ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

沖縄から貧困がなくならない本当の理由

樋口耕太郎 光文社新書 2020.6.30
読書日:2020.8.31

沖縄から本当に貧困がなくならない理由は、日本の社会の悪いところが最も濃密につまったところだからと主張する本。

日本は同調圧力の高い社会だと思っていたが、その中でもとびきりに高い地域は沖縄らしい。沖縄にはひと昔前の日本の田舎の特徴が濃厚に残っている。日本社会のこういったところをフィールドリサーチしたい人は、いますぐに沖縄に行って研究すべきだ。何しろ著者によると、さすがの沖縄も最近、変わりつつあるようだから、もう時間がないかもしれない。

ともかく、沖縄では何よりタブーなのは目立つことなのだそうだ。例えば車に乗ってクラクションを鳴らすくらいでも、アウトになるという。沖縄のひとがクラクションを鳴らさないのは優しいからではなく、他人に対して強く出ると、それがやがてみんなの話題になり、人が離れていくからだそうだ。

当然ながらリーダーシップをとって人に指図するのも嫌われるもとになる。したがって、沖縄の人は昇進を嫌うのだという。リーダーシップを発揮すると、どんどん自分から人が離れていくからだ。なので無理に昇進させると本当に会社を辞めてしまうこともあるらしい。

そういうわけで、みんなと同じことをするのが無難となって、例えば定番の商品をずっと買い続けるということが起きる。オリオンビール金ちゃんヌードルなどが沖縄では異常に高いシェアをとる。そして商品を買うとき、食事や宴会をするときには人間関係が優先される。飲み会は知人の店以外は選択肢が存在しないそうだ。

このような状況では、沖縄の企業に生産性を上げようとする意識がまったく働かない。なにもしなくてもずっと買い続けてくれるのだから。さらには、従業員は昇進、昇給を望まないから、利益を確保したいと思ったら、給料を安いままにしておけば簡単に利益が上がる。利益を得るには生産性を上げるのが常道だが、そうすると従業員に対するリーダーシップが必要になり、このやり方は沖縄では向かないので、誰もやらない。

この結果、沖縄の地元企業は、沖縄では無敵だが、沖縄以外ではまったく競争力がないという状況になる。

さらに沖縄には国から数千億円単位の補助金が毎年投入されているが、このような補助金は地元企業の経営者を潤しているが、沖縄の一般の人にはいきわたらない。これでお金持ちがお金を使ってくれればいいのだが、お金持ちも目立つことを嫌うため、そんなに消費もしないようだ。

さらに子供もやる気のある生徒は仲間外れにされるという。その結果、やる気をなくすか、沖縄以外の大学に進学し、多くは帰ってこない。

こうして沖縄の貧困は続いていくのである。

著者も言っているが、これは外国から見た日本の状況にそのままである。日本は外国から見てガラパゴス化しており、生産性は上がらず、貧乏になり続けている。

どうすればいいのだろうか。

この点に関しては、著者もこれが解決策だというものはないようだ。ただ、著者は沖縄の人の自尊心の低さを問題にしていて、その人が関心をもっていることにこちらから関心を寄せてあげることで、自尊心を高めることができ、幸福になれると強調している。

そうすると、日本全体でも、収入とかGDPとかにこだわらず、幸福に暮らせるように持っていくのが良いのだろうか? そういう意味では日本はなんとなくそういう方向に進んでいるという気がする。

だが、最近のユニセフの国際的な評価で、子供の幸福度の順位が日本は38ヶ国中20位だった。しかし精神的な幸福度は37位ととても低い。たぶん大人も同じ傾向だろう。やっぱり日本人は自尊心が低いのかもしれない。

これをやればいいというひとつの答えがあるわけではないだろうが、次世代の日本人がもっと幸福であることを祈る。そもそもお気軽な気質の国民なので、楽しくやっていけるはずなんだがなあ。

★★★☆☆


沖縄から貧困がなくならない本当の理由 (光文社新書)

