ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

漂流者の生き方

五木寛之 姜尚中(カンサンジュン) 東京書籍 2020.8.31
読書日:2021.7.19

故郷から離されデラシネ(根無し草)である五木寛之姜尚中が、漂流者として生きるということはどういうことか、ということを話し合う対談。

五木寛之はずっとデラシネのことを書き続けていている。彼は朝鮮で育って戦後に日本に戻ってきた引揚者である。一方、姜尚中在日朝鮮人である。二人ともデラシネなわけだ。

わしはデラシネにはまったく関心がない。わしは故郷を離れて生活していて、葬式ぐらいしか帰らないから、ある意味デラシネ状態かもしれないが、そのことを悔いたことはない。なので、なぜこんなにデラシネであることを二人が熱く語るのか、さっぱりわからない。どこで生まれてどこで死んでもいいじゃないか、という気持ちだ。まあ、帰ろうとしても帰れないのがデラシネだから、わしは正確にはデラシネではないんだが。

五木寛之は日本に帰ってきて九州、筑豊あたりに暮らしていたわけで、そこで炭田の仕事がなくなってから、人々はどうしたかということが書いてる。閉山のあと、彼らは世界中の炭鉱に散っていったのだそうだ。ドイツとかブラジルとか。わざわざそうした人たちを訪ねて、寂しくないですか、筑豊が懐かしくないですか、と尋ねても、べつにー、という回答が帰ってきて拍子抜けしている。炭鉱があればそこが故郷ばい、といってあっけらかんとしている。

シベリア抑留のことも調べていて、日本に帰りたいと思っていたひとたちばかりではなく、ここにいたいと思って現地に残った人も多数いたという。

二人が言うのは、漂流していく一世の人たちはあっけらかんとして世界中を移動して、その地に根をおろしていくのに対して、どちらかというと二世の人たちがセンチメンタルな感情を抱いて、自分の故郷を求めるのだということだ。なるほどね。じゃあ、わしは漂流者の一世になるのだから、故郷を懐かしく思わないのも当たり前か。

そういう意味では、姜尚中がいまの若者は移動しない、ずっと地元にいる、というのは確かに気になる。わしは自分の息子には、どこか遠くへ行ってわしが見れなかったものを見てきてほしいと思っているんだが、彼にはなんかそういう憧れはあまりなさそうだ。

五木寛之によればデラシネとしていくということは宙ぶらりんの状態でいくるということだそうだ。でもねえ、人間ってだれもが宙ぶらりんなんじゃないの?

すべての人は漂流者。それだけの話だよね。

★★★☆☆

 

世紀の大博打 仮想通貨に賭けた怪人たち

ベン・メズリック 訳・上野元美 文藝春秋 2020.7.30
読書日:2021.7.18

フェイスブックを扱った映画ソーシャルネットワークですっかり悪役にされた双子のウィンクルボス兄弟が、再起を賭けてビットコインで勝負で出る実話。

映画のソーシャルネットワークは見たことがあって、この映画を見る限りタイラーとキャメロンのウィンクルボス兄弟は、天才ザッカーバーグにイチャモンを付けて大金をせしめた悪役で嫌なヤツにしか見えない。

でもこの本を読むと、ザッカーバーグは明らかにウィンクルボス兄弟のアイディアを盗んで、しかも兄弟をアホ扱いしているし、フェイスブックに超個人的な情報を書き込むユーザのこともバカにするような嫌なヤツになっていて、ウィンクルボス兄弟に大金を払うのは妥当に思える。書き方によりこうも印象が変わるのかと驚くほどだ。

一方、ウィンクルボス兄弟は高校から真剣にボートでオリンピックを目指して頑張ってきたスポーツマンで、しかもなにもないところからボートの文化を故郷の町に根付かせてしまうような、生まれついてのベンチャーの気概を持った人間として描かれている。

