ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

新しい封建制がやってくる グローバル中流階級への警告

ジョエル・コトキン 訳・寺下滝郎 解説・中野剛志 東洋経済新報社 2023.11.14
読書日:2024.2.24

一握りの超富裕層が世界の富の大半を握り、グローバル社会のなかで中流層は没落してデジタル農奴となり、このような状態が世襲化して引き継がれる結果、社会的な流動性がなくなり、階級が固定化して、中世の封建制に似た世界がやってくると警告する本。

まあ、このような格差が広がって、しかもそれが世襲されて固定化するという話は今では珍しくないのだが、それを中世の封建制と比較しているところが新しい。

ヨーロッパでローマ帝国崩壊後に封建制が誕生した経緯は次のようなものだったそうだ。ローマ帝国が滅びると、治安も崩壊して、自営の農家が身を守るすべがなくなってしまう。そこで、農地を手放して有力な豪族の庇護下に入る。その結果、移動の自由を含むすべての自由がなくなり、農奴となり、ここに階級が固定化されてしまう。

現代でもまさに同じようなことが起きているというのだ。

と言われても、わしはだからどうした、という感じで読んでいた。しかし、このような未来は今のカリフォルニアですでに起きているといい、その様子を具体的に述べているのだが、それがけっこう戦慄すべき状況なのである。

かつて「黄金州」と呼ばれてチャンスの国であったカリフォルニアだが、いまでは格差が拡大して、その格差は全米で最悪にちかく、南米のグアテマラホンジュラスに似た状態だという。アメリカの生活保護世帯の3分の1がカリフォルニアにいるそうだ。そしてカリフォルニアの住民の3分の1が貧困ギリギリで毎月の請求書の支払いで精一杯であり、子供の45%が標準以下の住居に住んでいるという。ロサンゼルスは貧困率が全米の有力都市の中で最悪であり、衛生環境が悪化して、チフスなどの中世で流行った感染症が増えているのだという(まさか!)。

カリフォルニアの経済は拡大しているが、その経済発展はシリコンバレー周辺に極端に集中している。しかしIT企業の雇う人数は少なく、しかも市民権を持たない一時滞在者が40%を占める一方、一般市民は置き去りにされ、仕事があってもほぼ請負契約で働いていて収入は極端に少なく、トレーラーハウスに住み、30%が何らかの公的な支援なしには生活できない。シリコンバレーには全米で最大規模のホームレスの野営地がある。安くて良好な賃貸住宅はすでに崩壊している。

では、シリコンバレーで働いている技術職ならば大丈夫かと言うと、そうではない。グーグルは社員のために会社の近くに寮を建てているそうだ。そうすると、グーグルを馘首になると、とたんに住むところがなくなってしまうのだろう。彼/彼女は会社の奴隷となって働かなくてはいけなくなる。まさしく農奴である。高給をもらっていても、高い物価と税金のせいで、その生活レベルはかつての中流と変わらないという。いい生活をしているのは、テックオリガルヒと呼ばれるエリートだけである。

面白いと思ったのは、かつてのローマ帝国では、周辺の農地に奴隷を連れてきて働かせた結果、仕事を失った市民がローマ市内に入ってきて、30万人が帝国の提供するパンで生活していたそうだ。いわゆる「パンとサーカス」の政策なんだけど、当時のローマの人口は100万人程度と言われているから、30%に仕事がなく政府の公的支援が必要だった。この数値はいまのカリフォルニアの状況と近い。すると、今の状況はやはり新しい中世へ向かう一歩手前という状況なのだろうか。

中世では宗教が大きな役割を果たしていているが、現代でこの役割を果たしているのが、グリーンとかSDGsなどだという。中世の宗教では司教が贅沢をしながら貧乏人に来世を約束して現世を耐えるようにと主張するが、現代のグリーン教のひとたちは、プライベートジェットでダボスに駆けつけながら、自分たち以外の人達にエネルギーを使わないように主張する。しかし彼らはそれをなんとも思わないのだそうだ。なぜなら、炭素クレジットという贖宥状(しょくゆうじょう=免罪符)を購入することで、彼らは自分たちがグリーンに貢献していると主張できるからで、これは中世の金持ちと同じである。このような現代の聖職者と言えるのが、「有識者」と呼ばれる知識人たちだ。

このような未来は、SFの「すばらしい新世界」(ハクスリー)が参考になるという。エリートとそれ以外に分かれた世界だ。(やっぱり読まなきゃなあ、これ)。もちろん、現代では「有識者」のエリート層とそれ以外のデジタル農奴に分かれているんだそうだ。デジタル農奴たちは、わずかな公的支援ベーシックインカムなど)と引き換えに、デジタル情報を売り渡すデジタル農奴になるのだそうだ。

