ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

トロント最高の医師が教える世界最新の太らないカラダ

ジェイソン・ファン 訳・多賀谷正子 サンマーク出版 2019.1.20
読書日:2021.4.2

糖尿病を専門とするトロントの医者がインスリンの働きを熟知した結果、太るのはインスリンのせいであり、インスリンの効果を考えないダイエット法は意味がないと主張する本。

著者には専門の糖尿病の本も書いているが、その知見を生かしたダイエット法を説いたこっちが先に翻訳された。まあ、需要の大きさからみて、仕方がないことでしょう。

でも糖尿病もダイエットも基本は一緒で、どっちの本も同じことが書いてあるようです。つまりいかにインスリンを制御するかという内容です。

インスリンは糖分を脂肪に変えて脂肪細胞に蓄えさせる働きをします。この結果、血糖値が下がり、体重が増えるのだといいます。血糖値が高いとインスリン濃度が高くなり、より多くの糖分が脂肪に変わります。インスリンの濃度が高いと太りやすくなるわけで、インスリン濃度を下げることが必要だそうです。

インスリンの糖分を脂肪に変える機能が太る原因だとすると、ダイエットには糖分をとらない、つまり炭水化物をとらないことが最も効果的だといいます。つまり、ローカーボダイエット、というわけです。

しかしローカーボダイエットがいかに効果的だとしても、しだいに効果が薄れ、いつしかリバウンドが始まるといいます。これは体重のコントロールをしているのが脳の視床下部なのですが、体重が増えた状態が続くとそれが正常な状態だと設定され、その状態を保とうとするからだそうです。

つまりダイエットに成功して体重が減ると、身体は逆に体重を増やそうとします。具体的には、基礎代謝量を減らすことで、消費カロリーを少なくし、体重を増やします。

そういうわけで、ダイエットを本当に成功させるためには、視床下部の体重設定をリセットする必要があるのだそうです。そして視床下部のリセットには、インスリン濃度を下げる必要があるのだそうです。

ところが、これが簡単ではありません。

じつはインスリンの分泌は単純に血液の血糖値だけで決まるわけではなく、じつは胃に食料が入っただけで、それに刺激されて分泌されるもののようです。つまり、炭水化物をやめて肉だけにしても、インスリンは分泌されるのだそうです。これではリセットはできません。

なので、真のダイエットの成功のためには、何も食べない絶食(ファスティング)の期間を設けることが必要だというのが、ファンの解答なのです。たとえば一週間に一回とか、一日おきとか、いろいろなパターンがあるようです。

うーん、まあ、「断食道場」という泊まり込みで絶食するシステムも日本にあるくらいだから、それほど奇異とは思わないけど、必須だったとはかなり目からウロコかも。

ちなみに、「絶食」と「断食」の言葉の違いは、食べないのは同じなんだけど、絶食は健康のため、断食は宗教上の理由のため、という使い分けらしい。断食道場はだいたいが仏教の修行の応用だから、こっちは宗教的な断食を使うらしい。

この本では世間の常識について、いろいろ反論している。

ダイエットに関しては、かつて長い間、脂肪を減らす低脂肪ダイエットが主流だったが、これについて厳しく反論している。同じように全体的にカロリーを制限するだけのダイエットにも厳しい。どちらも血糖値をあげる炭水化物をタンパク質や脂質よりも制限しないからだ。(でも、何をたべても結局インスリンが出るのなら、変わらないのでは?)

糖尿病の治療にも厳しい。

太りすぎなどで後天的に起きる2型の糖尿病の場合は、要するに血糖値を下げたいわけだから、インスリンを投与する。インスリンしか血糖値を下げる化学物質がないからだ。直接インスリンを注射せず、薬を処方する場合もある。しかしこれもインスリンの分泌を促す作用なので、結局インスリンを増やしているのだ。しかし糖が脂肪として取り込まれると、よく知られているようにインスリン抵抗性が発生して、インスリンが効きにくくなる。すると、インスリンの濃度をさらに上げ、インスリン抵抗性をさらに加速させるという悪循環に陥る。結局こうした対症療法的、刹那的な対応では糖尿病を完治できないという。なので、本書のようなダイエットが最適なんだそうだ。

