ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論

カルロ・ロヴェッリ 訳・富永星 NHK出版 2021.10.30
読書日:2022.7.18

イタリアのループ量子力学の研究者、カルロ・ロヴェッリが量子力学の本質について述べた本。

カルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」はわしに大変感銘を与えた。というわけで、この本も手に取ったわけだが、この本では量子力学の本質について彼がどのように考えているかということを述べている。その問題とはすなわち「観測問題」であり、「量子もつれ」である。量子力学についてこれ以上の大問題はあるだろうか。

というわけで、この本を読んだのだが、わしはロヴェッリの言うことが正しいと思ったが、うまく説明できる自信がない。それに一見過激なように思える言葉も、ただ普通に量子力学で言われていることを繰り返しているだけのようにも思える。なにかトートロジーっぽい感じが否めないのだ。非常に困ったことである。

まあ、ともかく、やってみよう。

観測問題と言えば、「量子重ね合わせ」である。状態1と状態2が重なって存在していてどっちでもあるという状況である。具体的には「シュレディンガーの猫」で死んだ猫の状態1と生きている猫の状態2が重なっている様子を思い浮かべてもらえればいい。または、ひとつの粒子を経路1と経路2の2つに分けてまた経路を重ねて干渉させる実験でもいい。

この2つの状態がある量子重ね合わせについては、「多世界解釈」とか「隠れた変数」とかいろいろな解釈があるが、ロヴェッリによればどれも難がある。そこでロヴェッリが提案するのが、量子力学の方程式を素直に見るということである。

量子力学を最初に定式化したのはハイゼンベルクである。この本の原題であるドイツ沖の北海にあるヘルゴラント島でアレルギーの治療でひとり訪れたとき、量子力学をどのように定式化するかを思いついたのである。その式は、電子の最初の軌道と最後の軌道がわかっている場合にそのエネルギーや発光する光の強度が計算できるが、電子が途中どうなっているかさっぱり分からないという式だった。ハイゼンベルクの言うには、彼はオブザーバブル(観測可能)なものだけに式の内容を限ったというのである。

途中の状態は省略されてしまったのだろうか。そうではないのである。式が示している通り、実際に分からないのである。素直に式を読めばそうなる。なぜわからないのだろうか。観測していないからである。観測していないことは分からない、という当たり前のことが示されているのだ。

そもそも観測とはなんだろうか。観測とは観測者が観測対象と相互作用(お互いに影響を与えあうこと)をして、観測対象のなんらかの情報を得ることである。

例えばAさんがキッチンでお湯の温度を測るところを考えよう。Aさんが温度計をお湯に入れると、お湯の熱の一部が温度計に移り、温度が測定できる。お湯から熱をもらったのだ。一方、温度計はお湯を少し冷ましている。つまりお互いに影響を与えている。これが相互作用だ。このように相互作用をしないと相手の性質は分からない。

というわけで、ロヴェッリが示す量子力学の第1の性質が次の言葉だ。

 1.相互作用なくして属性なし

属性というのは観測対象の性質のことだ。位置や速度、色などなんでもだ。この例では温度が属性だ。

ここで、別の部屋にBさんがいるとしよう。Bさんは、Aさんがキッチンでお湯の温度を測ろうとしていることを知っている。しかし別の部屋にいるのだから、Aさんがもう測ったかどうかは分からない。するとBにとってこの状況は、Aさんが温度を測った状態と測っていない状態の重ね合わせとなる。一方、Aさんにとってはもちろん自分が測ったかどうかは知っている。つまりAさんの現実とBさんの現実は異なっている。

 2.事実は相対的である(=立場によって異なった現実になる)

このキッチンではお湯は50度か70度のどちらかに設定できるとしよう。ここでAさんが温度計をお湯に入れて温度を測ったら(相互作用したら)70度だった。相互作用した結果、お湯とAさんの間には温度に関して相関関係ができた。量子力学的には量子もつれエンタングルメント)の状態になったということだ。Aさんがここでキッチンを離れるとする。たとえばトイレに行く。

