元谷外志雄 APAグループ たぶん2015年に出版
読書日:2025.1.5
APAグループ代表の元谷外志雄が書いた、自分の生い立ち、アパの創業から今後までを語った、たぶん一般の本屋では入手できない本。(いちおう800円と値段がついているから、アパホテルでは購入できるのでは?)
APAに泊まったわけです。たぶん20年ぶりぐらいに。何泊か泊まったのですが、この日は予定がなくて、部屋に置いてあったこの本をバッグに入れて散歩に出たわけです。喫茶店でランチを取りながら読み始めました。そんなに厚い本ではないので、すぐに読みきれると思ったのですが、意外に時間がかかって、おやつも注文してしまいました(笑)。そうして、その日のうちに全部読んだのですが、けっこう面白かったです。
やっぱり、こういうキャラが立っている人は生い立ちからして面白い。
元谷外志雄の父親は石川県の小松で元谷木工製作所という会社を経営していたそうだ。この父親は新聞を熱心に読む人だったそうで、外志雄は一家の大黒柱は新聞を読まなくてはいけないと思っていたという。この父親は外志雄が小学生のときに病気で倒れ、そのとき父親に変わって一家を養わなくてはいけないという覚悟が生まれ、その結果、新聞を読む習慣を身に付けたという。そして、わからない言葉があると「現代用語基礎知識」で調べ、新聞だけでなく東洋経済もずっと読んでいた。つまり元谷外志雄は知識を自分で身につける、独学の人だったわけだ。
この後、元谷家は工場を閉鎖して、敷地を貸し出してその賃貸で生活していくのですが、父親の病気の治療のために資産を売るので徐々に資産が減っていく。そこで、外志雄はいろいろなバイトや「事業」に手を出して家計を支えようとしたんだそうだ。銅線が結構いいお金になったので、工事している現場で端っこの電線を集めたりしていたという。
ビジネスの才覚があったのか、末広競技場の近くに引っ越したときに、競技場に自転車置き場がないことに目を付けて、家の前の道路に有料の自転車置き場を設けて自転車を預かる事業をはじめた。人気競技のあるときには、1日三千円稼いだという。これは当時のサラリーマンの給与の一ヶ月分だったそうだから、かなりのボロ儲けだ。するとヤクザがやってきてショバ代を払えと言ってきたが、他人に迷惑をかけていないし、祭りの出店でもない、と支払いを拒否、睨み合って一歩も引かないでいると、そのうち相手は諦めたという。
なんだか子供のころからガンガン稼いでいるようにも見えるけれど、高校には奨学金を利用して進学している。やっぱり貧乏なのかと思うと、初めての家は20歳のときに建てたという。こういう感じだから、高校へ行くくらいのお金がなかったとはとても思えない。たぶん奨学金を使ったのは、父親が病気で使えたからだ。きっと使える有利な制度は全部使うという主義なのだろう。こういうふうに制度を上手に使う方法は、この頃から徹底していたわけだ。ズルはしないが、勝てる地点を見つけるのは昔からうまかったようだ。
高校時代は、いまでは信じられないことだが、左派の学生運動に共感していたそうだ。医療を無料にするという社会主義的な理想に燃えていたらしい。父親の病気で苦労したからだそうだ。大学に行っていたら絶対に学生運動をやっていただろうという。へー。
高校を卒業すると、金融を勉強するために小松信用金庫に就職する。そして驚いたことに、慶應義塾大学の経済学部通信教育部にも入って経済の勉強もしている。このことは誰にも話さなかったそうだが、これはすごいと思った。仕事が終わった夜に勉強していた。そうしながら、起業の機会をうかがっていた。
そのうちに、父親が参入したがっていた不動産業に進むことを決める。子供のころから元谷家は人に不動産を貸して暮らしてきたという経験もあったので、なじみもあった。しかし、事業を起こすにも、当時の金利は8%程度と高くて、まともに資金を借りていたのでは事業はうまくいかないだろうと考えた。と、ここで元谷青年は、驚くべき行動に出るのである。
なんと入社後たった2年で労働組合の書記長に就任するのである。信用組合の従業員はほとんど女性なので、女性の人気を掴んで書記長になったのだそうだ。(つまり元谷氏はたいへんモテたらしい。ちなみにこのころアパ社長になる芙美子と出会っている。芙美子は福井信用金庫の行員で、労働組合の会合で知り合ったらしい)。
そして書記長になると、団体交渉をして、福利厚生の一環として、従業員は給与の60ヶ月分を金利2%で借りられるとしたのである。もちろん、真っ先にこの制度を使ったのは元谷青年で、60ヶ月分の借りたお金で土地を買ったのだそうだ。当時は、土地がバク上がり中で、1年後に土地の半分を売ると、返済完了したんだそうだ。こうした組合の低金利を使った不動産売買で、資産を増やしたのだという。そんなふうに労働組合を使って、自分に都合のいい制度を作ってしまうのだから、びっくりである。