なるほど。

あとはインスリンに対するトリビアをいくつか。

人工甘味料を使った飲料はカロリーが入っていないが、インスリンの分泌は砂糖とあまり変わらないらしい。なので、ファンはコカコーラゼロなどを飲むことに反対している。かわりに緑茶を飲めという。

わしは、コーラが大好きだから、この指摘はつらい。でも、どうせ何を食べてもインスリンは分泌されるんだから、絶食中以外は別にコークゼロを飲んでもいいのでは。

あとコーヒーはインスリンに影響を与えないので、飲んでもいいという。そればかりか、コーヒーを飲むと健康にも良いという。もちろんブラック推奨。ミルクは少し入れるくらいなら問題ない。砂糖は当然厳禁。

ところで、わしがなぜこんな本を読もうかと思ったかというと、実はコロナ禍の在宅勤務で太ってしまい、昨年秋の健康診断で血糖値が指摘されたからだ。自分でもびっくりした。おかげでダイエットと運動をしなくてはいけなくなった。

ダイエット法は、この本を読む前だったが、ローカーボダイエットで行った。だって糖尿病という言うくらいだから糖分を減らそうと思うよね。偶然だが、正解を当てたようだ。

体重はいまのところ順調にさがり、-8Kgぐらいまで来たが、そろそろファンのいう、視床下部のリバウンドの機構が働くのかもしれない。そうなったら、絶食を検討しなくてはいけないかも。

そんなに大変そうな感じでもないから、やってみようかしら。絶食をするととんでもないスピードで減量できて、しかも予想に反して、代謝が活発化するらしい。これは生命の危機を感じて、食料を入手するためにエネルギーを投資するためなんだそうだ。

★★★★☆

 


トロント最高の医師が教える 世界最新の太らないカラダ

げんきな日本論

橋爪大三郎 大澤真幸 講談社現代新書 2016.11.1
読書日:2021.4.1

二人の社会学者が日本の歴史を振り返って、日本の社会構造がどのように構成されてきたのかを議論する本。

じつは横浜市立図書館の図書カードを持っているのですが、なんと横浜市立図書館は3月から電子図書のサービスを開始したんですね。わしは、以前述べたように、電子図書館の普及を願っているものです。それでなんとなくどんな感じか覗いてみたら、この本があったので試し読みをしたら、面白かったのでそのまま借りて読みました。

(わしはあちこちの図書カードを持っていて、読めない本がなるべく少なくなるようにしてるの。本ぐらい買えばいいって? まあそうなんですけどね)

対談しているお二人は社会学者で、歴史は専門ではないと思うのですが、でも日本の歴史にも詳しいですね。びっくりしました。橋爪大二郎さんと大澤真幸さんが、キリスト教とかをテーマに一連の対談本を出しているのは知っていましたが、日本史にも詳しいとはね。社会学者ってなんでも屋なのかしら。

で、日本の歴史を社会学的に論じると、やっぱり天皇を論じないわけにはいかないんですね。なにしろ、ずっと日本社会の中心にいますからねえ。古代に誕生した天皇のシステムがいまだに続いているということの不思議。他の王朝への交代がなぜなかったのか。

でも、驚いたことに、変わった身分の存在は天皇だけじゃないんですね。平安時代の貴族も、鎌倉時代以降の武士も、ヨーロッパや中国に存在しない身分だとお二人は言います。

なるほど。これは気が付かなかった。日本人でいると、貴族も武士も存在するのが当たり前のように思っていたけど、こういう存在は世界の中でも日本だけなんだそうだ。

貴族とは律令の身分(政府の役職)をもらっている一族のことで、しかもそれは世襲じゃなくて毎回任命してもらう必要がある、というのがポイントらしい。貴族は税金を免除してもらえるという特権があるため、土地の寄進を受けて荘園として運営する。この特権を受け続けるためには、役職を任命をしてもらう必要がある。つまりその特権を天皇の任命権に依存している。貴族は自分の力で自立しているわけではない。

