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リアリティのダンス

アレハンドロ・ホドロフスキー 訳・青木健史 文遊社 2012.10.25
読書日:2024.1.18

映画、演劇、芸術などの分野で活躍する奇才のアレハンドロ・ホドロフスキーが、スピリチュアルな世界を探求し、リアリティが目に見えないところで繋がっているという、現実が揺らめいているような人生を振り返る本。

アレハンドロ・ホドロフスキーのことはあまり良く知らなかった。たぶん本人が主演している「エル・トポ」というカルト的な人気のウェスタンは遠い昔に見たことがあると思う。だが、その程度だった。

ところが最近、「ホドロフスキーのDUNE」というドキュメンタリーを見て、すっかり感心してしまった。これは1975年にホドロフスキーが「デューン砂の惑星」を映画化しようとしたいきさつをまとめたドキュメンタリーで、フランスの漫画家メビウスが詳細な絵コンテを作成して、どんな作品になる予定だったかすっかり分かっている。その絵コンテはたくさんの映画人に読まれて、後世のSF映画のイメージのもとになったと言われている。まだスターウォーズが世に出る前の時代で、結局、映画化には失敗した。

というわけで、ホドロフスキーに関心を持っていたので、この本を読もうと思ったのだ。ただし、わしはこれをもっときちんとした自伝だと思っていた。きっとこれを読めば、DUNEを含む映画関係のこともたくさん書いてあるに違いない、と。だが、そうではなかったのである。まあ確かに幼い頃からの話は書かれているから自伝と言えるんだろうけど、どちらかと言うと、これはホドロフスキーが探求した精神の軌跡のようなものなのだ。

なので、映画に関しては、驚くことにたった1ページしか書かれていない。映画関係を述べるには、まるごと一冊の本が必要になる、と簡単に述べただけで。あれま。じゃあ、本当に映画に関する本を書いてほしいなあ。(ただし「ホーリー・マウンテン」に関しては、その撮影にまつわるスピリチュアルな部分だけ、かなり書いてある。)

ホドロフスキーはチリ北部のトコピージャというところで1929年に生まれている。ここは鉱山の町で苛性硝酸塩が採れたんだそうだ。それは肥料や爆弾に使われるという。世界恐慌で世界的に景気が悪い時期だったのに、トコピージャは景気が良かった。なので、ここには世界中から人が集まってきた。ホドロフスキーの一家はロシアからの移民の家系で、周りに白人の子は一人もいなかったそうだ。なので、仲間はずれにされ、友達は一人もできなかった。

家族の方はどうかというと、父ハイメは商店を経営していたが、共産主義者で、とんでもなく権威主義的な独裁者で、家族を支配していた。そして、父親の愛を一身に受けているのは姉のラケルで、彼自身はまったく愛されていなかったそうだ。ホドロフスキーは父親の愛を得ようと必死だったが、かまってもらえず、家族と一緒にいても孤独だったという。ちなみに母親も父親の支配下で、彼には関心がなかったそうだ。ホドロフスキーの子供時代はほぼ父親との確執に費やされているといえる。

家族からも、他の子供からも相手にされずに、必然的にホドロフスキーはひとりで遊ぶことになる。4歳のときに小学校の先生が読むことを教えてくれた。読むことを覚えたホドロフスキーはできたばかりの市立図書館にこもるようになる。小学校の先生はいろいろな単語が書かれたカードをランダムに選んで、その言葉で文章を作るという練習をさせた。最初に1枚選ぶと、「OJO(目)」のカードが出てきた。小学校の先生は、彼に名前の中にも目があることを教えてくれたという。alejandr”OJODORO”wsky(黄金の目)。

6歳のころ不思議な体験をしている。海に向かって石を投げていると、物乞いの女に腕をつかまれて、「そんな事するもんじゃない。石ころをひとつ投げるだけで魚をみんな殺してしまうよ」と言われる。無視して投げていると、沖から銀色の塊が押し寄せてきた。それはイワシの大群で、何千ものイワシが浜に打ち上げられて死んでしまったという。まあ、こんなこともあったけど、おおむね毎日の生活は退屈だったようだ。

誰にもかまってもらえなかったので、架空の友人レーベからいろいろ教えてもらったという。レーベというのは、統合失調症の祖父アレハンドロ(著者と同じ名前)が作ったキャラクターで、それが父ハイメに受け継がれ、それがまた息子に受け継がれるという。なんとも珍しいことに架空の友人を3代で受け継いだのだそうだ。なお、祖父のアレハンドロも彼の架空の友人になった。

