見送った。そして……

――その瞬間、私は足元が何か柔らかな、マシュマロのような頼りないものに変貌したかのような錯覚を覚え、気がついたときには、アスファルトの路上にうつ伏せに倒れ込んでいた。

周りの人間が慌てて駆け寄るが、紀田順一郎は、なんでもありませんといいながら、またグニャリと倒れ込んでしまうのである。そして老妻につかまりながら、主(あるじ=蔵書)のいない家に戻るのであった。

かくかように、ある人々にとっては、蔵書は自分と一体化しており、蔵書がなくなることは自分の存立基盤がすべて崩壊してしまうような錯覚を覚えるらしい。

というわけで、蔵書の散逸の方は答えは簡単である。

まずスペースが無くなる。個人が確保できるスペースは非常に限られるので、それ以上の蓄積が不可能になる。次に、持ち主が歳をとってくるにつれて蔵書を管理できなくなり、あるいは亡くなってしまい、古書店に売却される。

蔵書というのはその人の人格そのものだから、蔵書の持ち主の希望は、できればそのまま一括でどこかに寄贈したい、ということである。だが、受け取る方もスペースと管理費用の問題があるので、よほどの大物文化人の蔵書しか一括で引き受けてもらえない。紀田順一郎クラスでも無理なのである。

というわけで、蔵書は散逸する。

でも、どうしてそれだけの蔵書がたまるのだろうか。

紀田順一郎の世代は、なにか本を書こうとしたら、自分で資料を集めて自分で持っているしかなかったようだ。まだ図書館の貸し出し機能は充実していなかったし、インターネットなどの電子的な資料もなかった。というわけで、執筆のテーマが決まると、関連の図書を数百冊をまず買うことになる。

しかし本を書き終わっても、増刷の際には修正したりするので、本はそのまま保存しておく必要がある。こうして何冊か本を書くと、たちまち蔵書は数千冊という単位になってしまう。というわけで、数万冊に膨らんでしまうのは簡単なのである。

かつての偉大な文人たちも蔵書にはいろいろ苦労していたようだ。印象に残ったのは、江戸川乱歩が土蔵に蔵書をした例だろうか。土蔵は温度と湿度がほぼ一定で、蔵書にはもってこいなのだそうだ。

まあ、別に本に限らず、なにかのフェティシズムにかかってしまい、収集が始まると、常にスペースと亡くなったあとの処分という問題が発生する。

わしは本がたまることが嫌いで、本を買うときはできるだけ電子書籍にしているし(例外は友達に貸す予定がある場合とかに限られる)、そもそも本はほとんど図書館から借りている。

このブログのような読書のレビューを書くとき、どっちが楽かというと、圧倒的に電子書籍のほうが便利。なにしろ検索ができるから。物理的な本だと後でレビューを書くときに、付箋でも貼っておかないと、どこに書いてあったかわからなくなってしまう。もっとも、読みながら付箋なんか貼ったことないけどね(笑)。

そういうわけで、仏教ではないけれど、もはや物質に執着しないほうが、いろいろ楽なんじゃないかしら。

(参考)

www.hetareyan.com


★★★☆☆

女二人のニューギニア

有吉佐和子 河出書房 2023.1.10(初出版 朝日新聞社 1969.1)
読書日:2026.3.4

文化人類学者の畑中幸子の誘いに応じて、1968年、ニューギニアの未開地ヨリアピを1ヶ月訪問したエッセイ。

なんかこの作品、河出書房が再文庫化したら、すごく評判らしいので、つい読んでしまいました。しかし、1960年代のニューギニアと聞いてちょっとびっくり。

わしがこのころのニューギニアについて知っていることは、「銃・病原菌・鉄」のジャレド・ダイアモンドなどの文化人類学の本で語られていることに限られるんですが、これはそうとう厳しいですね。(ジャレド・ダイアモンドはニューギニアで鳥類学者として、のちには文化人類学者としてたびたび訪れている。)

当時のニューギニアは本当に未開で、しかも地形が深い谷に分断されていて、部族も地形そのままに分断されていて、それぞれの部族ごとに言葉や風習が違っていて、ニューギニアには1000以上の言語があると言われているくらいです。お隣の部族間でもまったく言葉が通じない。しかも、部族間の抗争についても、本当の殺し合いですからね。