そういうわけで貴族は京都を離れるわけにはいかず、そのうちに土地との繋がりの強い武士に土地を奪われる。

武士は経済的に自立しているのだから、天皇の世話にはならなくて良さそうなものだけど、実際には武士こそなぜ自分が政権を担っていいのかという正当性を説明できず、結局天皇から征夷大将軍とかの役職を任命してもらわなくてはいけなかった。これも1回限りの任命だそうで、世襲は保証されていない。

結局、貴族も武士も、天皇からもらう任命書がないと自分を説明できない存在なんだそうで、そして誰も天皇を超える、天皇がなくてもいい普遍的なシステム(一神教の宗教とか、中国の天とか)を作り出すことができなかったから、残ってしまった。

唯一、天皇制を越える普遍的なシステムを構想したのが織田信長で、彼は天皇の上に立つ、皇帝的な存在になろうとしたのだという。安土城の構成にその考えが現れていて、なんと織田信長安土城天皇を移してこようとしたらしい。そして天皇の住まいは天守閣の横にある別の建物で、織田信長天守閣で生活し、そこから天皇を見下ろすという構想だったらしい。

織田信長本能寺の変で死んだけど、信長が生きていたら、この構想は実現したんだろうか。二人は、この事件が起きなくても、日本人は信長の考えを受け入れることができずに、本能寺の変的なことが起きたのではないか、と考えているようです。織田信長一神教の意味を理解できたただ一人の日本の政治家だったともいいます。

織田信長のあとの豊臣秀吉徳川家康も、結局は天皇の制度を利用することにした。秀吉の場合は豊臣という名前ももらって喜んで天皇を活かし、家康の場合は変革を求めず現状のできるだけの維持を目的とした。

幕末の尊皇攘夷の話も面白い。尊皇攘夷といいながら、尊王が達成されると、攘夷がすぐに消えてしまったが、それはなぜかという説明。誰もが考えていたのは、日本の独立を保つことで、そのための攘夷(つまり外国との戦争)だったのだが、じつは幕府が日米和親条約を結んだ段階ですでに独立は達成されていたというのだ。条約を結んだということは、日本を独立国としてアメリカが認めたということを意味しているからという。なので戦争をせずとも目的はすでに達成されていたので、攘夷は消えたのだという。(倒幕までは誰もそのことを言わなかったらしいが(笑))。

なるほどねえ。そうだったんだ。

それにしても、こうして振り返ってみても、日本という国はつくづく分権的な社会だよね。きっといまでもそうだよね。中央集権が苦手な国民なんだと思う。

★★★★★

 


げんきな日本論 (講談社現代新書)

 

人生の短さについて 他2篇

セネカ 訳・中澤務 光文社古典新訳文庫 2017.7.28
読書日:2020.3.28

人生が短いと感じるのは無駄なことに忙殺されているからで、やるべきことをやり、今という時間に集中すれば時間は無限にあると主張する本。

セネカはローマ時代の政治家、哲学者。カリグラやネロの時代に生きた人だ。現代人は忙しいとか言われるが、人間はどんな時代でも常にいろいろな用事に忙殺されて、時間がないらしい。

時間が貴重であることはよく言われることで、メメント・モリ(死を思え)とか、毎朝、今日死ぬとすれば何をするべきかを考えろ(スティーブ・ジョブスなど)とか、よく言われる。

もちろんセネカも同じようなことを言っていて、できるだけ雑用になるようなことをせず、公務も引き受けず、100%自分の時間を自分のために使うことが良いのだという。セネカの場合は、哲学をすること、過去の人と本で語り合うことが、良い時間の使い方ということになるらしい。

まあ、こういう考え方も分からないではないが、どうもわしの感覚に合わない。そこで、わしは自分なりの人生の時間の考え方をここで開陳しようと思うのである。

まず、時間が有限だと思うところが間違っている、とわしは思う。いや、たしかに有限で、わしを含む誰もがいつか死ぬことは分かっている。しかし、それを前提に考えなくてもいいとわしは思うのである。

なにかやろうと思う。だがどう考えても、それを実現するのに300年かかりそうだとする。そんなことやっても無駄なような気がする?

