マルクス・ガブリエル 講談社 2018年1月11日
読書日:2019.10.21
マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を読んだ。いろんな意味で、非常に好ましい。経済学でMMTを知ってスッキリしたように、哲学でこの本を読んでかなりスッキリした。完全にスッキリしないのは、この議論には反論の余地があるように思えるからだ。
まず、題名になっている、なぜ世界は存在しないのか、について説明をしよう。
マルクス・ガブリエルによれば、存在する、ということは世界の中にそれが存在することを意味する。例えば、ボールペンが目の前にあれば、世界の中にボールペンがここにあると言える。しかし、世界自体が世界の中で突然出現して、世界はここにある、とはわしらは言えない。世界は世界のどこにも存在できない。だから、存在しないのである。
別の言い方をすれば、これはわしらが世界の外に出て世界自体を見ることができないことと同じである。わしら自身が世界に取り込まれているのだから、不可能なのである。世界自体を見れないので、世界は存在しないのである。
意味論的にも世界は存在しないという。存在するというのは、他のものと違うということを説明できることである。例えば、目の前のボールペンは場所やインクの減り方や傷などで他の全てのものと違うと言える。つまりそのボールペンに備わっている性質や特徴で区別できている。存在するというのは、他と区別できるということである。
では、意味のうえで世界とは何かというと、世界は全ての意味を含んでいる、ということである。世界の定義上、そう言わざるを得ない。すると、世界はすべての意味を含んでいるので、世界以外の何かと区別することは不可能である。したがって世界は存在しないのである。別の言葉で言うと、世界にはなんの特徴もないと言っているのである。
以上が世界が存在しないとマルクス・ガブリエルが言っている内容である。
いまいち釈然としないのは、これは世界が存在しないことを証明しているのではなくて、世界が存在していることを証明することは不可能であると言っているだけではないのか、といことである。世界が存在しているのか、あるいはしていないのか、明言することができないという、明言不可能状態なのではないだろうか。何はともあれ、わしらは自分が世界の中にいるという感覚を持っているのだから、なおのこと釈然としない。(このような明言不可能状態は、ある意味、数学における「ゲーデルの不完全性定理」に似ている。)
まあ、わしらが思い描いているような世界は存在しないことはたぶん本当だろう。思い描いてる世界のイメージ自体が存在しているだけである。
とりあえず、世界は存在しないということにして、ここからどういうことが言えるのだろうか。マルクス・ガブリエルの主張の続きを追いかけよう。
哲学には昔から形而上学という言葉があって、これは世界について説明する、ということである。このとき何をしているかというと、観察している自分を世界から消滅させて、世界を説明しようとしているのである。わかりやすくいうと、観察している人間がいようといまいと、存在するものは存在する、という立場である。だからたとえ人類は滅んでも、地球は存在し続けるだろうと考える。
しかし、世界は存在しないとすると、世界を説明するようなことはそもそも不可能だから、形而上学の考え方は間違っている、ということになる。
もう一方で、マルクス・ガブリエルが構築主義と呼んでいる考え方がある。これはひとことでいうと、全ては幻想ということである。われわれは目で見て、ボールペンがそこに存在していると思い込んでいるが、しかし、脳が目に入った光線を解釈しているだけで、そこに本当にボールペンが存在しているかどうかは確信できないという。それどころか映画マトリックスのように、電子的に構成された幻影を現実と思っているだけではないのか、つまり全ての形而上的な存在を否定し、ただ存在するのは人間の主観のみではないのか、と考えるのである。この立場の場合、人類が滅んだら、それを観察するものはいないから、地球は存在していないかもしれない。
ところが、この立場は矛盾をはらんでいる。たとえば、上記の説明では、少なくも人間の脳は実在していることになる。そこでさらに自分の脳も幻想かもしれないと考えると、いったい幻想を見ている主体がわからなくなり、なんの言明もできなくなってしまう。したがって、構築主義の立場をとるにしても、最低限のなんらかの存在を仮定しないと成り立たないので、自己矛盾に陥ってしまう。(もしくは無限の後退を強いられる。ボールペンを見ていると幻想している自分の脳があると幻想していると幻想している、、、のように)なので、構築主義の立場も間違っている。
形而上学的にも構築主義的にも間違ってるとすると、マルクス・ガブリエルの立場はどのようなものだろうか。
世界が存在しない、ということは、これは世界以外のあらゆることが存在可能であることを意味しているという。だから形而上学的な存在も、構築主義的な存在も等しく存在するのだという(世界以外は)。繰り返すと、
・観察者がいようがいまいが、存在するものは存在する。
・人間の思考などの意味の世界も存在する。(幻想の世界も存在する。ただし幻想として存在する)
ということになる。これがマルクス・ガブリエルのいう、新しい実存主義の立場である。すると、わしらが生活上で出会う存在すると思っているものは、全て存在するということになり、つまり、これはわしらの普段の実感と同じということである。
哲学はなにかわしらの生活からかけ離れたものになってしまったような印象を受けていたが、どうやらぐるっと一周して、非常に受け入れやすいものになったようだ。
わしにとって特に好ましいのは、
(1)大嫌いなポストモダン哲学(構築主義のこと)を否定してくれたこと。
(2)認識論の問題、(森で木が倒れても、それを誰も見ていなかったら本当に木は倒れたのか、問題)に明確に決着をつけてくれたこと。(つまり誰も見ていなくても木は倒れた、ということ)。
というところでしょうか。
非常に好ましいです。
★★★★★