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万物の黎明 人類史を根本からくつがえす

デヴィッド・グレーバー デヴィッド・ウェングロウ 訳・酒井隆史 光文社 2023.9.30
読書日:2024.2.17

農業の始まりが私的所有と不平等を生み、ヒエラルキーが形成され、都市や国家を生んだというビッグヒストリーの思い込みを破壊し、近年の考古学や人類学の研究の進展から、人類は過去にいろいろな社会を自由に実験しており、今後も社会的な実験を行う自由を放棄する必要はないと主張する本。

この本を読んで、なんでデヴィッド・グレーバーは亡くなっちゃったんだろう、と本当に思う。生きていれば、もっといろいろなことを教えてくれただろうに。彼はこの本を完成させて、3週間後に亡くなったのだそうだ。でも、この本を完成させてくれて本当に良かった。それに、いまでは双子と言えるくらいに、同じ思想を受け継いだもうひとりのデヴィッドも世界に残してくれた。本当にありがとう、デヴィッド・グレーバー。

二人のデヴィッドが10年という歳月をかけて完成させたこの本が多くの人から称賛を浴びているのは、二人が突拍子もないことを言っているわけではないということがあると思う。

とくに考古学上の新しい発見が重なるにつれて、何かしっくりいかない、というもどかしい状況が続いていたんだと思う。それは、例えば日本の三内丸山遺跡のような縄文時代の大規模な集落の遺跡である。このような農業以前の新石器時代の遺跡が世界中で発見されている。その考古学上の発見の内容はあまりにバラエティに富んでいて、

穀物を作る農業→余剰による私有財産と格差の発生→国王と国家と都市の誕生

というこれまでの歴史の流れを示すセントラルドグマにうまく合わないのだ。なにしろ農業以前にこのような大集落が誕生している事自体がこれまでの常識に反している。

そもそもこの仮定自体が、ルソーの空想的な原始の人類から来ている。ルソーの空想的な前提はこうだ。原始の時代、人類は平等だった。なにも財産と言えるものがなかったからだ。地球全体が誰のものでもなかった。ところが農業が始まると、勝手に土地を区画し、ここは自分のものだと主張するようになった。こうして私的所有が発生し、持つものと持たざるものに分かれ、ここから不平等が発生したのだという。農業が不平等の起源だというのだ。

二人はこの課題設定自体がおかしいという。そもそも「不平等の起源は何か」と課題を設定した時点で、最初は平等だったという仮定が含まれてしまっているからだ。

しかも農業がそんなに魅力的だったなら、それを手にした人類はすぐに農業に邁進するはずである。ところが、農業らしきものが発明されてから3000年以上も、穀物中心の農業革命に突き進むことが起こらなかったのだ。これは有名なパラドックスで、たとえばジェームズ・C・スコットが「反穀物の人類史」でこの謎に挑んでいる。

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実際はどうだったのかというと、狩猟採集民にとってコムギやマメなどの栽培は、多くある選択肢の一つで、やってもやらなくても良いものだったのだ。つまり遊びの一種だったのだという。実際に栽培をしていた部族の隣の部族では、農業というものを実際に見て知っていたにも関わらず、自分たちはしない、と決めた部族がいたり、やっていたのにそのうちにやめてしまったという例もある。

結局、穀物を必死に作っていたのは、穀物を作るぐらいしかやっていきようがなかった土地に住み着いた人たちだったというのが、二人の理解のようだ。そういうわけなので、農業が不平等の起源というのは端的に間違っているという。もともと平等でも不平等でもなかったというのがふたりの回答なのだ。

なるほど、農業が起点ではないといことは認めるとしよう。しかし、たくさんの人が集まった、それこそ人口が数万人規模という遺跡が世界で多数発見されている。このような遺跡には大勢の人がいるのだから、それを管理するためには何らかの官僚組織が必要だろうし、意思決定を素早くするには首領や国王といった存在が不可欠なはずだ。つまり、何らかのエリート層とそれ以外の社会階層が誕生していただろう、と考えるのが妥当なのではないだろうか。