そして、信用金庫の経営陣にも、サラリーマンが使用可能な長期ローンの仕組みを提案する。これは自分が独立したときにこの仕組みでサラリーマンに家を買わせるために作ったもので、はじめから勝てる環境を整えているのである。
ちょうどその頃、大蔵省が信用金庫を合併させて大きくしようという話が進んでいた。小松信用金庫も別の2つの信用金庫と合併することになったが、労働組合があるのは小松信用金庫だけだった。なので、キャスティングボードは小松信用金庫が握っていた。
ここで、また、元谷青年は驚くべき交渉をするのである。
リストラをしないこと、現行の労働条件と福利厚生を準拠すること、というのはまだ分かる。が、ここに自分が独立したときの好条件を付け加えるのである。つまり、自分の会社に「信金」の名前を付けることの許可、そして自分の会社の株式の4割を信用金庫が保有して(ということは出資させたということ)、将来、株を本谷氏が額面価格で買い戻すことができるという条件である。額面価格とは驚きである。つまり会社がたとえ大きく成長して株の評価額が上がっていたとしても、それ以上支払わなくてもいいように、限度を設定したということである。
しかも、会社は、信用金庫の空いている部屋で設立したのである。その名前は「信金開発」(笑)。しかも、それでも足りないとばかりに、信金の副理事長に名目上の取締役会長に就任してもらうという念の入れようである。(これは自分の嫁をアパホテル社長にして前面に出して、自分は後ろに隠れていることとちょっと似ている)。
こうして信用金庫の信用を最大限使って、しかも、サラリーマン向けの有利な長期ローンという他の不動産会社にはない武器を持って不動産業界に参入したのである。初めから勝てる環境を作っているんだから儲からないはずはないのである。
はじめは注文住宅で、次に建売でガンガン儲けて、最初のうちは税金をたくさん払って、まずは世間の信用を作ったという。
笑ったのは、建売時代に、資金の関係で建築許可が降りないうちに家を作り始めたら、県から工事中止の赤紙が貼られたという話だ。すると元谷氏は、「風の吹く日もあるだろう」と赤紙を剥がして(つまり風で飛んでいったことにして)、工事を続行させたという。これには爆笑してしまった。そんなことってある(笑)?
しかし当時の法人の税金は60%もあったそうで、こんなに払っていたのではとても利益は残らない。なので、税金を払わなくてすむように、この利益を投資に回したのである。まずはマンションだったが、そのうちにホテルに目を付けた。なぜなら、ホテルは調度品も全部投資しなくてはいけないから、投資額がとても大きくなるからちょうどいいからだそうだ。そして、建築完成後は減価償却が続く間、税金を減らすことができる。減価償却がすむとあとはそのまま利益になる。利益が出るようになったら、また投資をしてどんどん増やしていけばいい。税金をなるべく払わずに拡大させていくスキームを作ったわけだ。
ホテル事業は全社員から反対されたといい、さらには当時つきあっていた金融からも反対された。でも元谷氏は、従来の金融機関をすべて切って、新しいところから融資を受けて事業を開始している。
本谷氏の慧眼は、ビジネス客に的をしぼったことだ。けっして宴会などの浮利を追わずに、フローで稼ぐことに徹したのである。
このあとのアパの躍進は皆のよく知られているところだから、これ以上は述べないけれども、最初から勝てる環境を作ってから勝負していることはずっと一貫している。
最初の頃は一部の社員が会社を乗っ取ろうとして反乱が起きたので、首にしたことがあったけれど、それ以外は一度もリストラをしたことがないという。赤字にも一度もなったこともないそうだ。
「APA」というブランドはJAPANの真ん中からとったのだと思っていたが、最初はそういう意味ではなかったそうだ。覚えやすいように、「あ」または「A」からはじまるような、そして環境に配慮したネーミングを発注した中から、選んだものだという。ところが、これを発表するときに長男の元谷拓(現CEO、当時大学生)が、JAPANの真ん中からとったと発表したんだそうだ。なるほど、長男の元谷拓もなかなかの才覚だ。英才教育のたまものでしょうか。
というわけで、なかなか興味深い内容なので、みなさんもAPAに泊まった際は、この本を手にとってみられては?
★★★★☆