ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

検閲官のお仕事

ロバート・ダーントン 訳・上村敏郎、矢谷舞、伊豆田俊介 みすず書房
読書日:2024.2.8

フランス、英領インド、東ドイツの検閲の実際を調べて、検閲とはなにか、検閲官はどんなふうに検閲という仕事に関わったのか、ということを比較した本。

ロバート・ダーントンの名前を聞いたのは、「猫の大虐殺」以来である。わしもこの本を読んだ覚えがある。でも細かい中身はすっかり忘れてしまった(笑)。なにしろ読んだのは20世紀だからなあ。(なお、新装版が2007年に出ております)。

まあ、細かい中身は忘れたけど、とりあえず、ダーントンの得意技は、無味乾燥な資料のなかから生きている人間の息遣いを復活させることで、今回もほとんど誰も見ないような細かい資料に深く入り込んで、それぞれの国の検閲官の考え方、実際の仕事を再現しているわけです。

その資料とは、18世紀のフランスはバスチーユとフランス国立図書館のアニソン=デュペロン・コレクションおよびパリ書籍商同業者組合コレクション、19世紀の英領イギリスはインド高等文官の文書資料館、20世紀の東ドイツは高等学術研究所とドイツ社会主義統一党SED)の文書、さらに現役の検察官だった人にインタビューしています。

こんな資料のほじくりは、ほとんどの人が絶対やりたくない類の仕事で、まったくご苦労さまですが、きっと本人は膨大な雑多な資料に舌なめずりしてたんじゃないかという気がします。こういうのが好きな奇特な人って本当にいるんだなあ。そういう書類を廃棄せずに取っておいてあるという行政も偉いけど。

さて、検閲といっても、時代と国が違うとぜんぜんその性質が変わってきます。

まず18世紀フランスの場合は、ブルボン王朝の時代で、そもそも本を出版するには国王の許可が必要でした。それで、許可を与えるために中身を読んで評価する機関が生まれて、国王が許可するにふさわしいかどうかという基準で内容を判断するわけです。

そうすると、政治的に反国王的なものがだめなのは当然ですが、内容があまりにくだらなすぎて、国王の名においてこんなものが出版されるのは許せないという理由で、不許可となる場合もあったようです(笑)。というわけで、国王の許可はいちおう一定の品質保証のように機能していたらしい。

面白いのはこのころの検閲官は、自分も作家か作家志望の人で、無給のボランティだったこと。職場もなくて、仕事は自分の家でしていたそうです。作家志望なせいか、こんなふうにしたらいい、などとアドバイスして、ほとんど誰の作品なのかわからない状態になることもあったみたいです。つまり非公式な編集プロダクションみたいな機能もあったらしい。

しかし、人はくだらない作品やスキャンダラスな作品を読みたがるものですから、そういう作品のためにはフランス国外のベルギーやスイスでの出版が可能です。フランス国内で売ることは違法ですが、もちろんそういう本は国境を越えます。違法な本を売るビジネスをしているひとの話も出てきますが、こういう違法業者はたいてい零細で、商売はなかなか大変だったようです。

この本では、一例としてボナフォン嬢が書いた「タナステ」という王室のスキャンダルをおとぎ話風に装って出した本について、その顛末について書かれています。

かわって、19世紀のイギリスの植民地だったインドの場合です。

インドはいちおう大英帝国の一部ということになっているので、適用される法律はイギリスの法律です。ところが問題はイギリスの法律は出版の自由を標榜していて、検閲は禁止なのです。とはいえ、反イギリス的でインドの独立を鼓舞するような作品は困るわけです。なので、いかに検閲を正当化するかということにエネルギーを注ぐという、とてもご苦労様な状況です。さて、帝国主義と自由との矛盾をいかに克服していったのでしょうか。

まず行ったのは、目録の作成でした。インド内の各言語でなされたすべての出版物について、英語の目録を作ったのです。最初は本国のブリテン人がやっていたのですが、ベンガル語などで書かれた本には内容が理解できないものが多々あり、各言語に精通したインド人の司書がこの目録を作成するようになりました。この目録は機密文書で、高官しか読めなかったそうです。

興味深いのは、当時の目録作成者は戯曲に注目していたことです。当時は識字率が低くて、不穏な空気は演劇で伝わることが多かったからです。

つまり最初はインド国民の政情を探るという目的でした。

実際、出版の自由という建前で、出版に関して国が使える法律は最初は名誉毀損しかなかったようです。かなり無理矢理な論理で名誉毀損で罪になった例もあるようです。しかし、1860年代にイギリスで煽動罪が制定されました。これはイギリス本国では殺人や宗教あるいは同性愛といった内容に対してだったようですが、もちろんインドでは「政府への不満を煽ること」も含まれるようになりました。この不満の定義は長い間不明でしたが、1898年に「あらゆる敵意が含まれる」と記載され、事実上何にでも適用できるようになりました。

1905年のベンガル分割後にインド内で騒動が起きるようになると、多くの作家が逮捕されるようになり、裁判にかけられ、有罪となりました。

裁判にかけて投獄しているのですから事実上の検閲ですが、イギリスはもちろん検閲という表現は使っていません。あくまで、報道の自由、出版の自由があるという態度を最後まで貫いています。つまり、帝国主義と自由との矛盾の克服方法は、矛盾を認めない、というものです。

