ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

電鉄は聖地をめざす 都市と鉄道の日本近代史

鈴木雄一郎 講談社 2019.6.1
読書日:2023.10.31

私鉄の電鉄は都市と郊外とを結んで、郊外では住宅地を売り、住宅地の通勤、通学の客を運ぶことをビジネスモデルにしていると思われているが、鉄道を作った最初のビジネスモデルでは寺社を中心とした参詣と物見遊山の客を運ぶことだった、ということを明らかにした本。

何もないところに電車を走らせ、沿線を高級住宅地として売り出し、その郊外の住人を通勤通学の客として毎日運ぶというビジネスモデルは、阪急電鉄小林一三が始めたものと言われ、東京では東急電鉄をはじめ、各社がそれを真似した……ということを、わしも信じていたが、これはまったくの誤解であったことがこの本を読んで分かった。

なにしろ阪急自体が、最初の設立目的が有田の温泉まで鉄道をつないで、観光客をはこぶことだったのだから。有田は遠かったので、とりあえずの目的地を宝塚とし、大阪から宝塚の間は有名な神社や寺を巡るように路線が敷かれたそうだ。おかげでこれらの神社仏閣は大変賑わったそうだ。郊外の住宅地の売出しはそのあとから出てきた話で、最初はそうではなかったのだ。小林一三はあとになるほど、そのことをぼかすようになり、最初から未来を見通してきたかのようなビジョナリストを装うようになったのである。

東京も同じである。

それがいちばんはっきりしているのは、京成電鉄のようだ。京成は、成田山新勝寺へ参詣客を運ぶために作られた鉄道で、その前身の成田鉄道は新勝寺の住職自身が大株主だったのだ。寺が積極的に鉄道を誘致していたのである。

京急も同じで、そもそも川崎大師に客を集めるために作られた鉄道だ。

これは欧米にはない日本特有の現象だそうだ。欧米では教会は信仰の場であり、観光地化するのを避けようとすらする。でも日本では昔から社寺が観光地化していて、しかも社寺側が積極的に賑わいを演出している。次の住職を選ぶ視点も、信仰よりもビジネス感覚が優先されるんじゃないかという気さえする。

成田新勝寺や川崎大師は昔からの社寺であるからまだ分かる。しかし最も興味深いのは、やはり穴守稲荷神社の話である。明治時代に突然隆盛を極めた神社で、現在の京急空港線はこのためにできたもので、それは羽田空港ができるはるか前の話なのである。

明治17年(1884年)、近所の女性が重い病にかかったが、狐のすみかに願をかけるとたちまち全快したという「霊験」が評判になった。そこで有志が神社の形を整えて穴守稲荷神社を興した。さらに参道を整えて門前町を作ると、徐々に有名になっていった。鳥居を奉納するのがはやり、明治25年には参道に7500基というすさまじい数の鳥居が並んだという。さらには芝居小屋を作って芝居を上演し、霊験あらたかな狐のすみかの砂とか御神水とかを宣伝し、しかも御神水鉱泉だったそうで、それを使った温泉も作った。そこに当時の大手外食チェーンだった牛鍋屋「いろは」の創業者、木村荘平も加わって、木村が元締めになった穴守稲荷を信仰する結社(「講」と言うそうだ)の人数は10万人を越えたという。のちに、20メートルの高さの人工の山を作って、そこから東京や房総半島を臨めるようにするといった、名物をつくる努力も抜かりはない。

なんというか、みんなで寄ってたかって、超有名な観光地を無理やり作ったという感じだ。そして、その穴守稲荷に客を運ぶために作られたのが、現在の京急空港線なのである。

現在の穴守稲荷神社は当時の面影はないが、それは別に関係者の努力が足りなかったのではなく、戦後にこの地域がGHQに接収されてしまったからだ。その跡地が羽田空港になったのだから、穴守稲荷にとっては不幸なことだったが、鉄道にとっては良かったという結果だろうか。

なんというか、電鉄に関しても、日本人の超お気軽で遊び好きな面が出ていると思いますね。こうして日本中に名物や名産にあふれた観光地がたくさんできるというわけですね。私の妻なんかは最近サウナにはまってあちこちに出かけていますが、極めて日本人的だと思います。日本人のこういう部分にかける情熱というのは、すごいですね。なんと言ってもゼロから作るんだから、やっぱりこれって創造性の一種なのかしら。

