ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

上流思考 「問題が起こる前」に解決する新しい問題解決の思考法

ダン・ヒース 訳・櫻井祐子 ダイヤモンド社 2021.12.14
読書日:2022.5.1

問題が起こってから対応する下流思考ではなく、問題の根本から問題が起こらないように予防する上流思考が社会問題を解決するときに求められると主張する本。

トヨタ生産方式カイゼンでは、なぜを5回繰り返して、不良にかかわる根本の原因を見つけ出すように指導されるそうだ。根本から改善すれば2度とその不良は起きないからだ。

同じように社会問題(例えば貧困問題とか犯罪多発とか)も、その場しのぎの対応ではなく根本から改善しようと主張するのがこの本の趣旨だが、自動車の生産と異なって、解決するのが社会問題だとするとなかなか大変だということはすぐに分かる。

第1にカイゼンの場合、不良を発生させて困るのは製造している会社だから、その会社の経営者や社員にはその不良を解決する強力な動機がある。不良を起こさないようにすれば生産の効率が上がり、利益が増えるのだから。なので、会社がそのような活動を勧めて、社員が一生懸命に行うというのは非常に理解できる。

しかし、社会問題となると、関係者はいろんな組織に分散しているのが普通で、そもそも誰がそれを行うべきなのか分からない。すると、関係者のうち誰かが、この問題を解決しなくてはいけない、と固く使命感を抱かないとそもそも話は進みようがない。このような使命感を持った個人が一定数いないといけないという問題がある。

第2に、製造工程の不良が解決されると、それはお金に換算できてすぐに効果が理解できるが、社会問題だとなにか適切な指標がないと、その活動に効果があったのかどうかよくわからない。最悪の場合、問題が解決されれば問題があったことすら忘れ去られ、誰にも担当者の努力は気が付かれず、逆になにか問題が起きると責任をすべて被ることになる可能性がある。つまり、成功しても褒められず、失敗すれば責められるわけだから、まったく割に合わない、という可能性がある。

しかも、問題によっては解決の成果が現れるのは、自分が死んだあとの何世代もあとの時代だったりする(環境問題とか、植林とか)。成果が感じられないのに、続けるには強い使命感が必要になるが、なかなか難しい話である。

第3にこのように成果がはっきりわからないと、この問題を解決するための資金やさまざまなリソースを手に入れるのが非常に困難になる。お金を出してくれるのは、たいてい地方公共団体とか政府とか個人の寄付になるが、うまくアピールするように宣伝しなくてはいけなくなるから、かなり大変だし、宣伝ばかりしてると肝心の根本の活動が妨げられる可能性すらある。

まあ、こんなふうに考えるときりがなく、始める前からこんなことを考えていては結局何もできないということなのだろう。これはあらゆる起業に通じる問題で、結局、えいやっと始めてしまう人がいなくてはいけないわけだ。

幸いにも、最近は社会起業家の方法論というのもけっこう浸透してきたようでな気がするし、相談できる相手も増えてきているのではないかという気もするし、この本のような参考になる本もでてきているし、社会起業家を目指す人は増えているような気がする。

うーん、こうして歯切れが悪いのは、自分でする気がないからです。すみません。

***メモ***

a.活動を起こすまでに超えなければいけない3つの壁
(1)問題盲:問題が見えなかったり、仕方がないと諦めること。
(2)当事者意識の欠如:それを解決するのは自分じゃない、と思うこと。
(3)トンネリング:小さな問題に追われて視野狭窄を起こし、大きく考えられないこと。

b.実際に活動を始めたら考えるべき7つの質問
(1)「しかるべき人たち」をまとめ上げる:関係する人たちを集めて包囲網を作り、データを学習のために使う(データを取ることを目的としない)。
(2)システムを変えるには?:よくできたシステムにはシステム設計者はいない。ルールや価値観、風潮を変えて、全体で少しずつ勝つ確率を上げていくようにする。
(3)「テコの支点」はどこにある?:問題に寄り添って1件1件見ていくことで、問題を解決するテコの支点を発見する。
(4)問題の「早期警報」を得るには?:警報がなってからの対応できる余裕があるように、誤検知がないようにセンサーを配備し、兆候を捉える。
(5)「成否」を正しく測るには?:「定量的な指標」と「定性的な指標」を組み合わせて、幻の勝利(一見改善したように錯覚すること、数字のみにこだわり目的を忘れること)を排除する。
(6)「害」を及ぼさないためには?:副作用や間違いを知るためのフィードバックを設ける。
(7)誰が「起こっていないこと」のためにお金を払うのか?:ランダム比較試験などで成果を見るようにして、成果連動型プログラムで、お金を出す人に利益を納得させる。

★★★☆☆

 

「物語」とはなにか 「時間は存在しない」を読んで思い出したこと

カルロ・ロヴェッリは、「時間は存在しない」の中で、わしらは自分を感じるのに必要なのは空間でも物質でもなく、「時間」だけであり、わしらという存在は「物語」なのだ、という。

じつは、わしも同じ結論に至っていたので、ちょっと感慨深いものがあった。でも、わしは「時間」について考えたカルロ・ロヴェッリとは逆に、「物語」とはなにか、について考えていたのだった。

今回はこのことについて述べる。

この疑問がふと頭に浮かんだのは、たぶん高校生の頃で、小説やマンガ、映画、アニメなどを見て、空想にふけっているうちにふと疑問が沸いてきたのだ。登場人物たちがドタバタしてひとつの世界をつくり、お話が動いていく。しかし、そもそもこの物語というのはいったいなんなんだろうか?