9歳のときにトコピージャから首都のサンティアゴに移る。そこでもやっぱり孤独だった。

やがて、イメージの世界は自分で変えることができると気がつく。自分自身のセルフイメージも自分で変えられるはずだ。こうして、これまで両親、親戚から押し付けられてきた自分のイメージから脱却しようとする。自分のイメージをコントロールすることを練習すると、やがて精神は壁を乗り越え、自分の身体の奥にも、宇宙の果て、遠い未来の時間などへも自由に行き来できるようになったという。こんなイメージの訓練を19歳まで続けた。

また中学生のころから詩を書くようになる。詩は書いてはそのつど焼いていたそうだ。なぜなら、父親のハイメがこういう軟弱なものを嫌ったからだ。ハイメはすべての芸術を軽蔑していたという。

19歳のころ精神的に自立する事件を起こす。親戚の家でのパーティで庭に生えている菩提樹を突然切りたくなり、本当に切り倒したのだ。全員が怒り、家から追い出されたが、本人は満足だった。遠縁の従兄弟が、その行為を詩的だと言って、詩人たちを紹介してくれた。1940年代、1950年代のチリは世界のどこにも例がないほど人々は詩的に生きていたんだそうだ。

家族以外の人との付き合いが始まった。詩人に家を開放している双子の姉妹に会って、マリオネットの作り方と操作方法に夢中になったり、やっぱりとんでもない詩人の女性と恋に落ちたり、老画家からアトリアに使っていた大きな家(もとは工場)を譲り受けたりしている。信じられないが、いきなり大きな家の所有者になったのである。

ここで「アトリエの祝祭」というパーティを開く。とくに中身があるわけではないが、椅子に突然飛び乗って、心に思っていることを告白するというようなことをする。このパーティで親友となるエンリケ・リンと出会う。彼はのちに国民的な詩人になるんだそうだ。

エンリケ・リンとホドロフスキーは一緒に詩的な行為を繰り返す。おもしろいと思ったのは、まっすぐに歩くという行為かな。目的地を決めて、真っ直ぐ歩くんだけど、当然、他人の家に侵入することになる。住人に驚かれるが、「行動中の若い詩人です」と言えば許してもらえて、さらにワインまでもらえたんだそうだ。どんだけ詩的な雰囲気だったんだ、当時のチリ。

他にも、人形劇の劇団を作ったり、道化師になったり、俳優になったり、いろいろやって、1953年、ホドロフスキーはポケットに100ドルだけ入れて、フランス行の船に乗る。二度とチリには戻らない、家族と二度と会わないと決心して。そして実際に戻らなかった。なお、渡航費を作るためにさまざまな天才的なことをしたといい、そのうちのひとつは大金持ちの老婦に2日間身体を売ったことだそうだ。

出航の時、住所録を海に捨てたんだそうだ。それは一種の自殺だったという。24歳の3月3日だった。偶然にも42年後、最愛の息子テオが、やっぱり24歳で3月3日に亡くなったという。(ホドロフスキーの人生にはこの手の偶然がいっぱいある。現実はダンスを踊っているという感覚はこうしたところからも得たらしい)。

フランスへ行ったのはパントマイムを学ぶためで、これに一生を費やそうと思ったんだそうだ。マルセル・マルソーに脚本を提供したりしていたけど、メキシコ巡業のときにメキシコが気に入り、そこにとどまることにする。

メキシコで「テアトロ・デ・バングアルディア(前衛劇団)」という劇団を作っていまでも上演されているような作品を創ったりしている。しかし、演劇や俳優というものに疑問を感じて、「束の間のパニック」という演劇を創出したりしている。これは1回しか上演されないスペクタルをアクション芸術として発表したもので、参加者にしたいことを尋ねてそれを実行したのだという。直前に時間と場所だけを告知して、客の前で実行する。お金は取らなかったので、制作費は自分で賄ったのだそうだ。(ホドロフスキーの妻は大変だなあ)。そしてあるときテレビの深夜放送で、グランドピアノを破壊するという「束の間のパニック」を生中継して有名になる。

このような活動を通じて、演劇に人を開放する力があることを理解して、カウンセリング演劇というものを始める。相談者の話を聞いて、その人が陥っている役割を破壊するようなプログラムを考案して、演じさせるのだ。こういうして芸術の役割は人の心を癒やすことだと確信する。これは後のサイコマジックの原型となる。

メキシコにいる間に高田慧穣(えじょう)に禅を習う。このとき、「始まりもなく、終わりもない、それはなにか?」という公案を投げかけられ、ホドロフスキーは答えられなかった。公案に失格となり、慧穣から「頭でっかちだ。死ぬことを覚えよ!」と言われる。この言葉からホドロフスキーは、今までやてきた芸術はすべて理性を用いていたものだったことを痛感する。そんな死ぬことを覚えるためにホドロフスキーが用いたのは夢だったそうだ。