バカバカしいけど、素晴らしいですね。最初はどうあれ、続けば伝統ですからね。

★★★★☆

賃金の日本史 仕事と暮らしの一五〇〇年

高島正憲 吉川弘文館 2023.9.1
読書日:2023.10.30

賃金とは生活そのものであるから、賃金を通して過去の生活の水準や質を考えるとともに、その分析方法に種々の方法があることを伝える本。

そもそも古代の賃金をどうやって測定するのか、とか、その水準や質をどう判断するのか、という疑問はもっともなことで、この本の中で主に述べられているのはそういう話である。

しかしわしがもっとも驚いたのは、昔は一度賃金が決まると、長いこと、それこそ100年、200年というスパンで、賃金が変わらないことだった。

たとえば14世紀から16世紀の後半まで、熟練職人の賃金はほぼ100文に、非熟練職人の場合はほぼ10文に固定されていたのである。変動分は熟練職人で10文で、つまり10%の変動幅しかなかった。

これはもちろん名目の賃金で、実際には物価によって実質の賃金は変動する。この物価については、ほぼ米の価格しか継続的な指標がないので、米価で割った値を実質として計算する。そうすると米が不作のときには物価が上がることになるので実質の賃金は下がり、豊作のときには実質の賃金は上がることになる。米の価格で考えている限りは、米の豊作不作で実質の賃金は決まるということになる。

さらには職人の場合は泊まり込みの場合もあり、その時の提供される食事(賄い)の問題や、ときに割増金のようなものも支払われたみたいだから、まったく固定というわけでもなさそうではある。

確かにそれはそうなのだが、しかし名目の賃金がこれだけ変化しないというのはどう考えればいいのだろうか。この辺について本書はごちゃごちゃいろいろ書いてあるのだが、はっきり書いていない。なので、どうもすっきりしないのである。

これは経済が成長していないということなのだろうか。とくに一人あたりのGDPが変化していないということなのかもしれない。技術革新もさほどないだろうから、生産性が伸びるということもなく、一定だったということを示しているのだろうか。

貨幣供給量の問題だろうか。このころは日本に貨幣をつくって流通させるような権威が存在していなくて、中国から渡ってきた銭をそのまま使っていたから、なかなかお金の総量は増えるような状況ではなかった。お金の総量が厳しく固定されていたので、貨幣の価値が落ちようもなく、インフレが起きなかったということだろうか。

でも、これは江戸時代の近世でも幕末をのぞけば同じ傾向だ。徳川幕府は自分で通貨を発行していたから、通貨供給量の問題とも思えない。

質の評価に関しては、得ていた賃金で手に入るカロリーを比較するという考え方が紹介されていて(生活水準倍率法)、まあそういう新しい方法についても紹介されているけど、わしとしては、ずっとこの動かない固定賃金のことが頭から離れなかったのでした。不思議〜。

★★★☆☆

トヨタのEV戦争 EVを制した国が、世界の経済を支配する

中西孝樹 講談社ビーシー 2023.7.25
読書日:2023.10.25

トヨタは1000万台の車を売り上げる巨大企業であるが、EV化への事業構造転換は、過去のしがらみなく最初からEVを前提に事業を組み立てられるテスラ、BYDなどの新興企業と比べてはるかに難しく、そのEV化戦略をアナリストの立場から追った本。

トヨタがEV時代を生き残れるのかどうかというには日本経済の帰趨に直結するので、この本を手にとって見たのである。で、トヨタは生き残れるのだろうか? この本を読んで分かったのは、さっぱり分からん、ということである。EV化への道はあまりにいろんなことが不明であり、なにか下手を1回でも打てば、トヨタでもあっという間に傾いてしまうことも大いに考えられる状況なのだ。

しかも状況はコロコロ変わる。

この本でも取り上げられている、ホンダとGMの共同開発の話はこの本を読み終わったあと、解消されてしまった。

www.nikkei.com

中国で電動アクスル(EVのエンジン)を売っているニデック(旧・日本電産)は、電動アクスルが不振で、この分野が赤字になってしまった。しかも来年はもっと売上が減るという。

www.nikkei.com

というわけで、この本を読んでいる端から状況がどんどん変わっていくのである。

このような現在の状況を考えるに、EVで利益を出すというのは、とてつもなく難しそうである。テスラやBYDが利益を出していると言っても、テスラは利益率が高い高級車であり、BYDはどうやらEVではなくプラグイン・ハイブリッド(PHEV)で利益を出しているようである。