この問題は、そのころのわしには大きすぎて、どうしていいかも分からないものだった。しかし、問題意識だけはずっと持ち続けて、ときどき心の奥から取り出しては考えていた。

最初は物語のパターンを調べればよいのだ、と思った。

例えば、「恋愛物語(ラブストーリー)」という物語について考えてみよう。よく言われるように、恋愛物語の真ん中にあるのは恋愛自体ではない。恋愛という現象自体は所与のもの、最初から当然あるものとして設定されるのである。なぜ人を好きになるのか、それは説明しなくても分かるでしょ、というわけだ。

結ばれようとする二人がなかなか結ばれない、なので読者や視聴者がいらいらしたりどきどきしたりというところがこの手の物語の中心なのである。つまり、恋愛ものとは恋愛自体をテーマにしているのではなく、二人が結ばれることを阻んでいる「障害」のことをいうのだ。例えば「ロミオとジュリエット」において、二人が敵対的なモンタギュー家とキャピュレット家にそれぞれ属しているように。

すると、恋愛ものの新機軸というのは、二人の関係を阻む障害をいかに新たに設定するかということになる。身分違い、金持ちと貧乏人、近親相姦、同性愛、2次元恋人、三角関係、四角関係、不倫、年齢差、知能差、文化的洗練度の差、人類以外の種、といった具合である。

物語には恋愛ものの他にも、「ヒーロー物(英雄譚)」とか「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」とか「ビルディングスロマン(教養小説)」とか「ミステリー」とか「ホラー」とか「SF」とか「ファンタジー」とかいろいろある。こういう特定の物語ごとにパターンや構造があるのだろう。

それぞれそれなりに興味深いが、しかしいくら考えても、またその手の本を読んでも、そのパターンや構造が「物語とはなにか」について教えてはくれることはなかった。

ではどうすれば「物語はなにか」という問題の核心に迫れるのだろうか?

そこで発想を変えて、問題を「物語を構成するのに最小限必要なものはなにか」というふうに変えてみた。こうすればその最小限必要なものが物語の要素と言えるだろう。

まず登場人物について考えてみた。登場人物(キャラクター)が出てこない物語は可能だろうか?

わしはいろいろ検討してみたが、キャラクターの登場しない物語は作りようがなかった。そうすると登場人物(キャラクター)は必須なのであろう。

なお、物語の登場人物は人間とは限らない。動物かもしれないし、ロボットかもしれない。しかし、それらは必ず擬人化されている。つまり人間として扱われていることに注意しよう。なので、次のように言える。

(1)物語に擬人化を含む人間の登場人物が必須である。

ここで登場人物についてもう少し考えたい。わしらはその物語の世界を味わっているとき、多かれ少なかれ登場人物に感情移入して、その人物に成り代わって、起こる出来事や行動を自分ごととして味わっているのだ。だから、読者、視聴者という立場から言うと、きっとその登場人物は、あるていどは「自分」、つまり「わし(私)」なのだろうと思っている。

次にわしは時間に注目した。なぜならば、物語は単純に言うと出来事を順番に並べたもののように見えるからだ。時間が関係するに違いない。

時間の流れなしに、物語をつくることができないのは当然のことだろう。少なくとも2つの出来事があれば、出来事の順番があり、時間があるはずだから。(なお、ときどき時間が止まった世界が物語に出てくることがあるが、登場人物の主観時間は何ら影響を受けていないので、物語の時間は動いていることに注意しよう。)

しかし、わしは、2つの出来事を表現しなくても、1つの文であっても物語っぽさを感じられる、と思っている。

たとえば、次のような2つの文のどちらが物語っぽいだろうか。
a. 木がある。
b. 木が立っている。

 わしにはbの方が物語っぽく思える。bには「立っている」という表現に時間の経過(幅)が感じられるからだ。

一般には動きを表す動詞があると、時間が感じられるように思える。歩く、走る、投げるなど動きにはなんらかの時間経過が必要だからだろう。そして時間の流れが感じられると、物語っぽくなるように、わしには感じられるのだ。

この理由として、ある時間の幅が感じられると、どうしてもその前後のことまで考えてしまうからではないか、という気がしている。例えば「歩く」という動作の表現があれば、歩き出す瞬間や歩き出す前の状態があることを示唆している。つまり、ある幅の時間があるということは、それ以外の時間もあるということだ。

以上から、わしは時間が必須であると考えた。

(2)物語を構成するには時間が必須である。

この時間というのは絶対的な時間のことではない。順番、配列のことだ。出来事が起きる順番が大切なのだ。

では、場所や空間の情報はどうだろうか。

「物語世界」という言葉がある。物語が展開している空間や設定のことをいうが、これは必須なのだろうか?

お芝居の中には、なんらセットもなく服装にもなんのヒントもないままに、人々が登場して話だけをするという物がたくさんある。お笑い芸人のコントなんかもほとんど小道具もなく、お互いの役割と流れだけがあることも多いだろう。

設定はあるだろうが、(たとえ同じ物語でも)設定はいかようにも変更可能で、それが日常の家の中であっても、宇宙空間であっても、広くても狭くても、なにもないどこか、どこでもないどこかであっても、物語は成立してしまう。

こう考えると、空間は必須ではないだろう。物語において空間とは、登場人物の動きの行われる範囲(=動き✕時間)ということであり、時間に付随していると考えたほうがいい。実際、物語世界は登場人物の動きとともに徐々に明らかになっていくものだろう。

つまり物語において必須なのは、登場人物(キャラクター=本質的には自分、私)と時間の流れだけである、とわしは結論したのである。

以上を簡単にいうと、物語とは
「ある人物(=私)が時間の流れの中で経験する出来事や行動のこと」
である。

えっ? これってものすごくあたり前のことなのでは……と思った人は正解である。当たり前のことを、回りくどく確認しただけとも言える。

ついでなので、もう少し付き合ってほしい。因果関係について、である。

わしらは2つの出来事があると、それらの2つの間には何らかの関係がある、と推測するようにできているらしい。

c. 風が吹いた。枝が鳴った。

こう聞かされると、ふつうは風が枝を震わせて枝が鳴ったのだろう、とわしらは推測する。これを因果関係という。物語の最小単位は1つの因果関係である、という人がいるが、たぶんそれは正しいのだろう。

この因果関係は、単なる思い込みでオーケーであり、科学的に正しいとか、真実かというのとは関係ない。

d. 見知らぬ旅人が何かをつぶやいていた。数日後に子供が亡くなった。

このとき、旅人がつぶやいたことと、子供が亡くなったことを結びつけて関係があるかのように推測することは可能である。例えば、旅人がなにかよからぬ呪文を唱えたのだ、とか。

わしらの推測する因果関係は基本的に科学的でも論理的でもない。しかし中には正しいと皆に納得させることができるもの、再現性があるものなどがあるだろう。きっとそういうものがしだいに論理とか科学とか呼ばれるようになったのだろう。

つまり、すべての論理的思考も科学も、物語形式の思考から発生した、とわしは思う。

というか、わしらはこういう思考方法しかできないのではないだろうか。わしらは出来事を物語として記憶し、物語として考え、物語として再現する。これは脳がそういうシステムになっているとしか考えられない。記憶に関して言えば、エピソード記憶術(なにか物語にして記憶する技術)というものもあるくらいだし、物語の威力は圧倒的だ。

