ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

ギルガメシュ叙事詩

エンキドゥは権力分散の象徴?

訳・矢島文夫 筑摩書房 1998.2.10
読書日:2026.7.12

<AIによる要約>
古代メソポタミアの都市ウルクの王ギルガメシュは、強大な力を持つ一方で暴君でもあった。人々の嘆きを受けた神々は、彼に対抗する野人エンキドゥを創る。二人は激しく戦った末に親友となり、怪物フンババや天の牛を倒す。しかし神々はその報いとしてエンキドゥを死なせる。親友の死に衝撃を受けたギルガメシュは、自らの死を恐れ、不死を求めて旅に出る。大洪水を生き延び永遠の命を得たウトナピシュティムに会うが、不死は人間には与えられないと悟る。若返りの草も蛇に奪われ、彼は故郷へ戻る。最後に、自ら築いたウルクの城壁を見つめ、人は永遠の命ではなく、善き行いや築いたものによって後世に生き続けるのだと理解する。『ギルガメシュ叙事詩』は、友情、死、そして人間の有限性を描いた世界最古級の文学作品である。 

 

ギルガメシュ叙事詩を読んでみた。なにしろ、世界最古の文学と言われ、人類全体の歴史を考察するグローバルヒストリーの中では、いろいろと引用されるテキストである。一度読んでみたいと思っていたのだ。

しかし、読んでみて、これはどうとでも読み取れてしまうなあ、と思った。神話や宗教の物語とも読めるし、友情の物語としても読めるし、冒険の物語とも読めるし、国家と権力の物語とも読めるし、文明と野蛮の話とも読めるし、社会・経済の物語とも読めるし、生と死の物語とも読めるし、道徳の話とも読めてしまう。

するとどういう風に読むのが正解、というのはおそらくないのであろう。というわけで、わしは読んでいて自分がおやっと思ったところをとりあえずひとつだけあげようと思うのである。

それは最初、いきなり都市国家ウルクの王ギルガメシュが、暴君として登場することである。そして、ウルクの貴人たちが集まって困ったことだと相談する。

わしは、これは実に不思議なことだと思った。どこが、と聞かれそうだ。だって、こんな話は現代でもいやというほど語られる話でしょう?

しかし、ウルクは世界最古の国家とされている都市だ。そしてその最古の国で国王の横暴さが問題になっている。ということは、世界最初の国家からして、国王だからといって何でもしていいというわけではない、という基準があったということである。これはとても興味深いことである。

最古の国家ということは、人類史の中でまったく新しい基準がすぐに誕生したとは思えないから、これはもともと人類が持っていた価値観が反映されているというのが普通の考え方だろう。だから、もともと部族社会の中で部族の長というのは、絶対的な権力を持つような者ではあり得なかったということだと思う。

そこでギルガメシュに対抗して神々が作ったのがエンキドゥだ。

だが、エンキドゥはウルクの中に生まれ育ったのではない。エンキドゥがウルクの外で、野生の人として動物の中で生まれ育ったということに意味があると思う。つまりエンキドゥはよそ者なのだ。

これは、ウルクの中からはギルガメシュに対抗する人物は生まれなかったということに思える。これはウルクなかで、階級がきちんとしていて国王のギルガメシュに対抗できるものが出てくることはなかったとも考えられるし、都市国家であるウルクはウルクで手に入らないものは外から手に入れなければいけないから(例えば、遠くのレバノン杉を手に入れるという冒険譚があとで出てくる)、外の世界の有力者と争ったり結びついたりということを意味しているともいえる。

ともあれ、ギルガメシュとエンキドゥは闘った後、親友になる。そしてエンキドゥはギルガメシュの相談相手になり、その後はギルガメシュが横暴になるという記載はなくなる。つまりこれは、ギルガメシュが横暴になりそうにあるとエンキドゥがいさめたという風にもとれるし、もしかしたらうまくエンキドゥとの間で権力の分散ができたということなのかもしれない。