アメリカもそうですが、アングロサクソンの人たちは、いつでも自分たちが正しい、公正だということを異常なまでにこだわって主張する人たちですよね。

さて、20世紀の東ドイツの検閲ではまた違った様子を見せます。

イギリスと同じように、東ドイツでも表現の自由は認められています。というか、すべての社会主義国家はそうなのです。なので検閲というものは存在しません。

では何があるかというと「計画」なのです。出版も産業であり、作家や編集者も労働者なのですが、毎年、党が次の年の出版計画を作ります。出版点数は何点で、どのくらいに部数を出版するかが決められます。これに応じて、政府の「出版・書籍取締総局(HV)」に対して、出版社から、こんなのはどうですか、と企画が提案されます。HVはそのなかから、良さそうなもの選択し党と話し合いをして決定されると、作家がその内容を具体化します。

検閲官がいるのは、HVです。

作家が作品を仕上げると、編集者が確認し、つぎに外部の専門のひとに査読されて、たいてい書き直しが命じられます。この場合の基準は、社会主義に貢献するかどうか。査読は、細かい単語のひとつひとつにまで及びます。で、それが通ったら、最後にHVの検閲官に回って査読をして、ようやく出版されます。微妙な場合は、さらに外部の人に査読を依頼します。この全ての過程で詳細な報告書が作成されます。それも膨大な量の。

とうぜん、作家は書き直されることに不満です。

しかし作家側にも対抗手段があります。それは西ドイツに作品を持ち出して出版することです。当時は、よくそうやって持ち出された作品がベストセラーになっていたようです。こうなると東ドイツ側には難しい対応を迫られます。なぜなら検閲は行われていないことになっているので、西ドイツと東ドイツの本の内容に違いがあると、検閲が行われているのが丸わかりになってしまうからです。なので、適当なところで手を打って、出版してしまう事もあったようです。

じつは西ドイツでの出版は党としてもありがたいことでした。なぜなら、こうして得られた印税のほとんどは党が徴収して、貴重な財源になっていたからです。

さらに作家によっては、削除されたところに、削除されたマークをつけることを主張して認められることもあったそうです。そして本が出版されると、どこからともなく削除された文を印刷したものが出回り、それで補って読むので、事実上、検閲なしの本が読めるということだったようです。

あまりにも作家の力が強くなりすぎて手に負えなくなると、最終手段は東ドイツからの追放だそうです。外国旅行に出して、帰国を認めない、という方法らしい。

こうした東ドイツの検閲官たちは、自分の仕事に強い誇りを持っていたようです。自分たちの仕事は社会を良くしていると確信していたのです。彼らは自由の価値も十分承知していて、改革派と称してデモに参加していたひともたくさんいたそうです。

それを何より示しているのは、ダーントンが東ドイツの元検閲官にインタビューしたときの話です。インタビューの場所は、検閲官が勤めていた建物のなかで、すでにベルリンの壁が崩壊したあとも、こうして毎日出勤しているんだとか。もう仕事はなにもないのですが。

そして彼らはベルリンの壁が崩壊したことは悲しむべきことだといいます。なぜなら壁があったからこそ、東ドイツは、読者が守られていた「読者の国」だったのに、と残念がるのです。

というわけで、時代も国も状況もことなる3つの検閲官の仕事をみてきましたが、わしが思ったのは、検閲官というのはともかくもっとも作家に寄り添っている者なのだなあ、ということでした。

政治的にやばい本はもちろんですが、検閲官が取り組んでいるのは「すべての本」なのであって、そのほとんどがすぐに読まれなくなり、消えていくものです。しかし、検閲官はそんな本であっても、丁寧に読み、評価を記録に残す人たちです。なにか自負心がないと、やってられないだろうなあ、という気がしました。

★★★☆☆

 

ほんとうの定年後 「小さな仕事」が日本社会を救う

坂本貴志 講談社 2022.8.20
読書日:2024.1.28

定年後、収入は大幅に減るが同時に支出も減るため生活には困らず、月に数万〜10万円程度の追加収入があれば趣味をおおいに楽しむことができ、ストレスがほぼないため幸福な生活を送る人が大半だと報告する本。

定年後にもらえる年金額を知って、あまりの少なさに愕然とし、このままでは生活できないと苦悩する人がいる。だが、それは養うべき家族を抱えている現状とくらべているからで、定年後は子供が独立し、教育費などがかからなくなるため、必要な生活費が大幅に減少するから心配ないのだという。とくにすでに自宅を確保している人にとってはそうである。

そして大半のひとは、それに加えて小さな仕事をする。この仕事は生活のためにやらなくてはいけないというものではないので、なにより負担が少ない小さな仕事を選択することが多い。その負担とは身体的にも精神的にも負担が少ないということであって、ほぼストレスフリーの仕事である。責任者という立場から解放される仕事である。

そもそも責任をともなう仕事は選択されない。自動車の運転に関する仕事ですらメインの運転手ではなくあくまで補助の仕事をするという事例が報告されている。責任をとるような仕事は本当にまったくしないのである。

そうすると、やる仕事は短時間の軽作業の仕事ということになるが、これらはほとんどエッセンシャルワーカーの仕事であり、社会になくてはならない仕事である。このような仕事をすると、直接、他の人の役に立っているという実感を得ることができる。