いいではないか。300年、けっこうだ。生きているうちに完成しなくても、いま始めない理由はない。時間は無限にあると仮定すれば、なんだってはじめられる。

年齢が80歳で、もう何を始めるとしても遅すぎるような気がする? いいではないか。時間は無限にある、と考えることができれば、なんでもありだ。

逆に自分が生きているうちに達成できるようなことに汲々とするほうがどうかしている。構想するときには、自分が死ぬなんてことは度外視して、大きく考えるべきだ。そして、誰も自分の考えを引き継いでくれない可能性も気にする必要がない。たとえだれも引き継がず、自分だけの事業で中途半端に終わることがあっても問題ない。(だってもう死んでるんだから)。だから、大きく考えるべきだ。

自分はいつ死ぬか分からないのである。だったら死ぬときのことを考えてもしょうがないのである。死なないと仮定しないと、何も始められないではないか。

そう考えると、時間をなにに蕩尽しようと、あんまり深く考えることはないのである。セネカが無駄だと考えるような、おしゃべりとか、TVドラマを全話観るとか、ゲームを何日もやるとか、なにせずにぼんやり過ごすとか、なんでもありだ。なにしろ時間は無限にあるのだ。無駄と言えることをたくさんやる時間はあるのである。

いちばん罪深いのは、やりたいことをやらないこと、やりたくないことをやること、だろう。これは避けたい。

しかし、やりたいことをやらずにやりたくないことをやっているうちに、やりたくないことがそのうちにやりたいことになるかもしれないからややこしい。

つまり、自分の今やっていること、またはやっていないことが時間の無駄だと考えること自体が無駄だ。

というわけで、時間なんて気にするな、というのが、わしの座右の銘なのである(ウソ)。時間を気にしなければ、人生をストレスフリーで緩やかに過ごせるだろう。

(考えてみれば、こんなブログをやっていること自体が無駄と言えば、無駄ですからのう)。

★★★★☆

 


人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)

日本国民は無能な政府を望んでいる

f:id:hetareyan:20210331032425j:plain

 

日本のデジタル行政は散々だ。

直近でも

・コロナ対策で接触確認アプリCOCOAがバグがあって機能していなかった。
・保険証をマイナンバーで運用することを発表したが、入力ミスやらなんやらで、結局、運用開始を半年間延期すると発表した。

などという体たらくだ。

妻はあきれ返って、「日本は技術が高い国だと思っていたけど、ワクチンも外国頼みだし、まったく自分では何もできない国になってしまったんだねぇ」と語っています。

確かに、上記のアプリなんかはそんなにむちゃくちゃ難しいとは思えないのに、なぜかうまくいかない。

でも、結構うまくいっているところもある。このまえ確定申告する必要があって、国税庁のサイトを使った。手順通りに入力すると、あっという間に完成して、それを印刷して送るだけの状態になった。それを投函するついでに、一緒にコンビニで納税も済ませることができた。素晴らしい。たぶん全部で1時間もかかっていない。

まあ、わしの場合は、典型的な納税パターンだったと思うので、機械的に処理しやすいということはあるんだろうけど、でもこのノーストレスぶりは素晴らしいと思った。

というわけで、わしは日本の技術力が低いからうまくいかないのだとは思っていない。ではなぜ、こんなにも、日本のデジタル行政はひどい状態になっているんだろうか。

わしの1つの仮説は、日本国民は政府に自分の情報を把握されたくないと思っていて、その気持ちが役所に伝染して、役所側も国民のデータを一元的に扱いたくないのではないか、という気がするのである。

言わば、無能な政府を国民自身が望んでいるのではないか、という気がしてしょうがないのだ。

日本の歴史を振り返ってみると、日本では全国民を一元的に処理する、という経験がほとんどない。あるとしたら戦前の徴兵制はそうかもしれない。しかしそれ以前となるといったいどこまで遡るのだろうか。もしかしたら、1000年以上前の律令制の導入時ぐらいまで遡らないといけないんじゃないだろうか。