さて、Bさんがキッチンへ行くとお湯だけあってAさんはいない。お湯は50度か70度のどちらかで、どちらもあり得る。そこでBさんが温度計でお湯の温度を測ると70度だった。それからAさんを探しに行く。キッチンから離れたトイレの前でAさんを見つけたBさんは、Aさんにお湯の温度は何度だったか聞く。Bさんから見ると、Aさんの答えは50度か70度のどちらかで、どちらもあり得る。するとAさんは70度だったと答える。Bさんから見ると、キッチンとトイレという離れた場所で、お湯を測った結果とAさんの答えは一致している。

相互作用したお湯とAさんの間には、不気味な遠隔作用が……いやそんなものはないって(笑)。単にAさんから見た場合とBさんから見た場合で現実が異なっているいうだけだ。Aさんにとっては相互作用した本人だから明らかだが、関わりのないBさんに取っては、Aさんとお湯の関係は不確定だから、なにか関係があるということが不思議に見えるというだけのことである。これがロヴェッリの説明するエンタングルメント(量子もつれ)である。つまり以下のような言葉になる。

 3.エンタングルメントは三人で踊るダンス(3人目が他の2者の相互作用した結果を確認すること)

以上。

というわけで、ロヴェッリの手にかかると、量子力学の最大の謎がバカバカしいくらいに簡単に説明されてしまう。

こう考えると、本人が過激という割には当たり前のことを言ってるだけ、という気がするでしょ? わしも、分かった!と思った。でも、本を閉じて自分で考えると、また分からなくなるのである(苦笑)。例えば、この説明を2重スリットで1個の粒子が自分自身と干渉する実験にうまく展開できるのだろうか。

ちょっと試してみよう。ロヴェッリは自己干渉についてこの話法では述べていないので自己流で。(なお、ロヴェッリ自身は不確定性原理で説明している(p115))。

2重スリットの実験では、電子が1個にも関わらず、スクリーンには2重スリットのどちらも通り抜けたような干渉パターンが現れる。このとき電子と相互作用するのはスクリーンだから、スクリーンと相互作用するまでは電子の属性(この場合は位置)は不明である。つまり、電子は射出されてからスクリーンに到達する間のどこにあるかという位置は不明である。したがって、スリット1とスリット2のどちらかを通ったか分からないようなパターンしかスクリーン上には形成されず、それが干渉パターンのように見える。なぜなら、もしもスリット1あるいは2を通ったということが分かるパターンがスクリーンに形成されると、観測していないはずの属性の情報が手に入ってしまうことになり、1の相互作用なくして属性なし、の原則が成り立たなくなってしまうからだ。

一方で、どちらかのスリットで電子が通ったかどうかの観測を行うと、そこで観測との相互作用が起きてしまい、スリット1あるいは2のどちらかが通ったことが確定してしまうから、どちらか一方だけのスリットが通ったパターンしか形成されない。なぜなら干渉パターンが形成されるとどちらのスリットを通ったか分からないということになり、やはり観測結果と合わなくなってしまうからだ。

いちおうは説明できた。でもやはり不思議な気がするのはわしだけだろうか? まるで余分なデータが手に入らないようにわざわざ自然が撹乱しているようではないか。それになにか従来の説明をちょっと言い換えただけのようにも見える。

(従来)2重スリットの両方を通るから干渉パターンが生じる。
(今回)2重スリットのどちらかを通ったか分からないように干渉パターンが生じる。

うーん、微妙。わしの説明が悪いのかな? 他の説明の仕方があるかな?