わしがこの部分に注目するのは、まるで権力は集中させず、分散させたほうが良いと言っているかのように見えるからだ。

現在、ユーラシア大陸中央部は権威主義的で独裁的な政治家、宗教家あるいは王族が権力を独占している。エマニュエル・トッドによれば、人類はもともと自由や平等を尊ぶような社会だったが、農業が起こってから、ユーラシア大陸の中央部に父権を強調する権威主義的な社会が誕生して、いまそれが世界を席巻していて、自由主義的な社会は風前のともしびのような状態になっているのだという。

www.hetareyan.com

ウルクという国はユーラシア大陸の真ん中にできた。にも関わらず、まだ国というものができたばかりのころのこの物語には、権力者は何でもしていいわけではなく、そのためには権力は分散させた方がよいという発想があるように見える。もしこの読み方が成り立つなら、家父長的権威主義は、国家成立と同時に現れたものではなく、その後に強まっていった価値観なのかもしれない。 もしそうならエマニュエル・トッドの言う通り、家父長的な権威主義というのは、長い人類史のなかで比較的最近出現した、もっとも進化した社会だという主張に説得力が出てくるのではないか。

本当はもういくつか気が付いたことを書くつもりだった。でも長くなりそうだから、ひとつで止めることにする(笑)。

★★★★☆

ワールドカップと悪夢

どうでもいいけど、いちおう実話

2026年のワールドカップが終わろうとしている。

じつはワールドカップが始まる直前までDAZNと契約するかどうか迷った。

しかし、リアルタイムで全試合を見るにはDAZNしかないのだ。

というわけで、ワールドカップが始まる前日にDAZNと契約した。実際には直接DAZNではなく、500円安い、「アベマでDAZN」だったけど。

そして至福の日々が始まった。

おかげでほぼ全試合を見ることができた。素晴らしい毎日だった。

開催地がアメリカだったので、多くの試合は早朝だった。しかし早く寝て早起きすればよい。2試合同時のときにはノートパソコンも使った。 

いっぽう、読書の時間は大幅に減って、未読の本がたまったけど、まあ、そんなことはどうでもいい。なにしろワールドカップなのだ。

1000パーセント、叫ぶ……のテーマ曲が耳に残った。

そして、そんなわしに、ついに悪夢が訪れた。

夢の中で、わしはメッシだった。

なぜメッシなのか。それは分からない。なにしろ夢なのだ。

自分がメッシだなんておかしいと思わなかったのか。

まったく思っていなかった。夢ってそんなものだろ? 違うかもしれんが、1ミリも不思議に思っていなかった。

ともかく、その日はアルゼンチンの命運がかかっていた。

そしてわしは監督に呼ばれた。

監督はおもむろに、「メッシ、今日はサイドバックをやってくれ」と言った。念のため断っておくが日本語だった。

当然、わしは戸惑った。一言、「なぜ?」と聞いた。

「国のためだ」

そう言われて、わしはうなずいた。「わかった」

その日、敵のチームはアルゼンチンのサイドをえぐりにえぐった。わしは必死にそれに対応したが、しかし体力の限界だった。

あまりに苦しかったのだろう。

わしは、うーん、うーんと唸りながら、ベッドの上でのたうち回って、目が覚めた。

時計を見ると、2時だった。

なんだ。4時の試合開始までまだ2時間眠れるじゃないか。もう一度寝た。

試合を見た後、わしは会社に出勤した。

となりにいたまだ若手といえる社員に、夢の話をした。

「いいなあ。ぼくもメッシになってみたいなあ」

素直でいいやつだ。

ちなみに、その日の現実の試合は準決勝だったが、アルゼンチン対イングランドの方ではなくて、フランス対スペインの方だった。

さて、DAZNを解約するかな。それにしても、DAZN、画質が悪すぎるぞ。

未来とは何か 1秒先から宇宙の終わりまでを見通すビッグ・クエスチョン

2つの歴史、釣り合うかな?

デイビッド・クリスチャン 訳・水谷淳・鍛原多恵子 ニューズピックス社 2022.12.21
読書日:2026.7.11

ビッグバンからの宇宙全体の歴史を描いたビッグヒストリーの著者が、ビッグヒストリーの立場から未来とは何かを描いた本。

ビッグヒストリーとは歴史学者のデイビッド・クリスチャンが1989年から始めた新しい歴史であり、時間が始まったビッグバンから現在までのすべての時間を通して自分たちのことを見つめてみようという学問である。その内容については本人が説明しているTEDの有名な発表があるので、そちらをご覧ください。

digitalcast.jp

ビッグヒストリーという学問には疑問な点がいろいろあるが、まあ、それは別に書くとして(書かないかもしれないけど)、ここではビッグヒストリーで未来を語るということはどういうことかを見ていこう。

