マルクス・ガブリエルの「倫理資本主義の時代」を読んで一番びっくりしたのが「道徳的事実」という概念だった。
マルクス・ガブリエルは、たとえば「溺れている子供は助けなくてはいけない」などのような道徳的事実は、まったく人間とは関係なく存在しているというのである。そして人間はヒューリスティックスという機能でそれを感知し、実行しているというのだ。
このように道徳的事実は人間に関係なく存在しているので、人種や性別や宗教などに無関係に全人類に共通している、と主張しているのだ。道徳的事実は、倫理の普遍性の根拠に使われているわけだ。
わしがこれまで新実存主義を評価していたのは、ユニコーンのような幻想すらも存在していると明言していたからで、わしは、これは個人ごとに異なってよいという、相対主義を含んだ実在論を展開していると思ったのだ。
しかし、そうではないのである。新実在論は、意味の場は無数に人間と関係なく実在しており、ユニコーンの意味の場もその一つであり、ユニコーンについて考えている人は、ユニコーンの意味の場を感知して、ユニコーンのことを考えているということになる。
こう考えると、新実在論は、わしが思っていたような人それぞれという相対主義のものではなく、誰に対しても絶対的に実在している、ということになる。
このような、ある概念が人間という存在とまったく無関係に存在している、という考え方は、実は新しいものではない。プラトンのイデア論がそうだ。
プラトンは、美とか善とかの概念はイデアとして存在し、人間は理性でそのイデアを感じるのだと主張している。イデアは人間のいる世界を超越した、別のどこかに実在している。
つまりマルクス・ガブリエルの新実在論は、プラトンのイデア論への先祖返り、あるいはそのアップデート版という理解が正しいようだ。
このように、ある概念が人間と無関係に実在する、という話はちょっと信じがたいかもしれない。しかし、このような場合にしばしば持ち出されるのが数学である。
数学の定理は数学者が日々発見しているが、このような定理は人間が考えたから存在しているのではなく、もともと存在していたものを人間が発見していると考えるのが普通である。たとえば「三角形の内角の和は180度になる」ことは、それが発見される前から存在していた事実なのである。だから、人間と無関係に存在している概念的な事実は確かにある。
しかし、倫理的な道徳的事実が、数学の定理と同じような感じで事実として存在しているというのは、かなり無理があるのではないだろうか。
基本的な倫理、たとえば「溺れている子供がいたら助けなければいけない」というのは、確かにそうとうな割合で人類全体が共通して持っているように思われる。しかし、だからといって、数学的事実と同じように道徳的事実は存在している、と言われるとちょっと首をかしげるのではないだろうか。
では、普通の現代人は、このことをどのように理解するのだろうか。
おそらく「ダーウィンの進化論」で理解するのではないだろうか。少なくとも、わしはそうだ。
人類の脳には、社会脳といわれる構成が組み込まれていると言われ、お互いに協力し合うように生物学的に進化してきた。基本的な倫理もそのような長い人類の進化の果てに誕生したと考えるのが普通ではないだろうか。つまり基本的な倫理は、脳の中に遺伝的に組み込まれている、と考える。
おそらく進化の過程では、いろんな行動や考え方が試されたのだろう。そのなかでもっともうまくいった方法が今も生き残っているというだけなのだ。「溺れている子供がいたら助けなければいけない」という倫理は、「子供の命は守らなければいけない」という考えが脳に刻まれているから、と考えるのが普通ではないだろうか。
「しっぺ返し戦略」という人間がほぼ普遍的にもっている、信頼関係を構築するための戦略がある。これは知らない人に出会ったとき、まずその人のことを信頼する、なにか損害を受けるようなことをされたら同じだけやり返す、そして相手がやり方を改めたら過去のことは忘れる、という戦略だ。これが最もシンプルでうまくいくことは行動心理学の実験で分かっている。そして人間がこの方法を普遍的にとっていることから、人間の脳に遺伝的に組み込まれているのだということがかなりの程度で確信できる。
ここで大事なのは実験できるということだ。行動心理学的にも実験できるし、脳科学の技術進歩から、脳がどのように倫理的な問題を扱っているのかも、これからもっと詳しく分かってくるだろう。
つまり、この進化論的な発想では、道徳的事実という、人間と無関係なところに存在しているという概念を使う必要はない。道徳的事実はそもそも人間の脳の中に生物的に組み込まれているのだから。
新実在論のように発想してしまうと、道徳的事実が、まるで数学の公理のように、議論の出発点になってしまっている。すると、それ以上の掘り下げようができなくなってしまうのだ。マルクス・ガブリエルに、なぜ道徳的事実があるのかと訊いても、そういう意味の場があるのだ、それが議論のスタートなのだ、としか答えようがないだろう。
新実在論は観測によらないという意味で観念論的とも言えるし、一方の進化論は実験と観測が可能だから唯物論的と言えるかもしれない。どっちが正しいかという議論は無意味で、どっちが納得できるかというだけの話なのかもしれない。
で、あなたとしては、新実在論と進化論のどっちの説明が納得できますか?