トートロジーっぽいところも気になる。たとえば次のような部分だ。

 途中の状態が分からないのはなぜでしょうか? (答え)分からないから。

うーん、やはり不思議感はなくならない。

一方で、この量子力学の原則から導かれるこの世界の様相については、ロヴェッリはとても詩的な表現で語ってくれるのだ。

ある粒子は他の粒子と相互干渉しない限りは世界に存在していないも同然である。他の粒子と相互作用したときだけ、その粒子は世界に立ち現れる。相互作用するというのはある粒子と別の粒子が関係を持つということだ。だから、世界を見るとは粒子どうしの関係が見えているのであり、世界は関係でできている。相互作用していないとき、粒子は存在しているのに存在しない、空とでもいうべき状態だ。そうすると、関係の網が世界を覆っている一方、世界は思ったよりもスカスカな状態なのだ。

確かにこの状態を想像すると、すぐに仏教の「空」を思い浮かべるし、世界に対する形而上でなく経験に立脚した哲学のことも思い浮かべるので、ロヴェッリもそのことについて熱く語っている。しかし、まあ、そのへんは省略(笑)。

なお、「2.事実は相対的である」の部分で、立場によって異なって見えるのは、相対性理論でいろんな速度で動く人から見ると観察対象の速度や長さが違って見えるということと同じだ、という説明があって、これはたいへん分かりやすかった。

量子力学に対する理解はまだぼんやりだが、少なくとも量子もつれエンタングルメント)に関する理解は進んだかな。でも量子力学で、はっきり理解できることはあり得るのかなあ。まだ隔靴掻痒の感が否めません。

**** メモ1 ****
量子力学とは従来の物理学にたったひとつの式を加えただけだとロヴェッリは言う。その式とは、

XP−PX=ih/(2π) (「hバー」の表記ができなかったので正確に書いた)

というもので、測定の順序が変わると値がずれることを表している。このことから情報に関して次のことが言えるという。

(1)情報は有限である:ハイゼンベルク不確定性原理
どこまでも無限に正確に測定はできないということ。(あるいは2つ以上の属性の情報を同時に取得できないので、情報が限られてしまうこと)

(2)情報は無尽蔵である:非可換性
ある属性の測定をして、別の属性の測定をすると、最初の属性の情報は消滅してしまいまた確率的な状況に戻ってしまうこと。つまり、未来は不確定で現在の延長上にはないこと。

**** メモ2 ****

量子重ね合わせに関する解釈の種類については、「実在とはなにか」にも書いた。しかし、ロヴェッリはあたらしく、量子ベイズ主義というものも加えているので、もう一度比較のために記しておく。

(1)多世界説
2つの状態が発生するたびに世界が分裂するという説。無限個のリアルで具体的な可能性世界があると考える。
問題点:確率波の解釈をしているだけで、実際の量子力学の計算になんの貢献もしていないことである。

(2)隠れた変数説
量子力学の確率波には実体があり、それが干渉し、物質をその状態に導くとする説。シュレディンガーの猫では、猫が起きている状態を示す波と寝ている状態の波が干渉し、実際の猫に影響を与えると考える。
問題点:隠れた変数が隠れたままで決して観測できないこと。またたくさんの物質がある多体問題ではとたんに複雑になること。さらに、隠れた変数の波が観測不能な独自の基準系を持っているので、相対性理論を否定してしまうこと。

(3)自発的収縮説
観測者と関係なく、確率波が自発的にある状態に収縮するというもの。マクロな対象ほど、自発的収縮は起きやすいと考える。このことは、猫のようなマクロな物体には量子力学は適用できない、と言っているのに等しい。(そうすると、たとえばブラックホールのような巨大で大きな重力の物体では量子効果が働いていないことになり、いろいろ不都合が生じる)。
問題点:収縮が起きる条件は恣意的なこと。

(4)QB主義(量子ベイズ主義)
波動関数が観測によって変わるのは、観測によって情報が増えるからだ、という説。何かが起きたわけではなく、情報が増えたことが確率波が収縮したように見えるというだけで、観察者の認識が変わっただけであり、何かが変わったわけではないと解釈する。

問題点:計算できればいいということになり、自然を考えるときの思考の枠組みを提供しないこと。ロヴェッリは科学は考え方の枠組みを提供できなければ意味がないと考えるので、この消極的な立場には否定的。

★★★★★

 

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