なるほど。言いたいことは分かる。

しかしわしの思うに、著者のコトキンは、経済的に自立しておらず、公的支援を受けるような人たちは、ローマ時代のパンとサーカスローマ市民と同じように、よろしくないという感覚が強すぎるような気がする。だが、わしは、個人的には今後の社会は、生きていくのに基本的な食料や住まいは無料に近づいていくと思っている。だから経済的な自立の程度はあまり気にしなくてもいいと思う。(そもそも有機体的な社会の中で、経済的自立って言ったって、完全な自立はありえないし)。

グーグルやマイクロソフトなどの巨大テックだって、全然永遠の存在じゃない。30年後に彼らがどれだけ力を持っているか、確信できる人はいないだろう。そしていくらエリートたちが富を集めても、100%以上は集められない。そしてもしそうなったら経済は破綻し、彼ら自身も貧乏になってしまう。だから、いくらなんでも富の集中には限度がある。

そしてなにより、彼らは国家の下にある。彼らの集めているお金は、国家の管理下にあるのだから、国家には逆らえない。中国で共産党にアリババもテンセントも逆らえないように。だから、富が集中していることよりも、権威主義国家ではなく民主主義国家であることのほうが重要だ。そして巨大テックにはきちんと税金を払わせることが大切だ。それができなければ、独占禁止法などで解体することだって国はできる。

わしは今後、世界人口は21世紀後半にピークに達したあと、減少すると思う。いま先進国や中国でおきていることは、その先駆けなのだ。もしかしたらピークの半分ぐらいになるかもしれない。その時代では、ふたたび人の価値が上がるだろう。中世のヨーロッパでペスト(黒死病)で人が減った結果、人の価値が上がったように。

そして、わしは日本人はこういった「デジタル封建制」というか、「ハイテク中世」というか、こういう世界と極めて相性が良いと思う。世界は、次の時代では、日本の経済ではなく、日本人の生き方自体に希望を見出す可能性があるんじゃないだろうか。

この本を読んで思ったのは、じつは危機感ではなくて、日本の時代が来る予感でした。

★★★★☆

なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた

養老孟司 聞き手・鵜飼哲夫 中央公論社 2023.11.25
読書日:2024.2.25

養老孟司が自分の過去を振り返った語り書きの自伝。

養老孟司って、わしにとっては「バカの壁」で突然出てきた人のように見えていたけど、なぜ東大の解剖学の先生がこんな感じで世の中に出てきたのかさっぱり分からなかった。でも本当に養老先生って、子供の頃からずっとこんな感じだったんだね。笑える。東大引退後の虫を採っている養老先生の姿をテレビで見て、母親が、「お前は子供の時からちっとも変わっていない、安心した」と言ってたのだそうだ。

子供の時と同じように、いまでも多くの時間を集めた昆虫の標本作りに費やしている。本が売れて、お金が入ったので、箱根の別荘でそれをやっているけど、きっとお金が入っていなくてもやっぱり自分の家で同じことをしていたんでしょうね。

虫については積極的だけど、それ以外はほぼ受動的で、自分から積極的に働きかけるという感じがあんまりない。キャリアについても、本当は昆虫学者になろうと思って、じつはハワイの研究所に就職もほぼ決まっていたんだけど、病気で倒れた母親が懇願したので、折れて医者になっている。父親が亡くなって母子家庭だったから、逆らえなかったらしい。そして医者になってみたら、臨床はあまりに責任重大で苦手だった。それに患者は良くなったら戻ってこないので、しつこく考える性質の先生は気になって、こういうところも合わなかったそうだ。

臨床が苦手だったけど、人間に興味があったので精神科へ行こうと思ったら、そのころは精神科の人気が高くてくじ引きで外れたんだそうだ。それで、人気のなかった解剖の方に行くことになった。けれど、死体は動かずにいくらでも調べることができるので、結果的に自分に合っていたのだそう。こんなふうにキャリアはまったく受動的に決まっていった。

いまでも、自分からしかけるということはなく、基本的に来た仕事はぜんぶ引き受けるんだそうだ。どうしてかと言うと、自分で仕事を選ぶということは自分で基準を作って選択するということだから、そんなことは面倒くさいから。なんとも受動的。

というわけで、きっと養老先生は、編集者にとって極めて使い勝手のいい媒体ということになるのだろう。どうも編集者が養老先生をうまく使ってベストセラーを作ってきたということらしい。