典型的なのは江戸時代で、江戸幕府が開いたときに、いちど全国の農業の生産力を測定して、納めるべき納税額を決めてた。ところが、その後300年間、一度も再測定をしていない。新田を開発して農民の生産力が上がっても、税金はほったらかしで改訂されず、固定だった。(税率が固定なのではなく、税額が固定だったことに注意)。さらに、幕府や藩は、すべての国民を把握していたかというと、全然そんなことはなくて、そういう民の管理は自分たちでおこなわせていた。武士は必要なときに村の庄屋から情報を聞くだけだった。

結局、日本人のほとんどを占めていた農民は、武士の管理を受けることなくけっこう自由気ままな人生を送っていたのである。

つまり、日本人は管理されない生活が身に染み付いているのだ。そして役所の方も、税金さえきちんと払ってくれるのなら、あとは好きにしてもらった方が楽なのである。

管理されたくない国民に、管理したくない国家。

というわけで、全国民を一元に管理するという事態になると、どちらの側にも抵抗が働いて、たとえば国民はマイナンバーを申請したがらないし、作る方もなんとも気が入らず手を抜いてしまう、という事態が起きてしまうのではないか。

わしは本気でそう思っている。日本のデジタル化がうまくいかないのは、国民が、上も下もそれを望んでいないからだ、と。

すべてがちぐはぐで、まとまっていなくて、ばらばらな日本の制度。こんな国は世界のどこにもない。なんかある意味、すごすぎませんか? これが無意識にわざとやってるんだとしたら、いったいこれはなんなんでしょうか? 

すくなくとも国民を管理しすぎる中国人エリートには理解できないでしょう。

 

(ご参考)

 

ハマータウンの野郎ども 学校への反抗 労働への順応

ポール・ウィリス 訳・熊沢誠山田潤 筑摩書房 1985.3.30
読書日:2021.3.27

1960年代、なぜ労働者階級の子供たちが中産階級を目指さずに親と同じ手工業の肉体労働者を目指すのか、という疑問に対して、イギリスの工業都市の労働者階級の子供たちを調査した報告書。

この本については、「ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち」でも述べたが、以前から読もうと思っていたので、このたび図書館から借りて読んでみた次第。

調査したのはバーミンガムのsohoという町に住む労働者階級の子供たちで、その中でもとくに学校に反抗的なグループを選んで、インタビューなどを行っている。期間は、学校を卒業する半年前から、卒業後の半年までの1年間で、ちょうど職業を選ぶ時期に当たる。対照グループとして、学校に順応的な生徒の話も聞いて比較している。

<野郎ども>がなぜ学校に反抗的かというと、すでに親と同じ手を動かす肉体労働者になることを決めているからで、そうなると学校で教えられていることはまったく意味がないからだ。彼らの世界は大人の労働者の世界とまったく瓜二つの世界になっていて、彼らはその中で、仲間とのつきあい方など、労働者階級の仕事の世界に入る準備をしているのだ。

実際、かれらは驚くほど順調に肉体労働の世界に入っていく。彼らの全員がすぐに仕事を得ることができ、就職先ですぐに仲間になじんでしまう。

これはひとつには、厳しい仕事をわざわざ選ぶ人が少ないからでもあるが、会社側にとっても望ましいからだ。彼らには上昇志向がなく、昇進してマネージャー層に取って代わろうとかいう野心もなく、しかもすでにいる労働者たちとも発想が同じなのでうまくなじむ。

会社側にとっては、学校に順応しているが進学に失敗して、結局、肉体労働者になってしまった学生の方がよっぽど面倒なのだ。こういうひとは職場にもなじむことはなく浮いてしまい、いじめの対象になるという。

このように学校に順応してその通りにしてきても、成功の保証はまったくないわけで、<野郎ども>が学校に反抗的なのはある意味合理的なのだ。彼らは中産階級神話をまったく信じていないのである。だからといって、明るい未来を信じているわけでもなく、結局、自分たちは命令される側だということを理解している。