世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見るか

マルクス・ガブリエル 訳・大野和基 PHP新書 2020.2.28
読書日:2020.8.28

なぜ世界は存在しないのか」「「私」は脳ではない」のマルクス・ガブリエルが自分の哲学がリアルな世界の危機とどう関係してかを語った本。なお、世界史が巻き戻るとき、というのは、世界が19世紀の国民国家の時代に逆戻りしているということを表しているが、本質的なことではないので、ここでは議論しない。

新しい実在論は、これまでになかった考え方を提供しており、その考え方はそれだけで非常に好ましい物であると思う。しかし、この考え方を適用した場合、現実の認識はどのようにかわるのだろうか。

マルクス・ガブリエルによれば、新しい実在論はデジタル社会の発展により出てきたものなんだそうだ。つまりインターネットにフェイクニュースがあふれ、何が正しいかわからなくなった時代に対応するために出てきた哲学ということになる。

まず新しい実在論とは何かを振り返ってみよう。

新しい実在論はまず「世界は存在しない」と主張する。別の言葉では「あらゆるものを包括する単一の現実は存在しない」ということだ。これは直ちに「いろいろな現実が存在する」という結論になる。つまり物質の現実もあるし、幻想の現実も存在する。これはまさしくインターネットが身の回りにあるわたしたちのリアルな現実の状態と言っていいだろう。

次に、新しい実在論は、われわれはその現実についてそのまま知ることができる、という主張する。

この意味は、その言葉のまま、素直にとらえればいいようだ。つまり、われわれは身の回りの現実を見たままに捉えることができるし、幻想の現実もそういう文章を読んだり映像を見たり、自分の頭の中に思い描いたりして知ることができる、ということだ。それは確かにできるだろう。

では、こんな特徴を持つ新しい実在論はいったい何ができるというのだろうか?

これに対しては、新しい実在論は事実とバーチャルの間に明確に線を引けるのだという。

どういうことか。

例えば目の前にあるグラスが見えるとする。グラスが実際にあるか、それともプロジェクターに投射されたイメージか、を知るにはグラスを確かめればよい。このとき、自分の考えは無関係である。対象自身がそれを決定する。つまり、対象が本物と確認できれば事実で、それ以外はイメージとなる。

ばかばかしいくらい当たり前である。だが、大切なのは、自分の考えと無関係、という部分である。自分の考えはさておいて、対象自身で客観的に確認できるということだ。

いろいろな表現があふれている現代では、確認できる対象を含んでいない表現もたくさんある。つまり、それは事実を根拠としておらず別のイメージを根拠にしているわけだ。それはイメージ操作であり、イメージ操作がまるで事実のように氾濫しているのが現代なのだ。

(なお「私は脳ではない」で、事実と確認できる知識は他人と共有可能だが、イメージは説明できるが共有できない(つまり全員が少しずつ違ったイメージを持つ)、と言っている、ことに注意)。

このような事実とイメージが混在している状況を、マルクス・ガブリエルは「表象の危機」と呼んでおり、現代のすべての危機の根底にあるという。

 すべての危機とはなんだろうか。

現代の第1の危機は、「価値の危機」だという。

価値の危機とは価値観の違いによる問題、たとえば差別である。

マルクス・ガブリエルは普遍的な道徳的価値観というものが存在するという。例えば人を殺さないといったことだ。それは我々が同じ人間だという生物的な基盤に基づいている。したがって、これは確認できる事実の一種だ。一方、文化的な違いは、この道徳的価値観の表層を覆っているものにすぎない。

イスラム教徒を敵視し、差別することを考えてみる。なぜ差別するかというと、イスラム教徒はテロリストのイメージと結びついているからだ。この場合、イスラム教徒を差別する根拠はイメージにしか過ぎない。表象(主張)の根拠が表象(イメージ)でしかないので、これは間違っているということになる。誰かがテロリストであることが別の人がテロリストであることの理由にはならない。

第2の危機は「民主主義の危機」だという。

マルクス・ガブリエルによると、民主主義の機能というのは「意見の相違が生じたときに暴力が起きる可能性を減らすこと」だという。そして民主主義とは「明白な事実の政治」なのだという。明白な事実とは、例えば人権のことだ。すると、普遍的な道徳的価値観と同様に、このような誰もが納得する概念も、マルクス・ガブリエルは事実として認めるわけだ。