というわけで、ほんとうになるようになってきたのである。

とは言っても、文化人としての養老先生は、やっぱり読書の賜物のようだ。子供の時から本はずっと読み続けていて、いまでも暇があるとやっぱり本を開いてしまうんだそうだ。

そしてしつこく考えるところも、昔かららしい。数学のわからない問題があると、一週間ぐらい考え続けたらしい。一晩眠ると、忘れてしまうから、また最初から考えるのだそうだ。この、一度忘れてしまうというのが勉強にはよかったそうだ。もう一度ゼロから考えるということだから。こうやって、勉強らしい勉強はしていなかったのに、成績は1番だったそうだ。

でも、養老先生の知力はどちらかというと原理を考えるというよりも、博物学的なものだと思う。きっと昆虫採集の延長なのである。だから生物学や数学のようなものはいいけれど、物理学は苦手だったそうだ。これではいけないと、大学院に入ってから物理学の勉強をやり直したそうだ。

解剖学に入ったら、世間が死をないものにしようとする傾向があるのに疑問を感じて、日本人の歴史を振り返っている。そうやって、日本人は歴史的に、肉体的な時期と脳的な時期を繰り返しているということを発見する。これが文化人としての最初の成果なのかな。

また、夜は酒場に出かけていろんな専門家の話を聞いて勉強するようになる。こうして現代の解剖学の意義について考えたんだそうだ。この付き合いがのちのち役に立ったようだ。

文化人の養老先生はこんなふうに誕生したらしい。当時は100万円もするワープロも買って、自分で文章も書くようになった。ただし今では話したことを編集者がまとめるのがほとんどのようだ。この本もそう。

日本の歴史を振り返った成果としては、大災害のあとに大きく変化する傾向があることも発見したんだそうだ。日本が急速に軍事化に向かったのは、関東大震災が影響しているという。また明治維新も、1855年の安政の大地震が影響しているという。

こんなふうに災害で世の中が大きく変化するので、日本人は社会の激変も仕方がないと受け入れる素地があったと考えているようだ。敗戦も仕方がない、と、まるで災害のように考えているふしがあるという。

この本では、敗戦時の日本人の楽観的な様子をいまでも不思議だと言っているのだが、単なる災害と思っているから楽観的だったのだ、でいいんじゃないの? 歴史的な責任とか考え出すと面倒なことになるけど、災害史観では責任は問われない。

うーん。ともあれ、羨ましいくらい、悠々自適だなあ。

★★★★☆

恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ

川上弘美 講談社 2023.8.22
読書日:2024.2.4

アメリカからの帰国子女の作家、八色朝見が、アメリカ時代の友人たちとゆるく長い付き合いを続けながら、老境にいたる心境を綴ったもの。

小説としては、初・川上弘美である。エッセイは「私の好きな季語」というのを読んだことがある。「センセイの鞄」は小泉今日子の映画で見ただけである。で、小説家の川上弘美はよく知らなかったのでウィキペディアで調べてみると、なんともともとSF系の人で、現実と幻想が交じるタイプなんだそうだ。いまでは純文学はSFっぽくないといけないかのようだから、SF出身というのは、まあいいのかもしれない。あまりにSFやファンタジーの発想が純文学に浸透しすぎていて、ちょっとなんだかなあ、という気がしないでもないが。

この小説でも、2歳年上のアンという女性が、パラレルワールドに飛ぶという話が出てくる。気がつくと少しだけ違う世界に飛んでいるんだそうだ。これまでの人生で3度、飛んだそうだ。

SFって日本ではあんまり売れていないみたいだけど、今後はこうして純文学として生き残っていくのかしら? なんかちょっと嫌だなあ。だって純文学に出てくるSF的なものって、やっぱりSFじゃないんだよね、当然だけど。単にふしぎ風の感覚を醸し出しているだけみたいな。

子供時代のカリフォルニアの思い出から始まって、数ヶ月に1回会うか会わないかの還暦までの関係をゆるゆると書いて、お互いに深く踏み込むこともないし、結婚や離婚を経験して、というようなことが書いてあって、面白いか面白くないかというと、とても面白いんだけど(いや本当に)。でも、純文学はいいから、ちゃんとしたSFを書いてほしいなあ。

それにしても、わしは本当に文学にうとすぎるなあ(笑)。いや、まあ、SFですらそんなに読んでいないんですけどね。

★★★★☆

 

