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善と悪のパラドックス ヒトの進化と<自己家畜化>の歴史

リチャード・ランガム 訳・依田卓己 NTT出版 2020.10.22
読書日:2021.1.30

人は仲間に対しては非常に寛容で穏やかである一方、仲間以外には戦争を起こして大量虐殺もしてしまうように、善と悪が同居しているというパラドックスがあるが、どちらも進化的な適応だったと、主張する本。

これは面白かった。はやくも今年読んだ本のなかで、ベストテンに入りそうな感じ。

人が仲間と仲間以外とではまったく異なる対応をすることはよく知られているけれど、それについて一貫性ある説明ができるかというと、これがなかなか難しい。しかし、ランガムは完全ではないけれどかなり成功している。

まずランガムは、人の行う暴力を2つに分ける。ひとつは「反応的暴力性」というもので、感情的、一時的な怒りや気まぐれによる暴力のことだ。もうひとつは「能動的暴力性」というもので、これは計画的、冷静沈着に振るう暴力のことだ。この2つ暴力は脳の働く部分も違うので、異なる機能の暴力だという。

人類学者であるランガムは、まずチンパンジーボノボの違いについて説明する。両者は見た目がほとんど変わらないので、長い間同じ種だと思われていたのだという。ところが性質は大変異なり、チンパンジーが普段から乱暴で、仲間に対しても他のグループに対しても暴力を振るうのに対して、ボノボは平和的で仲間に対して暴力を振るうことはほとんどない。それにひどく平等的で、チンパンジーに余分な餌をあげると一匹で独占しようとするのに対して、ボノボはわざわざ仲間を呼んで一緒に食べようとする。

ボノボのようなサルは他にはいないので、チンパンジーの方がもともとの祖先に近く、ボノボの方が変わった(進化した)のだと思われるのだが、ではボノボに何が起こったのだろうか。ランガムはボノボに「自己家畜化」が起こったのだと説明する。

家畜化症候群というのがあって、家畜にされた動物に起こる共通する一連の変化のことを示す。具体的には、身体が小さく華奢になって全体に子供っぽくなり、脳が小さくなり、毛の色が白黒のぶちになり(特に脚の先やしっぽの先が白色になる)、耳が垂れるなどの形状の変化が現れる。そしてなにより性格の変化が大きく、温和になり、遊ぶことが好きで成獣になっても遊ぶことをやめないという。また成熟が早くなり、出産回数も増えるという。ボノボにはこの家畜化の症状が現れているので、ボノボは家畜化したのだと推定できる。

このような家畜化については、ソ連のベリャーエフのギンギツネの家畜化の実験が有名だ。ベリャーエフは動物を家畜化したときに、動物にどのような淘汰圧がかかるのかを考えた。おそらく野生の動物を家畜にした人間は、自分に都合の良い個体を残し、都合の悪いものは処分するだろう。それが淘汰圧になったに違いない。

ベリャーエフは人間にとって都合の良い個体というのは、人間に従順な個体だと考えた。そこでカナダ産のギンギツネを使って実験を開始した。人間に従順な個体は、およそ10%だったという。この10%を母体に、より人間に従順な個体を選別していく過程を繰り返す。そうして、家畜化症候群が起こるのかどうか確認しようとしたのだ。何しろ進化論的な現象なので、結果が出るまでに10年単位の長い時間がかかることを覚悟したという。ところが驚いたことに、たった数世代で家畜化症候群の特徴が現れたのである。

第4世代目では犬のように人間に尻尾を振る個体まで現れて、研究者たちを驚かせた。他の家畜化の症状も現れて、白黒のぶちが現れ、数10世代ののちには、耳が垂れた個体も現れたという。そして、出産周期も劇的に短くなった。

このような家畜化症候群が生物学的にどのように起こったのかについて、いまでは多くのことが分かっている。発生学的には、受精した胚にはまず外胚葉、中胚葉、内胚葉、神経堤細胞(しんけいていさいぼう)の4つができるという。神経堤細胞はすぐに消滅するが、その細胞はあちこちに散らばって(遊走)、新しい組織を作るもとになるのだという。ところが家畜化症候群の個体では、この神経堤細胞が拡散する速度が遅く、そのために、身体の末端では神経堤細胞の影響が届かない。その結果、脚の先やしっぽの先に神経堤細胞が届かず、毛に色が付かず白いままになるという。また、神経堤細胞が副腎に影響を与えて、ホルモンを減らし、感情的な反応を抑えるという。また顎や歯の成長を抑制し小さくするという。こうして家畜化が進行したときに起こる現象は神経堤細胞の作用の仕方が変わることで、かなり説明できる。

家畜化の実験で、従順な個体の選別(反応的暴力性の抑制)が進化的な淘汰圧となり、家畜化症候群が発生することは確認できた。しかし、これは飼い主がいる場合である。ボノボは飼い主がいないのに家畜化したとすると、いったいどんな淘汰圧が働いたのだろうか?

