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言語はこうして生まれる 「即興する脳」とジェスチャーゲーム

モーテン・H・クリチャンセン ニック・チェイター 訳・塩原道緒 新潮社 2022.11.25
読書日:2023.1.15

言語はコミュニケーションを成り立たせるために脳が即興的にそのときどきで生み出しているものであり、脳に遺伝子で設定された特別な隠れた構造があるわけではないと主張する本。

最初に18世紀に太平洋を旅したクック船長の話が出てくる。西洋人が初めて訪れた島で、クック船長は原住民と話をして水を得ようとする。言葉が通じないのにクック船長は、水を手に入れることに自信満々だった。そして、実際、彼らはお互いジェスチャーで意思を通じさせて、クック船長は無事に水を得ることができたという。

というような話を聞いても、ほとんどの人はあまり驚かないだろう。なぜなら、言葉を知らない外国に行ってもなんとかなった、という話を誰だって一度は聞いたことがあるだろうから。自分自身で経験した人も多いだろう。でも考えたら不思議な話だ。どうしてこんな事が可能なのだろうか。

著者たちの説明は簡単で、ヒトは相手が伝えようとする内容を、自分の持っている膨大な知識を相手の立場にも対応させて、たぶんこうだろうと察する能力があるからである。もちろん、間違えることもあるだろうが、相手の反応を見れば、それが合っているのか間違っているのかを判断することは簡単だろう。それがジェスチャーをともなって行われれば、そのジェスチャーに意味が生じ、声をともなえばその発声に意味が生じる。コミュニケーションが進めば、そのジェスチャーや発声はいろんな意味に拡張され、複雑さを増していき、多くの人に共有され、ついには言語にいたる、というのが大まかな本書の主張である。

動物もコミュニケーションを行っていないわけではないが、たいてい遺伝子に規定された固定的なものだったりして、新しい言葉を生み出す柔軟性はないし、類人猿の場合はたくさんの単語(たとえば100個ぐらいの単語)を理解することもあるが、相手の立場になって推察するという能力が決定的に欠けている。

つまり、人間の言語機能は、相手の立場になって想像する社会脳の働きが生み出したもので、コミュニケーションするお互いの想像力による協調作業だ、ということである。

このように考えれば、言葉がすぐに移り変わって行くことが理解できる。お互いに理解できればいいので、過去の表現とか、社会的な公式の表現とは関係なく、コミュニケーションする人たちが、その場その場で即興的に新しい言語を構築し続けているからだ。若者が老人と異なった言葉を話しているのは、こういう言語の成り立ちからして当然のことなのである。著者たちは、言語(および言語の持つ意味)はその場限りの非常にはかないものだ、と言っている。なるほど。

これは自然な考え方で、とくに疑問の余地もないように思える。ところが、この考え方を受け入れると、いろんな問題が発生するのだ。

著者の言語理解では、言語の本質は相手の立場に立って想像する能力、ということになる。それ以外は本質的ではないのだ。すると、特に脳の中に言語を理解するための特別な構造が必要ない、ということも示唆している。つまり、脳は脳内のどこにでも普通に存在している脳細胞を使って言語を運用しているということだ。

これは実際にそのとおりである。脳内に言語を扱っている領域があるが、その領域の脳細胞は他の領域にあるものと同じである。つまり言語を専門に扱っている細胞があるわけではない。

このどこにでもある普通の脳細胞を使っているのなら、脳の持つ機能の限界がそのまま現れるだろう。例えば、脳のメモリである。脳の一次メモリはものすごく小さくて、せいぜい4,5語分程度のメモリしかない。こんな少ないメモリで、どうやって長い文章を理解しているのだろうか。やはり、言語専用の特殊な構造が必要なのではないだろうか。

著者によると、ヒトは意味のかたまり(チャンク)ごとに理解して、さらにチャンクごとにさらにまとめて新しいチャンクを形成し、常にメモリの範囲内に収まるようにチャンキングを行っているのだという。