兄弟の父親も起業家で、パソコンの黎明期にソフト会社を興して成功している。賭けに出て、あやうい状況に陥っても戦うことを止めないというのは家系なのだろう。しかも兄弟はザッカーバーグから1行もコードが書けないとバカにされていたが、ソフト会社の息子なんだから、けっこう詳しいのだ。自分たちでコードを書かなかったのは、オリンピックに向けてボートのほうが大切だったからだろう。

オリンピックの夢が破れたあと、兄弟は投資家として成功しようと奮闘するが、兄弟はシリコンバレーでひどい目に合わされる。なにしろザッカーバーグの怒りを買うことを恐れて、誰も兄弟から出資を受けようとしない。

こういう状況をメズリックはとても印象的な筆致で表現する。兄弟があるスタートアップに出資をしようとシリコンバレーのレストランでCEOと会うが、この若き起業家はお金が本当になくて困っているような状況なのに、店で兄弟からの出資を断ったあと、ポケットからくしゃくしゃの20ドル札をだしてテーブルに落した、というのだ。なけなしのお金であってもビール代すら兄弟からもらいたくないという感じがよく出ている。

こういうふうに、メズリックの筆致はまるでその場にいて見てきたような表現の連続だ。お前その場にいたわけじゃなかろうによくこんなこと書けるな、といいたくなるような表現なのだ。完全に自分の頭の中で過去を再構成して表現している。これは基本的に小説家の技法で、すべての登場人物の内面にまで入りこんで表現している。こんなふうに見たように内面まで決めつけられて、登場人物の人たちの中には怒る人がいないんだろうか、と心配してしまった。

まあ、その後の展開をかいつまんで話すと、シリコンバレーに失望した兄弟は、シリコンバレーでもまったく手つかずの投資先を探すことになり、大西洋のリゾート、イビサ島ビットコインのことを知る。「世界最古のソーシャルネットワーク(=通貨)だ」といわれて興味を持つんですが、本当にこういう表現だったんですかね。創作なのでは。

そのころビットコインは誕生したばかりで、関心を持つのは政府の規制を何でも嫌うリバタリアンばかりという状況だったのですが、ビットコインのことを調べた兄弟はその将来を確信し、ビットコインの取引を仲介するビットインスタントに投資するとともに、自らもビットコインを購入、発行されているビットコインの1%を手に入れる。そしてビットコインの伝道師になる。

ビットインスタントはチャーリー・シュレムという内気なシリア系ユダヤ人の若者がCEOなんですが、あとで面倒を起こすだろうなあとわかる表現で書かれていて、本当にそのまま一時の成功に浮かれて転落する役を演じる。結論をいえば、チャーリーはビットコインを使ったマネーロンダリングを放置したという罪で逮捕され、ビットインスタントは破産してしまうので、兄弟の投資は失敗したわけです。

ビットインスタントは潰れますが、御存知の通り、ビットコイン自体はおおむね順調に上がり続けて、兄弟は世界初のビットコインによるビリオネラになります。また、仮想通貨取引所ジェミニ(双子)を開設して、こちらも成功。ほかにもイーサリアムなどの他の暗号通貨にも投資して資産を拡大しているようです。

じつは話の展開が簡単に読めるので、内容としてはけっこう単調ですが、メズリックの臨場感たっぷりの筆致のうまさのおかげで結構読めます。これが600ページぐらいあったらうんざりしますが、大きいフォントで300ページぐらいの程よい長さです。

それにしても兄弟のタフさはとてもいいですね。あれだけぼこぼこに嫌われても、しっかり立ち上がるところはいいです。リバタリアンのロジャー・バーもなかなか興味深い人物です。

チャーリーの恋人のコートニーがパーティ会場のウエイトレス出身で、お金だけを目当てに恋人になったのかと思っていたら、チャーリーが転落したあとも彼のもとを去らず、出獄後に一緒になったのは救いでしたね。

