「陰謀論」を読んだ。陰謀論といえば政治的な話が中心であるが、普通に世間で言われていることでも、これはなにかの陰謀ではないか、と思うことがある。
例えばそれは「幸福」という概念である。
どうも人は幸福にならなければいけないようだ。なにしろ日本国憲法にすら、「幸福追求に対する国民の権利については……最大の尊重を必要とする(憲法13条)」などと記載されているぐらいなので、この権利を行使しないというのは信じられないのかもしれない。まあ幸福を追求するのは権利であって義務ではないのが幸いである。(幸いである…なんて、ちょっとパラドックスっぽい)実際、幸福を追求することを強制されてしまうと困ってしまう。
それにしても、多くの人は「幸福になりたい」と願っているようである。
この「幸福になりたい」という発想自体が、どうもわしには理解不能である。「幸福である」というのはどういう状況なのであろうか。
とりあえず、幸福とは自分が満たされている感覚、ということにしよう。ということは、幸福を求める人は、満たされていないということである。満たされていないということは、何が足りないか知っているということである(たぶん)。そして、足りないものが欲しいということなのであろう。
そこで人は何を欲するのかと考えると、マズローの欲求の5段階説というのがある。最初の生理的欲求とか安全欲求というのは分かる。次の社会的欲求はなにかに帰属したいということらしい。この辺から他人が入ってくる。あたりまえだが、他人が入ってくると、自分だけではなんともできないものである。さらに承認欲求となると他人から認められたいということであるから、ますます自分ではどうしようもない。どうも自分でコントロールできないこのような欲求をもっても、そりゃ欲求不満になるだけ、という気がする。
その先に、自己実現欲求があり、あるべき自分になりたいということだそうだ。これは実現したい内容によっては自分だけでなんとかなりそうな気がする。そうすると、社会的欲求と承認欲求以外は自分だけでなんとかなるんじゃないだろうか。
そういうわけで、自分ではコントロールできない他人の関与する部分は放っておいて、生理的欲求と安全欲求を確保したら、迷わず自己実現欲求に邁進すればいいのではないだろうか。自己実現した結果、社会的欲求と承認欲求が満たされるのがベストである。最悪、この最後の2つはなんとかなるのでは?
なにかに帰属したい? 自分で組織を作ればいい。承認されたい? 自分で自分を褒め称える賞を創設して、自分に授ければいいのでは。ドクター中松は自分で創設した発明大賞をずっと連続受賞しているぞ。
どうせ幸福なんて気分の問題だろうし、幸福になりたいなら自分の気分をコントロールする方法でも学んだほうが良いのではないだろうか。気分はある程度、コントロールできる(はず)。ヨガとか瞑想とか。最後の手段として、薬を使っちゃダメかしら?
ともかく、自分がどんな状況だろうと、いつでも自分がこれで満足だと思えれば、直ちに幸福と断言してもいいはずだ。アドラー心理学が唱える通りに。
わしはどうも幸福なんて言葉はまやかしという気がしてしまう。誰かの陰謀じゃないかしら?
似たような話に恋愛(ロマンチック・ラブ、自分にピッタリ合う一人の人がいるという信仰)があるが、まあ、今日はこのへんで(笑)。