21世紀になっていろんな脳科学の本が出たが、わしにはほぼ違和感がなく受容できた。わしが「物語とはなにか」という問題を考えた結果と、さほど違わないからである。たぶん、これがこのへんてこな問題をわざわざ考えたことに対するご褒美なのだろう。

わしらはすべてを物語として思考する。これが今のところのわしの結論である。

 

時間は存在しない

カルロ・ロヴェッリ 訳・富永星 NHK出版 2019.8.30
読書日:2022.4.26

イタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリが、時間は存在しないというループ量子重力理論の結論を報告する衝撃の書。

読んでいると、頭がくらくらしてきた。ロヴェッリの描く時間の世界はわしの常識を遥かに越えるものだったからだ。

物理学の方程式に出てくる時間には進む方向がない。だから計算は未来にも過去にも進めることができる。しかし、現実の世界では時間は一方向に進んでいるように見える。この理由として、熱力学の第2法則があげられるのが普通である。つまり時間はエントロピー(乱雑さの状態を示す数値)が増大する方向にしか進まないと。(こちら参照)

たとえば、コップに入った水が蒸発してなくなってしまうと、コップの中に再び集まることはないし、コップがテーブルから落ちて割れてしまうと、自然にくっついてもとに戻ることはない。水が蒸発して散ってしまうことも、コップが割れることも、エントロピーが増大する方向だからだ。こうして時間の進む方向は決定され、時間は過去から未来に進む方向しかありえない。

これが物理学の常識であり、わしもこれは正しいと信じていた。ところが、ロヴェッリはいとも簡単に、この確信をぐらつかせるのである。

トランプのカードを用意する。カードは黒(クラブとスペード)と赤(ハートとダイヤ)にくっきりと分けておく。秩序があるのでエントロピーが低い状態である。その状態から何回かカードをシャッフルする。すると、配列が変化し、黒と赤のカードが混じり合うだろう。この混じり合った分だけ、つまり配列が変わった分だけ、乱雑さが増し、エントロピーが増大したということになる。

次に、カードが乱雑に混じり合った状態にしておく。エントロピーが高い状態である。そしてカードが並んでいる順番をすべて記録しておく。この状態からカードを先ほどと同じように何回かシャッフルして、カードの配列がどのように変わったかを確認する。すると配列の変化は黒と赤がくっきり分けられていた場合とさほど変わらないだろう。しかし、乱雑さはエントロピーは高いままだろう。

前者はシャッフルにより秩序が乱れたように見え、後者は乱雑なままのように見える。したがって、シャッフルする前後の状態を見れば、前者はどちらが先でどちらが後か判断できるだろうが、後者ではできないだろう。つまり前者では時間があるように感じ、後者では時間が感じられない。ところが、実際にカードの配列の変化を1枚1枚細かく見ていくと、シャッフル前と後の変化の仕方は同じであり、前者と後者の区別ができない。

このことは何を表しているのだろうか?

時間が感じられるのは、全体を大まかに見て(巨視的に見て)秩序が感じられ、それが乱れたと感じられる場合である。ロヴェッリの言い方では、まるで近視のように全体をぼやけてみた場合だ。ぼやけが時間を生む、とロヴェッリは言う。一方、カード1枚1枚というふうに細部に分け入ってみると、秩序がある場合とない場合の区別がつかず、違いは感じられないから、時間が消えてしまう。つまり見方によって時間が表れたり消えたりする、ということになる。

このこと自体が衝撃的だが、ここでカードでできた宇宙というものを考えてみよう。

あちこちに52枚のカードの組が配られて宇宙が構成されている。それぞれの場所でカードの並び方はランダムである。すると、ほとんどの場所では無秩序の並びになっているだろう。しかし、あるところでは、例えば黒と赤のカードがはっきり分かれていたり、偶数と奇数のカードが分かれていたり、数字がきちんと並んでいる、などのように秩序が感じられる部分もあるだろう。

こうしたぼやけた目で見て秩序のあるところではエントロピーが低く、秩序がだんだんと乱れていくのが分かるから、時間が感じられるだろう。しかし、宇宙のほとんどのところでは、最初から秩序が感じられないから、時間がないだろう。

このことは宇宙のほとんどのところでは時間がなく、ごく一部の特殊な部分でのみに時間が存在することを示唆している。

時間があるところとないところでは、細部を見るとまったく同じで、区別がつかないことに注意してほしい。構成要素のカード自体は同じなのに、その並び方、配列だけが異なるのだ。

すると、この宇宙には基本的に時間が存在しない、ということになる。そんなことがあるのだろうか。

それがあるのだ。量子力学一般相対性理論を結びつけた量子重力の基本方程式、ホイーラー=ドウィット方程式(1967年)には時間が含まれていないという。その意味については長い議論が繰り返されてきたが、そもそも宇宙には基本的に時間がない、という結論に落ち着きそうだ。

宇宙には基本的に時間がない。宇宙のごく一部にエントロピーが低い部分があり、その部分に時間が発生した。それがわしらが今いる宇宙なのだという。わしらがいまいる宇宙、それはビッグバンのエントロピーの低いところから一貫して拡大しエントロピーが増大し続けている宇宙だが、もっと広い宇宙のかなり特殊な部分集合でしかない、というのがループ量子重力理論の結論なのだ。(ループというのは、重力がループ状をしているかららしい)。

時間がない世界とはどのような世界なのだろうか。

時間がないという状態を考えると、なにか動きのない静的な世界のような気がする。しかしそうではない。ロヴェッリによると、素粒子、光子、重力量子などが粒状の量子状態になって、ネットワークを作っている。こうしたネットワークが空間を形成しており、お互いにある確率で相互作用している。

しかしこれらの量子状態の粒子には、存在している、という表現はふさわしくない。なぜなら、存在している、つまり「ある」という状態は時間に関係しているからだ。時間がない世界では、これらは存在しているというより、ただお互いに作用し、作用したときそれぞれの粒子が現象として、出来事としてたち現れるだけなのだという。(時間のない世界を表現する時制が人間の言葉にないため、どうしてもまるで時間があるかのような表現になってしまうが)。

