ウォルター・アイザックソン 訳・西村美佐子・野中香方子 文藝春秋 2022.11.10
読書日:2023.6.1
遺伝子を任意の場所で切断するクリスパ−・キャス9の発見で2020年のノーベル化学賞を受賞した女性科学者ジェニファー・ダウドナを主人公に、遺伝子編集の最前線とその影響を描いた本。
アイザックソンはたぶんクリスパ−・キャス9に衝撃を受けて取材を開始したのだと思うが、その後次々といろいろな事件が起きて、扱う材料には事欠かないという状況になった。
2018年にはこの技術を使って受精卵を編集するという倫理上の大問題となる事件が中国で起き、さらにコロナ・パンデミックが発生し生命科学者が対応に駆り出されるという出来事が起き、そして2020年にはノーベル賞が授与されたのだから(この本のエンディングとして申し分のない出来事だ)。内容は盛りだくさんで、これだけ話題沸騰の内容が詰まっているのだから、全米でベストセラーになるのも当然か。
では、クリスパー・キャス9とはどんなものなのだろうか。
わしはこれが遺伝子編集する技術ということは知っていたが、詳しいことは知らなかった。とくに遺伝子の切断すべき場所をどうやって特定しているのかということについては、よく知らなかった。(正確には、昔日経サイエンスで読んだことはあったが、忘れてしまった)。
クリスパー・キャス9と一言で言われるが、クリスパーRNAが場所を特定する酵素で、キャス9が切断する酵素だ。
クリスパーRNAがどうやって場所を特定しているのかというと、クリスパーRNAは切断対象となる遺伝子の破片をそのまま持っているんだそうだ。そして同じ並びの遺伝子を見つけると、切断を担当するキャス9にここだと教えるのである。だからクリスパーRNAが持っている遺伝子の破片を人間がいろいろ変えてやれば、任意の場所で切断できるということなのだった。なるほど、仕組みはものすごく簡単である。
これらの酵素は細菌から発見されたが、なぜ細菌はこんな仕組みを持っているのだろうか。それはウイルスに対抗するためなのだそうだ。
ウイルスは細菌の中に入ると、その機能を乗っ取って自己増殖して細菌を殺してしまう。しかし生き残った細菌がいると、その細菌はウイルスの遺伝子の断片をクリスパーの一部として記憶しておく。すると次に同じウイルスが侵入したとき、クリスパーはその遺伝子を認識し、キャス9がその遺伝子を切り刻んでずたずたにし、ウイルスの遺伝子を無効化してしまうのだ。
つまりクリスパー・キャス9は細菌の持っている免疫機構なわけだ。
この辺はダウドナ以前にもある程度知られていたのだが、この切断がいつも正確に働く条件が分からなかった。その条件を正確に求めたのがダウナドとその共同研究者のフランス人女性科学者エメニュエル・シャルパンティエの仕事だったのだ。実は切断には、もう一つ酵素が必要だったのだ。トレイサーRNAという酵素が必要で、キャス9が切断をするための足場を形成するのだという。(なおトレイサーRNAはクリスパーRNAを作るときにも必要)。
こうしてゲノム編集のためのすべての要素が確定した。
この発見をしたジェニファー・ダウドナとはどんな人物だったのだろうか。
ダウドナは父親の仕事の関係でハワイ島で少女時代を過ごしたが、そのころはハワイ島には白人があまりおらず、彼女は孤独な少女時代を過ごしたのだそうだ。そしてDNAが2重らせんであることを発見したジェームズ・ワトソンの本を読んで、科学者になることを決意する。じつはワトソンはロザリンド・フランクリンが撮ったDNAのX線写真を見て、らせん状だということに気がついたのだが、そのことは黙っておいて、先に発表したという逸話がある。ダウドナは本を読んで、フランクリンの話を知り、女性でも科学者になれるのだということに気がついたのだという。
科学者になったあと、ダウドナは高齢となったワトソンの知己を得るのだが、ワトソンは人種差別的な発言が相次ぎ、ついには科学界から追放されてしまう。学会に出られなくなったワトソンだったが、ダウドナと話をしたくて、著者のアイザックソンに彼女を連れてきてくれと頼むシーンがある。(けっこう物悲しいシーンだ)。
これはアイザックソンがどんな人物とでも良い関係を結ぶということをよく示すエピソードだ。実際、アイザックソンはこの本に登場するほとんどの人物と良い関係を結んでいる。主人公にしているダウドナとライバル関係にあってあまり関係が良くない人たち(フェン・チャンとその師のエリック・ランダーなど)ともアイザックソンは軽々と良い関係を結んでしまうのだ。そして彼は必要などんな会議にでも顔を出しているように見える。挙げ句には、実際に自分の手でゲノム編集を体験させてもらったりしている。
なんともノンフィクション作家には欠かせない気質を持っているとしか言いようがない。
共同研究者のエマニュエル・シャルパンティエは子供の頃バレリーナを目指した、自由と放浪を愛する科学者として表現されていて、二人の女性の微妙な関係にもアイザックソンは隠さない。
ダウドナとシャルパンティエの共通点は、人のやっていないことに勝負をかけるというところだろうか。DNAではなくて、他の人がやっていないRNAを研究することにしたところにそれが表れている。やはり成功するには、競争が激しすぎるレッドオーシャンには入らないということが大切だ。
(なお、題名のコードブレーカーのコードは、遺伝子コードとプログラミングコードを掛けている。つまり遺伝子をプログラミングのように自由に構成するという意味を含ませているわけだ)。
★★★★☆