ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

「物語」とはなにか 「時間は存在しない」を読んで思い出したこと

カルロ・ロヴェッリは、「時間は存在しない」の中で、わしらは自分を感じるのに必要なのは空間でも物質でもなく、「時間」だけであり、わしらという存在は「物語」なのだ、という。

じつは、わしも同じ結論に至っていたので、ちょっと感慨深いものがあった。でも、わしは「時間」について考えたカルロ・ロヴェッリとは逆に、「物語」とはなにか、について考えていたのだった。

今回はこのことについて述べる。

この疑問がふと頭に浮かんだのは、たぶん高校生の頃で、小説やマンガ、映画、アニメなどを見て、空想にふけっているうちにふと疑問が沸いてきたのだ。登場人物たちがドタバタしてひとつの世界をつくり、お話が動いていく。しかし、そもそもこの物語というのはいったいなんなんだろうか?

この問題は、そのころのわしには大きすぎて、どうしていいかも分からないものだった。しかし、問題意識だけはずっと持ち続けて、ときどき心の奥から取り出しては考えていた。

最初は物語のパターンを調べればよいのだ、と思った。

例えば、「恋愛物語(ラブストーリー)」という物語について考えてみよう。よく言われるように、恋愛物語の真ん中にあるのは恋愛自体ではない。恋愛という現象自体は所与のもの、最初から当然あるものとして設定されるのである。なぜ人を好きになるのか、それは説明しなくても分かるでしょ、というわけだ。

結ばれようとする二人がなかなか結ばれない、なので読者や視聴者がいらいらしたりどきどきしたりというところがこの手の物語の中心なのである。つまり、恋愛ものとは恋愛自体をテーマにしているのではなく、二人が結ばれることを阻んでいる「障害」のことをいうのだ。例えば「ロミオとジュリエット」において、二人が敵対的なモンタギュー家とキャピュレット家にそれぞれ属しているように。

すると、恋愛ものの新機軸というのは、二人の関係を阻む障害をいかに新たに設定するかということになる。身分違い、金持ちと貧乏人、近親相姦、同性愛、2次元恋人、三角関係、四角関係、不倫、年齢差、知能差、文化的洗練度の差、人類以外の種、といった具合である。

物語には恋愛ものの他にも、「ヒーロー物(英雄譚)」とか「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」とか「ビルディングスロマン(教養小説)」とか「ミステリー」とか「ホラー」とか「SF」とか「ファンタジー」とかいろいろある。こういう特定の物語ごとにパターンや構造があるのだろう。

それぞれそれなりに興味深いが、しかしいくら考えても、またその手の本を読んでも、そのパターンや構造が「物語とはなにか」について教えてはくれることはなかった。

ではどうすれば「物語はなにか」という問題の核心に迫れるのだろうか?

そこで発想を変えて、問題を「物語を構成するのに最小限必要なものはなにか」というふうに変えてみた。こうすればその最小限必要なものが物語の要素と言えるだろう。

まず登場人物について考えてみた。登場人物(キャラクター)が出てこない物語は可能だろうか?

わしはいろいろ検討してみたが、キャラクターの登場しない物語は作りようがなかった。そうすると登場人物(キャラクター)は必須なのであろう。

なお、物語の登場人物は人間とは限らない。動物かもしれないし、ロボットかもしれない。しかし、それらは必ず擬人化されている。つまり人間として扱われていることに注意しよう。なので、次のように言える。

(1)物語に擬人化を含む人間の登場人物が必須である。

ここで登場人物についてもう少し考えたい。わしらはその物語の世界を味わっているとき、多かれ少なかれ登場人物に感情移入して、その人物に成り代わって、起こる出来事や行動を自分ごととして味わっているのだ。だから、読者、視聴者という立場から言うと、きっとその登場人物は、あるていどは「自分」、つまり「わし(私)」なのだろうと思っている。

次にわしは時間に注目した。なぜならば、物語は単純に言うと出来事を順番に並べたもののように見えるからだ。時間が関係するに違いない。

時間の流れなしに、物語をつくることができないのは当然のことだろう。少なくとも2つの出来事があれば、出来事の順番があり、時間があるはずだから。(なお、ときどき時間が止まった世界が物語に出てくることがあるが、登場人物の主観時間は何ら影響を受けていないので、物語の時間は動いていることに注意しよう。)

