ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

動物裁判 ―西欧中世・正義のコスモス

池上俊一 講談社 2020.9.1
読書日:2025.7.14

中世ヨーロッパで起こった動物を被告とする動物裁判の謎を追った本。

13世紀から17世紀頃にかけてのヨーロッパで、人を襲ったり、害を与えた動物をまるで人間のように捕らえ、裁判にかけて処刑したという記録が大量に残っている。例えば、人を殺した豚を裁判にかけ、処刑している。弁護士もちゃんとついた裁判である。

豚、牛、馬などの大型の動物なら人間が殺されることもあるのでまだ分かる。だが、バッタなどの大量発生して作物を食い荒らす昆虫なども、裁判にかけられている。

昆虫の場合、それはこんな具合だ。

まず、裁判所に提訴が行われると、判事はその昆虫がいるところに出向いて、いついつ裁判が開かれるから出廷するように、と大声で申し渡す。もちろん来るはずがないのだが、その日になって、被告の昆虫が出廷しないと欠席とみなされる。3回同じことが行われて欠席すると欠席裁判の条件を満たすので、裁判が始められる。もちろん、昆虫にもちゃんと弁護士がつく。弁護士は、虫にもいろいろ事情があるなどと言って弁護に努める。そしてそれがうまくいくと、たとえば別の土地を与えられて、そこに移るように申し渡されたりする。しかしそういうことがうまく行かないと、もっとも強い処置は「破門」である。こういう裁判所は教会が運営しており、判事は司教や司祭だったのである。

しかしこう聞いても、頭の中は疑問だらけになる。破門というからには、まずは入信があったはずである。ハエやバッタたちはいつ入信したんだろうか。

疑問は尽きないけれど、ともかく司教たちが火のついたロウソクを地面に投げつけ、踏みつける破門の儀式を行うと、あら不思議、昆虫たちはおそれをなして逃げてしまうのだそうだ。(実際には、裁判にものすごく時間がかかるので、昆虫たちは食料を食べ尽くして移動しただけだと思われる)。

読んでいると頭がバグってくるけれど、いったいどうしてこんなことを大真面目にやるのだろうか。

ヒントは動物裁判が始まった時期が13世紀ごろだったことにあるという。また、それがもっとも多くなされたのが16〜17世紀だったこともヒントになる。そして、動物裁判をおこなうエリートたちから、動物裁判に対する否定的な意見はごく一部だけでほとんどなかったという事実も大いに関係があるという。

まず、動物裁判が始まったのは、なぜ13世紀だったのだろうか。

池上さんによれば、鬱蒼とした森の世界だったヨーロッパで、森を耕地に開拓する作業が終わったのがこの頃らしい。これまで森というのは人々に魔を感じさせる恐怖の対象だったのが、13世紀頃にはそれがなくなり、その魔的なものは個々の動物や人(魔女)に移され、悪魔にそそのかされた動物や人という考え方が出てくるのだそうだ。そうすると、動物たちは悪意という「意図」を持って行動していることになり、つまり「人格」があるということになる。

このころ「中世合理化運動」という中世のあらゆる局面に影響を与えた運動があったという。この中では、エリートたちにとって、動物も人間の理性(=法)のもとに管理したいというものになる。こういうエリートたちにとって、動物裁判は非合理なものではなかったのだという。

一方、民衆の側にとっても、アニミズム的な発想から、動物も人間と同じと考える擬人化が行われており、悪いことをした動物が罰せられることに違和感はなかった。

こうして、エリート側と民衆の思いはすれ違っているものの、結果については違和感もなく一致しているので、動物裁判は何世紀にも渡って続いたのだそうだ。

そして民衆への合理主義への啓蒙的な活動が盛んになるにつれて、動物裁判も盛んになった。しかし民衆側への啓蒙活動が完了した時点(中世の合理化運動が科学的啓蒙活動に転化した時点)で、動物裁判は終了を迎える。まるで燃え尽きる少し前のローソクが最も明るく輝くみたいな感じで、16〜17世紀にピークを迎えるのである。

なお、この過程は、魔女裁判とも一致するという。魔女裁判では、動物ではなく人が悪魔にそそのかされるのであるが、やはり、16〜17世紀にピークを迎える。魔女裁判にも動物裁判と似たような思考があるのだそうだ。