そして、肉体労働である限りは、仕事にそんなに差はないと思っている。仕事がすぐに見つかるのは、どれも同じだと思っているので、えり好みをせず、そのときに出会った仕事にすぐに決めてしまうからだ。

そして、男らしいということにこだわっていて、事務仕事のような文字を扱う仕事は女のすることで、女々しい仕事であり、男の仕事とは厳しい環境で結果を出すような仕事だと思っている。

そういうわけで、文化のなかに肉体労働を選ぶ循環ができてしまっていて、そのなかで学校がいくら未来のためになるといっても、それは約束された未来でないことが見透かされて、信用されないわけだ。

こういう肉体労働者たちの未来について、著者はけっこう悲観的だ。本当に厳しいだけの仕事ならすでに移民たちが引き受けており、一方でアジア系の移民たちは高学歴の階段を登る上昇志向の部分を引き受けており、彼らに残されたのは物を形にするといった仕事しか残されていないのだが、そこは最も機械化が進んで、熟練技能がだんだん必要としなくなっていく領域なので、彼らの仕事はだんだん無くなっていく傾向だからだ。

こうやってみると、60年たっても世の中で言われていることはあんまり変わらないなあ、という気がする。

ただ、ハマータウンのおっさんたちのように、世の中は変わり、やっている仕事は変わっても、昔からの仲間は変わらないというのが、なんだか救いのように思える。
(特に友達のいない、わしのような人間にはそう思えるな)。

★★★☆☆

 

 
ハマータウンの野郎ども ─学校への反抗・労働への順応 (ちくま学芸文庫)

ブループリント 「良い未来」を築くための進化論と人類史

ニコラス・クリスタキス 訳・鬼澤忍、塩原道緒 NewsPicks 2020.9.27
読書日:2021.3.24

人間には良い社会を築くための設計図(ブループリント)があらかじめ遺伝的に埋め込まれていると主張する本。

最近、ヒトの脳は社会的な生活を行うために進化したとする社会脳仮説やら、国家の形成に自己家畜化が貢献したとか、逆に仲間には優しいが仲間以外には激しく暴力を振るうパラドックスがあるとか、そういうヒトの社会的な進化を扱う本がたくさん出版され、わしも読んできた。この本もそういった系統の本の一種だ。

興味深いのは、これら社会的進化を扱っている人たちの専門がみな異なっていることである。心理学者もいれば歴史学者もいるし、文化人類学者はもちろん、社会学者もいる。人間の社会生活の進化は多くの学問に関係するとんでもないテーマであることが分かる。(そしてもちろん、同じようなトピックスを語りながら、それぞれの関心はちょっとずつずれている)。

著者のニコラス・クリスタキスは医者で社会学者なんだそうだ。医者としてはホスピスとして終末医療に関わり、社会学者としてはネットワーク社会学(人と人の結びつき方)が専門なんだそうだ。

そういうわけで、人のネットワークの作り方にも遺伝の影響があるとデータを示しているところが新しいのかもしれない。例えば、一卵性双生児のネットワークを調べるとそっくりなんだそうだ。(遺伝の影響を示唆している)。

社会生活のブループリントが遺伝として存在していることは、似たような本を読みすぎたせいか、わしには自明のように思っていたが、学問の世界ではいまだに仮説の一つでしか過ぎず、批判も多いようだ。そこで、この本ではいろんな角度からそのことを論証しようとしている。

どんな方法が述べられているのだろうか。

(1)自然実験
偶然にも新しい社会を作ることになった集団がどんな社会を作ったかを検証する。具体的には遭難して無人島に流れ着いた者たちや、自ら無人島に向かった人たちのその後、どんな社会を作ったのか見る。もしも、一定の性質の範囲で作られたなら、社会には決まった性質があると証明できるだろうということである。

あるいは社会のなかで、理想の社会を作ろうとした人たち(イスラエルキブツや、アメリカ各地に発生したユートピア的な社会を作ろうとした人たち)がどうなったかを調べる。興味深い例に、南極基地の例があったりする。

