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検閲官のお仕事

ロバート・ダーントン 訳・上村敏郎、矢谷舞、伊豆田俊介 みすず書房
読書日:2024.2.8

フランス、英領インド、東ドイツの検閲の実際を調べて、検閲とはなにか、検閲官はどんなふうに検閲という仕事に関わったのか、ということを比較した本。

ロバート・ダーントンの名前を聞いたのは、「猫の大虐殺」以来である。わしもこの本を読んだ覚えがある。でも細かい中身はすっかり忘れてしまった(笑)。なにしろ読んだのは20世紀だからなあ。(なお、新装版が2007年に出ております)。

まあ、細かい中身は忘れたけど、とりあえず、ダーントンの得意技は、無味乾燥な資料のなかから生きている人間の息遣いを復活させることで、今回もほとんど誰も見ないような細かい資料に深く入り込んで、それぞれの国の検閲官の考え方、実際の仕事を再現しているわけです。

その資料とは、18世紀のフランスはバスチーユとフランス国立図書館のアニソン=デュペロン・コレクションおよびパリ書籍商同業者組合コレクション、19世紀の英領イギリスはインド高等文官の文書資料館、20世紀の東ドイツは高等学術研究所とドイツ社会主義統一党SED)の文書、さらに現役の検察官だった人にインタビューしています。

こんな資料のほじくりは、ほとんどの人が絶対やりたくない類の仕事で、まったくご苦労さまですが、きっと本人は膨大な雑多な資料に舌なめずりしてたんじゃないかという気がします。こういうのが好きな奇特な人って本当にいるんだなあ。そういう書類を廃棄せずに取っておいてあるという行政も偉いけど。

さて、検閲といっても、時代と国が違うとぜんぜんその性質が変わってきます。

まず18世紀フランスの場合は、ブルボン王朝の時代で、そもそも本を出版するには国王の許可が必要でした。それで、許可を与えるために中身を読んで評価する機関が生まれて、国王が許可するにふさわしいかどうかという基準で内容を判断するわけです。

そうすると、政治的に反国王的なものがだめなのは当然ですが、内容があまりにくだらなすぎて、国王の名においてこんなものが出版されるのは許せないという理由で、不許可となる場合もあったようです(笑)。というわけで、国王の許可はいちおう一定の品質保証のように機能していたらしい。

面白いのはこのころの検閲官は、自分も作家か作家志望の人で、無給のボランティだったこと。職場もなくて、仕事は自分の家でしていたそうです。作家志望なせいか、こんなふうにしたらいい、などとアドバイスして、ほとんど誰の作品なのかわからない状態になることもあったみたいです。つまり非公式な編集プロダクションみたいな機能もあったらしい。

しかし、人はくだらない作品やスキャンダラスな作品を読みたがるものですから、そういう作品のためにはフランス国外のベルギーやスイスでの出版が可能です。フランス国内で売ることは違法ですが、もちろんそういう本は国境を越えます。違法な本を売るビジネスをしているひとの話も出てきますが、こういう違法業者はたいてい零細で、商売はなかなか大変だったようです。

この本では、一例としてボナフォン嬢が書いた「タナステ」という王室のスキャンダルをおとぎ話風に装って出した本について、その顛末について書かれています。

かわって、19世紀のイギリスの植民地だったインドの場合です。

インドはいちおう大英帝国の一部ということになっているので、適用される法律はイギリスの法律です。ところが問題はイギリスの法律は出版の自由を標榜していて、検閲は禁止なのです。とはいえ、反イギリス的でインドの独立を鼓舞するような作品は困るわけです。なので、いかに検閲を正当化するかということにエネルギーを注ぐという、とてもご苦労様な状況です。さて、帝国主義と自由との矛盾をいかに克服していったのでしょうか。

まず行ったのは、目録の作成でした。インド内の各言語でなされたすべての出版物について、英語の目録を作ったのです。最初は本国のブリテン人がやっていたのですが、ベンガル語などで書かれた本には内容が理解できないものが多々あり、各言語に精通したインド人の司書がこの目録を作成するようになりました。この目録は機密文書で、高官しか読めなかったそうです。

興味深いのは、当時の目録作成者は戯曲に注目していたことです。当時は識字率が低くて、不穏な空気は演劇で伝わることが多かったからです。

つまり最初はインド国民の政情を探るという目的でした。

実際、出版の自由という建前で、出版に関して国が使える法律は最初は名誉毀損しかなかったようです。かなり無理矢理な論理で名誉毀損で罪になった例もあるようです。しかし、1860年代にイギリスで煽動罪が制定されました。これはイギリス本国では殺人や宗教あるいは同性愛といった内容に対してだったようですが、もちろんインドでは「政府への不満を煽ること」も含まれるようになりました。この不満の定義は長い間不明でしたが、1898年に「あらゆる敵意が含まれる」と記載され、事実上何にでも適用できるようになりました。