アガサ・クリスティ とらえどころのないミステリの女王

ルーシー・ワースリー 訳・大友香奈子 原書房 2023.12.25
読書日:2024.2.23

遺族が提供した資料を交えたアガサ・クリスティの最新評伝。

母親がミステリ好きだったこともあって、わしの実家には結構ミステリがあったので、アガサ・クリスティももちろん読んだ。たぶん最初に読んだのは「アクロイド殺し」だったと思う。で、面白かったかと言えば、あまり面白くなかった。わしはミステリを読んでも、面白いと思ったことはほとんどない。(例外はシャーロック・ホームズ。これは気に入った)。

そんなわしでも、アガサ・クリスティがいまだ人気だということは知っている。ほとんどの作家に言えることであるけれど、ミステリ作家は使い捨てである。亡くなると読まれることはない。わしはエラリー・クイーンっていまだにミステリの古典なのかと思っていたが、本国のアメリカでは忘れられた作家なんだそうだ。売れているのは日本だけらしい。なのに、アガサ・クリスティはまだ世界中で売れているのである。何が違うのだろうか。

こういう話になると、すぐにブランド化に成功したから、などという説明がつくことが多い。でも知りたいのはなぜブランド化に成功したのか、そしてなぜブランドの魅力が衰えずに今でも売れているのか、ということだ。

アガサは最初の一作目はなかなか売れなかったが、安いお金で働いてくれる作家を探していた出版社に買われるとすぐに人気作家になった。

おそらくアガサが人気だったのは、内容がちょっとスキャンダラスだったからだ。彼女はこれまで当然と思われてきた約束事を破ることに躊躇しない。たとえば「アクロイド殺し」では信頼できない語り手(語り手が犯人)、という新ジャンルを開拓した。また、子供が犯人というジャンルも開拓した。彼女は新しいフォーマットを創造したのである。このような賛否両論の起こるような作品を書いて評判にならないはずはない。

そして本人自身もなかなかスキャンダラスだった。1926年の失踪事件は、いろいろな経緯があったにしても、イギリス中の話題になった。これによって謎めいた雰囲気に磨きがかかって、ますます売れるようになった。

そして、毎年、必ず何冊か本を出した。たゆまず新作を出し続けるというのは、ブランド化に必要なことだ。これはきっと若い頃に家が破産して、お金に苦労したからだろう。休むことを嫌っているのだ。そして、本人はこれは仕事だとはっきり認識していた。

そして彼女には、なぜか人生が苦境になると傑作を出すという習性がある。おそらく創作の世界に逃げ込んでいるのだろう。だけど、集中できるものがあるというのは幸いだし、それが結局彼女の場合はプラスになった。

つぎに文章の特徴だが、その時代のみに通用するような内容を入れないのだ。つまり、アガサの小説は、キャラクターだけで成り立っていて、情景描写は少ない。本人もできれば会話だけで書きたいくらいといっている。(なので、実際に脚本もけっこう書いていて、「ねずみとり」はロングランの記録を作っている。)。

そういうわけなので、こういうキャラクターのみの小説は、その時代特有のものが少なく、いつでも感情移入ができるので、古びず、時代を越える可能性が高いと言えそうだ。またキャラクターもちょっとだけ世間の動きを先取りしていた(とくに女性)。そして、そのようなキャラクターで成り立っている作品は映画やテレビドラマにも最適だということだ。時代背景ではなく、俳優の魅力で話をすすめることができる。なので、映画やドラマになるたびに、また本が売れるのである。

もうポワロはさすがに厳しいかもしれないけど、ミス・マープルはこれからもキャラクターとしては使えるんじゃないかと思う。きっと再ドラマ化されるんじゃないかな。

**** メモ *****
知らなくて、ちょっとびっくりしたこと。
(1)教育レベルは高くなかった
大学に行っていない。へー、そうなんだ。
(2)とてもモテた
若い時たくさんの求婚があったそうだ。でもちょっと子供っぽいパイロットのアーチーに猛烈にアタックされて、結婚。その後、浮気されて離婚。離婚後もモテて、再婚。
(3)家マニア
家を買うことが趣味みたいになって、最大で8件の家を買った。
(4)旅行好き
これは別に意外ではないが、旅行先の話は必ず小説に取り入れていた。これは税金対策で、旅行費用を経費で落とすため(苦笑)。
(5)子供は嫌い
自分の子供の面倒はあまりみなかった。
(6)子供時代は裕福だった
実家は破産する前はとても裕福だった。そのころの裕福な暮らしをずっと続けようとしていたので、じつはいつもお金に苦労していた。(高税率のイギリスだけでなくアメリカにも納税しなければならず、いつも税金に苦労していた)。
(7)どこにでもいる主婦を演出
失踪事件後、マスコミに追いかけられて嫌気が差したので、どこにでもいる主婦の雰囲気を醸し出し、皆に気付かれないことを楽しんでいた。職業欄には必ず「主婦」と書いた。