さらに、高齢者はたくさんいるため、このような小さな仕事の積み重ねでも、GDPに与える影響は小さくないという。

高齢化によって個人の能力が減っていくのは仕方がないが、自分のできる範囲の小さな仕事をすることで、ほとんどのひとは充実した生活を送れているようだ。

少子高齢化で日本がどうなるかという心配はあるが、このような事例を見る限り、高齢者本人の人生はとてもよろしいようで、もしかしたらこれは世界に誇れる状況なのかもしれないなあ、と思った。

わしも遠からずお仲間になりますので、ぜひ充実した老後を送りたいものです。すでに会社では責任というものから解放された状態で、こういうのを嫌がるひともいるかもしれないけど、何の責任もない状態は本当にストレスがない世界で、わしは気に入っています。これがずっと続くなら歓迎したいなあ。

明るい老後の姿を実証的に示した本書の価値はとても高いと思う。

★★★★★

「反応しない練習」「Chatter」を読んで思ったこと

最近、「反応しない練習」と「chatter」を続けて読んだ。

偶然、同時期に読んだのだが、これを読んで思ったことがある。

じつはずっと、わしには大きな悩みがあった。その悩みというのは、昔のことが突然思い出されて、心が苛(さい)まされるという悩みである。

まあ、たぶん、誰にでもこういう事はあることは理解している。しかし、どうもその頻度が自分でも呆れるくらいに多いのである。なんだか数分おきに起きていたような気がする。そして、そのたびに声をあげてしまうほどに心が苛まされた。

その内容は、直近に自分が起こした恥ずかしいできごとはもちろんだが、もう何十年も前のちょっとしたことも思い出される。そのちょっとしたことって、どのくらいちょっとしたことかと言うと、なにか言ったりやったりしたときの相手の目付きとか、反応なんかが思い出されてしまう。すべてもう会わないような人ばかりだし、一度しか会ったことがない人も多いし、その人達自身はぜったいに気にしていないような、ほんのちょっとしたことなのである。

こういうちょっとしたことが頻繁に思い出されて、そのたびに、叫びだしたくなる。(一人でいるときには実際に声に出てしまう)。

そのたびに、わしは、「これはずっと前の過去に起きたことです。どうしようもないことですし、しかも当時も今もそれが原因でなにか問題が起きているわけではありません」と自分に言い聞かせなければならなかった。

これはまさしく「反応しない練習」や「Chatter」に出てくるような症状である。まあ、「Chatter」のように負の連鎖に陥っていないから、重症ではないだろうが、個人的には大変困ったことなのである。

ところが、どうも最近、たぶん数ヶ月前からこのような症状に悩まされなくなった。過去のいろいろなことが思い出されるのは同じなのだが、苛まれなくなった。一体どういうことなのか?

どうも人生がうまく行っていないと感じるときで、しかもそれがなにかはっきり分からないようなときに、こういう症状が出る気がする。たぶん、こういう状態でははっきりしないから、わしの脳はいろいろ過去にさかのぼって、いろいろ原因を探求しようとしているのではないだろうか。こういう状態では、ちょっとだけ思いだしたことすら、それなりに真剣に捉えてしまうのだ、という気がする。

じつは最近、ぼんやりしていた不安が、実際に問題として目の前にはっきり出てくるようになったのだ。つまり現実の問題が、なんとなくの不安を吹き飛ばしてしまった、というのが、今のわしの状態ですね(笑)。

それにしても、「反応しない練習」の考え方はいいですね。わしも心に浮かんだどうでもいい悩みについては、今後、反応しない練習をしようと思います。真剣に相手にするからだめなんですよね。(現代からみてもブッダの悩みに対する発想はとても素晴らしいと思う)。

 

 

Chatter(チャッター)「頭の中のひとりごと」をコントロールし、最良の行動を導くための26の方法

イーサン・クロス 訳・鬼沢忍 東洋経済新報社 2022.12.4
読書日:2024.1.26

頭の中では自分の言葉が常に聞こえているが、その声がネガティブなループに入り脱け出せなくなったときをチャッターと名付け、どうすればチャッターから抜け出せるかを指導する本。

誰しも心がネガティブループに入ってしまった経験はあるだろう。何らかの原因で落ち込んだり、自分に嫌気が差したりする。すると、自分を非難する声が自分の中から湧き出てくる。その声を聞くと、さらに気分が落ち込んで、どんどんネガティブな気分が増幅して、心の中が嵐になってしまう。あるいは、何かに怒りを覚えたり、恐怖を覚えたりしても、ネガティブループに入ってしまい、そこから抜け出せなくなることもある。

こういうネガティブループから抜け出せなくなると、人生に大損害を与えることすらある。だから一刻も早くこの状態から抜け出した方がいいのは分かるだろう。

心理学者で心の内声を研究している著者によれば、チャッターのネガティブループから脱け出すにはちょっとしたコツのようなものがあるのだ。それを大学の講義で教えていると、学生から、なぜこれまで誰からもそれを教えてもらえなかったのか、という声があがったという。チャッターは誰もが悩む問題なのに、どう対処すればいいかということは、世間では教えられていないのである。著者は学生の声を真剣に捉え、この本を書くことにしたのだという。