それにしても、ビットコインが評判になり始めたあの頃、少しでも買っておけばよかった、と思ってる人はたくさんいるんじゃないでしょうか。わしもそうです。ビットコインの評価の仕方が分からなかったので、手を出しませんでした。でも好奇心を持っていたのなら少しでも買ってみればよかった。そうすれば、もっと早く億り人になれたんじゃないかなあ、と思いますね。今からでも買えばいい? うーん、やっぱり躊躇しますね(笑)。

(なお、いまこの時点ではわしの資産は一億円を割り込んでいますので、億り人ではありません。)

★★★☆☆

 

「外食の裏側」を見抜く プロの全スキル、教えます。

河岸宏和 東洋経済新報社 2014.6.1
読書日:2021.7.11

競争の厳しい外食産業でコスト削減のために行われていることを食品産業を渡り歩いたプロが教え、その見抜き方まで伝授する本。

著者は食品工場でハムを製造する仕事からはじめ、卵の工場、スーパー、コンビニなどを渡り歩いている食品に関するプロだ。この本の前にスーパーに関する本を出したようで、それが評判になって、今回の外食の本を出すことになったようだ。

著者によると、かつては外食というのはハレの行為で値段もそれなりにしたし、ワクワクするようなことだったという。しかしすっかり外食は日常化し、家で作るよりも安く済ませられるくらいで、なんらワクワク感がないという。そして、多少おいしくなくても、この値段だからこんなものかという感じで品質すら期待されていないという。

その一方、外食産業ではコスト削減のために家庭では絶対しないような事が行われており、客はその実態をまったく知らされないまま、それを口にしているという。なぜこんなことがまかり通るかというと、スーパーなどでは食品の内容を表示するJAS法などの規制が厳しく行われておりラベルを見ればある程度中身がわかるのに対して、外食の法律は主に食中毒など衛生面の法律がメインで、提供する食品に関してはなんら規制がなく、どんな材料にどんな処理をしたかを客に知らせる必要がないからだという。

では、そのような嘘つき放題の外食産業でどんなことが行われているのだろうか。

まずハンバーグなどの肉には、混ぜ物のし放題なんだそうだ。リン酸塩を混ぜると、リン酸塩は水を含んで膨らむという。牛肉に豚や鶏の肉を混ぜるのはもちろん、大豆の絞りかすなどの植物性のタンパク質をまぜる。すると色が白っぽくなり肉色にならないので着色料を入れる。味をハンバーグにするためにソースでごまかす。リン酸塩は独特の苦い味がするからわかるという。

ステーキももちろん合成肉で、いろんな部位の肉を集めて、脂肪分を注入する。これは切ってみると、繊維の方向が一方向でないからすぐに分かるという。

チーズもチーズフードという名の偽物を使っていて、それはプロセスチーズ、ナチュラルチーズを溶かして小麦、乳化剤、香料を混ぜたもの。

ご飯もその日のご飯ではなく前の日や二日前のご飯、あるいはパックご飯。

サラダはセントラルキッチンでカットしたものを出すから、数日前にカットしたものになり、レタスの切り口が赤くなるという。(レタスは金属の刃で切るのではなく手でちぎらないといけないのだそうだ)。セントラルキッチンはどうしても作ってから提供するまでに時間がかかるから、作りたてのおいしさを提供するのは難しくなる。

わしの近所はラーメン激戦区だが、あるときスープもチャーシューも全部仕入れたもので商売している店がオープンしました。が、なんと数ヶ月で撤退しました。やはり、自分のところで作っているラーメン店は繁盛しています。やはりセントラルキッチンはともかく、すべてを仕入れで済ませられるほど、今の外食は優しくはないようです。

こういう普通の話だけでなく、7年前の少し古い情報になるが、2014年時点での各大手チェーンの評価も載っているのがすごい。なんのしがらみもないからできるのだろう。どのチェーン店かは明記していないのもあるが、大体はわかる。

このなかですべてを現場で調理している大戸屋の評価がとても高いが、ご存知のように大戸屋は昨年の2020年、コロワイドに買収されてしまった。コロワイドはセントラルキッチンで効率化することを公言しているから、今後質が低下する可能性が大きい。コロワイドはいろいろなチェーンを買収しているが、質が下がって儲けが出ていない店が多いような気がするなあ。(牛角とか、かっぱ寿司とか)。大戸屋の優待を楽しみにしている株主として、わしはとても心配。