なるほど、これなら特別な脳の機能はいらないことは理解できる。わしは「脳は世界をどう見ているのか」という本での、脳の基本機能はマッピングだ、という主張に共感を持っていて、こうした言葉や文章は最終的には地図の形で理解されるのだと思う。

さて、このように言語もほかの脳の情報処理と同じように処理され、言語専用の特殊な構造が必要ないということになると、あの有名な言語理論はどうなるのだろうか。言うまでもなく、チョムスキーの「普遍文法仮説」である。

普遍文法仮説の教えは次のようだ。ヒトは生まれたときから脳の中に遺伝的な普遍文法を構造として持っていて、生まれたときにはすべての言語を理解できる能力を持っている。そして実際に言語を学んでいくなかで、必要のない要素がなくなっていき、最終的に特定の言語の文法構造が脳内に出来上がるのだという。

そうすると、生まれたばかりのヒトの赤ちゃんには、あらかじめすべての言語のための構造が備わっていることになる。しかし、現実にそのような機構は脳にはなさそうだし、そのような機構がなくても言語活動は可能のようだ。そういうわけで、あっさり普遍文法仮説は否定されるのである。

普遍文法仮説が人間の言語の特徴としてあげている再帰構造(「彼の持っている車はトヨタだ」みたいな文の中に文が入って、どこまでもそれが繰り返し可能なこと)も、それ自体が特徴ということ自体が否定される。無限に入れ子構造を繰り返す言語はないし、そもそも再帰構造を持たない言語すらある(アマゾンのピダハン語とか)という。

普遍文法仮説が否定された点で(これが初めてではないと思うが)、この主張は画期的なのかもしれない。

さらに、当然ながらプラトン的なイデアの世界も否定される。即興的に作り上げる言語にとっては、言語の意味するものが純粋な形で存在する別の世界などありえないのである。もちろん日本的な言霊もありえない。力を持ったり、放ったりする、呪術的な魔法の世界はないのである。

***** メモ *****

この本の言語に対する考え方は非常に自然で納得できるのだが、従来の言語学から見るとパラダイムシフトを起こすような考え方なんだそうだ。

いったいどのへんがパラダイムシフトなのかという点が最初の方に書かれているのだが、この比較対象になる従来の言語学の考え方というのが、目に点になるほどへんてこりんなのである。発想の起点がシャノンの情報理論だというのだ。

シャノンの情報理論…って、言語コミュニケーションに応用できましたっけ? ほんまかいな、と思いました。

シャノンの情報理論って、たとえば10ビットの情報が途中でノイズなんかで1ビット欠落して9ビットになる確率とか(だから2ビットの冗長性をもたせましょうとかの話になる)、そういう純粋に工学的な話で、まあ確かにすべてのコミュニケーションに関係ないとは言えないけど、言語によるコミュニケーションの特徴とは関係ないじゃん。この理論を持ち出していることに、本当に驚きました。

こんな風になるのは、ソシュールの言語理論のせいらしい。ソシュールのイメージする言語コミュニケーションはこんなふうだそうだ。

まず伝えたい意味を言語に(脳の)変換回路を使って言葉に変換する。それを声で発声して伝えると、聞いた方は言葉を理解して、それを意味に変換する。そして意味を理解する。

まあ、つまり、言語は通信プロトコルに相当する、みたいな発想らしい。なるほど、こんなふうに考えるのなら、シャノンの理論が持ち出されるもの理解できないこともない。(でもシャノンの理論では、意味が通じなかったとき、それは正確に聞き取れなかったから、という解釈しかありえないことになっちゃうけど、これでいいのか?)

当然ながら、このコミュニケーションが成り立つためには、お互いに完全な変換テーブルを持っていることが前提で、そうすると、初めて出会った別の言語の人とどうやってやり取りできるの、って話になる。

本書のように、その場で相手の言いたいことを察して、その場でお互いに協力して言語を構築していく、という発想なら何ら問題ない。この辺がパラダイムシフトなんだそうだ。まあ分かるけど、なんか言語学ってちょっとご苦労さまっていう気がします。

★★★★☆

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