結局、動物裁判は自然を理性で征服する合理主義が席巻していく過程で生じたあだ花のようなものだったようだ。

一方、自然と共生するような感性の日本では、こういうことは起こり得ないことなのだという。まあ、そうでしょうね。というか、こんなことはヨーロッパだけでしょう。

★★★★☆

夢を叶えるために脳はある 「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす

池谷裕二 講談社 2024.3.26
読書日:2025.7.10

脳研究者の池谷裕二が、高校生に三日間、脳について講義を行い、「夢を叶えるために脳がある」という言葉の意味が普通とは違って見えてしまうまで語り合った本。

池谷裕二は、「あらゆる生物は生きているだけで価値がある」という。しかし、これを言葉通りに捉えてはいけない。彼がいうのは、次のような意味である。

宇宙はエントロピーが増大していき、ついには熱的平衡死に至るのが究極的な目標である。生物は、自分自身はエントロピーを下げることで存在しているが、そのために常に周囲からエネルギーを得てエントロピー増大させているので、生物は全体としてはエントロピーの増加を加速させている。そうすると、あらゆる生物は宇宙の熱的平衡死という目標を達成するのに貢献している。だから、あらゆる生物は生きているだけで価値がある、というのである。

宇宙の熱的平衡死をこのようにポジティブに捉えるのはおそらく少数派だろう。このように池谷さんは、普通とは違った捉え方をする人なのである。

例えば、睡眠。

なぜ生物は眠るのか、という問題に対して、池谷さんは問いの立て方自体が間違っているというのだ。普通、眠るのは眠っている間に脳が記憶を定着させるため、などというような解釈がなされる。しかし、じつはヒドラや海綿のような脳がない生物も眠ることができる。だから眠るのに脳は関係ないという。そして植物は常に眠っているような状態である。そうすると、じつは生物は眠っているのが常態で、起きているのが普通ではない、と考えるほうが筋が通っているという。したがって、立てるべき問いは「なぜ眠るのか」ではなく、「なぜ起きるのか」なのだというのだ。

さてこの本の題名の「夢を叶えるために脳がある」という言葉の意味である。普通は、「将来に夢を持ち、それを実現させる」という意味だと思うだろう。しかし池谷さんの意味はそうではない。これは脳が現実を作り出すとはどういうことかを表しているのだという。脳は身体から電気信号を受け取って、現実世界がどうなっているのかを推測して、仮想現実という虚構(夢)を作り上げている、現実とは夢そのものである、という意味なのである。

脳は自分のために、自分の閉じた世界の中だけで現実という夢をつくりあげており、これはすごいことだけれど、茶番でもある、という。ヒトはいくら頑張っても脳の外に出られず、そのことに気づくすべもない。脳が作った映画に没頭してに溺れて陶酔しているのに、陶酔していることにすら気が付かない。それが「私」なんだそうだ。

というわけで、やっと題名の意味がわかったところがこの本の結論。

さて、この本には脳に関する最新の知見が満載で、それが、高校生に分かるくらいに、とてもわかり易く語られている。たとえば、わしが面白かったのは、人間は脳をどのくらい使っているのか、という話。

脳は神経細胞でできていて、神経細胞は一種のAD変換装置なんだという。神経細胞へは約1万の他の神経細胞からナトリウムイオンが入力される。ナトリウムイオンの量が一定のしきい値を超えると、神経細胞は発火して、つまり0から1デジタル信号に変換して次に伝えるという、ということをやっている。

しかし、ほとんどの神経細胞は入力がしきい値に達することはなく、静かなんだそうだ。ひとつひとつの入力が小さく、たくさんの神経細胞からの入力が集まる必要があり、なかなかしきい値に達しないからなのだ。これはつまり、神経細胞ひとつひとつが出力するナトリウムイオンの数が少ないことを意味している。

ところが、中には一個の神経細胞だけで次の神経細胞を発火させるくらい強力にナトリウムイオンを放出するスーパー神経細胞もあるという。そして、ほとんどの場合、脳で起きているのはこのようなスーパー神経細胞だけが働いているという状況なんだそうだ。

このように働いているスーパー神経細胞の割合を数えると、(なんと2年間コツコツ神経細胞を確認して統計を取ったそうだ。科学者の地道さには本当に呆れるばかり)、その割合は約20パーセント。つまり20対80というパレートの法則が成り立っているのだという。つまり脳は20%しか働いていないように見える。そうだとすれば、80%の脳の神経細胞は何をしているのだろうか。

残り80%は一見働いていないように見えるけれど、しかし、ときどき、スーパー神経細胞の決定を覆すことをするんだそうだ。こうして80%の弱い神経細胞はスーパー神経細胞の力を抑制しているのである。

ちなみにこれは大型の動物に特有の現象で、ハエなどの昆虫では、ほとんどがスーパー神経細胞だけでできていて、弱い神経細胞の割合は低いんだそうだ。ハエなんかはいつも決まりきった判断のパターンを繰り返していている。つまりスーパー神経細胞はそういうルーティンの行動のためにある。通常はそれでいいけれど、なにか周りの状況が変わったときにも、その変化に対応することができない。

