「新しい封建制がやってくる」では、超富裕層と有識者のエリート階級とそれ以外のデジタル農奴との階級が固定化して、「デジタル封建制」とか「ハイテク中世(by堺屋太一)」の時代が来るという。自由と民主主義を愛する人たちにとってはとんでもない事態で、危機感を抱くのはとても理解できる。
だが、この本を読んで、これだったら日本は大丈夫なんじゃないか、というよりも日本こそ次の時代のライフスタイルをリードするんじゃないか、という気がしてきたのである。
なにより、この本の著者自身が、最後にこう言っているのである。
「日本は、たとえ経済の成長が止まっても、その代わりに精神的なものや生活の質の問題に関心を向けられる高所得国のモデルになると考える学者もいる。日本は将来世界を征服するようなことはないであろうが、高齢化が急速に進む一方で快適な暮らしが遅れる、アジアにおけるスイスのような存在になりうると考える専門家もいる。」
いや、まったく、そうじゃないんですかね。
では、わしが日本は大丈夫だと思う理由をあげていこう。
(1)江戸時代、江戸市民は楽しく暮らしていた
直近の日本の封建制といえば、江戸時代ということになる。
江戸市民の暮らしはどうだったのだろうか。これについては多くの記録が残されており、江戸のほとんどの市民は豊かでなかったかもしれないが、それなりに楽しく暮らしていた。このことには異論はないだろう。
江戸という都市は、市民は小さな住居に押し込められていて、自分の家を所有している人はあまりいなかった。しかも未婚率が非常に高く、生涯独身という人が多かった。つまり、コトキンが描く暗い未来ということになるのだけれど、別に江戸の市民が悲観的に暮らしていたということはまったくない。市民はそれぞれに楽しみを見つけて、日々暮らしていたのである。
毎日の生活も、今の現代人では考えられないくらいに、仕事の量が少なかった。日中の半分くらい働いて、午後の早くにはもう仕事をしていなかった。(もちろん業種によるけれど)。
(2)農民も楽しく暮らしていた
江戸は大都市だから市民は楽しく暮らせた、しかしその陰で大多数の農民は税金を搾り取られて、自由のない辛い生活を強いられていた、などと考えるかもしれない。だが、それは間違いである。
ときの為政者は侍だったが、基本的に農民に関しては放ったらかしだった。住民台帳すらとっていなかった。(台帳はあったが、農民自身が管理していた)。自分たちのことは自分でせよ、ということで、農村は庄屋を中心に自治を行っていた。そして農村は意外にも豊かだった。
農村が豊かだったのは税金が低かったからである。江戸時代の最初に村ごとに納める税金が決まると、江戸時代のあいだ、変わらなかった。一方で新田や高額換金商品がどんどん開拓されたので、実質的な税率は低く、10%以下というところもあった。
農民は働き通しというのも間違いである。多くの農村では働かない休みの期間を設けていた。年間30日〜60日の休みがあった。
移動の自由もあった。というか、勝手に移動していた。農民が村ごといなくなったという話がある。家族で何年かごとにあちこちに移動したという話もある。(たぶん侍たちは気が付かなかっただろう)。
では、こうした状況で農民は何をしていたのだろうか。
基本的には遊んでいたのである。
祭りやスポーツなどのイベントは盛りだくさんで、きっと地域のヒーロー、ヒロインはたくさんいたに違いない。芸事などに励む人も多かった。旅行も、お伊勢参りとか、いろいろやっている。
参考:貧農史観を見直す
(3)日本人の基本思想はやり過ごすこと
欧米の哲学者は、自由とか平等とか、人間や社会の根本的な部分に思いを馳せるのかもしれないが、日本人はまずそんなことはしない。なぜなのだろうか。
ヨーロッパでは一番怖いのは人間自身、という発想になると思う。なにしろ、民族皆殺しの歴史が普通にあり、人が何10万人も死ぬという事件は人間が起こしている。アメリカでも人間が一番死んだのは南北戦争だろう。中国も何100万人も殺している。