そもそも、時間があったとしても、何かが「ある」という表現では、何も説明していないのだそうだ。対象が何かを説明するには、その対象とその周りにあるものの関係でしか説明できない。例えば、「あなた」を説明するには、あなたが何が好きで、どんなふうに家族や友人たちを関係を取り結んでいて、どんなふうに職を得て生活費をえているとか、そんなあなたと周りとの関係を示す以外に表現のしようがしようがない。あなたという存在はあなたという物質ではなく、あなたに起こる出来事でしか説明できない。つまり「ある」ではなく、「なる」や「起こる」という表現で説明するものだ。

おなじように、時間のない世界では、周りとの関係のネットワークがあるだけだ。だが、それらは相互作用しており、なにもない静的なイメージとも異なる、なにかそういう状態としか言いようがない世界である。

ではこのような宇宙の一部にエントロピーの低い部分集合としての宇宙があったとして、そこにどのように時間が発生するのだろうか。じつはこの先は、十分に練られているとはいい難い部分で、著者のイメージや予想で語られているところが多い。しかし、十分説得力があるように思える。

量子力学の変数、量子変数(普通、演算子と言ってるものと同じだろう)には作用を及ぼす順序を変えると計算結果が異なるという性質がある。非可換性という性質だが、要するに計算結果は順序に依存するということである。逆に言うと、結果から作用した順序が分かるということであり、順序が分かるということはこれが時間と関係するだろうと推測ができる。アラン・コンヌは、これが「非可換フォン・ノイマン環」という数学的な構造を有して、コンヌ・フローという流れが内在することを示した、のだそうだ。

それからまた量子力学の話だが、共役(きょうえき)という関係がある。これは観測しても同時に値を決められないという関係のことだ。例えば「位置」と「運動量」は同時に確定できない。ここで「時間」と共役の関係のあるものは「エネルギー」である。したがって、エネルギーと時間の間には密接な関係がある。

エネルギーは熱と関係がある。そして熱というのは、分子や原子などが動いている様子を、ぼんやりと全体的に眺めたときに感じられる秩序のことである。なので、52枚のトランプを1枚1枚でなく全体的にぼんやりと眺めたときと同じように、この熱の変化には時間が感じられるだろう。

熱の変化とは、熱が高い方から低い方に流れて、つまりエネルギーがエントロピーの低い状態から高い状態に増大することである。熱の流れが時間となる。これをロヴェッリは熱時間と呼んでいる。さらに、こうした熱時間は過去の痕跡を残す。例えば、それは記憶として残る。こうして過去の記憶を持つと、わしらは時間を感じるのだという。

ロヴェッリの結論はこうである。

空間や物質がなくても、わしらは自分を感じることができるが、時間なしに自分を感じることは不可能である。わしらは、過去の記憶と未来への予想の中に時間を感じ、自分自身を感じる。つまり、わしらという存在は、わしらが経験した出来事で綴られる「物語」なのだ、と。

*****メモ*****

ここではわしが一番驚いた熱力学の第2法則関連を中心にまとめてみた。しかし、ロヴェッリは時間について、よく言及される一般相対性理論で起きる不思議な現象(たとえば重力の強いところでは時間の進み方が遅いとか)や、アリストテレスの時間の考え方とかさまざまなことを言及しており、いろいろ興味深い。

ここでは、宇宙のエントロピーについて、エントロピーがだんだん高くなる方向に進んでいるという話で、恒星について述べている部分が、へーっと思ったので、メモに残す。

恒星は薄く冷たく広がっていた水素がしだいに1ヶ所に集まって、ついには核融合を起こして光を放っている。わしらは、熱が熱いほうがエントロピーが低く、熱が拡散して温度が下がるとエントロピーが高くなると思っている。また1ヶ所に集まっている方がエントロピーが低く、ばらばらに広がると、エントロピーが高くなると思っている。

すると、冷たく薄く広がった状態の水素が集まって恒星になるというのは、エントロピーが低くなる現象なのだろうか。

ロヴェッリによると、これはやっぱりエントロピーが高くなる現象なのだという。水素が冷たく広がっている方がエントロピーは低いんだそうだ。というのは、水素が集まって熱を持つと、水素が存在できる状態数が多くなり、さまざまな状態になることができるので、乱雑さが増すからだそうだ。

そういうわけで、宇宙はビッグバンのエントロピーの低い状態から現在の高い状態まで、一貫してエントロピーが高くなる方に進んでいるんだそうです。へー。

さて、わしが量子力学でどうしても理解できないことに「量子もつれ」という現象があるが、時間のない量子ネットワークの世界を読んでいて、なんとなく量子もつれについてもわかったような気がしてきた。

量子もつれと言うと、遠く離れているのに一瞬にして情報が伝わってしまうような印象を与えるが、遠いとか近いとかの感覚や、一瞬とかいう感覚はこの時間のない量子ネットワークの世界ではふさわしくない。なぜなら遠いとは、ある速度である時間移動したことを示しているし、一瞬はまさしく時間そのものの感覚だから。時間がない世界にはありえない発想ということになる。量子もつれとはたんにある複数の粒子が一体になって存在しているというだけで、相互作用した瞬間に(瞬間という表現も変だけど)、その粒子の相互作用の結果が立ち表れてくる、ということだけのことなんでしょうね。時間がない世界として見ると、特に不思議ではないという気がしてきた。

★★★★★

 

物価とは何か

渡辺努 講談社 2021.1.11
読書日:2022.4.22

物価は経済学の基礎概念にもかかわらず、その計測方法から、何が物価を動かすか、物価に対して何ができるのか、など今も未知な部分が多く、現在の経済学が到達している地点について解説してくれる本。

著者はかつて日銀に勤めていたときに、バブルになって資産価格は大幅に上がったのに、消費者物価自体は上がらなかったことが不思議で、それで研究者になってからも物価を研究対象にしたのだという。なお、これはケインズの示した価格硬直性の問題として知られているそうだ。

じつはわしもこの点が不思議で、これについてのわしの解答は、消費者の買うような日用品は日本では過当競争になっており、このように供給が圧倒的に多い状況では値段は上がらない、というものだ。これは日銀が2%のインフレを目指す異次元の緩和を行うようになってからも同じだと思っており、なのでいくらお金を供給しても物価は上がらない。もちろん、これはなんのデータの裏付けも取っておらず、わしが自分で納得するためにそう考えているだけだ。