ホドロフスキーは17歳のときから明晰夢(いま夢を見ていると理解している夢)を経験しているんだそうだ。それ以来、明晰夢に熟達するように訓練したのだそうだ。工夫のひとつがこれが夢かどうか確認する方法で、空中で逆立ちすることだという。空中で逆立ちができたらそれが夢であることが分かる。当時見ていた夢の多くが怖い夢だったそうで、こういう悪夢を克服する訓練を意識的におこなった。

こうした訓練の結果、長い年月が過ぎた50歳の時に(1979年)、内なる神に出会うことを決意する。こういう行為はとてつもなく危険なんだそうだ(そうなんですかね?)。さて、暗黒の空間にいると、その先に凄まじい大きさの光の塊が現れ恐怖を感じる。だが、慧穣の「死ぬことを覚えよ!」という言葉を思い出して、自分の身をその光の中に投げ込む。すると自分が溶けて光の中心に完全に同化したという。この夢がどのくらい続いたのか、わからなかったが、目が覚めた時、頭の中に創造的狂気のハリケーンが起きていて、いくつもの世界が生み出されていたという。(こうした明晰夢のおかげで、確執のあった父ハイメとも和解も経験したそうだ。もちろん、夢の中の話だけど)。

ホドロフスキーが呪術医パチータの施術を見たのは1968年頃で、そのときは手品によるペテンなのかどうか分からなかったという。しかし、たとえそれが手品であったとしても、それを本当に信じ込んでいると、イメージの世界からリアルに働きかけて、ものごとが改善することがあるのだと理解する。

1979年の50歳の時、インドで映画「牙」の制作中、映画のプロデューサーが破産し、制作は中止となる。このとき、映画にお金を出していたホドロフスキーも一文無しになった。ちなみにホドロフスキーはよく一文無しになる人らしく、そういう話がたくさん出てくる。いざとなったら貯金もすべて出すことに躊躇がない性格なのだ。高田慧穣の教えを受けるために、貯金全部を使ったこともあった。お金を稼ぐことには興味がないらしい。(そういうわけで、個人投資家にはあんまり参考にならない。けど、破産してもなんとかなるという意識は持てるかも)。

さてインドからパリに戻ると、妻と三人の子供がいて、10日分の生活費しかなかったとそうだ。そこで生活費を稼ぐためにタロット・リーディングを始めた。タロットには1950年から馴染んでいて、ずっとやっていたそうだ。相談を受けているうちに、ほとんどの相談者が家族や家系の影響を強く受けていることを確信する。ホドロフスキーはそれを「系統樹」と呼でいる。系統樹の問題を解決するのに「演技」を取り入れることを思いつく。誰かに家族の役割を振って、演技をしてもらい、演技の中で象徴的に精神的な課題を解決するのである。すると、それが現実の人の心に働きかけて、解決する。やがて、演技がなくても、相談者がなにか象徴的な行動をするだけでも解決することが分かった。ホドロフスキーが命じた行動をどんなにバカバカしいと思っても忠実に行うと、心理に働きかけて問題が解決するんだそうだ。ホドロフスキーはこれを「サイコマジック」と名付けた。評判を呼んで、たくさんの相談者が訪れるようになった。

ホドロフスキーはサイコマジックを発展させて、さらにサイコシャーマニズムを創造した。これは手術をするふりをするというものである。実際に手術をするわけでもなく、患者もそれが演技と分かっているのに、解決するのだ。つまり心理的な問題があって症状が出ている時、演技が影響を及ぼすことができる。

このころにはもう、サイコマジックにもサイコシャーマニズムにも代金を取っていなかったようだ。漫画「アンカル」のヒットなどで、お金の心配がなくなったのだそうだ。他の漫画の原作や、著書も多数発表している。

さて、そんなことをしていたので、映画とは遠ざかっていた。しかし、この本を2001年に出版したあと、ホドロフスキーは2013年に本書をもとにしたトコピージャ時代を描いた映画「リアリティのダンス」を23年ぶりの新作として発表している。長男が父親のハイメ役をするなど、家族総出演の映画らしい。(ホドロフスキーは育てられた家族から疎まれたが、自分の作った家族からは慕われているようだ)。

この映画は最近までアマゾンのprime videoで配信していたようだ。見てみたいと思ったけど、すでに配信期間は終了していた。まあ、待っていれば、そのうち見る機会もあるでしょう。

アレハンドロ・ホドロフスキーって、なんかすごく癖になりそうなひとです。

★★★★☆

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