このような状況では、人間とは何かについて考え、道徳や倫理、さらには政治体制を構築することでなんとかしようと考えるだろう。
でも日本で一番人が死ぬのは、人間が起こしたものではなく、地震などの災害である。地震とは人間にはどうしようもないことである。ここで人ができることは、なんとか厳しい状況をやり過ごすことだけである。
さらに、日本では政治的、社会的なひずみが溜まっている場合、地震などの災害を契機にガラッと変わってしまうことがある。人間が変えるのではなく、まるで自然の脅威が社会を変えていくように見えてしまう。安政の大地震や関東大震災が日本の歴史を変えたと養老先生が言っているとおりである。
そうなると、社会が変わるのは、人間がなんとかするような問題ではないのである。自然現象のようなものである。自然現象の一部だとすると、それに対処する基本方針はやり過ごすことである。変える必要はない。無理に変えなくても、社会はどうせ自然に変わっていくものなのである。だからそれをやり過ごすことが大切だ。
だから日本人は社会を変えようとするのではなく、勝手に変わっていく社会に適応しようとする。日本で侮辱的な言葉は、「間違っている」ではない。「遅れている」「古い」である。社会の変化に適応できないことをなじる。
このようなわけであるから、日本では新しい封建制が起こってもスムーズに適応するだろう。
なお、同じ理由で、日本では天皇制も憲法も永遠に変わらない。変えるということは原理から考えるということを意味している。日本人はそんなことはしない。そんなことをしなくても、勝手に変わっていくからだ。形式的には変わっていなくても、運用が変わり、実質的に変わっていくが、それを不思議と思わない。
さらに同じ理由で、戦争も反省しない。戦争を起こしたことも敗戦も原爆も特別大きな災害の一種だと思っている。日本沈没みたいな? 原爆はゴジラという荒ぶる神ということで納得している。自分は被害者として認識していて加害者とは思っていない。
参考:日本の歪み
(4)日本人は基本、享楽的
江戸時代の状況を読んでも、ほとんどの人は違和感を覚えないだろう。今の日本人、そのままだから(笑)。
今の日本人も、超富裕層かどうかに関係なく、自分のできる範囲で享楽的に生きていると思う。自分が生きている間、なんとかやり過ごして生きていければ幸せだ。
日本人はある程度の収入があれば、遊んで暮らせる人たちである。1億人がなにかにはまって生きていくならば、それは膨大な多様性が確保されているということである。そんな多様性があれば、世界に売っていくものは何かしらあるだろう。これからは日本は文化を売っていくのだから。
したがって、新しい封建制は日本人にとっては江戸時代に戻るだけのことで、それはそんなに悪いことではない。江戸時代に比べれば、まだ働きすぎのように思うので、ぜひもっと休みを取って遊んでもらいたい。お金がなければ、お金を使わない遊びをしてほしい。時間があればなんとかなる。
そして、政府にはベーシックインカム的な施策をどんどん進めて、遊ぶ不安を減らしてほしい。著者のコトキンは国家への依存を増やすことに反対のようだが、わしは別に構わないと思っている。すでに日本人は、健康保険と年金でどっぷり国家への依存を深めている。これをさらに進めてなにか問題があるのだろうか。何かあっても生きていけると思えれば、日本人の自殺も減るのではないか。
もう一度確認しよう。これからは日本人が遊ぶことそのものが日本の売りになる。日本はこれからは(これからも?)「文化」を売っていくのである。大いに遊ぼう。
(個人的にはもっとサイエンス、テクノロジーの分野で遊んでいただきたいです。科学こそが最高のエンタメだと信じています。国家支援、よろしくお願いいたします! そんなにたくさんでなくていいから、自由に使えるお金を研究者に配ってください)。
参考:中村元選集〈第3巻〉/東洋人の思惟方法〈3〉日本人の思惟方法