これらのうち成功した社会と失敗に終わった社会をみると、人間の社会にはやはりある枠が設定されていて、その枠を超えると社会が崩壊してしまうことが分かる。

(2)人工のコミュニティ
ネットの発展が新しい社会学の実験ツールを生み出した。いまではネット上で条件を厳しく設定した社会を人工的に作り、その世界でのさまざまな実験を行うことが可能なんだそうだ。

こういう人たちは、僅かな小遣い稼ぎのために参加する。アマゾンがそういった人たちにアルバイトを斡旋しているのだそうだ。あまりに手軽に実験ができるので、いまでは社会学の論文はこういった人工コミュニティを使った実験がほとんどになっているという。

あるいはウェブ上の仮想世界のゲームも社会を観察する良いツールになる。(セカンドライフやチームで戦闘を行うゲームとか)。

こういった人工の世界は本当の社会とまったく変わらないそうで、そこでは人間らしい協力し合うという特性がはっきり現れるのだそうだ。そして、協力できないような状況を作ると、社会は崩壊する。

(3)数学的な検証

興味深いのは、ありえる社会の範囲を数学的に設定できるという話だ。たとえば社会的なパラメータを3つくらい選ぶと、ありえる社会の範囲が立方体の形状で確定する。パラメータとは、例えば、知っている人間(知人)の数、協調性への程度(0〜100%)、つながっている友人のつながりの程度(0〜100%)などを設定する。

ここに各人のデータを入れると、立方体の体積のごく一部の領域に集中する。広いあり得る世界のほんの数パーセントしか占めないとすると、これは進化によりその範囲に入るように規定されていることを強く示唆していることになる。

 

このへんまでは科学的で新しい気がするが、このあとは科学的というよりは、物語的な記述になる。文化人類学、生物学(特に動物、サル、ゾウ、イルカなどの生態)、心理学の実験、ベリャーエフの有名なギンギツネの家畜化の実験、文化と遺伝子の相互作用、などについて言及し、ブループリント仮説を補強していく。

とまあ、さまざまな方面から詳細に本に書かれていますが、遺伝子レベルで社会的進化が起こったと確信しているわしとしては、ブループリントがあることはもう確定!ってことでいいんじゃないですかねぇ(苦笑)。

ちなみに、人間が仲間には寛容なのに仲間以外には残酷という善と悪のパラドックスは、クリスタキスによれば大いなる謎なんだそうです。なるほど。そうすると、「善と悪のパラドックス」は相当野心的な作品ということになるんでしょう。

 

(メモ)

クリスタキスが主張する人間のブループリント(普遍的特性)一覧
 (1)個人のアイデンティティを持つ、またはそれを認識する能力
 (2)パートナーや子供への愛情
 (3)交友
 (4)社会的ネットワーク
 (5)協力
 (6)自分が属する集団への好意(すなわち内集団バイアス)
 (7)ゆるやかな階級制(すなわち相対的平等主義)
 (8)社会的な学習と指導

 ちなみに、この一覧は社会的一式(ソーシャル・スイート)と本の中では呼ばれている。

★★★★☆


ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(上下合本版) (NewsPicksパブリッシング)

光車よ、まわれ!

天沢 退二郎 ブッキング 2004.8.1
読書日:2010.10.06

1970年代の名作の復刊、らしいが、わしは知りませんでした。作者は宮沢賢治に心酔している詩人だそうで、イメージ力とそれを記す文章力がまずすばらしい。感心した。面白いので、1日で読み終わってしまった。

自分たちが住んでいる町や学校が何者かに徐々に侵略されていく恐怖、それに立ち向かっていく子供たちの勇気。ありがちな設定ですが豊富なイメージ力でどんどん読み進んでいけます。読み終わった後、なんかぐらぐら揺れているような頼りない感覚に襲われました。

読んでいて不思議だったのは、子供たちのほとんどが母子家庭だったこと。父親がまったく出てこない。これが70年代当時の時代背景なのか、作者個人の経験によるものなのかよく分かりませんが、なんだか最初から欠落感が漂っている原因になっているような気がします。

★★★★☆

 


(P[あ]2-1)光車よ、まわれ! (ポプラ文庫ピュアフル)
にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