では、著者の疑問は解消されたのだろうか。

結論をいうとまだ道半ばで、最終的な解答は得られていない。しかも物価を調べていくうちにいくつもの不思議な性質を発見し、そうなる理由を見つけるべく試行錯誤しているところらしい。

ということで、さっそく著者の発見した物価の性質について述べていこう。

まず物価は日々連続的に変化するわけではない、ということがある。不連続に、あるときに上がって(下がって)、しばらくはそのままで、またあるときに上がる(下がる)。このように上がる瞬間としばらく動かない時期がある。このとき、変化の量と頻度を比較すると、1回に動く価格の変化の割合はほとんど変わらない。いっぽう価格改定の頻度は増えたり減ったりする。つまり、インフレ率は、一定期間に何回価格を変えたかに等しい。(第1の発見:インフレは価格更新の頻度で発生する)

そうすると、高いインフレ率の場合は、いきなり価格が2倍になるみたいに一回の変化で大きく変わるのではなく、何回も変わる、つまり価格更新の頻度が高くなると予想されるが、実際にインフレ率が高くなっていくと、価格更新の頻度も百倍、千倍、万倍と対数的に増えていく。(第2の発見:インフレ率が高いと価格更新頻度が増え、低いと減る)

こういうふうに、あるときに発生して、しばらくしてまた起きるというのは、地震と同じなので、地震に関する統計的な性質がそのまま当てはまるのだそうだ。地震の場合は大きな本震が起きるとしばらくそれに誘発された小さな余震が続き、余震はだんだん小さくなって頻度も減り、やがて無くなる。次の本震が起きるのはずっと先である。

同じことが価格の更新にも起きているという。著者が示したデータは、テレビの新製品の価格データだ。ここには発売直後には価格が大きく変動して(下がって)いるが10日ぐらいで安定する様子が示されていて、地震の場合と同じなんだそうだ。(第3の発見:直近の価格更新から時間が経つと更新頻度が減少する)

どうして地震と同じになるかというのは、発生メカニズムも似ているからだ。地震はプレートに力が蓄積されてあるときに耐えきれなくなって破壊や変形することで起きる。価格の場合も環境が変化しても耐えられるようにある程度、余裕(遊び)を持って設定されているそうだ。その余裕を越えるまでは価格は動かず、越えると余裕がなくなって価格が改定されるのだという。

このような発見は、最近、価格に関する大量のデータが手に入るようになったから可能になった。

ケインズの価格硬直性に関しては、これまでもさまざまな理論が提唱されてきたが、実際のデータが集まるにつれて淘汰されていき、残ったのは2つだという。ひとつは「メニューコスト仮説」(グレゴリー・マンキュー)で、もうひとつは「情報制約仮説」だそうだ。

メニューコスト仮説は、レストランでメニューを変えるような小さなコストでも、小さな価格更新で増える小さな利益に見合わないという説で、小さなコストでも大きな影響を与えるという意味で意外性があるので、研究者に人気だという。しかし、実際に価格を決定している企業へのインタビューでは「情報制約仮説」の方が実態に近いという。価格を決定するためにはそのための情報を集めなくてはいけないが、そのような情報を集めるには非常にコストがかかる。したがって、四半期に1回とか半期に1回とかの頻度でしか価格更新の意志決定ができないというものである。

ところがメニューコスト仮説にしても情報制約仮説にしても、第1と2の発見は説明できるが、第3の発見は説明できないという。したがって、物価を研究している学者の中ではまだ定説はないのが現状だという。

わしは、第3の発見は、たしかにこのような現象はあるだろうとは思うが、ここで出している例は良くないと思う。新製品のテレビの値段でなく、もっと一般的な、長く売られているものを例に出すべきではないか。というのは、この本でも最後の方に出てくるが、新製品というのは新製品というだけで魅力があり、その分高く価格を設定するものだからだ。だがその効果は非常に短い場合が多く、すぐに他の製品に紛れて下がってしまう。そういうわけで、この例は単に新製品効果を示しているだけのように思える。最初の価格設定が意図的に高く設定されただけなのではないのか。

例が悪いので、なにか釈然としない気もするが、まあ、第3の発見はたしかにありそうな気がするし、それをメニューコスト仮説でも情報制約仮説でも説明できないのはそうなのであろう。

そこで著者は、今後は価格決定者同士の相互作用を考慮に入れなくてはいけないのだろう、と言う。例えば、同じ商品を扱うライバルが数社いるだけでも、1社が値上げをすると需要供給曲線から想定できる以上に需要が他社に流れて減るので、値段を下げられないのだという。この現象は「屈曲した需要曲線」として、広く知られているそうで、この場合、値段を変えない、という結論になるそうだ。

そうすると、単に業者が多すぎて供給量が多すぎるという、わしのような普通のひとの直感と何ら変わることがないのではないか、という気がする。

さて、どうだろうか。

価格に関するデータが十分に手に入るようになったのが最近のことだとしても、経済学の進展はとても遅いような気がしないだろうか。わしは著者の業績を評価するけど、やはり不満だ。

この本によると、皆が同じ経済モデルで考えているのではなくて、ひとりひとり違った経済のマイモデルを心に描いていて、ひとりひとり違った反応をする、ということを著者が受け入れたのは、2010年なんだそうだ。いまから12年前だ。

この部分を読んで、わしは頭がくらくらした。ひとりひとりが違うことを納得するのにこれだけ躊躇するなんて、気が遠くなるほど、経済学は遅れている気がする。なんとかならないんだろうか、と本当に思う。まあ、複雑系の学問ですからなかなか難しいとは思いますが……。

この他にも物価に関する話題は豊富で、そのなかでもわしが面白かった部分をいくつかあげる。

まずハイパーインフレが起きても、問題なく経済が動いていくという不思議な話だ。ここでスーダンハイパーインフレの話が出てくる。なんとその世界で実際に生活していた学生が著者のところにやってきて、一緒に研究することになったのだそうだ。

スーダンのインフレがどのくらいかというと、一時は年率165%に達したそうで、月50%がハイパーインフレの定義だから厳密にはハイパーインフレではないのだが、しかし十分高いインフレ率である。

問題は、このような高いインフレが起きても、生活にはあまり影響がなかったということだ。なぜなら、物価にしても給料にしても、全てが一斉に上がるだけで、バランスが保たれていたからだ。