★★★★☆

裁判官の爆笑お言葉集

長嶺超輝 幻冬舎 2007.3.30
読書日:2024.2.18

裁判所の傍聴マニアが、裁判官の印象に残ったお言葉をまとめた本。

爆笑と書いてあるけど、それはほとんどない。いくつかクスッと笑えるものがあるだけだ。裁判なんておおむね深刻な状況だから、そもそもそんなに笑えるものにはなりえないのだ。

というわけで、題名に偽りありだなあ、と思っていたのだが、読んでいて古い事例が多すぎるなあと気がついた。不審に思って、奥付をみて驚いた。この本は初版が2007年と古い。そして、わしが読んでいた本は2023年の第33版だったのだ。

えーっ!

ネットで調べてみると、本書は累計35万部以上、シリーズ累計で100万部前後の発行部数で、それ自体がニュースになっていた。

著者は司法試験を目指して残念ながら落ちて、でも裁判が好きで通っていた人だそうだけど、いやー、これは本当にひと財産作りましたねえ。著作権は死後も50年間保護されますから、著者は子孫にいい財産を残しましたね。

というわけで、本の中身よりもそっちに驚きました。(正直あんまり面白くないし)。

全然知らずに、図書館に予約しましたけど、何ヶ月も待たされましたよ。いやはや。

★★☆☆☆

ナチュラル・ボーン・ヒーローズ 人類が失った”野生”のスキルをめぐる冒険

クリストファー・マクドゥーガル 訳・近藤隆文 NHK出版 2015.8.30
読書日:2024.2.7

BORN TO RUN」で、人間はもともと走るようにできていることを語った著者が、その他に人間がもともと持っている野生の能力をクレタ島の人たちの身体能力を中心に語った本。

「BORN TO RUN」ではウルトラマラソンに挑戦する人たちが出てきて、人間はなぜこんなに走れるのかと問い、もともと人間は走って動物が熱中症で動けなくなるまで追いかけるような猟をしていたということを語る本だった。(そしてもともと裸足で走れるような身体構造をしているのだから厚底シューズは必要ない、とかも)。

でも、人間の失われた能力はそれだけじゃない。

というわけで、今回もクリストファー・マクドゥーガルは自分が体験したさまざまなことを関連付けて(けっこう無理無理だけど(笑))、一本の筋にまとめ上げたのが、これかな。

今回、人間がもともと持っていると主張するスキルは、(1)炭水化物の糖の代わりに体の脂肪を燃焼させる方法(たぶんケトン体代謝と同じ)、(2)身体を覆っているゴムスーツのような筋膜を使った効率的な身体の動かし方、そして(3)パンクラチオンという格闘技の話(もともとは戦場における何でもありの格闘技)、なんかが出てくる。

これがすべてが関係する土地として、クレタ島が出てくるのだ。クレタ島はミノス文明という古代文明の発祥の地でもあり、地中海食として有名になった食事はもともとクレタ島で発見されたものだったし、西洋の格闘技の原点であるパンクラチオンの発祥の地でもある。

クレタ島は第2次世界大戦でナチスドイツの占領に強硬に反抗した島であり、ナチスドイツは8万人という兵士をこの島に釘付けにされて、ロシアへの攻撃が遅れたことがドイツ敗因のひとつにあげられているそうだ。当時、そんなクレタ島を英国も最大限援助した。その島では、英国の諜報機関がドイツの将校を拉致してエジプトまで連れて行った、という事件も起きている。そしてこの拉致事件がどんなふうに行われたかというのが、よく分かっていないのだ。

著者は身体の話とは別にこの拉致事件の解明に夢中になる。

イギリスはご承知の通り、誰も取り組まない沼にハマる人たちが多いところで(この辺は同じ島国の日本とそっくり)、同じ問題に取り組んでいるイギリス人たちと一緒にクレタ島に行く。そこで発見したのは、クレタ島は山がちで岩だらけの土地だが、その土地を高速に移動できる人たちがいるということである。当時、この島のあちこちに英国情報部の拠点が置かれ、その間をクレタ島の住民が伝令となって情報を運んでいたのだそうだ。ほとんどまともな食事もしないまま、東西200キロの普通の軍隊が活動できないような厳しい地形の山岳地帯を伝令が跳び回っていたのだ。