意外にすかいらーくバーミヤンの評価が高い。わしの近所のバーミヤンはぜんぜん美味しくなく、ほかに美味しい中華がたくさんあるから、めったに行かない。みんなそう思っているのか、少し前に撤退してしまった。昔からバーミヤンに満足したことがないので、この評価は不思議。でも、同じすかいらーくでもガストは残っているなあ。すかいらーくはもちろん株主。

丸亀製麺とスシローの評価は高いようだ。丸亀製麺はやはり店でうどんを打っているこだわりが奏功しているようだ。わしはじつはうどんが苦手だったのだが、丸亀製麺株主優待で通っているうちに、おいしいと思うようになった。スシローも株主だったが、とても株が上がったので、利確させていただきました。普通の客として時々行ってます。

意外にも、サイゼリア(と思われるイタリアレストランチェーン)の評価が低い。パスタを頼んだらすぐに出てきたので作りおきと断言されていたが、わしの知っている限り、サイゼリアは茹で時間が数分ですむ特殊な形状のパスタを使っていてるはずだ。作り置きじゃないと思う。わしはサイゼリアの生ハムなんかは高く評価しているのでそうとう意外。サイゼリアもいちおう株主。ここは優待はちょっと少ないけどね。

牛丼チェーンでは吉野家が良いという。これもいちおう株主(笑)。わしはなぜか松屋のカレーが好きなので、松屋も株主になってる。いつもカレーギューばかり食べてるけど(笑)。

トンカツでは和幸がいいという。和幸は本当においしいよね。和幸は定期的に、利用してるなあ。和幸は全部店で作ってるんだそうだ。和幸が上場したら速攻で買うだろうね。

しかしこうやって見ると、わしはほぼ株主優待で外食を決めてるなあ。こういうのも、考えものかもしれない。まあ、いくら株主優待でもおいしくないところには行きませんけどね。

個人の店の見分け方も書いてある。

個人の店では、店構えで決めるという。店構えには客を迎え入れて喜ばせようという店側の気概が表れるという。きちんと掃除してないとか、のれんが汚いとかはもちろんだめ。看板が壊れているとか、見えるところにダンボールやビールが積んであるとか、そういう整理整頓ができていない店もだめ。ともかく第一印象が大事だという。

なんか「孤独のグルメ」の五郎さんのように、「なんか来るなあ」っていうものがあるのかもしれないですね。めったに個人商店の店に入らないので、よくわかりませんが。五郎さんが入る前に散々チェックするのもこういうことなんですかね。

中に入ってからのチェックポイントもいろいろ書いてあるけど、でも中に入ったらさすがに注文せずに出るわけにもいかないから、そこで分かっても遅いんじゃないかと思いますけど。

でもまあ、醤油差しの口がふさがっているとか、醤油差しの下に輪っかができているとかというチェックポイントは納得できるなあ。

ともかく汚い店にうまいものはないんだそうです。

ところで、偽肉として大豆系の混ぜもののことがいろいろ書いてありましたけど、そういうまがい物を作る技術蓄積が昨今はやりの大豆ミートを日本企業が素早く開発できた理由でしょうか? わしは最近いろんな会社の大豆ミートを買ってきて、パクパク食べていますが、これはこれとして結構美味しいなあと思っています。

★★★☆☆

 

 

数学に魅せられて、科学を見失う 物理学と「美しさ」の罠

ザビーネ・ホッセンフェルダー 訳・吉田三知世 みすず書房 2021.3.16
読書日:2021.7.14

新しい基本的なデータが発見されない年月が30年以上に及ぶうちに、理論物理学は道を失い、何でもありの状態に陥り、生み出された多数の理論はもっぱらその美しさで正当性を争っているが、その根拠は薄弱で、一部はすでに科学とは言えない状況になっていることを報告する本。

