ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

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「言語哲学がはじまる」を読んで考えたこと

言語哲学がはじまる」を読んでいろいろ思うところがあったので、それを書いておこうと思う。

わしは哲学者でもないし、脳科学者でも機械学習のエンジニアでもないけど、両者はかぶるところもあるし、ちょっと違うところもあるようにも思った。それでその辺について考えたことをまとめてみようと思う。

まず、わしは脳の処理というのは基本的に空間を処理する機能だと思う。具体的にはマップを作っているのだと思う。この辺については以下の本に詳しく書いてある。

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このようなマップを作る機能は、最初は、動物が空間を把握し、物体の形を把握し、自分が正確に動くために必要だから発達したのだろう。言語活動は、このような空間を把握し、マップを作り、座標で処理をするという脳の機能をそのまま使っているのだろうと思う。

例えば、一匹の猫を見た人がいたとしよう。この人は猫についていろいろな特徴を見つける。そしてその特徴は空間的なマップ上に記載される。このときの座標は、猫の特徴である「丸っぽい形」とか「すばやさ」とか「身体の柔らかさ」とか猫の特徴に根ざした座標になる。N個の特徴を観察したらそれはN次元の空間となり、一匹の猫はそのどこかの座標点として表される。

別の猫を見たとき、やっぱり似たような特徴を見出したら、それはN次元空間の、一匹目の猫と似たような座標点になるだろう。こうして何匹か猫を見れば、似たような座標に点が集まってくるから、この点が集まっているエリアをひとつのグループとして認識して、それを「猫」と呼ぶことにするのである。

わしは個々の猫は座標の一点、一点であり、「猫」という名詞は点が集まっているエリアのことを指しているのだと思う。このエリアは自由に拡大縮小させることができる。例えばエリアを広げれば、普通の猫だけでなく、ライオンやチーター、トラなんかも猫に入るかもしれない。「猫」というのは座標のエリアと考えれば、「猫」という一般的な概念が存在する、などと考える必要はないのである。

いったん猫というものが認識されたら、もうN次元空間というものは必要ない。そのN次元空間の座標はまとめられて、「猫度」という新しい座標ができるのだろう。そうすれば、次に猫らしきものを見たとき、「猫度80%だから、たぶん猫」と判断できるのである。(そもそも人間にN次元空間など認識できるはずがないのだから、複数の座標は常にすぐにまとめられて圧縮されているのだと思う。これが脳内で行われているチャンキングという現象だ)

ここで、フレーゲの文脈原理をもう一度見てみよう。文脈原理とはまず文脈に意味があって、その文脈に関連して語の意味が決まる、というものである。これは上記で述べた「猫」という語の意味が決まる過程と一致していることは明らかだろう。(文脈はヴィトゲンシュタインの表現では世界を構成している事実である)。

つまり、マッピング的な発想では、はじめて猫を見たとき、「丸い形をしている」「すばやく動ける」「身体が柔らかい」などという事実(文脈)が集まって、「猫」という語を意味する座標上のエリアが確定している。

こうして、言語哲学者たちのいう文脈原理という発想は、脳で行われているであろう処理にきわめて近いことが分かる。

ところが、言語哲学者たちが言うことで違和感もある。例えば、固有名詞と一般名詞の違いについていろいろ議論しているが、マップの発想では、それは点かエリアかの違いでしかないから、その議論に意味があるとは思えない。両方とも同じように扱えると思う。

また、フレーゲは述語に真か偽かの機能をつけているが、まあ、そのような機能を考えてもいいくらいの意味でしかない。「夏目漱石は猫である」という文は偽である、と言ってもいいけど、マップ的な発想では、「夏目漱石」のしめす座標点は「猫」のエリアから遠い、というようになる。そうすれば、「夏目漱石」が猫である可能性はとても低いということになるけど、まったくないというわけでもない。多少はその可能性がある。たとえば「夏目漱石」の身体が柔らかければ、「柔らかさ」という座標では、猫に近い、と言えるかもしれない。

また、ヴィトゲンシュタインの言うような、世界は事実の総体だ、という表現も問題だ。なぜなら、事実でないことは世界の一部でないということになるからだ。というのも、脳内のマッピングを行っている空間は、そもそも現実には存在しない仮想の空間だからだ。仮想なので、事実に反することも考えることが可能なのだ。つまり、これは一種の幻想なのである。

ヴィトゲンシュタインには事実でない幻想も世界に加えてもらわなくてはいけない。(もしくは脳内の幻想もひとつの事実と認めるということでもいいけど)。

実存主義は、確認できる事実以外の幻想も実在していると考えている。わしが新実存主義を非常に好ましいと考えるのは理由はここにある。

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数学の複素数はiで表すが、このiはイマジナリーimaginaryのiである。複素数は現実ではなく幻想の数字と考えられているのだ。だが、数学は複素数を含めることで、これまでできなかった計算ができるようになり、さらにいろいろな計算が簡単になった。

同じように、人間は現実には存在しない幻想を考えることができるから、現実に存在していなかった新しいものを生み出すことができるのである。幻想は表現されるまでは、特定の個人の心の中にしか存在しないかもしれない。でもやっぱり、実在しているのだ。

 

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