ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

人はどこまで合理的か

スティーブン・ピンカー 訳・橘明美 草思社 2022.7.15
読書日:2022.10.2

アメリカ大統領がフェイクニュースを拡散するような民主主義の危機の時代に、人がどれだけ合理的になれるかを述べた本。

皆で合議すれば合理的な判断ができるという信念が民主主義の基礎になっている。だが、そもそも人はどれだけ合理的なんだろうか。もちろんというべきか、人はさほど合理的ではないのである。この本の約7割には人間が合理的ではないという事実が、これでもか、と記載されているのである。

この本にはクイズのようにいろいろ書かれてあるから、みなさんもやってみればいいだろう。きっと、わしと同じように、自分が合理的とはとても言えないということを確認できる。

わしがもっとも困惑した内容は、条件文つきの論理のところだ。つまり「AならばB」という文章の真と偽を問う問題だ。

・Aが成り立っていて、Bも成り立っていたら、「AならばB」は真である。
・Aが成り立っていて、Bは成り立っていなかったら、「AならばB」は偽である。

これはよく分かる。問題はAが成り立っていなかった場合である。

・Aが成り立っていなくて、Bが成り立っていたら、「AならばB」は真である。
・Aが成り立っていなくて、Bが成り立っていなかったら、「AならばB」は真である。

つまりこちらは、Bがどっちに転んでも「真」なのだ。この部分についてずっと考えたが、どうして真になるのかその理由が分からなかった。Aの条件文が成り立たなかったら、「AならばB」が真か偽かは判断できないのではないだろうか。わしならばどちらとも言えない「不定」と判断するところである。だが論理学ではこれは「真」なんだそうだ。わけがわからん。(なお、インターネット上にはこの論理に関する説明がたくさん載っている。これだけ説明があるというのは理解できない人がたくさんいるということではないか?)

一方では、わしのほうが普通の人よりも合理的な問題もあった。例えば、得するときと損するときで別の基準を使ってしまうという問題だ。(プロスペクト理論

最初に1000ドルもらう。そのあとに、500ドルを追加でもらうか、コインを投げて表が出たら1000ドルもらい裏が出たら何ももらえないか、のどちらかを選択させると、普通の人は確実にもらえる500ドルをもらう方を選択する。

次に、2000ドルをもらったあと、500ドルを渡すか、コインを投げて表が出たら渡さなくてよく裏が出たら1000ドルを渡すかの選択を迫られると、このときほとんどの人はコインを投げてチャレンジすることを選択するのだという。人は損失をするのが嫌で、損失を確定させる前にいちかばちかの選択をしがちなんだという。つまり、得をするときと損をするときで人は基準が違う。

へー。わしなら500ドルをすぐに渡す方を選択する。なぜなら損失はできるだけ少なくしたいからだ。チャレンジして1000ドルを無くす危険は冒せない。なので、多くの人が選ぶこの選択は不可解だ。まあ、わしの場合は投資家としての発想で、普通とは違うのかもしれない。

では、なぜ人間はこのように非合理的なのだろうか。それはそのように考えるほうが得な場合が多かったからだろう。

ゲーム理論の実験で、初めて会った人と交渉する実験がある。未知の相手を信用するかどうかの問題だが、もっとも効率がいいのは、最初は相手を信用して、もしも裏切ったらしっぺ返しをする、という戦略だそうだ。このしっぺ返し戦略は現実の世界でわしらが行っている戦略でもある。ということは、この戦略は何10万年もの人間の社会生活の中でもっとも良かった戦略がDNAに刻み込まれたものだろう。

つまり、わしらの非合理的な部分は、それぞれ理由がある。その非合理的な部分が今の時代には適合しなくなって、矛盾を作り出していると言える。

陰謀論もそうだ。なぜ人は陰謀論を信じるのか。それは実際に人間の世界では陰謀だらけだからだ。狩猟採集民の時代から、人はいつ誰に殺されるか、さっぱり分からなかった。たとえば仲間から魔女などの邪悪な存在と決めつけられて殺されることはよくあることだった。そういう世界に暮らしていると、常に最悪の状況を想定して想像力をふくらませることは、生き残るのに必要なことだったのだ。人があまり殺されなくなったのは、つい最近のことで、しかも先進国に限っての話だ。(なぜ殺人事件を扱うミステリーがこんなに売れているのかを考えれば、現代人も殺人をめぐる陰謀の不安を払拭できていないのは明らかだろう)。

そういうわけで、人が非合理的なのにはそれなりの理由がある。そういう非合理的な人が集まって、合理的な社会を作れるか、疑問符が付きそうに思える。

しかし、逆に言うと、人はこんなに合理的でないのに、これまで結構頑張って、議論の中で合理的な社会を作ってきたという実績がある。だから、これからもお互いに議論しあうことでより良い世の中を作っていけないという理由はないだろう、というのがピンカーの結論のようだ。

ぜひそうあってほしいものだ。なにしろ、いまウクライナが無茶苦茶ないちゃもんつけられて、攻め込まれるという不合理な現象を見ていますからのう。もちろん、プーチンの側からは極めて合理的なのかもしれませんが。

★★★★☆

 

 

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