まず、なぜ過去ばかり見ているはずの歴史学者が未来を語るのかというと、未来のことは過去を見て類推するしかないからだそうだ。なるほど、確かにそれなら歴史学者が未来を語る資格があるのかもしれない。

そしてそれは生物しか行わない。生物だけが過去からトレンドハンティングして、未来を予測し、それを自分が生き延びるように利用してきたのだという。

それは細菌などの単細胞生物ですらそうなのだという。細胞膜にはたくさんのセンサがあって、たとえば糖分の濃度を検出して、一時的なメモリに蓄えている。次の検出で濃度の勾配の方向が分かれば、そちらに向かっていくという判断ができる。

人間のように言語を持っていると、記憶は個の枠を超えて集団的な記憶になり、さらに農耕時代になると文字を記した文書が誕生して世代を超えたメモリとして機能し、ここにさらに確率や統計などの数学的な思考も加わる。もちろんコンピュータによるシミュレーションもできるようになる。

こうして未来の見方は生物の歴史としても、人間の歴史としても発展してきた。この本はこうした未来の見方がどう変わってきたかに多くのページを使っている。

そしていよいよお話は未来に向かう。

ところで、これはビッグヒストリーの非常によくわからない特徴のひとつなのだが、138億年の歴史の果てに生まれたわれわれ人類は、非常に道徳的でなくてはいけないらしいのだ(苦笑)。つまり地球という惑星に責任があるということだ。なので、未来のことを語るにしても、直近100年ぐらいに関しては、気候変動の話が多く語られる(笑)。現在の私たちの選択で、多様な未来が起こり得るのだそうだ。

1000年先になると、人類は宇宙に進出するだろうみたいなかなり雑な予測が加わる。そしてもっと未来になればなるほど見通しは明確になっていく。なぜなら、人間が滅亡していなくなった後は、単純に宇宙物理学の予言する通りに進むからだ。なお、これは過去についても同様で、ビッグバンから生物が誕生するまでは非常に明確だが、人間が出てくるとちょっと明確に語りにくくなる傾向がある。

最終的には、宇宙は熱的な死を迎えるか、もしかしたら膨張をやめて収縮する方向に逆転するかといった話になっておしまい。

この本を読んで未来の予測に役に立つかというと、まったく役に立ちません。なにしろ大きなスケールの話なので。でも、役に立たなくても面白いのなら許せるかもしれない。しかし、ほぼ面白くありません。なぜなら、これはビッグヒストリーものに言える欠点で、億年単位の現象を語るので、ひとつひとつのテーマはとても簡単に薄っぺらくしか語られないのです。つまり、よく知られている定番の解説しか語られず、読んでいて面白くありません。さらに、未来予測というより、人類の責任を説く話になってしまう点がどうもよろしくない。

こういう本を読むくらいなら、ちゃんとした専門家の予測を読んだ方がいいでしょう。たとえばジャック・アタリの本がいいでしょう。

www.hetareyan.com

この本は世界が陥るリスクが網羅的に書かれていて、その網羅性に特徴があるのですが、なにか世界的な事件がおきてこの本を参照すると、だいたい載っているように思います。ウクライナ戦争やコロナパンデミックも載っていましたし、もちろん最近話題のホルムズ海峡のリスクも載っています。世界にどれだけリスクがあるのか、一度目を通しておくのも悪くないです。

もう一つ読むとすれば、これは実はわしはまだ読んでないんだけど、期待をこめてこれをあげておきます。

amzn.asia

★★☆☆☆

がむしゃら1500キロ(全) わが青春の門出

彼のがむしゃらな思いは、空を飛んでいるかのよう

浮谷東次郎 筑摩書房・文庫版 1990.8.26(オリジナルは1972.7.28)
読書日:2026.7.4

伝説のレーサー浮谷東次郎が中学3年(1957年)の夏休みに大阪までのバイク旅行をした旅行記と中学時代の日記をまとめた本。

浮谷東次郎と言えば、1965年に23歳で事故死した伝説のレーサーである。あまりにも生き急いだという印象の人生だが、中学時代の日記や旅行記を読んでいても、はやく大人になって一人前になって自由になんでもやりたいという思いが強くて、青いむき出しの感情が書き散らかしてあるという感じだ。

また、美人の女の子が大好きで、たくさんの女の子の名前が出てくるのも印象的。そしてオートバイなどのメカニックの話もたくさん出てくる。なにかを成し遂げたいという気持ちもたくさん書かれている。