ところが、大型の動物の場合は、そのようなまずい状況になった場合、大多数の普通の神経細胞は拒否権を行使するのである。つまり、大型の動物は、こういった仕組みで判断や行動を柔軟にすることができるのだそうだ。

これってなんとなく民主主義のように思えない? 普段は声の大きな政治家に任せているけど、なにかあったら民衆の声なき声は実際の声として立ち上がり、決定を覆す、みたいな。

しかし、そう思ったわしに、池谷さんはこうも忠告するのです。脳内で起きていることを社会の仕組みに普遍化してはいけませんよ、と。それは間違いなのです。

うーん、まあ、確かにそうですよね。

★★★★★

 

全滅領域

ジェフ・ヴァンダミア 訳・酒井昭伸 早川書房 2014.10.25
読書日:2025.7.6

(ネタバレあり。注意)

生態系がおかしくなった〈エリアX〉という謎の領域があり、少しずつ拡大している。監視機構〈サザーン・リーチ〉は何度も〈エリアX〉に調査隊を派遣しているが、無事に帰還した隊はいない。派遣された隊員は変容を起こし、一人ずついなくなっていき、全滅してしまう。夫が第11次調査隊に参加した生物学者は、第12次調査隊に志願するのだが……。

この作品は前からちょっと気になっていました。映画にもなっていますが、映画化にあたって内容は変えられているだろうから原作を先に読もうと思っていて、このたびようやく読んだ次第。

物語は、名前不詳の「生物学者」の一人称で語られます。

謎の組織、監視機構〈サザーン・リーチ〉は〈エリアX〉へ調査隊を送るわけですが、これまで無事に帰ってきた調査隊はいません。ですから、調査隊に参加するのは自殺するのと同じわけです。第3次調査隊ぐらいまでなら、けっこう危険なんだ、ぐらいですんだかもしれませんけど、すでに二桁ですからね。もう絶望的に危険なわけです。こんな危険な任務に志願しようなどとは普通、誰も思わないわけです。

そうなってくると、そもそもなぜ志願するのかという理由付けがないと、なかなか納得できません。そういうわけで、なぜ生物学者が参加したのか語られます。(というか、この小説のかなりの部分は回想なの)。

で、その理由は夫が第11次調査隊に参加していたから。なるほど、まあ、いいでしょう。ではその夫はなぜ志願したのか。友達に説得されたからだそうです(笑)。夫の動機はなんか軽い。

それで、志願した夫はどうなったかというと、じつは〈エリアX〉へ出発した後、しばらくしていつの間にか二人の住まいに帰ってくるのです。気がつくと台所に立っていて、冷蔵庫の中身をがつがつ食べていたのです。おそらくそこまで何も食べずに歩いてきたのでしょう。

しかし、すぐに生物学者は、この夫が抜け殻のイミテーションだと気が付きます。それを確認するためにセックスまでしてみるのですが(苦笑)、それは気の抜けたものだったそうで、ますます偽物だと確信し、監視機構に連絡して夫を引き取ってもらいます。その後、その偽物の夫は、全身がガンに罹って数カ月後に亡くなってしまったそうです。

そんなことがあって、生物学者は〈エリアX〉とはなにかを自分の目で確かめるため、そして本物の夫はどうなったのかを知るために、志願したのです。

こうして第12次調査隊は、心理学者をリーダーに、人類学者と測量技師、そして生物学者の4人で〈エリアX〉に入ります。この4人の間でいろいろ確執があったりするのですが、まあ、この辺はどうでもいいかな。リーダーの心理学者が、隊員たちに暗示をかけて隊員たちを心理的にコントロールしているとかいったことが語られますが、そのへんはイマイチです。(結局、生物学者以外は全員死にます)。

この〈エリアX〉はかなり広い領域のはずなのですが、物語はたった2ヶ所しか舞台になりません(笑)。生物学者が〈塔〉と呼んでいる、塔のようなものが空の上方向ではなくて地下に向かって伸びている、逆さの塔のような場所と、もうひとつは海岸にある〈灯台〉。塔と灯台の間には汽水の湿原があり、この湿原を何度か行き来します。

調査隊は地図にある灯台を目指していたのですが、途中、地図に載っていない塔を発見し、塔の調査を行うことにします。地下に向かって壁沿いの階段を降りていくのですが、塔の材質はまるで生物のような感じで、なにか振動のようなものが伝わってきます。それ以上に怪しいのは、壁にコケで作った筆記体の文字があり、その文字は判読可能で、聖書に出てくる詩のようなものが書いてあったのです。生物学者はコケのサンプルを取ろうとして、うっかりコケの胞子を吸い込んでしまい、その結果、生物学者の変容が密かに始まります。