しかし、わしは、2つの出来事を表現しなくても、1つの文であっても物語っぽさを感じられる、と思っている。

たとえば、次のような2つの文のどちらが物語っぽいだろうか。
a. 木がある。
b. 木が立っている。

 わしにはbの方が物語っぽく思える。bには「立っている」という表現に時間の経過(幅)が感じられるからだ。

一般には動きを表す動詞があると、時間が感じられるように思える。歩く、走る、投げるなど動きにはなんらかの時間経過が必要だからだろう。そして時間の流れが感じられると、物語っぽくなるように、わしには感じられるのだ。

この理由として、ある時間の幅が感じられると、どうしてもその前後のことまで考えてしまうからではないか、という気がしている。例えば「歩く」という動作の表現があれば、歩き出す瞬間や歩き出す前の状態があることを示唆している。つまり、ある幅の時間があるということは、それ以外の時間もあるということだ。

以上から、わしは時間が必須であると考えた。

(2)物語を構成するには時間が必須である。

この時間というのは絶対的な時間のことではない。順番、配列のことだ。出来事が起きる順番が大切なのだ。

では、場所や空間の情報はどうだろうか。

「物語世界」という言葉がある。物語が展開している空間や設定のことをいうが、これは必須なのだろうか?

お芝居の中には、なんらセットもなく服装にもなんのヒントもないままに、人々が登場して話だけをするという物がたくさんある。お笑い芸人のコントなんかもほとんど小道具もなく、お互いの役割と流れだけがあることも多いだろう。

設定はあるだろうが、(たとえ同じ物語でも)設定はいかようにも変更可能で、それが日常の家の中であっても、宇宙空間であっても、広くても狭くても、なにもないどこか、どこでもないどこかであっても、物語は成立してしまう。

こう考えると、空間は必須ではないだろう。物語において空間とは、登場人物の動きの行われる範囲(=動き✕時間)ということであり、時間に付随していると考えたほうがいい。実際、物語世界は登場人物の動きとともに徐々に明らかになっていくものだろう。

つまり物語において必須なのは、登場人物(キャラクター=本質的には自分、私)と時間の流れだけである、とわしは結論したのである。

以上を簡単にいうと、物語とは
「ある人物(=私)が時間の流れの中で経験する出来事や行動のこと」
である。

えっ? これってものすごくあたり前のことなのでは……と思った人は正解である。当たり前のことを、回りくどく確認しただけとも言える。

ついでなので、もう少し付き合ってほしい。因果関係について、である。

わしらは2つの出来事があると、それらの2つの間には何らかの関係がある、と推測するようにできているらしい。

c. 風が吹いた。枝が鳴った。

こう聞かされると、ふつうは風が枝を震わせて枝が鳴ったのだろう、とわしらは推測する。これを因果関係という。物語の最小単位は1つの因果関係である、という人がいるが、たぶんそれは正しいのだろう。

この因果関係は、単なる思い込みでオーケーであり、科学的に正しいとか、真実かというのとは関係ない。

d. 見知らぬ旅人が何かをつぶやいていた。数日後に子供が亡くなった。

このとき、旅人がつぶやいたことと、子供が亡くなったことを結びつけて関係があるかのように推測することは可能である。例えば、旅人がなにかよからぬ呪文を唱えたのだ、とか。

わしらの推測する因果関係は基本的に科学的でも論理的でもない。しかし中には正しいと皆に納得させることができるもの、再現性があるものなどがあるだろう。きっとそういうものがしだいに論理とか科学とか呼ばれるようになったのだろう。

つまり、すべての論理的思考も科学も、物語形式の思考から発生した、とわしは思う。

というか、わしらはこういう思考方法しかできないのではないだろうか。わしらは出来事を物語として記憶し、物語として考え、物語として再現する。これは脳がそういうシステムになっているとしか考えられない。記憶に関して言えば、エピソード記憶術(なにか物語にして記憶する技術)というものもあるくらいだし、物語の威力は圧倒的だ。

21世紀になっていろんな脳科学の本が出たが、わしにはほぼ違和感がなく受容できた。わしが「物語とはなにか」という問題を考えた結果と、さほど違わないからである。たぶん、これがこのへんてこな問題をわざわざ考えたことに対するご褒美なのだろう。

わしらはすべてを物語として思考する。これが今のところのわしの結論である。

 

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