テスラは高級車ではなく、次に投入する大衆車である「モデル2」が成功して初めてEV時代が来たと宣言できるだろう。この本でも言っているが、台数が増えてソフトのアップデートでは解決できないメンテナンスの問題が発生したときに、それに対応できるのか、という問題もある。いくらマスクが自信満々だとしても、テスラもやっぱり崖っぷちなのだ。いつ傾くか分からないのである。

ということは、EV業界全体が崖っぷちなのである。最初からずっと崖っぷちだったとも言える。まあ、新しい産業が立ち上がるときにはそんなものだろう。

この本でも言っているが、EVだけでは利益は出ないので、鍵はモビリティ産業として成立するかどうかというところにあるようだ。つまり、EVは個人が所有するものというよりも社会全体で所有されて、24時間働いてもらわないととてもペイしないというものになるだろう。

これには、自動運転技術が実用化されないと無理だろう。でも、そのハードルはとてつもなく高いのである。5年前には、いまごろ街の中を運転手なしの自動運転車がガンガン走っていると予想されていたが、それは妄想だったというのがはっきりしたし、いまも妄想の域だ。

今後もEV業界は良かったり悪かったり、停滞とブレークスルーを繰り返すジグザグで伸びて行くだろう。わしは今後5年ぐらいは、EVは停滞するんじゃないかという気がする。その間に自動運転技術が確立するかどうか。

というわけで、トヨタの戦略に少々否定的な著者と違って、わしはできるだけプラグイン・ハイブリッドで引き伸ばしを図って、後出しジャンケン的に世の中のEV化についていくトヨタの戦略は、それなりによろしいような気がする。そしてEVで本気なのはプレミアムな高級車だけ、というのも理にかなっている。世間からEVに消極的と捉えられてもいいではないか。

もうひとつ、この本を読みながら考えたのは、本当にトヨタが必要なのか、ということだった。なにしろ、トヨタに大きな思い入れがあるらしい著者と違って、わしはまったく思い入れがありませんからのう。かつて、あれだけ強かった家電メーカーが存在感をなくしても、いま誰も困っていないように、トヨタもなくなっても誰も困らないかもしれない。

わしが意外に思ったのは、EVにおけるヒュンダイの存在感だった。ヒュンダイはかなりうまくやっているようだ。知らなかったなあ。

あと、ドイツ車の右往左往。EUがEV化を宣言しているのに、うまくいっていない。ドイツ経済全体が不振の方向なのに、ドイツ車がこの状況だと、ますます大変そう。

★★★☆☆

新冷戦の勝者になるのは日本

中島精也 講談社 2023.6.19
読書日:2023.10.27

グローバリゼーションの間、日本に不利だった状況が新冷戦の世の中になってすべて逆転し、日本は勝者になると主張する本。

ほんの数年前まで、わしは日本の景気が良くなるという本は好んで読んでいたものである。もう日本にいいことが書いてあればなんでもいいくらいの勢いだったのである。(多少オカルトでもオーケーなくらい(笑))。

しかし、現在、日本に追い風が吹き始めると、いったいこれがどのくらいの規模で、今後どうなるかという具体的なことが知りたい、あるいはどんな落とし穴がありえるのかというリスクについて具体的に知りたいと思うようになってきたのである。

というわけで、この本を手に取ってみたのである。この手の本はたいていは、過去を振り返ってどうだったか、今はどうか、ということを述べて、最後に少しだけこれからどうなりそうかを述べて終わる。

で、やっぱりこの本もそんな感じだったのである。まあ、言っていることをまとめると次のようである。

グローバリゼーションの時代に、日本は、バブル崩壊によるバランスシートの悪化、円高、産業の空洞化、の3重苦に悩んでいたが、新冷戦の時代になって、バランスシートは正常化し、円安であり、国内投資は盛ん、というふうにすべて逆転した。したがって、日本の未来は明るい。

以上でございます。

毎日、まじめに日経新聞を読んでいる皆様には、とっくに知っとるわい、ということでしょうが、まあ、日本の未来が明るいと思われているのは非常に良いことでございますから、良しとしましょうか。

★★★☆☆

戦争とデータ ―死者はいかに数値となったか

五十嵐元道 中央公論社 2023.7.10
読書日:2023.10.22

戦争中に死者の数を一つ一つ数えることは不可能で、とくにタグをつけている兵士たち以上に文民の犠牲者の数を数えるのは至難であるため、統計的に解析する方法が開発されて来た経緯を述べた本。

