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個人投資家目線の読書録

資本主義に出口はあるか

新谷大輔 講談社現代新書 2019.9.1
読書日:2023.10.11

近代の歴史を、ロック的なもの(自由)とルソー的なもの(平等)で読み解けば理解ができ、どちらにもとらわれない資本主義の次の時代も見えてくると主張する本。

本の中でも述べられているが、この2つは同じ言葉を使っているので、区別が難しいのである。ルソー的なものの政治的立場は「リベラル」と呼ばれている。リベラル、とは自由という意味である。しかしこのときの自由とは、不平等で虐げられている人を不平等から開放する(引き上げる)という意味で使っているので、基本理念は平等なのである。

いっぽうロック的なものは、本当に好き勝手にやっていいという自由である。間違っているのかもしれないが、わしはこっちの自由は「フリー」の自由と呼んで、リベラルとは区別している。

歴史的にはロック的な自由が最初に登場したんだそうだ。イギリスの名誉革命がそれに当たるから、確かにそうだ。これにアダム・スミスなどの好き勝手にすることでかえって社会は良くなるとかいう理屈が考え出されて、自由放任という考え方が定着した。

わしは、「ショック・ドクトリン」で新自由主義が革命思想だということにびっくりしたが、もともと自由主義自体が革命だったのだ。なるほど納得である。

ルソーの思想はこのロックの考え方に対抗するために考え出されたものだという。太古の昔は人間は誰もが同じで平等だった、という空想をもとに創り出された。そして太古では、みなが共通の意識を持っていて、その共通の意識で結ばれて社会を作っていたという幻想をもたらす。

こうした考えが、ドイツの教養主義ロマン主義を生み出したという。教養主義は、みなが同じ知識を持っていれば一体感が持てるという考え方で、ロマン主義は民族の共通の心の故郷があるという幻想である。グリム童話とか、昔話や神話を集めることがロマン主義の考え方で実行されたが、これは共通の神話を持てば、民族がまとまるという考え方のもとに行われたのだという。ファシズムも共通の民族のこころを煽るという手法で人民をまとめたもので、例えばドイツのナチスアーリア人という架空の古代民族の国を作るという主張だった。ともかく、ドイツの場合は、民族でまとまっていなかったので、ルソー的な発想でなんとかまとめようとした歴史があるわけだ。

わしはこの辺のルソー的なものがロマン主義、あるいはファシズムとどうつながっているのかあまり認識していなかったので、なるほどと思った。

さて、ロック的な自由放任の社会は著しい格差を生み出して、昔の奴隷制のほうがマシなんじゃないかという状況を生み出した。なので、ルソー的な平等の思想が社会的な運動となって、参政権の平等や過酷な労働の禁止とかの法律に結実したし、第2次世界対戦後の世界では、労働者の生活が改善することで経済も成長したので、自由と平等の関係はよかった。

しかし労働者の生活水準が一定以上に上がると、もうそれ以上の経済成長はなくなり、その結果、資本主義はまた搾取の方向に進んで、新自由主義を生んだというのが、著者が主張する
大雑把な流れである。

というわけで、資本主義はロック的なものでもルソー的なものでも行き詰まっているというのが著者の主張である。

では、どうしたらいいのだろうか。

著者は哲学から考え直さないといけないという。

ロックの主張は、私的所有権の説明から始まるが、そもそもその私的所有権の説明には飛躍がありすぎて、穴があるという。一方の、ルソーの方にも、そもそも人間は太古にはみな平等だったという空想から出発しているので、こちらも難がある。

しかしどちらも一番の問題は、「私」という存在が絶対であるというところから出発していることだという。この「私」というのはデカルトの「我思うゆえに、我あり」の我のことである。この絶対的な私にも、論理的に穴があると著者は主張するのである。

どういうことかというと、あらゆる存在を疑っていってたどり着いたのが疑っている自分が残った、という主張であるが、そもそも最初に自分という存在を排除しているはずなのに、最後にその自分が復活するのは論理的におかしいのだそうだ。

というわけで、このような絶対的な「私」が生まれる前の状態、「ゼロ地点」に立ち戻って考え直さなければいけないといい、それによっていまの資本主義の出口が見つかるはずだというのです。そう言われても、さっぱり分かりません。というわけで、いったいどうすればいいのさ、という状態で放り出されて、この本は終わります(苦笑)。

まあ、結論はともかく、アメリカのモンロー主義について、ヨーロッパからの孤立を主張したモンロー主義アメリカというのはアメリカ本国だけではなくて、南北アメリカ大陸両方のことで、アメリカはこの2つの大陸は自分のものと言っているに等しいような内容だとか、なかなか興味深い話が聞けてよかったです。

わしは「ショック・ドクトリン」のレビューで、かつて新自由主義に感染したことを話しましたが、じつは感染前に、わしはルソーを読んでいました。それは高校の頃で、なぜか家にルソーが置いてあったのです。わしの他に家族の誰も読んでいなかったのですが(笑)。で、読んでどうなったかというと、わしは気分が悪くなりました。何しろ、ルソーは、人はもともと森の中で誰とも接触しないでひとりで暮らしていて、そのとき人は自由だった(そして、みんな同じだったので格差はなく平等だった)、などという前提から出発するからです。そんなのありえないでしょう、というのがわしの感想で、読んでいるうちにルソーに対する嫌悪感が浮かんできました。もともと、フリーの方の自由主義に感染しやすい体質だったのですね(笑)。

ルソーは古代は人間は平等だったと主張しました。でも、実際にはどうだったのでしょうか。じつは文化人類学の発達から、部族単位で暮らしていた太古の人類の社会は、すさまじいほどの平等社会だったことが分かっています。ルソーは正しかったのです。(「善と悪のパラドックス」参照)

そしてそれは恐ろしい部分でも一致しています。

ルソーの社会契約では、みなで合意した意見にはみなが従わなければいけない、そのためには強制してもよい、ということになっていて、それがフランス革命ロベスピエールや各共産主義国家の粛清につながります。つまり平等は、処刑によって保たれています。

これは太古の部族社会でもそうなのです。「善と悪のパラドックス」では、力を振るうリーダーが現れると、みなで寄ってたかって処刑して、平等を保つ仕組みが述べられています。

平等社会には「処刑」がつきものだということです。

★★★★☆

 

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