いちおう、題名の通り26の方法が記載されているが、たぶん、もっとも簡単なのは次の方法である。自分を「私」ではなく、三人称で呼ぶというものだ。

 ✕「わしは何をやっているの?」
 ◯「ヘタレイヤン、お前は何をやっているのか?」

こうすることで、自分を外から眺められ、ループから外れることができるという。なるほど、たしかにこれは簡単。

あるいは壮大な風景を見るのもいいという。畏怖の念を感じて、自分はなんてちっぽけなんだと思い、自分を相対化できる。空間だけでなく、遠い過去や未来のように時間軸で遠くに思いをはせるのにも同じような効果があるという。

儀式やお守りもいいという。アスリートがやっているようなルーティンは、秩序を自分でコントロールできるという感覚を与えて、心を鎮めるという。お守りもそう信じるだけで心に効果があるという。

現代では、大切なのは「今を生きる」とよく言われる。過去や未来にわずらわされずに、今という時間に集中すると生きているという実感が増すのだという。しかし著者によれば、それはそもそも人間には不可能なのだという。なぜなら人間は常に過去を思い返しては後悔し、未来を予想しては不安になるという存在なのだ。つねに物語を作り、幻想の世界に生きているのが人間のデフォルトなのだという。

実際、チャッターは言語に関わるから、脳の言語機能が壊れると、チャッターもなくなって、幸福な気分を味わえるのだそうだ。ジル・ボルト・テイラーは脳卒中で左脳を損傷して言葉が使えなくなったが、言葉を失うと時間が今だけに限定され、何も思いわずらうこともない幸福な体験をしたという。(「奇跡の脳」)

こういう脳の作り出す悩みを解決しようとしたのが、仏教であるとも言える。仏教では心のつぶやきにいちいち反応しないという訓練をする。(「反応しない練習」)

だから、瞑想やマインドフルネスなんかもチャッターを克服するよい方法だという。

まあ、確かに、ネガティブな心の嵐に襲われるのは大変でしょう。わしはそんな状態にはめったに陥らないけど、じつはどうでもいいような小さなことに悩まされていたことが多い。その話は別の機会に(笑)。

***** メモ *****
チャッター状態から脱け出す26のツール。

(1)自分だけで実践できるツール
1.自分に距離を置いた話し方をする。
 自分を表すのに、一人称でなく、三人称の名前や「お前」という二人称を使う。
2.友人に助言しているつもりになる。
 同じ悩みを抱えた友人に助言しているつもりになって、それを自分に当てはめる。
3.視野を広げる。
 チャッターでは視野狭窄になっている。自分の経験を他人と比較したり、人生や世界の中でどう位置づけるかを考えたり、自分が尊敬する人ならどうするか、などと考える。
4.経験を試練ととらえ直す。
 ある状態を脅威ととらえたときにチャッターが始まることが多い。現状を再解釈して、克服できる試練(チャレンジ)ととらえ直す。
5.チャッターによる身体反応を解釈し直す。
 チャッターは身体を通してループすることがある。ストレスで緊張して胃が痛くなり、それを感じて緊張していると心がつぶやいてさらに胃が痛くなる、というように。そこでストレスは試練に立ち向かう正常な反応なのだと解釈して言い聞かせる。
6.経験を一般化する。
 同じ経験をしたのは自分だけでないと知る。ありがちな事だと認識する。
7.心のタイムトラベルをする。
 一ヶ月後、一年後などずっと先に自分がどう感じるかを想像すると、この状況がずっと続かないことを実感できる。
8.視点を変える。
 壁に止まっているハエの気分になったつもりで自分を観察する。全体の視点から取られられる。
9.思ったままを書いてみる。
 思ったまま、文法もつづりも気にせずに書いてみる。そうすると、自分を相対化して見られる。
10.中立的な第三者の視点を取り入れる。
 グループ内に関することの場合、第三者になったつもりで解決策を模索してみる。
11.お守りを握りしめる。あるいは迷信を信じる。
 プラシーボ効果のように、そう信じるだけで心が和らぎ効果がある。
12.儀式を行う。
 瞑想でも良いが、単にルーティンの儀式を行うようにするだけで、自分が秩序をコントロールできるという感覚を得られ、心を鎮めてくれる。

(2)他者に関わるツール
①他者を支援するためのツール
1.感情・認知のニーズに応える。
 支援を求めている人は2つのニーズを求めている。ひとつは感情的な共感を得たいというニーズだが、共感するだけではチャッターを増幅させるだけに終わる。相手の視野を広げ、希望を与え、経験を普遍化する認知のニーズにも応えよう。
2.目に見えない形で支援しよう。
 相手が支援を求めていないときには逆効果になるので、目に見えない形で支援する。頼まれなくても家の掃除をするなど。
3.子供にはスーパーヒーローになってみようと言おう。
4.愛と敬意を込めて、触れる(タッチする)。
5.相手のプラセボになる。
 状況は改善するという楽観的な見方を伝え、相手の物の見方に影響を与える。
②他者からの支援の受け方のツール
1.顧問団を作ろう。
 チャッターの分野ごとに感情ニーズと認知ニーズを満たす顧問団を作る。(ってか、そんなの作れる人は幸運の一言なんじゃないかなあ)
2.身体の触れ合いを自分から求める。
3.愛する人の写真を眺める。
4.儀式を誰かと一緒に行う。
 友達と会ったときの特定の挨拶を決めるだけでも効果がある。
5.ソーシャルメディアの受動的使用を最小限にする。
 他人の近況報告をみると自虐的なループに陥りがちなので、受動的な使用はひかえ、能動的に使って他者とつながるようにする。
6.ソーシャルメディアで支援を求める。
 ただしネガティブな衝動の共有にならないように気をつけること。