著者は現役の素粒子物理学者で、超弦理論を用いて、新しい高エネルギー粒子の理論的探索とかそんなことをやっているらしい。学者の立場としては終身在職権を得るような安定した立場には程遠く、短期の研究資金を得て、世界中の研究所を回っているような状態だ。多くの有名な研究者にインタビューをしているが、誰も彼女のことを知らないのは明らかだ。

彼女の周りにはそういう人物がたくさんいるようで、この本はそういうある意味「失われた世代」の物理学者が自分や周りの人間を見渡して、いったいおれたち何やってんだか、という思いがこもっているように見える。

いったい理論物理学の世界に何が起きているのだろうか。

20世紀に入って、2つの大きな物理学の進展があった。一般相対性理論量子力学である。特に新しい粒子については量子力学を使って探索が行われたが、量子力学は新しい粒子を予想し、実験家がそれを確認するという幸福な関係が長らく続いた。

この結果、標準模型と呼ばれる理論が1970年代に完成した。標準模型とは、強い相互作用弱い相互作用+電磁気相互作用、ヒッグス機構とCP対称のやぶれ、フェルミ粒子の世代論などを含んだ5つだったか7つだったかの方程式にまとめられたものだ。この標準模型にしたがって、つぎつぎクウォークなどの新しい素粒子が見つかった。

しかし、エネルギーが高い方に行くにしたがって実験が難しくなり、お金がかかるようになり、なかなか新しい粒子を発見できない状況が続く。CERN(セルン、欧州原子核研究機構)がヒッグス粒子を発見したのが2012年で、これでようやく標準模型で予想されていた粒子のすべてが見つかった。

ということは、実験としては標準模型より一歩も進んでいない。理論の方は超対称性を使った超対称性粒子などがたくさん予想されているが、どれもまったく見つかっていないので、なんの検証もできていない。これらは、非常に重たい、つまりエネルギーが高い粒子ということらしい。

一方、一般相対性理論量子力学を統合するという目的で、超弦理論などが発達したが、こちらはパラメータがたくさんありすぎて、何でもありの状況になっている。しかたなく今の物理定数に合うようにパラメータを調整することになるが、これは事実上の「人間原理(人間が存在できるように宇宙はできている)」という自分たちの存在を前提にした調整になっており、一義的な仮定からすべてを説明するという物理の理論の理想とは大きくかけ離れてしまっている。

そういう調整を経たあとでも、有望な理論は200程度存在しているそうで、どれが正しいのかさっぱりわからない。なにしろ検証するためのデータがなにも出ていないのだから。この結果、数学的に正しければすべての世界が存在しているはずだ、という話にすらなっている(多世界宇宙論)。

超弦理論はあやしげであるが、それでも多数の功績をあげていて、理論物理学者の人気を集めている。たとえば、ブラックホールのホーキング放射(ブラックホールの境界で粒子・反粒子の対が発生して、ブラックホールが蒸発する現象)に関する情報の取り扱いについて、矛盾のない説明をつけることができたという。

そういう意味では有望なのではあるが、なにしろホーキング放射ですらまだ実験的に確認されていないことに注意しなくてはいけない。これは仮定の上に仮定を重ねた研究なのだ。(ただホーキング放射は従来理論に新しい仮定を設けずに導き出されているので、その存在を疑っている人はいないようだが。)

量子力学も観測者の存在をシステムに取り込んでいて、人間原理と変わらないあやしさがあるが(観測問題)、量子力学は多数の実験で確認されていて、直感に激しく逆らうものの、正しいことは実証済みだ。

さて、こういうめぼしい実験データがない中で理論家はどのように判断して研究を続けることができるのかというと、まったくそれぞれの物理学者の数学的な美意識、自然さの感覚によることになる。物理学者には正しい理論は美しいはずだとの思い込みがある。だが、この物理学者の感覚がまったく当てにならないことを、著者は繰り返し説明する。