一方、独裁政権では明白な事実は隠されるという。中国では、誰が見ても独裁国家だが、中国はそれを否定する。一方、民主主義国家のアメリカでも、トランプのアメリカでは明白な事実を否定する傾向があるので、民主主義の危機が生じているという。

だれが見ても明白な事実に基づく政治が民主主義だが、興味深いことに、明白な事実がいったいどれだけあるのか、まだ不明だという。明白な事実かどうかは、合理的な分析や公開ディベートの結果で決定されるという。

新しい実在論では、誰もが合意できる「明白な事実」、たとえば人権というような概念も、確認できる事実として認定しているということは、興味深いことである。

第3は「資本主義の危機」だという。

資本主義の危機とは具体的にはグローバリゼーションのことだ。つまりはグローバル経済は国家を超えておりどこもそれを制御できないし、ある意味、民主主義国家を破壊している部分がある。例えば、利益を優先して、人間の自由などは考えないところがある。したがって、グローバル企業に倫理観を与えることが回答の一つになるという。(マルクス・ガブリエルは簡単なことだと言ってるが、全然簡単じゃないだろう)。

ところが最近、別の問題が現れているという。

最近、グローバル経済が進展して、人類は「統計的には貧困は減った」と主張する人たちがいる。ピンカーは「21世紀の啓蒙」で、貧困の相対的な割合が減少したと言っている。

しかし、新しい実在論では、このような、人を捨象した扱いは認められない。マルクス・ガブリエルは統計的な割合では減っていても、絶対数は増えているではないかと主張する。

マルクス・ガブリエルは、あくまで個人を大切に考えているようだ。実在を判断し決定しているのはそれぞれの個人の精神だから、ということなのだろう。実際、いま貧困にある人に、貧困者の割合が減っていると話しても、慰めにもならないだろう。

どうやらマルクス・ガブリエルの考え方では、統計はイメージ操作のごまかしで、事実とは異なるらしい。(個人的には、こういう統計処理も価値あるものだと思うのだが)。

なお、新しい実在論は、それぞれの個人のあり方に関する「新実存主義」を提案できるという。そのためにはマルクス資本論に相当するような経済システムに関するグランドセオリーが必要だという。(新実存主義もグランドセオリーも、まだできていないのでなにも説明されていない。今後のマルクス・ガブリエルの仕事になる)。

第4の危機はテクノロジーの危機だという。

マルクス・ガブリエルは自然主義を批判する。自然主義とは、自然科学を研究し応用することが最も大切と考えることだ。彼が自然主義を批判するのは、自然科学には倫理を考える枠組みがないからだ。科学の進歩が人類を救うというのは、迷信に過ぎないという。

マルクス・ガブリエルは科学知識を否定はしないが(確認できる事実だから)、それが自然主義のようなイデオロギーになることに反対しているのだ(確認できないイメージだから)。

それは分かるが、人工知能はあり得ない、と断言するのはどうなんだろう。個人的には、知能は情報処理の一種だから十分あり得るように思うが。マルクス・ガブリエルによれば、知能は生物学的なものだから、機械の知能を考えること自体がばかげている、のだそうです。

それはともかくとして、機械が人間を置き換えた時に、人間にベーシックインカムを与えることを考えるというようなことが正しい思考法なんだそうです。


さて、どうだろう。確かに新しい実在論は、新しい見方を提案してくれている。確かにイメージの垂れ流しや炎上の絶えないインターネットの時代に合っているのかもしれない。

しかし、この考え方をすべての基本にして思考を行うには、十分でないような気もする。とくに資本主義の危機とテクノロジーの危機にはどのくらい役立つのか、なんとも不明だ。とくに資本主義の危機は根本にあるという表象の危機とどう絡んでいるのか、いまいち分からない。

とりあえず、新実存主義やグランドセオリーなるものが完成し、それを読んでみなくてはいけないだろう。それがいつ完成するかは分からないが、本当に新しい実在論がみなに認知されるかどうかは、そのグランドセオリーの出来にかかっているのでしょう。

★★★☆☆

 


世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか (PHP新書)