まあ、こんな状況だからこそ、文化人類学者が手つかずの原始社会として喜んででかけていったのですが、しかし、こんなところに有吉佐和子が行ったというのは、本当に驚きです。海岸の大きな町に行ったわけではなくて、本当に畑中幸子の研究対象の部族まで一緒にいったのだから。

まあ、この旅は目的地のヨリアピになんとかたどり着くところまでで、すでに終わっている気もします。険しい山道を三日間、歩いて力尽きて、丸太に豚のようにぶら下げられながら、運ばれて、ようやく着いたら、足の爪が剥がれてしまって帰るに帰れず、とはいえ現地ではなんの役にも立たず、ほぼ余った布でパンツを縫っていただけですからね。

まあ、いろいろ文句をいいながら、普通に現地に馴染んでしまっているのが面白いといえば面白い。

一番、興味深かったのは、有吉佐和子が縫ったパンツを現地人にあげると、その人は自分が偉くなったように思って、増長する部分ですかね。人間ってパンツ1枚で偉くなったと思うんだね。まあ、いまでも人は賞状やメダルを喜ぶんだから、人間て安上がりにできているんだね。

帰りは奇跡的に、教会関係のヘリコプターに乗れることになって、無事にあっさり帰りました。そして、日本に帰っきてから、マラリアを発症しました(笑)。

有吉佐和子はニューギニアに来たことを後悔して、どうして誰も引き止めてくれなかったのか、などと書いていますが、ニューギニアの奥地に行くということがどういうことか本当に分かっていなかったのだろうか。なんとなく分かっていたようにも思うのだけど。

そのへんはやっぱり、発想や行動がちょっと規格外で、有吉佐和子らしいといえば言えるのかも。

なお、このエッセイは小説と違って苦労せずに書けたそうです。小説と違って、ネタは豊富にあったからだとか。でも現地にいる間、メモなどはまったく取らなかったそうです。

なお、わしは有吉佐和子の小説を1冊も読んでおりません。「恍惚の人」は映画版を、「華岡青洲の妻」は演劇版を見ているだけですね。「恍惚の人」はNHKの「100分で名著」でも取り上げられていたね。(小説は読んでいないと言うのが、もはや定番化していますが、仕方ありません)

★★★☆☆

ビル・ゲイツ自伝I SOURCE CODE 起動

ビル・ゲイツ 訳・山田文 早川書房 2025.12.10
読書日:2026.2.24

ビル・ゲイツが少年時代からハーバード大学在学中にマイクロソフトを創業して、マイクロプロセッサにおけるBASICの地位を確立するまでの、自伝の第一弾。

非常に興味深かった。わしのビル・ゲイツのイメージとかなり異なっている部分があったからだ。ビル・ゲイツは子供の時から単なるコンピュータオタクではなかった。

ゲイツは、幼い頃の自分のことを、いまなら自閉症スペクトラムと診断されるだろう、と言っている。

本当にそんな子供だったようだ。自分のなかに閉じこもってずっと本を読んでいるし、話すときには身体を揺する動きをするし、なにか特定のことにこだわってそれに夢中になってしまう。しかし興味のないことには全く関わらないし、人付き合いは全くしない。

とはいえ、ゲイツが自閉症スペクトラムというのは、まあ、想定内ではある。

しかし、そんな彼が普通のオタクにはありえないほどの多様な経験、そして親友との濃密な時間を過ごしているのだ。それはちょっと羨ましいくらいの濃密さだ。これは大変珍しいことではないだろうか。なのでここでは、プログラミングのことではなくて、ビル・ゲイツのそういうところを書こうと思う。

小学校のときにも、いちおう、いろいろな経験をしている。水泳、アメフト、スキー、テニスなどのスポーツだ。音楽も学校の楽団でトロンボーンを担当している。この辺は、まあ、たぶん、両親がやらせている気配が濃厚だ。ゲイツ家は外の課外活動に積極的なのだから。