つまり、人口の規模によって、

バンド(数百人程度)→部族(数千)・首長制(数千〜数万でエリート階層出現)→国家

という流れだ。これは文化人類学におけるセントラルドグマだ。

さて、首長、あるいは官僚のような特権的なエリート階層が発生したかどうかは、そのための建造物があるかどうかで判断できる。墓や宮殿、寺院のような広く特別な場所だ。一定規模以上の集落や都市にはこのような特別な場所が必ずあるはずだった。

ところが、数万から大きいと10万人に達するような巨大都市が発見されているが、そのような特別な場所がまったくない都市がたくさん見つかっているのである。都市はちょうど一家族分の規格化された土地に区切られ、大量の同じような家が作られ、みな平等なのである。まるで現代の団地のようである。ただの住宅の集合体のように見えるため、遺跡とは呼ばれずに「メガサイト」と呼ばれている。(ウクライナのネベリフカ、メキシコのテオティワカンなど)

このようなメガサイトはどのように運営されていたのだろうか。証拠はまったくないが、例えば地区ごとに自治が行われ、全体の意思決定が必要なときには地区の代表が集まったのだろうと推測されている。つまり皆が平等で、民主的に、交代で運営されていた可能性がある。

いっぽう、最初はたくさんの人を集めていたけれど、エリートが出現し管理が厳しくなると、とたんに人が消えてしまったらしいメガサイトもある。つまり、メガサイトに住んでいた人たちには、管理されそうになると、それに反抗し逃げるという自由があった。

さらに新石器時代では、普段はバンドごとに散り散りになっているが、特定の時期だけに特定の場所に集まって季節的な大集団になるという形態も存在していた。このような場合は、集まっているときには首長に大きな権威があるように思えるけど、その時期が終わってしまうとその権威はまったく失われてしまう。彼の周りは無人になってしまうのだから当たり前ではあるが。

つまりこうだ。新石器時代の人たちは、自由にいろいろな社会構造を試しており、こうでなければならないという制限はないのである。

ところで、管理されるのが嫌だと逃げたとして、彼らはどこへ行ったのだろうか。行くところがあったのだろうか。

しかし、現代にいるわしらから見ると驚くほど大胆に彼らは移動していたらしい。この農業以前の時代の人達は、とても長距離の旅をする人たちだったのだ。それこそ、大陸をまたいで移動することも珍しくなかった。

これはアメリカの例だが、ネイティブアメリカンの人たちは、クラン制度というものを構築していて(クマとかイヌとか動物をモチーフにしていた)、他の部族に行っても同じクランの人たちがいることが期待できたんだそうだ。そして同じクランの人たちは仲間として世話をしてくれることになっていたという。たとえ言葉がわかりあえなくても問題なかった。だから気軽に移動ができたそうだ。

(なお、この本にはアメリカの話がたくさん出てくる。なぜなら、アメリカとユーラシアは人の行き来がなかったので、独立した歴史を持っているから、比較対象として都合が良いからだ。)

つまり農業以前の世界には、次のような自由があったという。

(1)移動する(逃げる)自由
(2)命令に従わない反抗する自由
(3)いろいろな社会的現実を試す自由

の3つである。
さすがアナーキストとして有名なデヴィッドの発想、という感じがするのはわしだけではないだろう(笑)。

この中でいちばん重要なのは、(1)移動する自由、であり、これが損なわれると、(2)の反抗することは難しくなり、さらには(3)のいろいろな社会を試すことも不可能になる。

だから二人は、課題設定を行うのなら、ルソーのような「平等が失われたのはなぜか」ではなく、「自由が失われたのはなぜか」というほうがふさわしいという。「不平等の起源」ではなく、「閉塞の起源」を問うべきだという。

では、なぜこのような自由が失われてしまったのだろうか。

じつはこの答えははっきりと書かれていない。それはこれからの課題だ。しかし、社会構造は家庭の構造を反映している、と二人は考えている。家族制でもっとも抑圧的なのは家父長制である。したがって、自由が失われてしまったのは家父長制の誕生と関係があると考えているようだ。