環境に関わるツール
1.環境に秩序を作り出す。
 掃除をする、リストを作る、整理するなど秩序を作る作業をする。
2.緑地を活用する。
 公園や並木道を散歩する。モニタで自然の写真を見るだけでも効果がある。
3.畏怖を誘う経験を求める。
 畏怖を感じると、自分を超越して、大局的に見れるようになる。息をのむような風景を見る、芸術作品を見る、あるいは子供が驚くべきことをやってのけたことを思い出すこと(子供の成長はどんなこともたいていは驚くべきことです)。

★★★★☆

「若者の読書離れ」というウソ 中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか

飯田一史 平凡社 2023.6.15
読書日:2024.1.22

2000年代に入ってから中学生の読書は増えており、読書離れとは言えない状況であり、さらに読書の内容も以前と異なりラノベ中心ではなくなっていることを報告した本。

読書が急回復している背景は、「朝の読書」などの読書運動の成果なんだそうだ。きっかけは、OECDの学力調査で日本の子どもの読解力の順位が8位まで落ちて、その原因が読書量が少ないことだったかららしい。

このような国際比較があると途端に、なんとかしなくては、ということになるのが日本なので、読書運動が盛り上がって、その結果8割以上が本を読み、読書量も増えて、読解力の順位も回復したらしいので、まあ良かったわけです。

で、この調査は15歳が対象、つまり中学生が対象だったので、どうも高校では読書運動はなされなかったそうで、高校生の読書率は50%で従来と横ばいだそうです。

とはいえ、もともと昔から日本の大人の読書する割合は50%程度だったそうで、単に日本の一般的な傾向に収斂しただけだそうです。

というのが、読書量に関する一般的な話なんですけど、どんな本を読んでいるのかという点に関しては、実はへーということの連続でした。これには日本の出版業界の動向と強く結びついている部分があり、なかなか興味深いものがあります。

わしも中高生の読書ってラノベ中心なのかしら、と思っていたところがあるのですが、ラノベはそれほど読まれていないのだそうです。その理由は、ラノベはいまでは対象が20代に上がっていて、中高生が読むには難しい内容になっているからだそうです。対象年齢が上がった理由は、小説投稿サイト「小説家になろう」から出た「なろう系」の小説がラノベで席巻しており、このサイトの利用者が20代以上だからなんだそうです。なるほどねえ。

その反対に、通常は小学生で卒業するような児童書が中学生になっても読まれているらしい。これは児童向けのレーベルに、マンガやアニメのノベライズが含まれており、それに引っ張られている可能性があるのだそうだ。

そしてボカロ小説というものも読まれているそうだ。これはもともとは初音ミクなどのボーカロイドを使った曲を原作にした小説だそうで、それが最近では、ボーカロイドと関係なくボーカロイド曲の制作者(ボカロP(プロデューサー)というらしい)が考えたキャラクターを使った作品という、なんとも2次創作のさらに2次創作みたいなものが出回っていて人気なんだそうだ。もうわけがわからん。

そして一般文芸も太宰治の「人間失格」など、それなりに読まれているが、ミステリーが多いようだ。夢野久作の「ドグラ・マグラ」なんかも入っている。

短い短編も人気で、これは朝読なんかの短い時間で読み切れるからだそうだ。「5分後シリーズ」なんかがあるという。5分間で結論が出るわけだ。

わしが読む本はほとんどノンフィクションであるが、中高生の読む本はほとんど小説でノンフィクションは少ないのだそうだ。よく読まれているノンフィクション本は「空想科学読本」のシリーズ。これは、大人のわしも読んだことあるなあ(笑)。

どの分野でも読まれる小説の傾向はある程度決まっていて、

1.感情が正負の方向にはげしく揺さぶられるもの
2.思春期の自意識、反抗心、本音に訴えるもの
3.読む前から得られる感情が分かり、読みやすい

というもので、具体的なパターンとしては

①自意識+どんでん返し+真情爆発
②子どもが大人に勝つ
③デスゲーム、サバイバル、脱出ゲーム
④「余命もの(死亡確定ロマンス)」「死者との再会・交流」

がうけるんだそうだ。

おそろしいことに、この①〜④が全部盛り込まれている作品があって、それが「Re:ゼロから始める異世界生活(Reゼロ)」で、なるほど確かにそうだ。(わしはアニメしか見ていませんが)。

なお、エロはまったく売上には貢献せず、むしろ入れないほうがいいくらいなんだそうです。へー。

たくさんの本が紹介されているけど、わしが気になったのは「ようこそ実力至上主義の教室へ」かな。名前しか知らなかったけど、今度味見してみましょうかしら。もちろん読むのが面倒なので、アニメの方ですが(笑)。