壁の文字は、〈クローラー(這うもの)〉と名付けた謎の存在が作り出しているのだとわかりますが、この塔がなんなのか、なぜクローラーが文字を壁に作っているのかなど、まったくわかりません。

舞台は灯台の方に移り、そこには灯台守の写真と、かつての調査隊の膨大な日誌が残されています。かつての調査隊は灯台を拠点にしていて、その結果、日誌が残されているのです。なぜ日誌だったかというと、それ以外の記録方法は禁止されているからです。理由は不明ですがかつて電子機器の記録装置で記録したところ、問題が起きたからだそうです。(なので、この本は生物学者の残した手書きの日誌ということになっている。灯台守の写真からは、クローラー灯台守のなれの果てらしいことが分かる)。

生物学者は膨大な日誌(明らかに12の調査隊以上の分量がある)の中から、夫の日誌をみつけ、その中から、この〈エリアX〉の何かの力で隊員たちのドッペルゲンガー(偽物)が出現したこと、夫が小舟で移動したことを知ります。

生物学者は、胞子を吸った影響で、すでに身体の中から光が発生するように変容してしまっています。そしてもうすぐクローラーが文字を書くのに使っているコケが大量に胞子を吐き出し、そうなると世界の状況が変わるだろうと直感します。

生物学者は日誌に、もう外界に戻らず、〈エリアX〉の未踏の地に夫を追いかけることを記して、この物語は終わるのです。

この本は<サザーン・リーチ>3部作の第1部だそうで、すべての謎はまったく解けないままです。謎は後続の本に引き継がれます。

でもねえ、なんか〈エリアX〉で起こることよりも、帰還してきた偽物の夫の話の部分のほうが面白いんだよね。この物語が成功したと言えるなら、このアイディアのおかげなんじゃないかな。

★★★☆☆

自由への手紙

オードリー・タン(語り) クーリエ・ジャポン(編) 講談社 2020.11.17
読書日:2025.7.5

まだ台湾のデジタル担当大臣だったオードリー・タンにクーリエ・ジャポン編集部がインタビューした内容をまとめたもの。

彼女(オードリー・タン)は普段は英語で思考しているんだそうだ。というわけで、このインタビューは英語で行われたようだが、たった1時間のインタビューの内容とは信じられないほど濃厚だ。インタビューは猛烈な速度で進んだという。

オードリー・タンによれば、自由にはネガティブ・フリーダムとポジティブ・フリーダムがあるという。ネガティブ・フリーダムとは個人が何らかの束縛から逃れることで、自由の第一歩なんだそうだ。一方、ポジティブ・フリーダムは、自分だけでなく他の人も自由にしてあげることなんだそうだ。

まさに世界が彼女に期待しているのは、世界中の人間を自由にしてほしいからである。何度でもいうが、このようなビジョンを持っているIT関係者は少ない。IT関係者にはリバタリアンが多くて、個人の自由は最高水準で求めるが、他人に関しては無関心な人が多いのである。単純に自分が良ければそれでいいという考え方が中心だ。

彼女の発想の特徴は、たぶん異質なものを組み合わせることを不可能だとは思わないということではないだろうか。

たとえば、彼女は自分の政治的な信条を「保守的アナキズム」と説明する。普通は保守(昔からある制度や伝統を尊重すること)とアナキズム無政府主義)は両立しない。しかし彼女の中ではそれは両立し、自然なのである。

彼女によれば、保守主義とはどれかひとつの伝統を守り、押し付けることではない。彼女の場合はすべての伝統を尊重することなのである。つまり保守主義という言葉は、究極的な多様性の尊重を意味している。このような多様性を確保した上で、共通の価値観を見つけることが保守主義なんだそうだ。

そしてアナキズムとは国家の権力を最小限にすることだが、これは国家がその権威で人々になにかを押し付けないことを意味するという。

つまり彼女の中では、保守的アナキズムとは、多様性が確保され、かつその安全が確保されている世界なのだ。

そうした世界でどのように政策を進めていくかというと、とりあえず大まかな合意さえ得ることができれば、先に進めていくことができるのだという。もちろん問題があればすぐに修正し、すべては透明で説明がなされる必要がある。こうして政策はジグザグに進んでいくという。ジグザグならば、ヨットのように風上に向かって進んでいけるというのだ。