農業以前の自由な時代、決して女性の地位は低くはなかった。それどころか、女性が中心になって政治を行っている集団もたくさんあった。それに農業革命は植物を栽培をしていた女性が引き起こしたものと考えられている。しかし家父長制が誕生すると女性の地位は下げられてしまった。

家父長制がどのように誕生したか、それもよく分かっていない。しかし、二人のデヴィットは興味深いヒントをフリッツ・シュタイナーの研究から導いている。シュタイナーは奴隷制度に至る前の前奴隷制度について検討している。それによれば、奴隷化はおそろしいことに慈善(チャリティ)から始まるのだという。

首長の宮殿には、負債や過失などから一族から追われたもの、漂流者、犯罪者、逃亡者など何らかの原因で居場所を失った人たちが集まってくるという。そのような難民は最初は歓迎され神聖な存在として扱われるものの、徐々にその地位を下げられていく。彼らはどこにも行き場がないから集まってきたわけで、そのような扱いをうけてもどこにも行きようがない。このようなどこにも行き場のない人たちを家族に組み込めば、家父長制度の誕生となる。

そういえば、DVをするような男性は、自分に逆らえない女性を妻にすることはよくあることですよね。

(なお、ジェームズ・C・スコットは「反穀物の人類史」で、メソポタミア都市国家は城壁に囲まれているがこれは防衛のためではなく、戦争で捕虜にした奴隷を逃さないため、としている。移動の自由を国家が制限しているわけだ。これも証拠はないけど、有り得そうな話。)

***メモ1 国家誕生のモデル***
二人のデヴィッドは国家誕生のモデルを載せているけど、わし的にはいまいち説得力がない。
でもまあ、せっかくだからここにメモを残しておく。

二人によれば、国家は三つの原理から成り立っているという。
1.暴力の統制(主権) 2.情報の統制(行政管理) 3.個人のカリスマ性
どれかひとつでも成り立っていれば、人が集まってくる。これを「支配の第一次レジーム」と呼ぶ。それに残りのうち1つが加わると、「支配の第二次レジーム」となり、国家は少なくともこの第二次レジームの要素を持っているという。そして、三つとも持っていれば「支配の第三次レジーム」となり、支配が完成する。

***メモ2 ホッブスについて***
人類の社会の起源については、ルソーよりも前にホッブスの理論がある。人間はもともと利己的で「万人の万人に対する戦い」を繰り広げているという考え方だ。これもルソーに負けずに空想的な人間社会の起源であるけれど、こちらについてはルソーより害が少ないと二人のデヴィッドは考えているようだ。なぜなら、ホッブスは最低の状態から出発して、マシな状態を人間の知恵で作っていこうという話なので、そのような社会を考えればいいだけだからだそうだ。

ところがルソーの場合は、最初がもっとも良くて、文明が進めば進むほど悪くなり、それを少しでもくい止めようという話なので、今の状態はひどいけれど、なにか手を尽くしてもほんのちょっと良くなるだけだよ、という言い訳に利用されているようだ、という。

もちろん、ホッブスの出発点も、実際とはまったく異なるので、二人は否定している。

個人的には、わしはホッブスは許せるけど、ルソーの発想は生理的に受け付けられないな。ルソーは読んでいると、気分が悪くなる。そもそも、昔はよかったという話は好きになれないの。

***メモ3 野生種の栽培種への移行期間***
農業への移行がなかなか進まなかった理由に、コムギなどの野生種が栽培専門の種に進化するのに時間がかかったから、という説明があり得る。1980年代に実験が行われ、野生種が栽培種になるのに、20〜30年ぐらいしかかからないことが確認された。余裕を見ても、数百年で進化は完了したはずだという。なので、生物の遺伝的な理由ではない。

「善と悪のパラドックス」に出てきたベリャーエフのギンギツネの家畜化の実験が思い出される。

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