19世紀の後半になるまでは、そもそも兵士の死亡数をカウントすることすら行われていなかったそうだ。ところが、徴兵制で国民が徴兵されるようになると国民のひとりひとりの死について説明する責任が国家にあると考えられるようになり、さらに人道的な発想が浸透するにつれて、兵士以外の文民についても、できるだけ説明することが求められるようになってきた。

このような責任を持っているのは一義的には国家なのではあるけれど、国家は数字を自分の都合の良いように操作しがちだ。そこでそれに対抗するかのように、中立的な機関やNGOなどが独自に地道に犠牲者のリストを集めるようになってきた。

このような中立的な立場で作られたリストが複数あると、統計的に犠牲者の数を推定することが可能になるのである。具体的には次のように推定する。

独立して集められた2つのリストがあるとする。問題はこのリストから漏れている犠牲者の数がどのくらいあるか、ということである。そこで、2つのリストの中で重複している割合がどのくらいあるかを見る。重複している割合が大きいほど、リストから漏れている数が少ないということは直感的にわかるだろう。80%重なっている場合と30%重なっている場合、80%重なっている方が漏れが少ないだろうと推定できる。こうして漏れている数がどのくらいで、全体ではどのくらいになるかは統計学的に計算できるのである。もちろん独立して集められたリストが多いほど、推定値の確度は高くなる。

この推定方法を開発したのが統計学者のフリッツ・シューレンという人で、「多重システム推算法(MSE)」というのだそうだ。

こうして犠牲者の数が統計的に生成されるようになったが、過去の例に適用してみると、言われていた数字と食い違うことが出てきたのだそうだ。ユーゴスラビアボスニア・ヘルツェゴビナでの犠牲者の数は、それまでは20万人と言われていたが、推計では10万人という結果になっている。10万人でも多いように思えるが、犠牲となった国にとっては、数が減らされること自体が受け入れられず、抗議したという。科学的な推定値と、社会的な受容はまた別の話である。

最近では、リストの作成に、AIを使うようになってきたという。これはどういうことかと言うと、独立して集められたリストは、それぞれ異なる立場や目的で集められたため、記載されている内容が異なり、リストを比較して同じ人かどうかの判断するのに非常に手間がかかるのである。そこで同じ人かどうかの判断を、AIに任せることでリストの重複がすばやく分かり、効率的に統計的な数字を作成できるのである。最近ではシリアの犠牲者の推計にAIが使われたそうだ。

このようにして、戦争のデータは正確になりつつある。しかし犠牲者の数字は戦争そのものを表しているのではないことは確かである。そんな数字に意味があるのだろうか。

著者は記録を抹消することが本当の暴力だと訴える。たとえ断片的でも記録を残すことで、犠牲者を暴力から救っていると主張している。たしかにその通りと思う。

★★★★★

スターメイカー

オラフ・ステープルドン 訳・浜口稔 国書刊行会 1990.5.20初版 2004.1.30新装版
読書日:2023.10.26

(ネタバレ注意)

イギリスのヒースの丘に座っていた「わたし」は、霊体となって地球を飛び出すと宇宙を飛び回り、宇宙の端から別の宇宙すら覗き込み、テレパシーで時空を超えて他の知性体とコミュニケーションを取り、数々の人類が滅んでいく顛末を見て取り、宇宙の星々、さらには銀河が知性を持つ存在であることを知るが、宇宙が限りなく広がり死を迎えようとする中、どこかにスターメイカーという宇宙の創造主がいることを確信し、スターメイカーに迫ろうとするのだが……。

わしが読むものは、最近出版されたものが多い。古典も読まなくてはいけないと思うのだが、なかなか手に取ることはない。これではいけないと、今後は古典も読むことにした。特にSFの古典には読んでみたいものが多い。というわけで、今回は、1937年発表のステープルドンの傑作SFと言われる、「スターメイカー」を読むことにした。

中世の小説なんかを読んでいると、霊となって人間の住んでいる世界を超えた神や天使、精霊たちの国を旅するなんていう話があったりする。この小説はこうした霊体探訪譚のパターンをそのまま借りたSFバージョンである。こういう話は夢オチで終わることが多いのだが、このSFも夢オチで終わっていて、まったく一緒である。違うのは、霊となった「わたし」が旅をするのは神の世界ではなく、現代科学で明らかになった新しい宇宙の世界だということだ。