1905年のベンガル分割後にインド内で騒動が起きるようになると、多くの作家が逮捕されるようになり、裁判にかけられ、有罪となりました。

裁判にかけて投獄しているのですから事実上の検閲ですが、イギリスはもちろん検閲という表現は使っていません。あくまで、報道の自由、出版の自由があるという態度を最後まで貫いています。つまり、帝国主義と自由との矛盾の克服方法は、矛盾を認めない、というものです。

アメリカもそうですが、アングロサクソンの人たちは、いつでも自分たちが正しい、公正だということを異常なまでにこだわって主張する人たちですよね。

さて、20世紀の東ドイツの検閲ではまた違った様子を見せます。

イギリスと同じように、東ドイツでも表現の自由は認められています。というか、すべての社会主義国家はそうなのです。なので検閲というものは存在しません。

では何があるかというと「計画」なのです。出版も産業であり、作家や編集者も労働者なのですが、毎年、党が次の年の出版計画を作ります。出版点数は何点で、どのくらいに部数を出版するかが決められます。これに応じて、政府の「出版・書籍取締総局(HV)」に対して、出版社から、こんなのはどうですか、と企画が提案されます。HVはそのなかから、良さそうなもの選択し党と話し合いをして決定されると、作家がその内容を具体化します。

検閲官がいるのは、HVです。

作家が作品を仕上げると、編集者が確認し、つぎに外部の専門のひとに査読されて、たいてい書き直しが命じられます。この場合の基準は、社会主義に貢献するかどうか。査読は、細かい単語のひとつひとつにまで及びます。で、それが通ったら、最後にHVの検閲官に回って査読をして、ようやく出版されます。微妙な場合は、さらに外部の人に査読を依頼します。この全ての過程で詳細な報告書が作成されます。それも膨大な量の。

とうぜん、作家は書き直されることに不満です。

しかし作家側にも対抗手段があります。それは西ドイツに作品を持ち出して出版することです。当時は、よくそうやって持ち出された作品がベストセラーになっていたようです。こうなると東ドイツ側には難しい対応を迫られます。なぜなら検閲は行われていないことになっているので、西ドイツと東ドイツの本の内容に違いがあると、検閲が行われているのが丸わかりになってしまうからです。なので、適当なところで手を打って、出版してしまう事もあったようです。

じつは西ドイツでの出版は党としてもありがたいことでした。なぜなら、こうして得られた印税のほとんどは党が徴収して、貴重な財源になっていたからです。

さらに作家によっては、削除されたところに、削除されたマークをつけることを主張して認められることもあったそうです。そして本が出版されると、どこからともなく削除された文を印刷したものが出回り、それで補って読むので、事実上、検閲なしの本が読めるということだったようです。

あまりにも作家の力が強くなりすぎて手に負えなくなると、最終手段は東ドイツからの追放だそうです。外国旅行に出して、帰国を認めない、という方法らしい。

こうした東ドイツの検閲官たちは、自分の仕事に強い誇りを持っていたようです。自分たちの仕事は社会を良くしていると確信していたのです。彼らは自由の価値も十分承知していて、改革派と称してデモに参加していたひともたくさんいたそうです。

それを何より示しているのは、ダーントンが東ドイツの元検閲官にインタビューしたときの話です。インタビューの場所は、検閲官が勤めていた建物のなかで、すでにベルリンの壁が崩壊したあとも、こうして毎日出勤しているんだとか。もう仕事はなにもないのですが。

そして彼らはベルリンの壁が崩壊したことは悲しむべきことだといいます。なぜなら壁があったからこそ、東ドイツは、読者が守られていた「読者の国」だったのに、と残念がるのです。

というわけで、時代も国も状況もことなる3つの検閲官の仕事をみてきましたが、わしが思ったのは、検閲官というのはともかくもっとも作家に寄り添っている者なのだなあ、ということでした。

政治的にやばい本はもちろんですが、検閲官が取り組んでいるのは「すべての本」なのであって、そのほとんどがすぐに読まれなくなり、消えていくものです。しかし、検閲官はそんな本であっても、丁寧に読み、評価を記録に残す人たちです。なにか自負心がないと、やってられないだろうなあ、という気がしました。

★★★☆☆

 

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