今後も若者の読書の傾向はどんどん変わっていくでしょうから、誰か5年後ぐらいにこの本の内容を更新してほしいなあ。

★★★★★

太子の少年 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集②

佐々木良 万葉社 2023.7.21
読書日:2023.1.21

人気となった「愛するよりも 愛されたい 令和言葉・奈良弁で訳した万葉集①」の続編。

今回は聖徳太子飛鳥京の時代が中心だそう。聖徳太子の歌が1首だけ載ってるんだって。それがこれ。

 家ならば 妹(いも)が手まかむ 草枕 旅に臥(こ)やせる この旅人(たびと)あはれ
 訳:旅人が お腹をすかせて倒れている 家にいたなら 恋人と寝ていたんやろうに… 悲しいなあ…

ふーん。聖徳太子ってやっぱり聖人なんですねえ。

他に面白いと思ったものをいくつか。

 なかなかに 人とあらずは 酒壷に なりにてしかも 酒に染みなむ(大伴旅人
 訳:てゆーかさー 人として生きるより 酒だるとして 生きるほうがよくね?

これって有名なんじゃないかなあ。お酒は飲みませんが、気持ちは分かる気がする。もうひとつ、大伴旅人の酒の歌を。

 言はむすべ 為(せ)むすべ知らず 極まりて 貴(たふと)きものは 酒にしあるらし
 訳:誰が なんと いおうとも 世界で もっとも尊きは 酒!!!!!!!!!!!!!!!

次の歌は万葉集の編集者の笑いが聞こえてきそう。

 隠(こも)れのみ 恋(こ)ふれば苦し 山の端(は)ゆ 出でくる月の 顕(あらわ)さばいかに
 訳:隠れて 新婚生活するのは も〜イヤ! 両親に ちゃんと 挨拶しにいこうよ!(妻)

 右は 或いは 男に答歌ありといふ いまだ探り求むること得ず
 訳:※この歌は削除されたか 見つかりませんでした(404 Not Found)

嫌婚したことをみんなに知らせたいと言っている女に、男の方の歌が見つからないって、何かあるのかと思わせぶりな表現。これって絶対わざと書いているよね、この補足。

まあ、きりがないので、こんなところで。

★★★☆☆

リアリティのダンス

アレハンドロ・ホドロフスキー 訳・青木健史 文遊社 2012.10.25
読書日:2024.1.18

映画、演劇、芸術などの分野で活躍する奇才のアレハンドロ・ホドロフスキーが、スピリチュアルな世界を探求し、リアリティが目に見えないところで繋がっているという、現実が揺らめいているような人生を振り返る本。

アレハンドロ・ホドロフスキーのことはあまり良く知らなかった。たぶん本人が主演している「エル・トポ」というカルト的な人気のウェスタンは遠い昔に見たことがあると思う。だが、その程度だった。

ところが最近、「ホドロフスキーのDUNE」というドキュメンタリーを見て、すっかり感心してしまった。これは1975年にホドロフスキーが「デューン砂の惑星」を映画化しようとしたいきさつをまとめたドキュメンタリーで、フランスの漫画家メビウスが詳細な絵コンテを作成して、どんな作品になる予定だったかすっかり分かっている。その絵コンテはたくさんの映画人に読まれて、後世のSF映画のイメージのもとになったと言われている。まだスターウォーズが世に出る前の時代で、結局、映画化には失敗した。

というわけで、ホドロフスキーに関心を持っていたので、この本を読もうと思ったのだ。ただし、わしはこれをもっときちんとした自伝だと思っていた。きっとこれを読めば、DUNEを含む映画関係のこともたくさん書いてあるに違いない、と。だが、そうではなかったのである。まあ確かに幼い頃からの話は書かれているから自伝と言えるんだろうけど、どちらかと言うと、これはホドロフスキーが探求した精神の軌跡のようなものなのだ。

なので、映画に関しては、驚くことにたった1ページしか書かれていない。映画関係を述べるには、まるごと一冊の本が必要になる、と簡単に述べただけで。あれま。じゃあ、本当に映画に関する本を書いてほしいなあ。(ただし「ホーリー・マウンテン」に関しては、その撮影にまつわるスピリチュアルな部分だけ、かなり書いてある。)

ホドロフスキーはチリ北部のトコピージャというところで1929年に生まれている。ここは鉱山の町で苛性硝酸塩が採れたんだそうだ。それは肥料や爆弾に使われるという。世界恐慌で世界的に景気が悪い時期だったのに、トコピージャは景気が良かった。なので、ここには世界中から人が集まってきた。ホドロフスキーの一家はロシアからの移民の家系で、周りに白人の子は一人もいなかったそうだ。なので、仲間はずれにされ、友達は一人もできなかった。

家族の方はどうかというと、父ハイメは商店を経営していたが、共産主義者で、とんでもなく権威主義的な独裁者で、家族を支配していた。そして、父親の愛を一身に受けているのは姉のラケルで、彼自身はまったく愛されていなかったそうだ。ホドロフスキーは父親の愛を得ようと必死だったが、かまってもらえず、家族と一緒にいても孤独だったという。ちなみに母親も父親の支配下で、彼には関心がなかったそうだ。ホドロフスキーの子供時代はほぼ父親との確執に費やされているといえる。