そして、ITやAIの技術は、こうしたことを実現するためにある。すでに政治家よりもインターネット上のハッシュタグの方が影響力が大きい。だから、政治はそれだけスピードが必要だという。そしてそこには透明性、アカウンタビリティを兼ね備えていなければいけないという。

台湾のコロナ対策を見れば、ITをうまく使えば、いかに効果的かということがわかるだろう。

政治的に厳しい国家や社会もあるけれど、香港の人々の「水になれ」という言葉に共感を感じるという。この言葉は、誰でも一人ひとりがリーダーになりうるということを示しているという。ちなみにこれは道教のことばだ。

この本ではしばしば、道教の発想が顔をだす。

道教とは、権威を中心とした社会を唱える儒教に対抗する思想とも言える。そういうわけで、道教は、オードリー・タンの中ではアナキズムと同じ意味を持つ。つまり、多様性を肯定し、権威を押し付けない考え方である。

いろんな意味でマイノリティである彼女が、こういう世界を目指すのは納得できることである。

多様性を確保しつつ、実行のスピードをあげるには、知恵が必要だ。まちがいなく、AIはそういう人々を支援するためにあるべきだと言えるだろう。まあ、いまのAIではなんとも心もとないのではあるが。

★★★★☆

アメリカ経済政策入門 建国から現在まで

ティーヴン・S・コーエン J・ブラッドフォード・デロング 訳・上原裕美子 みすず書房 2017.3.1
読書日:2025.7.2

アメリカは建国以来、政府が実利的な方針で経済を再設計し、産業を保護して、それに乗った市民が大きくそれを広げることで成長してきたが、1980年代の再設計ではアメリカ史上はじめてイデオロギーで再設計をし、その結果伸びたのは金融業だけでまったくアメリカのためになっておらず、アメリカは実利的な視点に戻って経済を再設計しなくてはいけないと主張する本。

アメリカが実際にはけっこう保護主義的だというのは気がついていたが、建国以来、ここまで意図的に自国経済を成長させるための経済政策をとってきたというのは、ちょっと驚きだった。アメリカが小さい政府と自由主義的な経済の国であるというのは幻想である。

それどころか、日本をはじめとする東アジア各国の成長は、このアメリカの政策に習ったものだというのである。

こういう政策をアメリカに定着させた張本人は建国の父のひとりアレグザンダー・ハミルトンで、建国当時の初代財務長官である。(なお、ハミルトンの生涯に関しては大ヒットミュージカル『ハミルトン』に詳しい)。

建国当時、アメリカは農業国であり、特にイギリスから期待されていたのは綿の供給だった。ハミルトンは、このままではイギリスから経済的に自立できないとして、製造業を育てる政策を打ち出す。ハミルトン・システムと著者たちが呼ぶもので、次のようなものだ。

・高率関税で国内企業を保護
・関税収入を使ったインフラへの大きな支出で国内企業を支援
・州の負債の連邦政府の肩代わり
・ひとつの中央銀行

当時、ハミルトンがかけた関税率は25%だった。(くしくも現代のトランプ関税と同程度)。当時は輸送料自体が高く、関税と同じような効果を果たしていたので、現代なら50%以上の効果があったんじゃないだろうか。実際、19世紀に入って輸送費用が下がってくると、それに応じて関税率も上がっていき、最大で50%にまで達した。

当時も、小さな政府、自由経済が良いと考えていた人たちがいた。彼らが権力を握ったこともあった(ジェファーソンやジャクソン大統領など)。しかし、このハミルトン・システムは、めちゃ効果があり、このシステムに対する支持は高かったので、いちどこのシステムが確立すると、彼らがそれを覆すことはなかったのである。

こうした政府の強力な支援のなかで、アメリカ独自のイノベーションが起こり(非熟練工でも大量生産可能なアメリカン生産システムなど)、アメリカは強力な工業国家として頭角を表したのである。

アメリカが関税率を引き下げたのは、第2次世界大戦後のことで、このときにはアメリカの経済があまりに強力だったので、外国経済の心配をしなくても良くなったからである。

しかしそれでも、政府が青写真を描いて、資金を提供し、民間企業にリスクの高い事業に対して挑戦させるという伝統は、アイゼンハワーの時代まで続いた。ボーイングなどの旅客機(軍隊用の飛行機をそのまま転用したのだそうだ)、宇宙産業、コンピュータ、インターネットなどはその成果なのである。

これらの政府主導の経済政策は、明確な実利的なビジョンのもとで行われた。しかし、1980年代のレーガン時代に、実利的でない、イデオロギー的な経済政策が初めて出現したという。いうまでもなく、新自由主義革命である。規制を緩和し、政府の役割を小さくしたほうが良いという思想のもとに作られた経済政策である。