1937年というと、すでに相対性理論量子力学が誕生していたし、さらには天文学が発達して宇宙が広がっていることや、銀河が天の川銀河だけでなくたくさんあることが分かっていたし、宇宙はビッグバンで誕生したという仮説も出ていた。こうした当時の最新科学の示す状況がもれなくこの小説の中に盛り込まれている。それどころか、暗黒物質ダークマター?)なんていう言葉もでてくるからビックリである。暗黒物質は当時から概念自体は存在していたとしか考えられない。スターメイカーが作る宇宙の中には、次々と条件分岐して分裂していくという宇宙があって、これは現代宇宙論の多世界宇宙説と同じであり、こういう考えも当時からあったとしか考えられない。(それともそれらもステープルドンの空想なのだろうか。)

いっぽう、ほとんどの恒星には惑星がないことになっており、これは系外惑星が大量に発見されている現代とは違う。また、ブラックホールについてはまったく記述が出てこない。これも当時ではきっと想像不可能だったのだろう。

などという違いはあるが、現代の基準で考えても、恐ろしく正確に宇宙は描かれている。まったくもってびっくりである。光に近い速度で移動したときの色の見え方の違いなんかもきちんとかかれてある。

そしてこうした科学的に正しい内容に、ステープルドンのおびただしい空想が交じるのである。魚とカニのような人類が共棲している世界とか、味でコミュニケーションをとる人類とか、様々な人類が出てくる。形態だけではなく価値観もいろいろで、宗教的なテーマや善と悪のといった哲学的価値観がどうしたという話も出てくる。ところがこうした人類のほとんどは、一定水準に達することなく滅んでしまう。滅びのパターンも様々だ。

しかし少数の例外的な人類は、ステープルドンがユートピアとよぶ一定水準に達した文明世界をつくる。そうしたユートピアの文明も様々な原因で滅んでいくが、さらにごく少数の人類は宇宙に進出し、テレパシー能力を得て他の星の人類ともコミュニケーションが取れるようになったりする。

こうした未知の人類や文明に関する空想は、文章の1段落1段落がそれぞれひとつのSF小説になってもおかしくないようなレベルで語られ、まったく驚く。テレパシーを得た人類は、帝国を拡大することにだけ意義を見出すタイプがいる一方、自由と連帯に価値を見出すタイプが出てきて双方の価値観がぶつかったりして、これなんか平井和正の「幻魔大戦」そのままじゃん、と思ったりした。

こうしたステープルドンの空想は実際に科学的な研究として真面目に議論されるようになったものもある。たとえば、宇宙にでた人類は太陽のエネルギーを無駄なく使うために太陽を取り囲むような球体を作るという話が出てくる。これってダイソン球?と思っていたら、解説によると、本当にフリーマン・ダイソンはこの本からダイソン球を思いついたんだそうだ。ダイソン球は実在するのではないかという考えから、実際に観測が行われている(らしい)。

というふうに、あまりにも考えられるだけのパターンやアディアが書きつくされているので、もう宇宙で起きることはこれ以上考えられないのでは、というくらいである。しかしまだ大きな謎が存在している。この宇宙自体がどうやってできたのかという謎である。これこそがステープルドンがこの小説でやりたかったことであるのは明らかだ。それは天地創造を起こした創造主(=神)を現代科学の知識を踏まえた新しい形で再発明することである。ここでは創造主や神とは呼ばずに、スターメイカーと呼ぶ。なるほど、ちょっと科学っぽい?(笑)

さて、霊的な存在になった「わたし」は光速を越えて宇宙を飛び回れるし、時間さえも超越できるし、テレパシーで宇宙のどんなに遠くでも探索ができる。でもそれは宇宙の中だけであり、スターメイカーは宇宙の外にいる。このようなスターメイカーとはコミュニケーションを取ることすら原理的に不可能なはずである。次元すら異なる両者の間には大きな壁が存在している。

しかし、スターメイカーは創造した宇宙を観察しているし、ときには宇宙に干渉することもある。つまり宇宙とスターメイカーはなんらかの相互作用をしており、その存在は「わたし」にもそこはかとなく感じとられている。スターメイカーの存在はこの宇宙に染み出しているのだ。そこで、直接的なコミュニケーションは不可能なのであるが、「わたし」は夢とか幻視とかという形でスターメイカーを感じ取る、という形で接触を試みるのである。