そういうわけで、そんな中学3年生が、中学最後の夏休みにできることをいろいろ考えて、当時乗っていた50㏄のクライドラーというオートバイで大阪までの旅行を思いつく。当時は東名高速道路もなく、道のほとんどは砂利道だったし、田舎道でオートバイが故障しても修理は難しかったから、中学生がひとりで大阪まで行くというのはそうとうな冒険だったわけだ。

でも、たとえ道が悪かったとしても、単にオートバイを運転するだけだから、結局、2日で大阪に着いてしまう。それで、本人としては、これでは何も成し遂げていないのではないかと考え込む。

何より、オートバイは親に買ってもらったもの、旅費も親に出してもらったもの、大阪では叔父の宿泊していたホテルに泊めてもらっている。自分で稼いだお金でなければ、とてもやり遂げたとは言えないのではないか、と思い詰める。途中、道沿いにスイカを売っていた(かわいい)女の子と出会ったが、その女の子のほうが何かをやっていると言えるのではないか。

結局、自分の手で何かを「生産」しなければ、成し遂げたことにはならないと考え、帰ったら旅行記を書くことを自分に課すのである。それがこの本なのだ。親は市川市の大地主だったため、最初は私家本として出版された。 

行きはたった2日だったが、帰りはあちこちに寄り道をしている。そしていろんな人とコミュニケーションを取ったりしている。例えば、宣教師のイタリア人ライダーと知り合いになって、そこの教会の宿舎に泊めてもらったりしている。途中で一緒に食べたカレーでは、ここは日本だからという理由で、そのカレーをおごったりしている。とても中学生とは思えない、何か堂々としているなあ、という感じだ。

でも、正直に言って、わしはこういうひとは苦手だな(苦笑)。

わしの中学時代はただぼんやりしていただけだったし、何かを成し遂げたいとかそんなことをあまり考えていなかった。昔の子供はいまの子供と比べてはるかに大人だったのだろうか。そういう気もしないでもないが、たぶんそうではないだろう。いつの時代でも、生き急いでいる人もいれば、ぼんやりしている人もいる、ということなのだろうと思う。

浮谷東次郎に関しては、高校時代やアメリカ留学時代の日記や旅行記なんかが本になっている。こんなに短い人生だったのに、たくさん本が出ている。それらも読んでみようかしら。

ところで、中学3年でオートバイに乗れるってどういうこと?、ということが疑問だったのだが、この時代は14歳で50㏄のオートバイの許可証(免許証ではない)が取れたのだそうだ。へー。

★★★☆☆

感じるオープンダイアローグ

オープンダイアローグ。一番オープンでいなくてはいけない者は?

森川すいめい 講談社 2021.5.1
読書日:2026.6.28

フィンランドの対話を中心とした支援によって、多くの人が薬や入院に頼らず回復できた事例が紹介されているが、特に精神科医の著者自身が導入に際して変化した体験談を書いている本。

森川さんのことは、自殺希少地域を訪ねた「その島の人たちは、ひとの話をきかない」という本で知った。

www.hetareyan.com

自殺希少地域とは、自殺率が極端に少ない地域のことだ。自殺問題を考えるときには自殺率が高い地域を取り上げる傾向がある。そして、なぜ自殺が多いのかを考えてしまう。しかし、逆に極端に自殺が少ないところもあるのだ。そのような地域に共通の特徴があれば、自殺が少ない社会には何が必要なのか 、ということが分かるかもしれない。

最初、森川さんは、自殺希少地域の人たちは濃密な人間関係でおたがいを助け合っているようなイメージを描いていた。しかし、そうではなかったのである。実際にはこうだった。

・そうした地域は、人々の交わりがあっさりしている。
・しかし一人ひとりがコミュニケーションを取る相手がとても多い。つまりいろんな異なる性質の人とコミュニケーションを取ることに慣れている。
・個人の持っているネットワークが広いので、なにか困っている人がいると、自分ができないことでも、自分のネットワークを駆使して助けてくれる。
・しかし関わり合うのはその困っている問題だけで、それ以上に踏み込むことはない。 

という特徴があった。ちょうどこのころ、森川さんは、フィンランド発祥のオープンダイアローグについて学んでいるところで、オープンダイアローグの特徴に似ていることに気が付く。