この話はベネズエラからの報告でも同じで、経済が崩壊したはずのベネズエラでもスーパーに商品は並び、人々はけっこう普通に生活しているようだ。とくにベネズエラでは電子決済が普及していて、高額な紙幣を持ち歩かなくてもいいわけで、そのぶん、値段が上がっても問題ない。(ただしベネズエラでは公務員の給料は上がらなくて、腐敗はかなりひどい)。

そういうわけで、インフレはそんなに脅威ではないらしい。全体が一緒に動いている限りは、だが。(そういう意味で、ロシアへの経済制裁にそんなに期待できない気がする。イランなんかもアメリカの経済制裁を受けているけど、国が崩壊したという話は聞かないし、さらには北朝鮮すらも倒れる気配はないのだから。)

そう考えると、たとえばMMT(現代貨幣理論)でどんどん通貨供給量を増やしたとしても、そしてその結果インフレになったとしても、電子的に通貨を処理している限りはそんなに気にしなくてもいいのでは、という気がするなあ。

次はフィリップス曲線だ。

フィリップス曲線は失業率とインフレの関係を示した有名なものだが、驚いたことに、政策決定者にはこのフィリップス曲線以外のツールは未だにないようなのだ。フィリップス曲線がきれいに描けるのは、特定の経済環境が一定の場合だけで、環境が変わるとその曲線は移動したり、傾きが変わったりする。でもなんとかそのへんをいろいろ理屈をつけて調整して、利用しているようだ。

で、最近、このフィリップス曲線が寝てきて、失業率が下がってもインフレが起きそうにないという状況なのは、よく知られているとおりです。

しかしねえ、いまだにツールがフィリップス曲線しかないというのはどうなの? (しかも、わしはこのフィリップス曲線がそんなに有効なのか疑問に思ってる。)

ともかく、そろそろなにか別の使えるツールが出てきてもいいように思うんですけどねえ。

★★★★☆

ライフピボット 縦横無尽に未来を描く人生100年の転身術

黒田悠介 インプレス 2021.2.21
読書日:2022.4.16

現在の自分のキャリアから適応可能な隣接したキャリアを考えて、隣接のさらに隣接したキャリアまで想定しておき、現在のキャリアでそのための蓄積をしておくと、その隣接したキャリアに次々に転職が可能だと主張する本。

著者の黒田さんによれば、多くの人が間違っているのはキャリア形成はこうあるべきだという先入観があることだという。こういう先入観は危険だという。なぜなら、人生が長くなる一方、ライフスタイル自体は短命化し、世界の変化が激しいから、どちらにせよキャリアを転換せざるを得なくなるからだ。変化の激しい時代には、先のことを考えてこうしようと考えてもしょうがない面があり、どうなるかわからない状態を楽しむくらいでちょうどいいらしい。したがって、常にキャリア転換の準備をしておくのが正解だという。

キャリアの転換先としてはまったく新しいキャリアにいきなり飛び込むのはハードルが高いので、今のキャリアに隣接したキャリアを想定しておくのがよいという。例えばライターをやっていて書いて表現するスキルを持っている人で「食べ物」と「スポーツ」が好きなら、フードライターやスポーツライターにキャリアを転換することが考えられるし、取材でひとから話を聞くことが多いのならインタビュアーというキャリア転換もありえる。仮にインタビューにキャリアを転換したなら、その先にはインタビューの講師やインタビューメディアの編集者、という次の次のキャリアも想定できる。

このような隣接したキャリアに転換していくことを、著者はライフピボットと呼んでいる。バスケットのピボットと同じように、現在のキャリアに片足を付けたまま、もう一方の足で方向を変えるイメージだ。いきなり変えるのではなく少しずつ、いつの間にか転換しているイメージに近い。

ピボットをスムーズに行うためには現在のキャリアでピボットを意識した蓄積を行う。具体的には、価値提供できるスキルセット、人脈、リアルな自己理解、の3つだという。

スキルセットや人脈は分かりやすいが、自己理解とはなんだろうか。それは自分の価値観なのだという。仕事のなかで意味があると思えるものの経験を積んで、自分の価値観を見つけることが大切なのだという。キャリアの転換で自分の価値観に沿った転換ができれば、その転換は成功と言えるからだ。

このような蓄積をしていれば、実際に転換のチャンスが訪れたときに、スムーズに転換できるのだという。このようなチャンスはかなり偶然的に起きるが、準備をしておけばそのチャンスは増えていくのだそうだ。

まあ、このへんまでは理解ができるが、その後は急にハードルが上がる。

このような蓄積を行うためには、今の仕事を漫然と続けていても蓄積が進まないかもしれない。そこで著者は、蓄積を加速させるためのアクションを勧める。

具体的には、「新しい人に会う」「新しい場に出向く」「発信し続ける」ということだそうで、新しい人に会うためにはマッチングアプリを使って、オンラインやリアルで人と会うのだという。発信し続けるというのは、例えばブログで自分が関心ある記事を書き続けるのだという。こういうブログは発信するのをやめたあとにも、ずっと資産として残るという。

次はまたハードルが上がって、イベントに登壇したり、自分でイベントを主催したりするんだそうだ。さらにはコミュニティに参加したり、コミュニティを運営したりする。

つぎはギグワークをやってみる。ウーバーやTimeeなどのアルバイト的な仕事をしてみる場合もあるだろうが、自分のスキルを出品するというギグワークがいいそうだ。経験がほとんどなく未熟な場合でも報酬を下げて、とりあえず経験を増やすのがいいという。さらには報酬をまったく受け取らない、「ギブワーク」と著者が呼んでいる活動をするのがいいという。こうすると、お金は稼げないが経験を大量に積めるので、必要なスキルをためやすくなるという。

実際に著者は、フリーランスとして独立したとき、ディスカッションパートナーという肩書でマッチングサービスでたくさんの人に会ったという。これはギブワークで、無料だったようだが、やがて価値を認めてくれるようになり、仕事になったという。

さらにキャリア相談をするのが趣味で2000人以上と話したというが、これもお金はとっていないようだ。

さて、どうだろうか。

黒田さんのライフピボットというキャリア転換の方法は、特にコミュニケーション中心のコンサルタントのような職業に適していると言えるだろう。

コミュニケーションが楽しめるのなら、ギブワークのような無料の仕事であっても、人と会って話を聞くことだけでも楽しいかもしれない。

わしは新入社員の頃、イベントに来てくれた人たちを訪ねて、どんな会社の人が来てくれたのかを調査をさせられたことがあるが、知らない会社に行って話を聞くのは、実にバラエティに富んでいて結構楽しかった経験がある。

相談にのるといえば、最近、膨大な数の相談メールが社内からわしに寄せられており、正直に言ってこれらに対応するのは苦痛なのだが、仕方なく具体的なアイディアをつけて返しているので、評判がいいようだ。(なので、ますます来るのだが……)。

こういうのもお金になるのかしら?