もっとも有名なのは、ケプラーの法則で、ケプラーが惑星の軌道が楕円としたとき、科学者からはいっせいに批判が起きたという。なぜなら楕円は美しくなく、自然は美しい円運動をしているはずだ、と多くの科学者が考えていたからだ。

かように、科学者というのは、こうであるはずだという思い込みの激しい人々で、しかも身内だけとしか付き合わないので、いろいろ認知的な誤りが発生しがちだという。哲学者の知見が役に立ちそうだが、残念ながら科学者は哲学者をバカにしがちなんだそうだ。

こういう欠点がいくつあっても、理論物理学者が有望な予想を出して、それが次々に確認される20世紀のような状況だとしたら、著者もこんなにぼやかないだろう。しかし、いま、理論物理学者はお金があまりかからないコストパフォーマンスのよい実験を予想をすることができない。

つまり若い物理学者にとって、昔のいい時代は経験したことがなく、残った困難な問題は山積みで、それを説明する理論は事欠かないが、それらはまったく検証不可能という、そういう時代に生きているのだ。閉塞感に陥っているといっていいだろう。まるで、バブルの時代を経験してみたかったという閉塞感漂う現代の若者のように。(……なんちゃって。ちょっとありがちな表現を使ってみたかっただけ(笑)。)

とはいうものの、超弦理論家はけっこう就職率がいいという。なぜなら、超弦理論家はコストが安いからで、基本的に紙とペンとコンピュータしかいらないからだ。実験物理学者を雇うとお金がかかりすぎるが、超弦理論家ならかなり安いコストで「最先端の研究者を雇っている」と大学や研究所は言える。そういうわけで、世界には理論家があふれていて、ちょっと変わった実験データが発表されると、それを説明する数百の論文があっという間に発表されるという。

まあ、巨視的な視点で考えれば、こういうふうにある科学分野が停滞する時代もあるということでしょう。こういう時代こそじっくり過去の残された問題を見直すときでしょう。そうしてるうちに新しい発想が現れて、適度なコストで検証できる理論が現れると思います。

もっとも短期の助成金頼みの著者のキャリア形成には間に合わないかもしれませんが。

★★★★☆

「古代日本の官僚」を読んで思い出したこと

古代日本の官僚」を読んで思い出した小ネタを書く。

わしは若い頃、なぜか役所が嫌いで、役人に自分からなりたいと思ったことは一度もないが、大学を卒業する少し前に、国家公務員試験を受けるという人がまわりになぜか多数いたので、じゃあ受けてみるかと受けたことがある。

すると一次試験に通ってしまったので、二次試験も受けることになったが、こちらは落ちた。

単純に試験の結果が悪かったのだと思っていたが、いま考えるとインタビューで落ちたのだと思う。なにしろ、公務員になる気はなかったので、なんともやる気のない感じで、なんのアピールもしなかったのだから、当然である。

面接官は、大学でいろんな経験をしただろう、自分がリーダーシップを取ったこととかあるだろう、などといろいろ聞いてきた。きっとこのままでは落ちるから、親切に助け舟をいろいろ出してくれたのだと思う。

しかしわしは実際に怠惰な大学生だったので、その場では何も思いつかず、「いや、なんにもしなかったですね、えへへへ」みたいな感じで終わったので、面接官ががっかりした顔をしたのを覚えている。

その時はなんとも思わなかったが、いま思い返すと、なにか申し訳なかったなあ、という気がする。仮にも国家公務員試験を受験して、あのやる気のない態度は失礼だったなあ、と。

とまあ、この本を読みながらそんなことを思い出しました。まあ、こういう本でも読まないと、思い出さないような出来事なんですけどね(笑)。

実はその後も国家公務員試験を受けたことがある。

前にも書いたが、わしのいる会社は大変なリストラを行ったときがあって、そのときに任期付きの国家公務員の募集に応募してみたことがあるのだ。こちらはあっさり合格したんだが、妻が任期付き(10年だった)に難色を示して結局転職はしなかった。試験を受けることには反対しなかったから、受かるとは思っていなかったのだろう。