オープンダイアローグには次の七つの原則がある。 
・IMMEDIATE HELP(すぐに助ける)
・SOCIAL NETWORK PERSPECTIVE(周囲の人たちの視点を取り入れる)
・FLEXIBILITY AND MOBILITY(柔軟かつ機動的に)
・RESPONSIBILITY(責務/責任)
・PSYCHOLOGICAL CONTINUITY(心理的継続性、積み重ね)
・TOLERANCE OF UNCERTAINTY(不確かな状況に寛容になる)
・DIALOGISM(対話主義)

なるほど、確かに似ているといえるかもしれない。オープンダイアローグにより自殺希少地域の状況を再現できれば、心理的な問題をかかえている人を救えるかもしれない。

ここで、ダイアローグと言っているけど、1対1の対話でないことに注意。実際には、本人だけでなく家族や支援者が同じ場で話し合い、結論を急がず時間をかけて対話を続けるという作業なのだ。医院側も事務職を含めた数人で、患者側も家族や周囲のひとに加わってもらう。すると、いろんな角度からの意見が出るだけでなく、患者側の人間関係の中に対話が定着するようになる。もしこのような状況に持っていければ、その人が抱えている問題を、周囲との対話そのものが自然に解決に向かう力学を生み出すようだ。

しかし、森川さんがこのオープンダイアローグを治療の現場に持っていくには、大変なハードルがひとつあったのである。じつは森川さん本人が、ぜんぜんオープンマインドな性格ではなかったのである(笑)。これには森川さんの生い立ちや父親との葛藤などの個人的な経験のために生じた、心の鎧のようなものであり、この鎧を外すのに、ひじょうに時間がかかったのである。

自分自身の心の鎧を外すには、それ自体、本人が対話的に解決するしかなかった。すでに両親は亡くなっていたので、妹や台湾の親戚を訪ねて対話をする、というようなことを重ねる必要があったのだ。なにより結婚して家族を持ったことが大きかったようだ。安心して心を開ける相手がいるということが重要だった。

こうしたオープンダイアローグを取り込んだ森川さんの医院は、すでに予約でいっぱいだそうだ。今後はオープンダイアローグを医院以外の現場に広げていくことを目指している。

医者自身が変化を求められるオープンダイアローグ。日本人にはちょっと難しいようにも思われるかもしれない。しかし、自殺希少地域のような例をみるかぎり、日本でも決して実現不可能ではないと思ったな。

★★★★☆

謹訳 源氏物語一

世界最古にして、いまでも最先端

林望 祥伝社 2010年3月25日
読書日:2026.6.22

作家、書誌学者の林望による源氏物語の現代語訳の第一巻。桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫まで。

やはり日本人として生まれたからには、源氏物語は一度は読んでおきたいコンテンツである。当然ながら、原文で読むようなかったるいことはできないから、現代語訳で読むのだが、そうすると誰の訳で読めばいいのだろうか。

しかし、わしの場合、答えは簡単である。リンボウ先生しかありえない。だってリンボウ先生は「イギリスはおいしい」から読んでいて、いちおう馴染みなんだから(笑)。このへん、リンボウ先生が訳したから読もうと思った、という部分もあるのである。そして、リンボウ先生ならしっかりとした仕事であることは、ほぼ確実である。もちろん、読んでみると、なんの違和感もなくすらすらと読めた。

ここで断っておくが、わしは源氏物語は高校の教科書で出だしの桐壺を少し読んだだけで、実はほとんど内容を知らなかった。そして、今回読んでみて、わしは源氏物語に衝撃を受けてしまった。どこに衝撃を受けたかというと、「若紫」にである。

若紫は光源氏の思い人である藤壺の親戚の少女で、藤壺は天皇の妃であるから自分のものにはできず、その代わり藤壺にそっくりの若紫を手に入れて、自分好みの女に育てようというのである。このとき若紫は10歳ぐらいである。読んですぐにナボコフの「ロリータ」を思い浮かべた。しかしナボコフの「ロリータ」が20世紀の中ごろである。すると源氏物語は少なくとも900年は世界文学に先行していることになる。

まあ、源氏物語を少しでも知っている人からは、なにをいまさら、と言われるかもしれないが、まったく知らなかったので素直に驚いてしまった。

そして、同時に、谷崎潤一郎はまったく新しくないなあ、とも思った。源氏物語が彼にとってネタ本だったことはよく知られたことだから、驚くことはないかもしれないが、しかし想像以上に谷崎は源氏物語から離れていない。これじゃあ、彼は単に王朝文学を現代にアップデートしただけ、と言われてしまうんじゃないだろうか。