超人的な活動だが、彼らは島の普通の羊飼いなのである。彼らの身体はどうなっているのか。

(1)地中海式の食事では穀物はあまり取らずに、タンパク質と脂肪の摂取が中心になる。したがって、彼らは糖分でなく脂肪を燃やすことでエネルギーを得ていたのだという。脂肪からエネルギーを取り出す場合、脂肪の蓄積は多いから長時間の活動が可能となる。(2)岩がちな山を越える動きは、筋肉ではなく、身体のバネを使った効率的な動きをする。このバネは筋肉ではなく、筋肉を覆っているゴムスーツのような筋膜をうまく使った動きだ。この動きは現代のパルクールとも一致している動きなのだという。この人間が自然に持っているバネの動きは、格闘技にも応用されているそうだ。

というわけで、クレタ島拉致事件の真相の解明と、運動の話が交互に話される。

まあ、最初に述べたとおり、ちょっと無理やり感はあるんだけど、どちらの話もそれなりに面白かったです。とくにイギリスの諜報部の面々が、普通なら使えないハグレモノたちの集団だったというのが良かったかな。

印象的だったのは、脂肪を燃焼させる仕方を身につけた運動生理学のノークス博士が、ちっとも空腹を覚えない身体になったという話かな。脂肪たっぷりの食事をとると、二日間ぐらい食事なしでも食べていないことに気が付かない身体になるんだそうだ。うーん、これはなかなか便利かも(笑)。

もちろん、拉致事件の詳細も解明されます。

★★★★☆

 

万物の黎明 人類史を根本からくつがえす

デヴィッド・グレーバー デヴィッド・ウェングロウ 訳・酒井隆史 光文社 2023.9.30
読書日:2024.2.17

農業の始まりが私的所有と不平等を生み、ヒエラルキーが形成され、都市や国家を生んだというビッグヒストリーの思い込みを破壊し、近年の考古学や人類学の研究の進展から、人類は過去にいろいろな社会を自由に実験しており、今後も社会的な実験を行う自由を放棄する必要はないと主張する本。

この本を読んで、なんでデヴィッド・グレーバーは亡くなっちゃったんだろう、と本当に思う。生きていれば、もっといろいろなことを教えてくれただろうに。彼はこの本を完成させて、3週間後に亡くなったのだそうだ。でも、この本を完成させてくれて本当に良かった。それに、いまでは双子と言えるくらいに、同じ思想を受け継いだもうひとりのデヴィッドも世界に残してくれた。本当にありがとう、デヴィッド・グレーバー。

二人のデヴィッドが10年という歳月をかけて完成させたこの本が多くの人から称賛を浴びているのは、二人が突拍子もないことを言っているわけではないということがあると思う。

とくに考古学上の新しい発見が重なるにつれて、何かしっくりいかない、というもどかしい状況が続いていたんだと思う。それは、例えば日本の三内丸山遺跡のような縄文時代の大規模な集落の遺跡である。このような農業以前の新石器時代の遺跡が世界中で発見されている。その考古学上の発見の内容はあまりにバラエティに富んでいて、

穀物を作る農業→余剰による私有財産と格差の発生→国王と国家と都市の誕生

というこれまでの歴史の流れを示すセントラルドグマにうまく合わないのだ。なにしろ農業以前にこのような大集落が誕生している事自体がこれまでの常識に反している。

そもそもこの仮定自体が、ルソーの空想的な原始の人類から来ている。ルソーの空想的な前提はこうだ。原始の時代、人類は平等だった。なにも財産と言えるものがなかったからだ。地球全体が誰のものでもなかった。ところが農業が始まると、勝手に土地を区画し、ここは自分のものだと主張するようになった。こうして私的所有が発生し、持つものと持たざるものに分かれ、ここから不平等が発生したのだという。農業が不平等の起源だというのだ。

二人はこの課題設定自体がおかしいという。そもそも「不平等の起源は何か」と課題を設定した時点で、最初は平等だったという仮定が含まれてしまっているからだ。

しかも農業がそんなに魅力的だったなら、それを手にした人類はすぐに農業に邁進するはずである。ところが、農業らしきものが発明されてから3000年以上も、穀物中心の農業革命に突き進むことが起こらなかったのだ。これは有名なパラドックスで、たとえばジェームズ・C・スコットが「反穀物の人類史」でこの謎に挑んでいる。