そして転職に反対したくせに、執拗にマンションを購入させるなど、妻はどうもわしの価値観とは相容れない。彼女とは同じ趣味で知り合ったのだが、こうしてみると、趣味以外はことごとく価値観が違っていて、(妻は非常に保守的な発想の持ち主)、普段の生活はともかく、いざというときの選択の仕方が全く違うので困ってしまう。

まあ、しょうがないけど。(ほぼ諦めの境地)。

 

古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々

虎尾達哉 中公新書 2021.3.25
読書日:2021.7.11

日本の官僚は勤勉で長時間労働も厭わない印象があるが、古代の日本ではそうではなかったと立証する本。

日本では律令国家になってからの式部省(いまの人事)の文書が多数残されていて、そこには官人(律令時代の国家公務員のこと)に対して遅刻するなとか、式典をサボるな、とかそういうお達しの文書も多くある。著者はいままでもそういう文書があることは知っていたが、あらためて考えてみると、これはすごいことなのではないかと思い、調べ直してみたという。

すると、サボりが日常化しているだけでなく、それに対する政府の対応も甘々で、ほとんどお咎めらしいお咎めがないことが分かった。いちおう厳しい罰則があるのだが、といっても本場の中国に比べるとまったくゆるい罰則なのだが、実際にはそのようなゆるい罰則にも、実施しようとすると、式部省は厳しすぎると言って反対し、官人たちを守ろうとする。

これは雇われる方と雇う側の両方に問題があるらしい。

古代日本では未開の国にいきなり律令国家を作ろうとしたわけだが、そうすると膨大な数の役人が必要になる。その役人は上級の役人ついては有力な豪族がなったが、実働部隊の下級役人はそれほど有力でない中小の豪族から供給することになる。しかしそもそも豪族なんだから経済的に自立しているわけで、わざわざ役人になる必要はないから、たとえば給料を減らすと言われてもあまりこたえない。

いっぽう政府の方には、ともかく役人の人数を揃えるというニーズがあるので、質よりも量ということになり、律令国家の発足時には、いてくれるだけでありがたい、という感じだったらしい。これでは強く出られないのも当然だ。それどころか役人になることに魅力を感じるようにいろいろ役得を設けることになる。

しかしこうしてみると、当たり前のことだが、国家を作るということは、官僚組織を作るということなんだなあ、とあらためて思う。発展途上国にいくと、役人がルーズだなあ、国がしっかりしていないなあ、と感じることもあると聞くが(わしは発展途上国に観光旅行でリゾート以外に行かないので、ぜんぜんそんなこと感じないが)、官僚組織を整備するというのは、とてもとても大変なことだなあ、と思う。

そしてある程度官僚組織が充実したあとも、サボりは許容されたようだ。それはなぜかというと、各省は全役人がきちんと働いたという前提の予算を請求し、サボった役人にはペナルティを引いた分だけ渡すから、残った予算は各省の予備費になるのだ。このお金がないといろいろ支障が出るので、サボりは許容されたのだという。

しかも、肝心の仕事は面倒くさいものからアウトソースされる傾向を強めていって、例えば罰金の徴収は結局、検非違使(けんぴいし)に外注されたらしい。

面白いのは、仕事はサボっていても、読み書きの練習とかそういうところはひどく真面目にやっていたらしいことだ。きっと実用的な技術だったからでしょう。こういうところも実用性を重んじる日本人を表しているようで面白い。

著者は古代日本が専門だから仕方がないが、ちょっと不満なのは、じゃあ、日本人がいつから勤勉になっていまはどうなのか、という視点がこの本にはないことだ。これに答えるには長期的な歴史の知識が必要になる。

わしの印象では、日本人は歴史上、ずっとさほど勤勉ではなかったと思う。おそらく、江戸時代に入っても武士の皆さんも、お百姓さんも怠惰に暮らしたんじゃないでしょうか。そんなにたくさん仕事をしなくても暮らしていけた印象があります。