これも悪くはない成果もあった。たとえば航空産業の自由化で、飛行機代が安くなり、多くの人が旅行に行くようになった。しかし、金融の自由化だけは失敗だったと、著者らは言うのである。

1950年代ではGDPの3%ほどしかなかった金融業が、いまでは8%を超えている。そして増えた分は、単に金融商品が行ったり来たりしている量が増えただけで、実質的になにも新しいものは生み出していないというのだ。そればかりか、金融は非常に不安定になり、何年かおきに国民の税金で救済をしなくてはいけないような状況になっている。このような金融業による成長はやめて、かつての実利的な発想の経済政策に戻るべきだと著者らは主張している。

さて、この本の原著が出版されたのは2016年で、トランプが1回目の大統領に就任した年である。その後、トランプは関税を武器に、アメリカに製造業を取り戻そうとしていることはご承知のとおりである。

はたしてトランプの試みはうまく行くのだろうか。

最近読んだ本では、地政学者のゼイハンが2040年代にアメリカの製造業が大復活すると予想している。

www.hetareyan.com

一方、エマニュエル・トッドのように、アメリカの製造業は復活しないと断言している人もいる。エマニュエル・トッドは、アメリカはあまりにもドルを刷って外国から買うのが簡単すぎて、もう元に戻れないだろうというのである。

www.hetareyan.com

どちらが正しいのだろうか。

まあ、たぶん、どちらも半分あたっているのだろう。アメリカの製造業は復活するかもしれないけど、きっと、いまの製造業とは違うような形での復活になるんじゃないかな。

★★★★☆

僕には鳥の言葉がわかる

鈴木俊貴 小学館 2025.1.28
読書日:2025.6.29

子供の頃から生物が好きで、高校生の頃にはお年玉で買った双眼鏡でバードウォッチングにはまり、一生鳥の研究で生きていこうと決心した鈴木さんが、どこにでもいるシジュウカラを使って、世界で初めて人間以外の動物に言葉があり、しかも文法を駆使しているということを卓抜な実験プランで証明するまでを軽いタッチで描いた本。

非常に軽いタッチで書いてありますが、これってノーベル賞級の研究成果じゃないですかね。数年後に彼がノーベル賞生理学・医学賞を取っていても、わしはまったく驚きませんね。しかも、この研究成果が大きな予算を使ったものではなくて、簡単な、しかしよく考えられた実験プランで行われているということに感心します。

これについてはNHKが『ダーウィンが来た』や『サイエンス・ゼロ』なんかで放送していて、大きな反響を呼んだものです。わしは『サイエンス・ゼロ』で見ました。そのときには、ふーんという感じで見ていましたが、しかしこうやってこの本を読むと、この発見の重大さに愕然としました。

たぶん、動物を飼っている人は、人間と動物がそんなに違うという気はしないと思うんですよね。基本的には同じような心と知性をもっていると思える。そして鳴き声を出す動物だと、まるで言葉を話しているような気がするでしょう。だから、きっとそんなに驚きはないと思うんです。さらに、人間以外の動物、例えばチンパンジーとかに手話を教えると、それなりの会話を行っているように見えます。が、しかし、動物が言語を使っていることを科学的に証明するというのは、とてもとても難しい。どんなに語っているように見えても、それは感情を表しているだけだと言われたら反論は難しいです。

シジュウカラの研究をしてずっとシジュウカラを見続けた著者にとっても、シジュウカラが言葉を使っているというのは心の底から信じていたけど、それを反論の余地がなく科学的に証明する方法を発見するのに2年の間もんもんとします。そして、ある日、ふと実験方法を思いつくんですね。

実験方法は次の通り。

シジュウカラはヘビがいると「ジャージャー」という鳴き声をだす。これがヘビを表しているということをなんとか証明したい。ここで、ヘビを見せてみて、「ジャージャー」と鳴いたとしても、それがヘビを表しているという証明にはならない。もしかして単に「危険!」ということを表しているだけかもしれない。

そこで、鈴木さんは、錯覚を使うことを思いつく。

シジュウカラの周りのどこにでもある木の枝にヒモをつけて引っ張り、木に登っていくような動きをさせてみる。鳴き声がなく、木の枝が動いているだけのものをみても、シジュウカラはなんの警戒心も持たない。当たり前である。見るからに単なる枝だからだ。

ところが、「ジャージャー」という鳴き声を聞かせて、木の枝を動かすと、シジュウカラは木の枝に関心を持って、その正体を確認しようとするのだ。これはシジュウカラの頭の中に、ヘビがいる、という先入観があるので、木の枝がヘビに見える、少なくともヘビかもしれないと思っていることを示している。