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実際はどうだったのかというと、狩猟採集民にとってコムギやマメなどの栽培は、多くある選択肢の一つで、やってもやらなくても良いものだったのだ。つまり遊びの一種だったのだという。実際に栽培をしていた部族の隣の部族では、農業というものを実際に見て知っていたにも関わらず、自分たちはしない、と決めた部族がいたり、やっていたのにそのうちにやめてしまったという例もある。

結局、穀物を必死に作っていたのは、穀物を作るぐらいしかやっていきようがなかった土地に住み着いた人たちだったというのが、二人の理解のようだ。そういうわけなので、農業が不平等の起源というのは端的に間違っているという。もともと平等でも不平等でもなかったというのがふたりの回答なのだ。

なるほど、農業が起点ではないといことは認めるとしよう。しかし、たくさんの人が集まった、それこそ人口が数万人規模という遺跡が世界で多数発見されている。このような遺跡には大勢の人がいるのだから、それを管理するためには何らかの官僚組織が必要だろうし、意思決定を素早くするには首領や国王といった存在が不可欠なはずだ。つまり、何らかのエリート層とそれ以外の社会階層が誕生していただろう、と考えるのが妥当なのではないだろうか。

つまり、人口の規模によって、

バンド(数百人程度)→部族(数千)・首長制(数千〜数万でエリート階層出現)→国家

という流れだ。これは文化人類学におけるセントラルドグマだ。

さて、首長、あるいは官僚のような特権的なエリート階層が発生したかどうかは、そのための建造物があるかどうかで判断できる。墓や宮殿、寺院のような広く特別な場所だ。一定規模以上の集落や都市にはこのような特別な場所が必ずあるはずだった。

ところが、数万から大きいと10万人に達するような巨大都市が発見されているが、そのような特別な場所がまったくない都市がたくさん見つかっているのである。都市はちょうど一家族分の規格化された土地に区切られ、大量の同じような家が作られ、みな平等なのである。まるで現代の団地のようである。ただの住宅の集合体のように見えるため、遺跡とは呼ばれずに「メガサイト」と呼ばれている。(ウクライナのネベリフカ、メキシコのテオティワカンなど)

このようなメガサイトはどのように運営されていたのだろうか。証拠はまったくないが、例えば地区ごとに自治が行われ、全体の意思決定が必要なときには地区の代表が集まったのだろうと推測されている。つまり皆が平等で、民主的に、交代で運営されていた可能性がある。

いっぽう、最初はたくさんの人を集めていたけれど、エリートが出現し管理が厳しくなると、とたんに人が消えてしまったらしいメガサイトもある。つまり、メガサイトに住んでいた人たちには、管理されそうになると、それに反抗し逃げるという自由があった。

さらに新石器時代では、普段はバンドごとに散り散りになっているが、特定の時期だけに特定の場所に集まって季節的な大集団になるという形態も存在していた。このような場合は、集まっているときには首長に大きな権威があるように思えるけど、その時期が終わってしまうとその権威はまったく失われてしまう。彼の周りは無人になってしまうのだから当たり前ではあるが。

つまりこうだ。新石器時代の人たちは、自由にいろいろな社会構造を試しており、こうでなければならないという制限はないのである。

ところで、管理されるのが嫌だと逃げたとして、彼らはどこへ行ったのだろうか。行くところがあったのだろうか。

しかし、現代にいるわしらから見ると驚くほど大胆に彼らは移動していたらしい。この農業以前の時代の人達は、とても長距離の旅をする人たちだったのだ。それこそ、大陸をまたいで移動することも珍しくなかった。

これはアメリカの例だが、ネイティブアメリカンの人たちは、クラン制度というものを構築していて(クマとかイヌとか動物をモチーフにしていた)、他の部族に行っても同じクランの人たちがいることが期待できたんだそうだ。そして同じクランの人たちは仲間として世話をしてくれることになっていたという。たとえ言葉がわかりあえなくても問題なかった。だから気軽に移動ができたそうだ。

(なお、この本にはアメリカの話がたくさん出てくる。なぜなら、アメリカとユーラシアは人の行き来がなかったので、独立した歴史を持っているから、比較対象として都合が良いからだ。)

つまり農業以前の世界には、次のような自由があったという。

(1)移動する(逃げる)自由
(2)命令に従わない反抗する自由
(3)いろいろな社会的現実を試す自由

の3つである。
さすがアナーキストとして有名なデヴィッドの発想、という感じがするのはわしだけではないだろう(笑)。

この中でいちばん重要なのは、(1)移動する自由、であり、これが損なわれると、(2)の反抗することは難しくなり、さらには(3)のいろいろな社会を試すことも不可能になる。