明治になって、一瞬、役人のレベルが上がったような気がしますが、それはきっと一つ間違えば国家が植民地になるかもしれないという緊張感があったからでしょう。

そして、いまの日本人は、上から下まで享楽的な本姓を取り戻していると思います。そのせいか国家の生産性はまったく上がっていませんが、多くの日本人はかなり楽しそうに見えます。(一方では貧困層が不気味に拡大していますが)。

肝心な仕事をアウトソースするところでは、最近のコロナ用のアプリがまったく動作していなかった件を思い出しました。

不思議の国・日本の現実はまだまだ続くでしょう。(笑)

★★★☆☆

 以下参考

www.hetareyan.com

www.hetareyan.com

 

会社に人生を振り回されない武器としての労働法

佐々木亮 株式会社KADOKAWA 2021.3.31
読書日 2021.7.6

会社から理不尽な目に合わされても泣き寝入りせずに、法律を武器に戦う方法を教える本。

法律の本はあまり読まないのだが、こういうのを読んでおくのもいいかも、と思って読んでみた。

さて、わしには信じられない話だが、わしの所属している会社で、コロナ禍にテレワークが始まってなにが起こったかというと、夜中まで会社のネットワークにアクセスして仕事をする人が多数出てしまったという事実だ。

夜中の0時ごろに発信されたメールを見て、このひとは夜中に何をやってるんだろうか、とわしは心配になった。さらに土日に発信されたメールも多数ある。いちおう、夜の10時以降アクセス禁止、土日アクセス禁止のルールがある。だが、まったく守られていないので、最近、人事がルールを徹底させることというお達しが出たのだが、こういう人はそのうちにまたアクセスするようになるんじゃないかと思っている。

かように、日本には会社や仕事に依存している人が多く、こういう人が多いと、きっといいように会社から扱われて泣き寝入りをする人が多いんだろうなあ、という気がする。

この本でわしの経験に当てはまるのは、解雇の項だろうか。社員を解雇するのは非常に難しいので、ひとつでも条件に合わない解雇だったら、それは裁判で勝てる可能性が高いという。会社側はいろいろ言ってくるが、もちろんそれに耳を貸す必要はない。

わしの会社はリーマンショックの少し前に傾いて、大量にリストラを実行した。結果、実に社員数は3分の1にまで減ってしまった。わしはほとんど肩たたきに会わなかったが、一度だけそういう目にあった。そのときには、わしは明確に「ノー」と言って、それっきりになった。しかし、それに耐えきれずに多くの仲間が去っていった。この本を読んでいればあのときの仲間たちの多くはもっと頑張ることができたんだろうか。わからない。

妻の会社は外資系で、解雇されたあとも不当解雇だと裁判を起こし、復帰した人が何人もいるんだそうだ。外資系の社員はタフだなあ。まあ、外資系は日本の厳しい労働法に精通していなくて、欧米風に簡単に首にして、裁判に負けるようだが、日本の大手企業の場合はなかなか手強くて、厳しいんじゃないかと思う。

この本は、いろんな立場の人について語っているが、非正規やフリーランスの権利の部分も今後は役に立つかもしれない。いつかは誰もが会社を去るのだ。そうすると非正規やフリーランスとして働く機会が多くなるんだろうなあ、と思う。

もっとも不思議なのは公務員だ。公務員は雇用ではなくて任用なんだそうだ。任用と雇用が何が違うのかよくわからないが、非正規の場合、任用の公務員のほうが雇用の民間より簡単に首になり、厳しいようだ。役所のほうが厳しいってどういうこと? 理解できん。

まあ、こういう本を読んだところで細かいところはすぐに忘れてしまうだろうが、何かあったときに、『まてよ、法律的にどうなんだ』と思いつければ、まあそれでいいんじゃないかな。

労働法もそれなりに変わるみたいだから、詳しく知ったところで、いまの情報がそのときに役に立つとは限らないからね。

★★★☆☆

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