セネカ 訳・中澤務 光文社古典新訳文庫 2017.7.28
読書日:2020.3.28
人生が短いと感じるのは無駄なことに忙殺されているからで、やるべきことをやり、今という時間に集中すれば時間は無限にあると主張する本。
セネカはローマ時代の政治家、哲学者。カリグラやネロの時代に生きた人だ。現代人は忙しいとか言われるが、人間はどんな時代でも常にいろいろな用事に忙殺されて、時間がないらしい。
時間が貴重であることはよく言われることで、メメント・モリ(死を思え)とか、毎朝、今日死ぬとすれば何をするべきかを考えろ(スティーブ・ジョブズなど)とか、よく言われる。
もちろんセネカも同じようなことを言っていて、できるだけ雑用になるようなことをせず、公務も引き受けず、100%自分の時間を自分のために使うことが良いのだという。セネカの場合は、哲学をすること、過去の人と本で語り合うことが、良い時間の使い方ということになるらしい。
まあ、こういう考え方も分からないではないが、どうもわしの感覚に合わない。そこで、わしは自分なりの人生の時間の考え方をここで開陳しようと思うのである。
まず、時間が有限だと思うところが間違っている、とわしは思う。いや、たしかに有限で、わしを含む誰もがいつか死ぬことは分かっている。しかし、それを前提に考えなくてもいいとわしは思うのである。
なにかやろうと思う。だがどう考えても、それを実現するのに300年かかりそうだとする。そんなことやっても無駄なような気がする?
いいではないか。300年、けっこうだ。生きているうちに完成しなくても、いま始めない理由はない。時間は無限にあると仮定すれば、なんだってはじめられる。
年齢が80歳で、もう何を始めるとしても遅すぎるような気がする? いいではないか。時間は無限にある、と考えることができれば、なんでもありだ。
逆に自分が生きているうちに達成できるようなことに汲々とするほうがどうかしている。構想するときには、自分が死ぬなんてことは度外視して、大きく考えるべきだ。そして、誰も自分の考えを引き継いでくれない可能性も気にする必要がない。たとえだれも引き継がず、自分だけの事業で中途半端に終わることがあっても問題ない。(だってもう死んでるんだから)。だから、大きく考えるべきだ。
自分はいつ死ぬか分からないのである。だったら死ぬときのことを考えてもしょうがないのである。死なないと仮定しないと、何も始められないではないか。
そう考えると、時間をなにに蕩尽しようと、あんまり深く考えることはないのである。セネカが無駄だと考えるような、おしゃべりとか、TVドラマを全話観るとか、ゲームを何日もやるとか、なにせずにぼんやり過ごすとか、なんでもありだ。なにしろ時間は無限にあるのだ。無駄と言えることをたくさんやる時間はあるのである。
いちばん罪深いのは、やりたいことをやらないこと、やりたくないことをやること、だろう。これは避けたい。
しかし、やりたいことをやらずにやりたくないことをやっているうちに、やりたくないことがそのうちにやりたいことになるかもしれないからややこしい。
つまり、自分の今やっていること、またはやっていないことが時間の無駄だと考えること自体が無駄だ。
というわけで、時間なんて気にするな、というのが、わしの座右の銘なのである(ウソ)。時間を気にしなければ、人生をストレスフリーで緩やかに過ごせるだろう。
(考えてみれば、こんなブログをやっていること自体が無駄と言えば、無駄ですからのう)。
★★★★☆