桐壺、帚木、空蝉、夕顔まではどちらかというとオムニバス小説であるが、若紫は事実上の長編小説としてのリスタートという感じだ。それが証拠に、ここで突然、光源氏と藤壺の女御との密会の話が出てくる。この密会が2回目になっているので、その前の1回目はどこに書かれてあったっけ、と前のほうを読み返してみたがそんなシーンはない。だから、このエピソードは今後の物語の進展に必要だったから、少し唐突感はあるが、ここで出してきたのだと考えられる。つまり、この若紫あたりから長い話としての構想が固まり、 その構想の前提を書いておく必要が生じたのだろうと推察された。ある意味、ちょっとした軌道修正なのだが、これを回想的に処理したというのも、当時としては斬新だったのではないか。おそらく、このような小説的なテクニックを、紫式部はいちから作っていったのだろう。

うーん、1巻目からこんな衝撃を受けてしまって、これはもう全巻読むしかないね(笑)。

ほかに源氏物語を読んでいて面白いと思ったところを、いくつか挙げておこう。

まずはむちゃくちゃ人口密度が濃いなあ、というところかしら。なにしろ光源氏やそのお友達は、高貴な方々だから、一人で出歩くことはないのである。必ず供人(ともびと)とか随身(ずいしん、警護の人)とかといっしょに行動するし、出歩くときは牛車(ぎっしゃ)である。こちらもそれ専用の人がいるに違いない。女性のもとを訪ねるにしても周りの人の協力なしにはあり得ないことである。二人っきりになるにもいろいろ苦労しているようだ。

方角の関係である貴族の邸宅を通ってから別のところに向かうという話があって、その貴族がOKと言ったので、じゃあ行くか、と出かけるのだが、当時は携帯電話があるわけでもないから、もちろん身の回りの人がわざわざそちらに出向いてお伺いを立てたということなのだ。だが、最初はその辺がよく分からなかった(笑)。こういう身の回りの世話をする人がともかくたくさんいるのである。現代のように便利な機械があるわけではなく、すべて人力で処理しているというのが面白い。

それから邸宅の中で寝る場所というのが、その時々で結構いい加減だということである。寝室が決まっていないようで、なんか適当なところでごろんと横になって寝ている、という感じである。寝具も運んでいる様子はなさそうなんだけど、いったいどうしていたのかしら。面白いね。

なぜか紫式部は、ひとびとの邸宅の庭はあまり手入れがされず、草ぼうぼうのひなびた感じがお好きらしい。もしかしたら、自分の実家がそんな感じなのかもしれない。

というわけで、紫式部は、1000年前に、キャラクターを設定してその内面をきちんと描くという近代的な小説の形式を世界ではじめて編み出したと言われているけど、そのテーマの大胆さはいま読んでも世界の最先端といっていいくらいだ。こんなことってあるのかしら。すごいね。

★★★★☆

老人と宇宙(そら)

宇宙の戦士は75歳!

ジョン・スコルジー 訳・内田昌之 早川書房 2007.2.28
読書日:2026.6.12

(ネタバレあり、注意)

妻のキャシーを亡くし独り身のジョン・ペリーは、75歳以上しか入隊を認められないという、コロニー防衛軍(CDF)に入隊する。未来の技術で作られた新しい身体を得て、ジョンは一人前の兵士になるべく訓練を受けるのだが……。21世紀版の「宇宙の戦士」と呼ばれるSF。

やっぱり、75歳の老人しか入隊できないという設定がこの小説の最大の特徴で、約半分は老人が兵隊になるってどういうこと?、それでどうなるの?、という読者の疑問に答えるためにある。

75歳以上の老人しか志願できないという理由はいちおう用意されている。人口増加が激しい発展途上国の人が植民の中心で、彼らは若いうちに植民を行うために宇宙に出ていく。一方、先進国の人は植民が禁じられているが、その代わり老人になって入隊すると、コロニーの技術力で若い身体を再び手に入れられるという恩恵がある、というような役割分担があることになっている。