家族からも、他の子供からも相手にされずに、必然的にホドロフスキーはひとりで遊ぶことになる。4歳のときに小学校の先生が読むことを教えてくれた。読むことを覚えたホドロフスキーはできたばかりの市立図書館にこもるようになる。小学校の先生はいろいろな単語が書かれたカードをランダムに選んで、その言葉で文章を作るという練習をさせた。最初に1枚選ぶと、「OJO(目)」のカードが出てきた。小学校の先生は、彼に名前の中にも目があることを教えてくれたという。alejandr”OJODORO”wsky(黄金の目)。

6歳のころ不思議な体験をしている。海に向かって石を投げていると、物乞いの女に腕をつかまれて、「そんな事するもんじゃない。石ころをひとつ投げるだけで魚をみんな殺してしまうよ」と言われる。無視して投げていると、沖から銀色の塊が押し寄せてきた。それはイワシの大群で、何千ものイワシが浜に打ち上げられて死んでしまったという。まあ、こんなこともあったけど、おおむね毎日の生活は退屈だったようだ。

誰にもかまってもらえなかったので、架空の友人レーベからいろいろ教えてもらったという。レーベというのは、統合失調症の祖父アレハンドロ(著者と同じ名前)が作ったキャラクターで、それが父ハイメに受け継がれ、それがまた息子に受け継がれるという。なんとも珍しいことに架空の友人を3代で受け継いだのだそうだ。なお、祖父のアレハンドロも彼の架空の友人になった。

9歳のときにトコピージャから首都のサンティアゴに移る。そこでもやっぱり孤独だった。

やがて、イメージの世界は自分で変えることができると気がつく。自分自身のセルフイメージも自分で変えられるはずだ。こうして、これまで両親、親戚から押し付けられてきた自分のイメージから脱却しようとする。自分のイメージをコントロールすることを練習すると、やがて精神は壁を乗り越え、自分の身体の奥にも、宇宙の果て、遠い未来の時間などへも自由に行き来できるようになったという。こんなイメージの訓練を19歳まで続けた。

また中学生のころから詩を書くようになる。詩は書いてはそのつど焼いていたそうだ。なぜなら、父親のハイメがこういう軟弱なものを嫌ったからだ。ハイメはすべての芸術を軽蔑していたという。

19歳のころ精神的に自立する事件を起こす。親戚の家でのパーティで庭に生えている菩提樹を突然切りたくなり、本当に切り倒したのだ。全員が怒り、家から追い出されたが、本人は満足だった。遠縁の従兄弟が、その行為を詩的だと言って、詩人たちを紹介してくれた。1940年代、1950年代のチリは世界のどこにも例がないほど人々は詩的に生きていたんだそうだ。

家族以外の人との付き合いが始まった。詩人に家を開放している双子の姉妹に会って、マリオネットの作り方と操作方法に夢中になったり、やっぱりとんでもない詩人の女性と恋に落ちたり、老画家からアトリアに使っていた大きな家(もとは工場)を譲り受けたりしている。信じられないが、いきなり大きな家の所有者になったのである。

ここで「アトリエの祝祭」というパーティを開く。とくに中身があるわけではないが、椅子に突然飛び乗って、心に思っていることを告白するというようなことをする。このパーティで親友となるエンリケ・リンと出会う。彼はのちに国民的な詩人になるんだそうだ。

エンリケ・リンとホドロフスキーは一緒に詩的な行為を繰り返す。おもしろいと思ったのは、まっすぐに歩くという行為かな。目的地を決めて、真っ直ぐ歩くんだけど、当然、他人の家に侵入することになる。住人に驚かれるが、「行動中の若い詩人です」と言えば許してもらえて、さらにワインまでもらえたんだそうだ。どんだけ詩的な雰囲気だったんだ、当時のチリ。

他にも、人形劇の劇団を作ったり、道化師になったり、俳優になったり、いろいろやって、1953年、ホドロフスキーはポケットに100ドルだけ入れて、フランス行の船に乗る。二度とチリには戻らない、家族と二度と会わないと決心して。そして実際に戻らなかった。なお、渡航費を作るためにさまざまな天才的なことをしたといい、そのうちのひとつは大金持ちの老婦に2日間身体を売ったことだそうだ。

出航の時、住所録を海に捨てたんだそうだ。それは一種の自殺だったという。24歳の3月3日だった。偶然にも42年後、最愛の息子テオが、やっぱり24歳で3月3日に亡くなったという。(ホドロフスキーの人生にはこの手の偶然がいっぱいある。現実はダンスを踊っているという感覚はこうしたところからも得たらしい)。

フランスへ行ったのはパントマイムを学ぶためで、これに一生を費やそうと思ったんだそうだ。マルセル・マルソーに脚本を提供したりしていたけど、メキシコ巡業のときにメキシコが気に入り、そこにとどまることにする。

メキシコで「テアトロ・デ・バングアルディア(前衛劇団)」という劇団を作っていまでも上演されているような作品を創ったりしている。しかし、演劇や俳優というものに疑問を感じて、「束の間のパニック」という演劇を創出したりしている。これは1回しか上演されないスペクタルをアクション芸術として発表したもので、参加者にしたいことを尋ねてそれを実行したのだという。直前に時間と場所だけを告知して、客の前で実行する。お金は取らなかったので、制作費は自分で賄ったのだそうだ。(ホドロフスキーの妻は大変だなあ)。そしてあるときテレビの深夜放送で、グランドピアノを破壊するという「束の間のパニック」を生中継して有名になる。