こんな感じだったが、ボーイスカウトにははまったらしい。

ボーイスカウトではなにか良いことをするとポイントをくれ、集まると賞のようなものがもらえる。ここでは何をすればいいのか、どうすれば得点がもらえるのかというルールがはっきりしている。どうもそういう明瞭性が良かったらしい。

ボーイスカウトはずっと続けていて、13歳の頃から、ボーイスカウトの仲間たちと一週間くらいの長距離のトレイルにでかけるようになる。たとえば9年生のとき、シアトルの北西にあるバンクーバー島の西の海岸沿いにある、いまのウエスト・コースト・トレイルというところを歩いたりしている。そして、こういう仲間たちと一緒に行くトレイルに夢中になっている。ゲイツにこういうワイルドな側面があることは、かなり意外な一面ではないだろうか。(ところで、米国のシアトルからどうやってカナダのバンクーバー島へ行ったのかな? この頃は何の手続きも必要なかったのかもしれない)

家族の影響も大きい。祖母のガミはトランプの達人だった。ガミの家に泊まると、ガミは決まってトランプをしたという。そしてこのガミは孫相手に全く手を抜かないのだ。もちろん、ゲイツはずっと負け続けるのだが、やがて8歳の頃に、ゲームには勝つための理論があって、状況に応じてどんな手を打てば勝つ確率が高くなるかという、ゲーム理論があることに気がつく。そうしていろいろ観察していたある日、ガミに初めて勝つことができたのだという。それから5年後には必ず勝てるというところまで行ったそうだ。こうして、勝つことにこだわることと、勝つためには方法があるのだということを学んだそうだ。

母親のメアリーは自宅でサロンのようなものを開いて、いろいろな慈善活動や社会運動のようなものを繰り広げていた。その真似をして、ゲイツも友達を招いて子供版のサロンを定期的に開いて、いろいろ社会の話をしていたそうだ。男子3人、女子3人のサロンだったそうだけど、わし的にはアスペルガーのビル・ゲイツがこうして招く友達がいたということが驚きだ(笑)。どうやって誘ったんだろう。母親が手伝ったのかな?

特定のプロジェクトにはまると熱中してしまう例としては、5年生のときの州の報告書を出す課題に現れているだろう。本の中で何度もこの話を出すくらいだからよっぽど思い出深いに違いない。ゲイツは説明する州にデラウェア州を選んで、地理や歴史から主な企業まで、なんと177ページの報告書を提出するのである。なんか立派な表紙のある報告書だったそうだ。

母親は、自分の思い通りにああしろこうしろと言うような人だったらしく、9歳のときにゲイツは爆発してしまう。そして、なぜ命令するのか、自分に構わないでほしい、というようなことを言うのだ。つまりビル・ゲイツの反抗期である。それは、なんと9歳のときだったのだ。なんというか早熟にもほどがあるというくらい、早熟だ。ゲイツ家は裕福だったので、両親は高名なカウンセリングの先生に相談する。するとカウンセリングの先生は両親の意に反して、ビル・ゲイツの好きにさせるように両親に言うのだ。なぜなら、「最後には彼は勝つのだから(どうせ一人前になったら両親から独立して好きなことをするのだから)」という理由だった。こうして、はやばやと9歳の頃にゲイツは自由を手に入れるのである。なお、カウンセリングには2年半通ったそうだ。

7年生のときに、私立のレイクサイド・スクールに進学する。そして8年生になったときに、親友となるケント・エヴァンズに出会うのである。

このケント・エヴァンズはビル・ゲイツに輪をかけて早熟な男だった。13歳のときには大統領選の民主党大会の手伝いをしていて、会場を訪れたレイクサイドの教師に、いまの民主党の状況の裏の裏まで解説してびっくりさせたそうだ。なんというか学校という枠を軽々と飛び越えて発想できるような13歳だったのである。

ふたりはたちまち親友となって、夜中まで電話で語り合うようになった。ゲイツはいまでもその電話番号を覚えているという。エヴァンズは10年後、20年後の自分をイメージして、そのイメージに最短で達するにはどうするか、ということを話してゲイツをびっくりさせる。ゲイツはそんな事考えたこともなかった。そこで二人でいろんな偉人の伝記を調べて、彼らのほとんどが若いうちに芽を出していることとかを見出したりしている。