でも、実際には75歳の人々が集まったドタバタを書きたかった、というのがスコルジーの執筆の動機だろうから、こういうのはけっこう無理やりな設定ということになる。だが、ここからが素晴らしいところだが、作者はこうした設定を次の展開に巧妙につなげているのだ。したがって、自然と物語に深みが出ている。これがヒューゴー賞の候補作になった理由だろう。

登場人物は、主人公も含めて、なにしろ75歳である。人生のさまざまな経験を経てきた人たちが集まっているのだ。口は達者で、いろいろ面倒くさい性格に仕上がっている者ばかりだ。最初のジョンが故郷の町で、コロニー防衛軍の事務所を訪れて、年下の事務員相手に契約をするやり取りも、なかなか微笑ましくて笑えるし、世界中から集まった老人の様子も個性的に書かれていて、なかなかいい。

次の驚きは、若い肉体を手に入れるところにある。自分の肉体が若返るのではなくて、あらかじめ作られていた人工の肉体に精神を移し替えるという方法で行われるのである。65歳のときに入隊希望者の遺伝子を取得していて、その遺伝子をもとに作ったもので、緑色の皮膚の色(実際に光合成もできるらしい)と猫のような黄色の目をしている。若返ったどころか非常に強化された肉体になっているのだ。

そして、活力ある素晴らしい肉体を手に入れた男女が、たちまちセックスを試みるという展開になる。(こんなふうに発想するのは作者がアメリカ人だからじゃないの? じっさいにこんなふうになるかなあ)。また、ブレインパルという脳内のAIもあり、隊員同士は考えるだけで自由にコミュニケーションが取れ、情報も取り寄せることができる。

こうして訓練が始まるが、この軍隊は現在のアメリカ軍そのものに由来していることは明らかだ。アメリカ人を読者に想定しているのだし、読者がアメリカの軍隊が世界一であると信じているのだから、読者はコロニー防衛軍もその末裔とすることに何の不思議も感じないだろう。

そうすると、この物語の構成は、アメリカと関係ない国を守るためにアメリカ人が命を落としていると考える人たちには、お馴染みの光景と映るのではないだろうか。コロニー防衛軍はいまのアメリカと似たような矛盾を抱えているのかもしれない。

戦争の相手である異星人についても、スコルジーはなかなか健闘しているように思える。人間でなく、何をどう考えているか分からない異星人を物語として組み込むのは、もともと非常に困難なのである。ハインラインの「宇宙の戦士」ではクモのような異星人が現れるが、その異星人と闘っている姿は壮大な「害虫駆除」と言えるものにしかなっていない。

この物語でも、異星人はオリジナルの宇宙の戦士にならって、人間にまったく似ていない未知の異星人たちなのだが、クモよりも少しは人間に近い存在に描かれていて(笑)、多少とも物語に取り込むことにそれなりに成功している。完全に異質な異星人そのものを相手にドラマを構築するのは難しく、結局は人間側の物語が中心になる (なお、宇宙の戦士にはヒューマノイド型の宇宙人も登場する。念のため)。

そうなると、やっぱり物語の中心は軍内部の人間同士の物語が中心になるのは避けられない。そして、スコルジーは無理のある設定を逆手に取った美しい展開を提供するのである。

志願者の若い肉体は、65歳の時に提供してもらった遺伝子をもとに10年かけて作ることになっている。すると、75歳のときに結局志願しなかったものやそれまでに亡くなってしまった場合は、肉体が無駄になる。そこで、そういう肉体には人工の意識を埋め込んで、別の部隊、ゴースト部隊を編成しているというのだ。ジョンの妻のキャシーは遺伝子を提供したものの75歳になる前に亡くなってしまった。そして、ジョンは、ゴースト部隊の中に、妻のキャシーとそっくりな兵士を発見するのである。実際、それはキャシーの遺伝子を使ったゴーストのジェーンだった。ジョンは、ジェーンに接触して、二人はお互いを意識するようになる。

コロニー防衛軍の死亡率は非常に高く、ジョンと一緒に入隊した同期たちも次々に亡くなっていく。しかし、そんな中でジョンは生き残り、本書の最後には大尉まで昇進している。ジョンとジェーンの関係、そしてコロニー防衛軍そのものが抱える矛盾は、まだ解決されていない。続編ではその先が描かれるのでしょう。 

なお、日本語版の題名はヘミングウェイの「老人と海」をもじっていることはすぐにわかると思うけど、念のため。

★★★★☆

にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