ランガムはチンパンジーと比較したときのメスの対応に注目する。チンパンジーのメスはお互いにまったく協力することはない。餌を探すときにもメスはバラバラになっている。この理由として、ランガムはチンパンジーとゴリラの生息域が重なっていて食料を取り合っているので、餌が少ないからだと説明している。だから他のメスがオスから暴力を受けていても、そばにいないから助けることはない。それどころかお互いに攻撃し合うことすらある。

ところがボノボのいるところにはゴリラがいない。ゴリラがいない分、餌が豊富で、メスたちはずっと一緒に行動している。この結果、オスがメスに暴力を振るうと、ほかのメスがすぐに気が付いて、メスたちは団結してそのオスに立ち向かう。もちろん数にはかなわないので、メスのほうが勝つ。当然ながら乱暴なオスはメスに嫌われ、おとなしいオスの方が好まれる。ランガムはこうしたメスの行動が、オスへの淘汰圧になっているのだと推測している。つまり、ボノボは自己家畜化したのだ。

これをヒトに当てはめるとどういうことになるだろうか。ヒトは生物学的に見て、家畜化したという証拠が集まっている。おそらく30万年ぐらい前から家畜化の淘汰圧が働いていたと思われる。

ではヒトの場合、淘汰圧はどのように働いていたのだろうか。

ランガムは狩猟採集民族の男たちが超平等主義であることに注目する。明らかなリーダーがおらず、すべてのことは話し合いで解決する。さらには、誰もが自分が他人よりも突出することを嫌がる。たとえば、大きな獲物を仕留めたとしても、それが大したことではないかのようにふるまう。もしもそのことを少しでも自慢するようなそぶりをしたら、周りから傲慢と非難されるという。

このような社会はチンパンジーとは大違いだ。チンパンジーでは力の強いオスがリーダーになり、常にその序列を争っている。

ではヒトの社会には何が起きたのだろうか。

もしもチンパンジーのリーダーのような横暴で専制的なリーダーがヒトの社会に現れたらどうなるのだろうか。ランガムによると、そのようなリーダーは、それ以外のメンバーから排除されるのだという。つまり、なんと処刑されてしまうというのだ。

確認できるすべての狩猟採集民族の小さな集団で、死刑の制度があることが分かっている。ヒトとチンパンジーとの違いは、ヒトは弱いものが結束して強いリーダーを排除できることだ。その理由は言語だ。

 ヒトはチンパンジーと違って言葉をつかって話すことができる。だから横暴なリーダーの知らないところで、弱いものが集まって話が進めることができ、みんなの意思を決まることができる。いったん決まれば、数の力で確実に安全に横暴なリーダーを殺すことができるのだ。ラングはこうした集団による暴力を「連合による能動的暴力性」と呼んでいる。

これは強力な淘汰圧となるので、人は簡単に感情的にならずに従順で穏やかであろうとする。つまり、自己家畜化を進めることになる。こうして「反応的暴力性」が無くなっていった。

この淘汰圧は大変な圧力で、もしも何らかの理由で、たとえば悪い霊と繋がっている、などといったまったくの誤解や妄想に基づいたことが理由でも、みんなが納得すれば、処刑されてしまうかもしれないということだ。だから、このような小さな集団のなかではまったく気が抜けないということになる。

処刑されなくても、全員に無視される(つまり村八分)だけでも大変なことで、生きていけなってしまうかもしれない。こうした狩猟採集民の世界は仲間と一体化でき、非常に安心できる、ある意味甘美な世界だが、一方ではお互いに監視している非常にうっとうしく、危険な世界でもある。

こうして、人は独自の道徳観というものを築き上げる。そしてその道徳観にしたがって、正しいと信じれば、ヒトは処刑すらためらわない。つまり「能動的暴力性」が強化されていく。

しかしよく考えてみれば、いやよく考えなくても、これはとてもなじみのある世界だ。現代のわしらの社会そのものでもある。

現在、国家は警察という治安用の暴力組織を独占していて、われわれは「悪いことするとおまわりさんに捕まるよ」と脅かされて、社会のルールを守るようにしつけられる。そして人はおおむねルールを守ろうとする。そして多くの社会は、死刑を廃止しようとしない。権力と能動的暴力性との関係は明らかだ。

能動的暴力性は、強力な暴力組織を持つ集団がたくさんの人間を支配することも可能にした。人はこうした暴力を振るう集団におとなしく服従することが多い。漫画の進撃の巨人ではないが、まさしく家畜の安寧だ。こうして専制国家が誕生する。

そして戦争。

ヒトは合意した時には集団での暴力をためらわない。その暴力はもちろん、他の部族にも及ぶ。多くの場合、それは自分たちの利益になる。奇襲によって特定の部族を全滅させることもある。もちろん、現代でも特定の民族を絶滅させようという力はあちこちで働いている。

こうして、同じ人間のなかに善と悪が同居しているというパラドックスは理解できた。しかし、今後、人間の社会はどうなるんだろうか。たとえば戦争をなくすことができるのだろうか。

ランガムは、もし人間には悪があることが進化論的に正しいとしても、戦争をなくすことができると信じているという。なにより、暴力で死んでいく人の割合は減り続けているのだから。

わしは地球全体が村のようになれば、つまり通信が発達してお互いのやっていることが秘密で無くなるようなことが続き、そして横暴な国のリーダーが非難されるようなことが続くと、それが圧力となって、戦争や虐殺は起こしにくくなるんじゃないかと思う。そういう暴力によらないたくさんの声というのも、進化的な淘汰圧になるんじゃないかしら? 言葉の暴力って言い方もあるじゃない?

いま、世界中で独裁国家が誕生しています。こうして民主主義が後退していることを嘆く声が上がっていますが、しかしこういうふうに独裁国家が目立っているのも、もしかしたら独裁国家が追い詰められているということを逆説的に表しているのではないかしら。

能動的暴力性も、たくさんの声によって、抑えられると信じたい。

(メモ:ヒトは家畜化されているという発想はアリストテレスの時代からあって、18世紀末から19世紀のドイツの人類学者ブルーメンバッハが生物学的な新しいバージョンを出したらしい。ところが、彼はなぜヒトが家畜化されたのかには無頓着で気にしなかったらしい。ヒトの家畜化にはダーウィンも悩まされた。)

★★★★★

 


善と悪のパラドックス

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