つまり、この実験は、「ジャージャー」という鳴き声から、シジュウカラが頭の中でヘビを思い浮かべているということを明確に表している。たんなる「危険」という感情ではなく、具体的な名詞を持っているということなのだ。

鈴木さんは、考えられるだけの反論を考え、それを確認する実験を行っている。例えば、木の枝の動きを、ヘビのような縦の動きではなく横の動きをするようにしてみた。もしも、木の枝がヘビのような動きをしていなくてもそれに注意をむけるのなら、「ジャージャー」はヘビを表していないのかもしれない。実験すると、横に動く枝には、まったく関心を示さなかったそうだ。

こうして、シジュウカラには名詞があるということがわかった。

これを論文に発表すると、まだ査読中だというのに、国際会議で査読担当の研究者がわざわざ鈴木さんをさかしだして、自分が査読していると明かした上で、すばらしいと褒めてくれたそうだ。それも、何人も。

さらに、モズなどの猛禽類がいるという意味の「ピーツピ」という鳴き声と、集まれという意味の「ヂヂヂヂ」という鳴き声を続けて「ピーツピ、ヂヂヂヂ」と鳴くと、みんなが集まってきてモズを威嚇するということが起きる。普段は個別に使っている鳴き声を組み合わせると、新しい意味になることを示している。文を作っているのだ。このとき、鳴く順番が重要だということも突き止めた。逆の語順で聞かせると、このような反応は得られなかったのだ。語順が大切ということは、これは文法を持っていることを意味する。

この論文に対して、鋭い反論が来たという。つまり、同じ鳥が鳴いていなくてもそうなるのか、2羽のシジュウカラが偶然に続けて「ピーツピ」と「ヂヂヂヂ」と鳴いても同じ反応をしたら、それは文を作っているとは言えない、というのである。そこで、スピーカーを2つ使って、実験をしてみたところ、同じ反応は得られなかったそうだ。したがって、一羽のシジュウカラが続けて鳴いた場合だけ有効であることが確認できた。

しかし、本当に言語機能を持っているのなら、聞いたことのない新しい言葉にも反応できるはずだ。言語とはそれなりに柔軟なもののはずだからである。しかしシジュウカラがこれまで聞いたことがない新しい言葉とは? 鈴木さんによれば、シジュウカラは2つの言葉を使ったパターンを200種類くらい持っているという。聞いたことのない、新しい組み合わせを見つけるのは難しい。

しかし、ここで鈴木さんは、とんでもない実験方法を思いつくのである。シジュウカラはコガラと混群を作って、協力しあって冬を乗り越える。そして、シジュウカラはコガラの言葉を理解できるのである。それでシジュウカラの「ヂヂヂヂ」に当たるコガラの「ディーディー」を使って、「ピーツピ、ディーディー」という自然には絶対にない言葉をつくる。シジュウカラはこのありえない言語を理解できるはずだと、鈴木さんは考えたのである。それは、わしらがルー大柴のルー語を理解できるのと同じだというのだ。ルー語では、「藪から棒」を「藪からスティック」と言うが、それでも通じてしまう。もしも本当に言語機能を持っているのなら、このシジュウカラ用のルー語も理解できるはず、と考えたのだ。

実験すると、思った通りの反応が得られた。「ピーツピ、ディーディー」というルー語に対して、シジュウカラは「ピーツピ、ヂヂヂヂ」というシジュウカラ語の場合と同じ反応を示したのである。これはシジュウカラに人間と同じような言語機能があることの、決定的な実験である。

鈴木俊貴は、「動物言語学」という新しい研究ジャンルを創り出したのである。やっぱりノーベル賞級じゃない?

この実験は結論をこうして書くだけならすぐに終わってしまうが、実験は何十羽という多くのシジュウカラに対して行うので、大変なのである。しかも1年のうちの特定の時期にしかできない実験もたくさんあるから何年もかかってしまう。しかし、この辺の苦労を鈴木さんは地道にやり遂げてしまう。もちろん、その苦労はユーモラスに語られる。この本にはユーモラスがあふれている。

アリの放浪記」でも思ったが、本当に生物学者の地道さには頭が下がる。もちろん生物学者だけではなくて、すべての科学者がそうである。

ごくわずかな人間だけが、こうした苦労を好き好んで行う。科学者はやっぱり大切にしなくてはいけない。

★★★★★

戦闘妖精・雪風〈改〉

神林長平 早川書房 2002.4.15
読書日:2025.6.27

(ネタバレあり、注意。だけどSFファンでこの作品の概要を知らない人っているの?)

