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心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学

ニック・チェイター 訳・高橋達二、長谷川珈 講談社 2022.7.14
読書日:2023.5.8

脳はその場限りの即興で物事を判断し、意味を作り出して意識に送るということを延々と行っており、意識には無意識といった深層構造は存在しないと主張する本。

たぶんここに書かれてあることは、正しいとわしは思う。人間の心にそんなに深みなどあるとは思えない。

ニック・チェイターは「言語はこうして生まれる」の共著者であり、そこでも人間は言語を即興で創り出しているのだ、と主張している。言語を即興で創り出しているのは、そもそも脳自体が常に即興でその場その場で意味を創り出しているからなのである。

ニック・チェイターによれば、人間の現実に対する認識からしてすかすかで、中身も深みもないものなのである。たとえば人間の目は一度に僅かな部分しか認識できない。とても見えている範囲全部を認識してはいないのである。

そんな状態なのに情報の欠損があるように自分たちが思っていないのは、ひとつには目を素早く動かして、気になるものをすぐに認識しているからだそうだ。そういうわけで、人間は常に目をせわしなく動かしている。それは自分が一点を集中して見ていると思っているときでもそうなのである。なので、もしもアイトラッカーをつかって、見ている狭い範囲だけを鮮明にして、ほかをまったくぼけぼけの不鮮明な状態にしても、人間はまったく気が付かず、鮮明に見えていると判断するのだそうだ。

もう一つの理由は、意識は細かいところをそもそも気にしていないのである。意識は見たものについて脳全体の機能を総動員して、見ているものについて意味を生産し、意識はその処理済みの意味を受け取っているだけなのだという。意味さえ理解できれば、細かいところは超適当なのだ。(その部分が気にならなければだが)。

さらに意識には一度に意識できるものはひとつだけ、という生物学的にどうしようもないボトルネックがあり、そのおかげで、意識していないものにはまったく気が付かないという。このためバスケットボールのパスの数を数えるのに夢中だとコートを横切るゴリラにも気が付かないという、非注意性盲目という現象も起こる。

こんな人間の思考のサイクルは次のようになっているのだという。まず意識が問題をひとつ設定する。すると、脳全体がそのひとつの問題について推論を行う。そして最ももっともらしい推論結果(意味)を回答として意識に提出する。こういうことが常に繰り返されているだけなのである。脳は常にフル回転なのである。

その場その場で推論を行っているので、前後のつじつまが合わないこともしょっちゅう起きる。だが、もしも意識がその辺を気にするようなら、脳は辻褄が合うような推論をたちまち作り出して提出する。たいていはその推論に意識は納得する。(なので、チコちゃんに、ボーッと生きてるんじゃねえよ、と叱られることになる)。

よく、分からない問題を脳にインプットしておいて放っておくと、無意識がいつのまにか(よくあるのは眠っているうちに)答えを見つけ出してくれると言われるが、脳科学的、認知科学的にはそのような無意識の活動というのはありえないのだという。意識がもう一度その問題に意識を向けない限りは、脳はなんの推論も行わないからだ。(その理由は、脳は一度にひとつのことしかできないから)。だから答えが見つかるのは、単に時間が経ったあとでは、これまでと異なった視点で問題を見ることが可能になるから、というだけなのだという。

同様な都市伝説のような言い方で、脳が実際の10%しか使われていない、などと言われることがあるが、こういうこともありえない。脳はいつもフル回転で推測を行っており、それでもなお、人の気がついている現実はとても少なく、すかすかなのだ。

感情すらも、身体の反応を見て自分はいまこういう感情なのだ、と意味づけして再構成しているらしい。(参照「情動はこうして作られる」)

というわけで、心というものには深みなどは全く無く、ペラペラの存在、つまりこころはフラットな存在なのだそうだ。

心はともかく意味を読み取ろうとする。まあ、わしらは意味にしか興味がないとも言える。それは物語なのだ。なので、人は自分の人生を振り返って意味を見出そうとする。そしてその意味付けは過去の経験に依存するので、当たり前のことだが、一人ひとりはみんな違っているのだ。(みんなちがってみんないい、かどうかは知らないが(苦笑))。

ニック・チェイターは、相当勇気を出してこの本を書いたらしい。なにしろ、精神分析の分野をことごとく否定するような話なんだから。まあ、みんながうすうす気がついていたけど誰も言い出せなかったことを、彼が勇気を奮って言ってくれたという感じだ。

しかし、このような「心は薄っぺらだ」という認識は、わしの直感とも合っているのでたいへん好ましい。そもそも人間の意識なんてたいしたことないでしょう。脳や意識ってこんな程度だと理解していれば、ひとが悩んでいることも大部分のことはばかばかしいと分かるんじゃないかしら。

一方、人間の脳の動作がこのようになっているとすると、人間の心を模したAIというのはまったくハードルが高いなあ、という気がする。なんといっても数10億の脳細胞がいっせいにそれぞれの分野で推論を実行して答えを出すという、この強力な水平分散された推論力を再現するのが難しい。ニックのいうように、AIが実際に作られるのはずいぶん先のことになるだろうなあ、と思う。さらに、このような人間の意識の原理に即して動作をするAIって、まったく信用が置けないという気がする。だって超いい加減じゃん(笑)。

なので、やっぱり作るのなら、人間の脳を模したものではなくて、まったく別の原理のものにしたほうがいい気がするなあ。機械なら意識を複数持てるように構成することも可能だろう。複数の意識をもった人工知能がなんの役に立つのかは知らないけれど(笑)。まあ、少なくともひとりで脳内会議はできるんだろう。

というわけで、人間の心なんて超適当なのは明らかなので、人生も超適当でいいのだ、というのが結論かしらね。いや、この本にはそんなことは書いてないんですけどね。

★★★★☆

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