だから二人は、課題設定を行うのなら、ルソーのような「平等が失われたのはなぜか」ではなく、「自由が失われたのはなぜか」というほうがふさわしいという。「不平等の起源」ではなく、「閉塞の起源」を問うべきだという。

では、なぜこのような自由が失われてしまったのだろうか。

じつはこの答えははっきりと書かれていない。それはこれからの課題だ。しかし、社会構造は家庭の構造を反映している、と二人は考えている。家族制でもっとも抑圧的なのは家父長制である。したがって、自由が失われてしまったのは家父長制の誕生と関係があると考えているようだ。

農業以前の自由な時代、決して女性の地位は低くはなかった。それどころか、女性が中心になって政治を行っている集団もたくさんあった。それに農業革命は植物を栽培をしていた女性が引き起こしたものと考えられている。しかし家父長制が誕生すると女性の地位は下げられてしまった。

家父長制がどのように誕生したか、それもよく分かっていない。しかし、二人のデヴィットは興味深いヒントをフリッツ・シュタイナーの研究から導いている。シュタイナーは奴隷制度に至る前の前奴隷制度について検討している。それによれば、奴隷化はおそろしいことに慈善(チャリティ)から始まるのだという。

首長の宮殿には、負債や過失などから一族から追われたもの、漂流者、犯罪者、逃亡者など何らかの原因で居場所を失った人たちが集まってくるという。そのような難民は最初は歓迎され神聖な存在として扱われるものの、徐々にその地位を下げられていく。彼らはどこにも行き場がないから集まってきたわけで、そのような扱いをうけてもどこにも行きようがない。このようなどこにも行き場のない人たちを家族に組み込めば、家父長制度の誕生となる。

そういえば、DVをするような男性は、自分に逆らえない女性を妻にすることはよくあることですよね。

(なお、ジェームズ・C・スコットは「反穀物の人類史」で、メソポタミア都市国家は城壁に囲まれているがこれは防衛のためではなく、戦争で捕虜にした奴隷を逃さないため、としている。移動の自由を国家が制限しているわけだ。これも証拠はないけど、有り得そうな話。)

***メモ1 国家誕生のモデル***
二人のデヴィッドは国家誕生のモデルを載せているけど、わし的にはいまいち説得力がない。
でもまあ、せっかくだからここにメモを残しておく。

二人によれば、国家は三つの原理から成り立っているという。
1.暴力の統制(主権) 2.情報の統制(行政管理) 3.個人のカリスマ性
どれかひとつでも成り立っていれば、人が集まってくる。これを「支配の第一次レジーム」と呼ぶ。それに残りのうち1つが加わると、「支配の第二次レジーム」となり、国家は少なくともこの第二次レジームの要素を持っているという。そして、三つとも持っていれば「支配の第三次レジーム」となり、支配が完成する。

***メモ2 ホッブスについて***
人類の社会の起源については、ルソーよりも前にホッブスの理論がある。人間はもともと利己的で「万人の万人に対する戦い」を繰り広げているという考え方だ。これもルソーに負けずに空想的な人間社会の起源であるけれど、こちらについてはルソーより害が少ないと二人のデヴィッドは考えているようだ。なぜなら、ホッブスは最低の状態から出発して、マシな状態を人間の知恵で作っていこうという話なので、そのような社会を考えればいいだけだからだそうだ。

ところがルソーの場合は、最初がもっとも良くて、文明が進めば進むほど悪くなり、それを少しでもくい止めようという話なので、今の状態はひどいけれど、なにか手を尽くしてもほんのちょっと良くなるだけだよ、という言い訳に利用されているようだ、という。

もちろん、ホッブスの出発点も、実際とはまったく異なるので、二人は否定している。

個人的には、わしはホッブスは許せるけど、ルソーの発想は生理的に受け付けられないな。ルソーは読んでいると、気分が悪くなる。そもそも、昔はよかったという話は好きになれないの。

***メモ3 野生種の栽培種への移行期間***
農業への移行がなかなか進まなかった理由に、コムギなどの野生種が栽培専門の種に進化するのに時間がかかったから、という説明があり得る。1980年代に実験が行われ、野生種が栽培種になるのに、20〜30年ぐらいしかかからないことが確認された。余裕を見ても、数百年で進化は完了したはずだという。なので、生物の遺伝的な理由ではない。

「善と悪のパラドックス」に出てきたベリャーエフのギンギツネの家畜化の実験が思い出される。

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