地球は南極に開いた超空間の〈通路〉から、異星体ジャムの攻撃を受けている。地球側はジャムの攻撃を押し返し、通路の向こう側にあるフェアリイ星に基地を作り、FAFフェアリイ空軍)がジャムとの戦闘を繰り広げている。ジャムの正体が不明なため、情報を集める専門の〈特殊戦〉SAFがあり、13機のスーパーシルフが任務についている。SAFの任務は、仲間を見殺しにしてでも絶対に帰還して情報を持ち帰るという非情なものであり、パイロットの深井零は愛機・雪風とともにこの任務を遂行するのだが……。

非常に有名な作品でございますが、わしは読んだことがなく、しかも今回が初・神林長平でした。どうもすみません。

読んで思ったのは、まあ、やっぱり設定の絶妙さですね。SFってどんな設定でもなんとかなるものですが、どうしてそんな?という設定も、相手が謎の異星体ということならすべて解決です。

個人的には、超空間の通路を作るような科学力を持っているジャムが、普通の航空燃料で動作する地球の戦闘機に負けていいんだろうか、という気がしますが、実際になんとかなっているんだ、ということなら仕方ありません。武器もミサイルとか機関砲だし、まあ普通です。(透明な戦闘機を発見するための特殊なセンサというような、なかなかなギミックも出てきますが)。

地球側が戦闘機なのはわかるけど、ジャムの方もそっくりな戦闘機で攻めてくるんですね。ええ? それでいいの? って感じです。そもそもフェアリイ星に地球人が生きていける酸素があって、戦闘機が燃料を燃焼させて飛び回れるような大気を持っているという設定は、まあ普通に考えてありえないでしょう。もしもジャムが本気で地球人に勝とうと考えているのなら、そんな環境の星に通路を接続するなんてありえない。

というか、ジャムはそもそも勝とうと考えていないように見えます。ジャムは地球人のつくる機械に興味津々で、どうもわざわざ地球の戦闘機を模倣して、作り出しているようなんですね。一番最初のエピソードは、地球の戦闘機シルフィードにそっくりな戦闘機が出現するという話です。

一方で、ジャムはまったく人間には興味を示さない、というか、最初は人間の存在に気が付きもしなかったようです。最後の方にやっと人間に興味を持ち出したらしく、模倣人間のようなものが出てくるんですが、これがけっこうずさんなもので、簡単に偽物だとバレてしまうような出来で、しかも化学結合の右手系と左手系を間違えるというずさんさ(笑)。

なので、どうもジャムは機械のようなんですね。だからやっぱり機械に最初は注意が行ってしまうらしい。知性ある機械というわけです。戦闘機とかの機械に対する模倣の素晴らしさをみれば、ジャムはまるでスタニスワフ・レムソラリスの機械バージョンのようです。ソラリスの海のように模倣戦闘機を繰り出して、相手の戦闘機の反応を見ているのかしら。もちろん、ソラリスの模倣人間が殺されてしまうように、ジャムの戦闘機も相手にされず撃墜されてしまったりするのですが。

雪風には学習機能が備えられていて、人間のパイロットの操縦を学習して、最後には人間には耐えられないGを発生させるような動きをするようになって、人間は乗っているだけで邪魔という存在になります。

パイロットの深井零は他の人間とはコミュニケーションができず、愛機・雪風だけが心の通じあえる友とも恋人ともいえる存在だったのに、あっさり雪風に捨てられてしまいます。このへんの感情の機微がこの作品のキモなのかもしれませんが、個人的にはいまいちでした。なにしろ、AIが人間よりも賢くなって人間が捨てられる話は山のようにあるので。

しかしですねえ、最後に深井零をすてた雪風が偉そうに帰還するのですが、雪風ってぜんぜん偉くないですね。だって、燃料も整備も人間がいないと、いまのところ何もできないんですもの。人に何もかも面倒を見てもらってるのに、そんなに偉そうにするんじゃないよ、という気がしました。

戦闘機に人間が必要なのか、人間とはなにかというテーマとか、機械の知能がどうとかいうテーマも絡んでいますが、まあ、別に人間なんてそんなに大したものではないという気もしますし、わしはこのテーマにはあんまり興味がわかないなあ。(人間と人間以外の動物と機械を区別して、ことさら人間を特別なもののように考える意味がわからん)。

この作品の愛好家が多いのは、やっぱり、神林長平のメカニックの動作の描写がかっこいいからなんじゃないですかねえ。専門用語がバンバン出てきて、戦闘機の動きはまるで目に見えるようですもの。きっと神林長平は航空機オタク、武器オタク、なんでしょう。

さて、続編を読むべきでしょうか? うーん。

★★★★☆

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