このような活動を通じて、演劇に人を開放する力があることを理解して、カウンセリング演劇というものを始める。相談者の話を聞いて、その人が陥っている役割を破壊するようなプログラムを考案して、演じさせるのだ。こういうして芸術の役割は人の心を癒やすことだと確信する。これは後のサイコマジックの原型となる。

メキシコにいる間に高田慧穣(えじょう)に禅を習う。このとき、「始まりもなく、終わりもない、それはなにか?」という公案を投げかけられ、ホドロフスキーは答えられなかった。公案に失格となり、慧穣から「頭でっかちだ。死ぬことを覚えよ!」と言われる。この言葉からホドロフスキーは、今までやてきた芸術はすべて理性を用いていたものだったことを痛感する。そんな死ぬことを覚えるためにホドロフスキーが用いたのは夢だったそうだ。

ホドロフスキーは17歳のときから明晰夢(いま夢を見ていると理解している夢)を経験しているんだそうだ。それ以来、明晰夢に熟達するように訓練したのだそうだ。工夫のひとつがこれが夢かどうか確認する方法で、空中で逆立ちすることだという。空中で逆立ちができたらそれが夢であることが分かる。当時見ていた夢の多くが怖い夢だったそうで、こういう悪夢を克服する訓練を意識的におこなった。

こうした訓練の結果、長い年月が過ぎた50歳の時に(1979年)、内なる神に出会うことを決意する。こういう行為はとてつもなく危険なんだそうだ(そうなんですかね?)。さて、暗黒の空間にいると、その先に凄まじい大きさの光の塊が現れ恐怖を感じる。だが、慧穣の「死ぬことを覚えよ!」という言葉を思い出して、自分の身をその光の中に投げ込む。すると自分が溶けて光の中心に完全に同化したという。この夢がどのくらい続いたのか、わからなかったが、目が覚めた時、頭の中に創造的狂気のハリケーンが起きていて、いくつもの世界が生み出されていたという。(こうした明晰夢のおかげで、確執のあった父ハイメとも和解も経験したそうだ。もちろん、夢の中の話だけど)。

ホドロフスキーが呪術医パチータの施術を見たのは1968年頃で、そのときは手品によるペテンなのかどうか分からなかったという。しかし、たとえそれが手品であったとしても、それを本当に信じ込んでいると、イメージの世界からリアルに働きかけて、ものごとが改善することがあるのだと理解する。

1979年の50歳の時、インドで映画「牙」の制作中、映画のプロデューサーが破産し、制作は中止となる。このとき、映画にお金を出していたホドロフスキーも一文無しになった。ちなみにホドロフスキーはよく一文無しになる人らしく、そういう話がたくさん出てくる。いざとなったら貯金もすべて出すことに躊躇がない性格なのだ。高田慧穣の教えを受けるために、貯金全部を使ったこともあった。お金を稼ぐことには興味がないらしい。(そういうわけで、個人投資家にはあんまり参考にならない。けど、破産してもなんとかなるという意識は持てるかも)。

さてインドからパリに戻ると、妻と三人の子供がいて、10日分の生活費しかなかったとそうだ。そこで生活費を稼ぐためにタロット・リーディングを始めた。タロットには1950年から馴染んでいて、ずっとやっていたそうだ。相談を受けているうちに、ほとんどの相談者が家族や家系の影響を強く受けていることを確信する。ホドロフスキーはそれを「系統樹」と呼でいる。系統樹の問題を解決するのに「演技」を取り入れることを思いつく。誰かに家族の役割を振って、演技をしてもらい、演技の中で象徴的に精神的な課題を解決するのである。すると、それが現実の人の心に働きかけて、解決する。やがて、演技がなくても、相談者がなにか象徴的な行動をするだけでも解決することが分かった。ホドロフスキーが命じた行動をどんなにバカバカしいと思っても忠実に行うと、心理に働きかけて問題が解決するんだそうだ。ホドロフスキーはこれを「サイコマジック」と名付けた。評判を呼んで、たくさんの相談者が訪れるようになった。

ホドロフスキーはサイコマジックを発展させて、さらにサイコシャーマニズムを創造した。これは手術をするふりをするというものである。実際に手術をするわけでもなく、患者もそれが演技と分かっているのに、解決するのだ。つまり心理的な問題があって症状が出ている時、演技が影響を及ぼすことができる。

このころにはもう、サイコマジックにもサイコシャーマニズムにも代金を取っていなかったようだ。漫画「アンカル」のヒットなどで、お金の心配がなくなったのだそうだ。他の漫画の原作や、著書も多数発表している。

さて、そんなことをしていたので、映画とは遠ざかっていた。しかし、この本を2001年に出版したあと、ホドロフスキーは2013年に本書をもとにしたトコピージャ時代を描いた映画「リアリティのダンス」を23年ぶりの新作として発表している。長男が父親のハイメ役をするなど、家族総出演の映画らしい。(ホドロフスキーは育てられた家族から疎まれたが、自分の作った家族からは慕われているようだ)。

この映画は最近までアマゾンのprime videoで配信していたようだ。見てみたいと思ったけど、すでに配信期間は終了していた。まあ、待っていれば、そのうち見る機会もあるでしょう。

アレハンドロ・ホドロフスキーって、なんかすごく癖になりそうなひとです。

★★★★☆

にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