別に今はやる気が無いけど、そのうちに人の話を聞くというギブワークをしてみてもいいのかも。お金はともかく、うまくいけば、人の役に立ったという感触は少なくとも得られそうですからのう。

★★★☆☆

 

オーラの発表会

綿矢りさ 集英社 2021.8.30
読書日:2022.4.14

(ネタバレあり。注意)

社会性に問題があって周りと合わせることができず友達も恋人もいない海松子(みるこ)が、奇跡的になんのトラウマもなく大学生になると、独自の考えと確信を持つ彼女が少しずつ輝きを増していき、彼女の周囲がにぎやかになっていく様子を描いた小説。

綿矢りさの名前はもちろん知っていたが、小説を読んだのは初めてである。なにしろ小説はほとんど読まないし。で、わしがなぜこれを読もうと思ったのか、よくわからない。でも、これはとても面白かった。

主人公の海松子は知能は普通だが、社会性がまったくない性格で、友達もいないし恋人もいない。ただし、本人はそれを気に病んでいない。たぶん彼女は軽いアスペルガー症候群なのだろう。父親も社交性に疑問符がつくから、きっと父親からの遺伝だと思われる。

中学、高校ぐらいまでは子供たちは仲間との一体感を醸成する期間だから、このくらい周りとの関係を取り結ぶのが不得意だと、いじめの対象となりえる。もちろん彼女もいじめられていたらしいが、あとからわかるのは彼女自身がそのことに気がついていなかったことで、したがってそのことは彼女のトラウマになっていない。それどころか友達関係の出来事はないけれど、彼女なりに十分のびのびと暮らしてきたようだ。

彼女にとってはそういう友達などの人間関係よりも、いつも普通にできる呼吸などが急にできなくなったらどうしよう、などという不安の方が大きいようだ(笑)。また自分でかってに思い込んで作ったルールに固執し、それを破ると悪いことが起きると思ったりする。思い込みが激しいのだ。そして周りのクラスメイトたちはそういった不安を乗り越えているらしいことに感心したりする。

こんな社会性のない海松子だから、両親は彼女のためにそれなりに奮闘したようだ。なにしろ母親は、毎朝しっかりと髪のセットとかファッションとかに気をつけて娘を学校に送り出していたようで、少なくとも見かけは周りの女の子に違和感がないようにしていた。

しかしながら両親は、このまま実家にいると家族以外との人間関係がまったく作れないままになる、と不安を感じたらしい。そこで両親は海松子が大学に入学すると、家から通える範囲の大学だったにもかかわらず、大学近くに女性専用アパートを借りて彼女に一人暮らしを強制する。というわけで、物語は海松子が一人暮らしをスタートするところから始まる。

海松子はアスペルガーらしく変なことに興味を持って熱中したりする。たとえば、大学の学食で相手が何を食べたかを、口からの匂いや歯についた食材の痕跡から当てる技を磨いて、クラスメイトから気味悪がられたりする。(大学にもクラスがあるらしいけど、そうなの?)。

でも、知能は普通だから、海松子は自分でいろいろ考えているし、気候や自然への感覚は鋭そうだし、自分の好みも明確だし(ちょっとジジくさいのが好きみたい)、もちろん変なこだわりがあるし、なにより他人の意見に惑わされず自分が確信したことへの揺るぎなさ、みたいなものがある。

さて、大学には高校時代からの親しい友人とも言える萌音という子がいる。海松子は周りの人にあだ名をつけているのだが、萌音につけたあだ名は、まね師、というものだ。この萌音のキャラクターは海松子とちょうど裏返しになっており、この設定にはとても感心した。

萌音は誰かをターゲットにしてその外見や持ち物を完全にコピーしてしまい、ターゲットそのものになり切ってしまうことを特技にしている。普通なら有名人をコピーしそうなものだが、彼女のこだわりは自分の周囲にいる普通人をコピーするというものだ。街を歩いていてコピーしている人に間違えられたら最高、という人間なのだ。自分以外の人間になり切ることで自分を表現するという屈折した性格だ。

二人を比べると、海松子は周りの人間との関係には興味がないがその代わり自分というものがしっかりとある人間だ。一方、萌音は自分というものを出さず、周りにいる人を細部まで精密に観察し、他人の存在をキャラが乗り移るまで借り切って自分を消してしまう。そういうわけで、ちょうど裏返しのような存在になっている。

当然ながらコピーされたひとは気分が悪い。それどころか萌音はそのターゲット以上にターゲットになりきり、その人間関係すら乗っ取ってしまう。端的に言うと、ターゲットの恋人を奪ってしまうのだ。(ただし当然ながら長続きしない)。

そんな感じだから彼女は嫌われ者で、海松子と逆の意味で社会に適応していない。

萌音が高校時代に海松子に近づいたのは、海松子をコピーのターゲットにしたからで、なぜターゲットにしたかというと海松子がきれいだったからだ。どうやら母親の努力が萌音を引き寄せたらしい。

他の子がコピーされるのを嫌ったのに対して、海松子はその技術にすっかり感心してしまい、どうぞまねしてください、私は構いません、という状態なのだ。まね師というあだ名にもきっと尊敬がこもっているのだろう。

いっぽう、ターゲットのキャラまでコピーしてしまう萌音の方も、他の誰よりも海松子のことを理解している。正反対だが、お互いに社会不適応で、お互いを理解でき、尊重しあえるという点でふたりはうまくやっていけるらしい。正反対なのにうまくいくのだから、ある意味、凸凹コンビだ。どうやら萌音はチビという設定らしく、体型もふたりは凸凹らしい(笑)。なお、大学に入って一人暮らしを始めてからは、外見に関する母親の監修がなくなって、海松子の姿は落ちぶれてしまい、萌音のコピーの対象ではなくなった。