ぼんやりとした接触ではあるが、スターメイカーがしたいことははっきりしている。スターメイカーはまるで芸術家のように自分の理想とする宇宙を創ることに没頭しているのである。「光あれ」とビッグバンを起こして、たくさんの宇宙をつくっては失敗することを繰り返しているのだ。そんなわけだから、スターメイカーは確かに創造主であるが、その宇宙で誕生した人類を観察はするものの、愛するとか、救済したいとか、そのような感情はいっさい持っていないのである。ほとんどの場合は、人類が滅びるにまかせて、何もせずにただ観察して終わりである。われわれの宇宙はそうした実験のひとつでしかないのだ。スターメイカーの立場としてはそれでいいのかもしれないが、あまりに冷酷であり、そのような実験の結果として誕生した人類のひとりとして、「わたし」はスターメイカーに抗議する。その抗議がはたしてスターメイカーに届いたのかは定かではない。

スターメイカーは理想の宇宙を創ることに成功したのだろうか。どうやらスターメイカーは最終的には理想の宇宙を創るのに成功して、「これでよし」と満足したようだ。

なお、スターメイカーはほとんど人類に干渉することはないが、ある宇宙の人類が悪の方向に進んだところ、スターメイカーが干渉して、その人類の罪をすべて背負った結果、その人類は全員改心して善の方へ向かった、という話が出てくる。これがキリスト教の話をしているのは明らかで、キリスト教もステープルドンに再発明されたらしい。(たった数行で描かれてるだけですが)。

こうしてスターメイカーに接触した「わたし」が、英国のヒースの丘で気がついたところで話は終わるのである。

まあ、キリスト教徒ならこのようなスターメイカーの表現のしかたに衝撃を受けるのかもしれないが、キリスト教徒でもなんでもないわしには、そんなもんですかね、ぐらいで終わってしまうのでした。というか、どうしても創造主が存在しないと気がすまないのでしょうか。いなくても別にいいと思いますが。

この小説、あまりに無造作に大量のアイディアが描かれているので、ネタに困ったSF作家は適当なページを開いたら、それだけでなにか新しい小説のアイディアが出てくるんじゃないかというくらい内容が濃密でした。

★★★★★

なぜ燃やすのか シバター伝

シバター KADOKAWA 2022.5.26
読書日:2023.10.23

YouTuberのシバターが、これまでの生い立ちと意外に堅実な人生観を披露する本。

なぜこんな本を読んだかと言うと、息子が格闘技ファンで、面白いから読んだほうがいいとわしに回してくれたからだ。というわけで、面白い本はみんなで回しあいましょう。

炎上系と言われがちなシバターであるが、自分から炎上させているわけではないという。炎上しているやつに絡んでいるだけなんだそうだ。炎上させているように見えても、それはかなり演出なんだそうだ。それも相手がちゃんと相手をしてくれるから成り立つ話で、たとえば朝倉未来はうまく相手をしてくれるので、一緒にやると盛り上がったそうだ。中川翔子の前でズボンを脱いだという話も、ベルトを外してジッパーを下げただけで、パンツは見せていないという。全部やらなくても、十分視聴者にアピールできるのだという。

YouTubeの制作でもリスクを減らす努力は欠かせない。法律違反はもちろんやってはいけないし、一時的に注目を得るようなことはしないで、ずっと続けられるようなことをする。たとえば時事ネタなんかがネタが尽きることはないのでよいそうだ。

お金に関しても堅実だ。大金を手にしても、生活レベルとあげると失敗するという。それは次の年に税金を払わなくてはいけないことに気がつかないからだそうだ。

YouTuberとしての目標は現状維持だそうだ。今後これ以上収益がアップすることはないと踏んでいるのだ。なるべく収益化できる時期を伸ばす作戦らしい。

パチンコのチャンネルも持っていて、パチンコをしている動画を流しているのだが、これは営業だそうで、お金をもらってやっているんだそうだ。格闘技だけではなくて、番組内容も複線化しているのだ。リスク管理が素晴らしい。

いまは愛媛に住んでいるらしい。結婚して妻の実家のあるところに引っ越したのだ。地方で生活すれば、好きな釣りもできて、生活レベルも上げずにすむ。

そんなわけで、この本は、リスク管理、セーフティライン遵守、陰キャ、防御型、地に足、現状維持という守り中心の発想の言葉に満ち溢れている。なんか投資家みたい。というかフリーランスで一種の事業家だから、当然のことなのかもしれないが。

格闘家に憧れてRIZINの舞台に立って2勝あげることができた。マンガ家も目指して、これは成功しなかったが、マンガ雑誌の編集も1年やった。これはYouTubeの制作に役立っているそうだ。いちおう、自分の目標は達成して、リスク管理も徹底している。シバター、なかなかいいね。

★★★☆☆

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