そんな二人がレイクサイドでコンピュータに出会うのである。たちまち二人はこのコンピュータに夢中になる。そしてソフトウェアでビジネスができないかということを真剣に話し合う。そのころソフトウェアはハードを買ったら付いてくるおまけのような存在だった。

このケントがやっぱり只者でないことを見せつけたのは、ソフトウェアで実際に仕事を取ってきたことだ。10年生(15歳)のとき、給与システムの仕事を取ってきたのだ。繰り返すが15歳である。(報酬はお金ではなくて無料のタイムシェアリングの接続時間だったけど)。端末が足りなかったので、ケントはワシントン大学に連絡して、研究所の端末を使わせてくれと交渉して、実際に借りている。15歳にしてこの堂々とした行動力はすごすぎる。ゲイツは、ケントはまるで大人のように考え行動する、と評している。こうして学校が終わると朝までワシントン大学でプログラミングするという生活を続けるのである。いろいろあって、9ヶ月後に無事に動くプログラムを納めることに成功する。

次に請け負ったのが、レイクサイド・スクールの時間割を自動的に作成するソフトウェア。こちらは正式なお金をもらう仕事だった。そしてそのソフトウェアを書いているときに、親友ケント・エヴァンスが登山中の滑落事故で亡くなってしまうのである。あまりの衝撃に、葬式でゲイツはなにも弔事を言えなかったという。さらに、ケントの父親から、部屋にあるものの中から好きなものを形見に持っていってもいいと言われたのに、悲しすぎて何もいらないと答えている。

代わりに、ゲイツは未完成の時間割ソフトウェアを書くことに全力を尽くすのである。1人ではできなかったので、のちに一緒にマイクロソフトを創業するポール・アレンと一緒にプログラミングする。プログラミングに没頭するのゲイツなりの癒しだった。(なお、稼いだ金はインテルのマイクロプロセッサの購入に当てた)。

そのプログラミングを終えたあと、夏休みにワシントンDCの下院で、ページ(雑用係)という仕事を宿舎に泊まりながら1ヶ月している。

さらに高校最後の学年で、演劇に挑戦している。驚くことに、見事に主演を勝ち取っている。(演目はシェーファーの「ブラック・コメディ」)。そして、婚約者役の女生徒ヴィッキー・ウィークスをプロムに誘っている。ただし振られた。まあ、振られたけど、きちんと恋もしていたわけだ。ヴィッキーは一番人気の女生徒だったのだから仕方がない。

どうですか。ビル・ゲイツの意外な一面が目白押しでしょう? 彼は自分の可能性をいろいろ押し広げていました。まあ、ソフトウェアがビジネスになるかどうかはまだ分からなかったからかもしれませんが。

ハーバードに行ってからは、数学の最難関の講義に挑戦して、いちおう合格するのだが、ここでゲイツは厳しい現実に直面する。ゲイツは自分が数学が得意だと思っていたが、実際には凡庸な才能しかないことを思い知らされたのである。周りには彼よりも優秀な学生がいて、その人達と組まなければ課題が解けないのだ。そしてそんな周りの優秀な人たちも、先の展望は明るいとはとても言えなかった。彼は子供の頃科学者になりたいと書いており、科学の女王は数学だと信じていたのに、ここで科学者への道に挫折をしてしまう。

そこにポール・アレンから最新のマイクロプロセッサ8080を使ったコンピュータの話を聞き、そのためのプログラム言語BASICを書くことに邁進するのである。マイクロソフトの誕生だ。

さて、このあとはマイクロソフトの最初の活動の場面になるわけですが、なんというか、ビル・ゲイツがどんな人物かというのは、もう15歳ぐらいまでには仕上がっていますね。

そしてビル・ゲイツが19歳になるまでに、こんなにも多様な経験をしていたというのはすごいことだと思いませんか。しかもプログラミングと学校の勉強をしながらですからね。なかでも、親友を作り、その親友の死を体験するという、そんな大きな経験もしていたとは。ちょっとびっくりです。

★★★★☆

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