この二人の関係が面白すぎて、他に海松子のことが子供の頃から好きな幼馴染の奏樹(あだ名:七光殿)や、高校生の頃から海松子に目をつけていたという諏訪(同:サワクリ兄さん)という父親の教え子の男もいるが、その二人との関係が霞んで見えるくらいだ。

ところで、高校まではみんなと同じであることが価値を持つが、大学くらいになると自分のスタイルを持つことが必要になる。彼女はそれを十分持っているので、だんだんとその独特なスタイルを認める人が出てくるのだ。

彼女の良いところは、他人の考えや発想にまったく惑わされないところだ。自分で考えたことや観察したことに強い確信のようなものを持っている。だから人の判断には惑わされずに、萌音とも付き合える。

もうひとつ良いところは、他人への忖度がまったくないシンプルな精神構造であるから、なにか決断しなくてはいけない場面では、すべて即答だということだ。あいてが、えっ、いいの?と戸惑うくらいに即断即決である。

こうして徐々に広がっていった海松子の交友関係だが、そんな海松子の広がった人間関係を証明する場として設定されたのが、実家で開いたオーラの発表会だった。オーラの発表会とは何?っていう感じだけど、海松子が、自分は自分のオーラでパチンと電気が弾けるような心霊現象のラップ音のような音が出せると、例の思い込みにより、確信するようになったことが発端だ。萌音に、じゃあみんなの前でやって見せてよ、と言われて、これまた即答でOKしたのが、オーラの発表会なのでした。一瞬、物語はオカルトチックな方向に行くのかと思われたくらいだが、実際にはその会で海松子は実演に失敗する。

しかし、そんな超常能力みたいなことはどうでもいいことなのである。来てくれた人たちは、萌音以外は、これは単なるホームパーティだと思って来たのだから。萌音を通して海松子が招待した全員が、彼女の実家のパーティに集まったのだ。それこそが大事件なのである。実演に失敗した失意の海松子を慰める七光殿こと奏樹に、ずっと一緒にいたい、と言って(自分から)彼の手を取る、という事件も起きたが、それすらがなんかついでみたいな感じがする。(さらについでにいうと、肉体の接触が重要と彼女が気がついたのは、サワクリ兄さんにキスされて興奮したからだ(笑)。だからこの二人はお話のなかで役割を分け合っている)。

というわけで、海松子がこれから新しい人生を送ると思われるようなシーンで物語は終わる。

以上がこの小説の概要だが、わしはこんなことを思った。海松子みたいな人は、けっこう経営者や起業家に向いているんじゃないかと。なにしろ彼女のような人は、なにか使命感に取り憑かれると、真っ直ぐにそれに向かっていって大概の困難は克服してしまうんじゃないかって気がするから。

まあ、そうですねえ、環境問題のグレタ・トゥンベリさんなんかが、やっぱりアスペルガー症候群だけど、そんな感じといえばいいでしょうか。だからこの続編があるとすれば、そういう社会起業家的な展開もありかも、と思いました。まあ、彼女がどんな使命に取り憑かれるかはわかりませんが(笑)。

★★★★☆

 

認知バイアス事典 世界と自分の見え方を変える「60の心のクセ」のトリセツ

情報文化研究所(山崎咲紀子/宮代こずゑ/菊池由希子) 監修・高橋昌一郎 フォレスト出版 2021.4.26
読書日:2022.4.12

いろいろな認知バイアスを論理学、認知科学社会心理学から20ずつ全部で60を集めて解説した本。

事典ということになっているが、最初から順番に読んでいっても面白かった。

1番目の「二分法の誤謬」からいきなり頭が痛い状況になった。この認知バイアスは、AかBかという2つを対比させて選択を迫られた場合、他の可能性に思い至らないという認知バイアスだ。

本の例では、「この壺を買えば、不幸にならない」と言われたとき、その反対の「壺を買わないと不幸になる」という、壺を買うか買わないかの2項対立のように見えるが、じつはほかの可能性もあり、そこに目が向かないという認知バイスだ。

このとき見逃している可能性は、「壺を買っても不幸になる」「壺を買わなくても不幸にならない」という他の2つの可能性を無視しているのだという。

このようにたくさんの可能性があるにもかかわらず、二者択一の選択を迫られる場合は、この認知バイアスを相手は利用している場合があるので、気をつけるべきだという。この可能性の組み合わせの数は、項目数の数がn個なら、(2のn乗)を計算してみればわかるという。上記の例では、n=2だから、4つの組み合わせがある。

さて、どうしてわしが頭が痛くなったかというと、このブログでもこのような二者択一ふうな議論をよく組み立てているからだ。こういう可能性もある、こういう場合もある、と可能性を全部あげていくと、読んでいてちっとも面白くない。どうも議論がぴりっとしないのだ。なので、ポイントを絞った議論をしなくてはいけなくなる。

そういうわけで、このブログを読んでいるみなさんは、わしがわざとそういうふうに議論を組み立てていることを念頭において読んでいただければと思います。

他にも、チェリーピッキングの誤謬(自分に都合のいいデータだけを取り上げる)とか、ギャンブラーの誤謬(同じ目が続くと次に反対の目がでる可能性が高くなると考える)とか、希望的観測(好ましい結果の方が起こりやすいと考えること)とか、投資家として頭が痛すぎるものもある。

他にもあげていくと、心的バイアス(先入観に左右される)、確証バイアス(仮設に反する情報は認知しにくい)、迷信行動(偶然おこったことに因果関係があると考える)とか、世界公正仮説(良い行いには良い結果が、悪い行いには報いがあると考える)とか、こういうものも読んでいて頭が痛くなる。

面白かったものをもうひとつあげよう。チアリーダー効果だ。

これはチアリーダーのように集団になっていると、一人のときよりも魅力的に見えるというバイアスで、なるほどたしかにそんな気がする。

これはなぜかというと、集団になっていると一人ひとりをじっくりと吟味できないので、個性が平均化されるからだという。魅力的な容姿というのは、バランスがとれた平均的なものになるということがわかっていて、集団だと一人ひとりの個性が平均値のほうに引き寄せられるから魅力的に見えるのだそうだ。

なるほどねえ。だから芸能界でもグループを作るのかな。

この本を読んだところで、認知バイアスからは逃れられないかもしれませんが、知っておけば役に立つかも。しょうがないよね。人間って、そんなふうにできているんだから。

★★★☆☆

にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