アクセスランキング@2020.9.5

f:id:hetareyan:20200905145956j:plain

皆様、いつもブログを読んでくださりありがとうございます。

2018年11月に開設以来、245本の記事を投稿しました。ほとんどは、読んだ本のまとめ、感想の類です。

じつは当ブログに定期的に来られる方はわずかでして、95%の方は検索サイトを通してここに来られています。

では、検索されて来られる方はどんな記事に関心があるんでしょうか?
これが本当にパレートの法則通りでして、一部の記事に集中しているのですね。

では、2020年9月5日時点でのランキングを発表します。

では、1位からどうぞ。

 

1位 情動はこうしてつくられる 脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

 

www.hetareyan.com

この記事が圧倒的でして、なんと4分の1ぐらいの方がこの記事を読みに来てくださっています。

どうかんがえても普通の人の関心を呼ぶような本ではないので、なぜなんだろうと、疑問に思ってるんですけど、もしかしたらどこかの大学の心理学の講座で教材になっているのではないでしょうか。そこの学生がとりあえず検索して中身を調べているのでは?

もしもそうだとすると、非常に心苦しいです。なにしろ、わしはただのサラリーマン投資家で、とうぜん心理学の専門家ではないのですからね。読んで、理解したと思っていることを適当に書いているだけですから、見当違いのことを書いているかもしれません。

ぜひとも、わしの記事を鵜呑みにせずに、自分で読んで自分の頭で理解するようにしてほしいなあ、と思う次第です。

 

2位 グレッグ・イーガン順列都市」の<塵理論>について

www.hetareyan.com

ほぼ10%の方がこれを読みに来てくださっています。(1位と2位を合わせて、3分の1なんですね。)

順列都市」は非常に印象に残るSFですが、どうもそこで使われている「塵理論」は理解できん、という方がいっぱいいるようです。これだけ名作ですから、一定の人間が毎日読み、疑問に思うのでしょう。そういうわけで、たぶん、ずっとアクセスがある記事になるんじゃないかと思います。

こちらもわしが適当に書いているだけですが、しょせん小説ですので、間違っていても気にすることはありません。みなさんの参考になればいいですね。

 

3位 平等は正しいのか 「暴力と不平等の人類史」読んで考えたこと
   (暴力と不平等の人類史 戦争・革命・崩壊・疫病 を含む)

www.hetareyan.com

www.hetareyan.com

 

この本が強い関心を集めているというのも興味深いですね。どんな人が読んでるんでしょうね。2位と同じくらいアクセスがあります。

わしは本当に平等主義を嫌っているので、この本を読んで気分が悪くなりました。著者の思考回路はすこしおかしいと思います。良書だとはおもいますが。

それでわしと同じことを思った人がこの記事にたどり着いたのでしょうか(笑)。

 

4位 LIFE3.0 人工知能時代に人間であるということ

www.hetareyan.com

AI関連はまだ人の興味をひきつけているようですね。だが、わしは、最近AIに関心を失いつつあります。シンギュラリティは本当に起こるんでしょうか。

 

5位 逃れる者と留まる者 (ナポリの物語3)

www.hetareyan.com

ナポリ物語シリーズ全4巻のうち、なぜかこの巻のアクセスが多いのです。もしかしたら2巻まで読んだ人が3巻を読もうか迷ってアクセスしてきてるんでしょうか(笑)

ナポリ物語シリーズは、わしの住んでいる地域の図書館では借り放題ですが、わしの知り合いの女性によると、八王子では順番待ちだそうです。

地域によって人気に差があるようですね。

 

6位 中村元選集〈第3巻〉/東洋人の思惟方法〈3〉日本人の思惟方法

www.hetareyan.com

これもどういう人がアクセスしてきてるのか興味深いですね。この本は本当に日本人理解にはぴったりの本で、読んでいて何度も目からうろこが落ちました。長く読み継がれている本です。

 

7位 スノーボール  ウォーレン・バフェット

www.hetareyan.com

この本にアクセスする人は、ほとんどの人がバフェットの現在の妻のアストリッドとの不思議な関係について興味がある人が、アクセスしてきています。投資じゃないんですね(苦笑)。

 

8位 中国の大プロパガンダ 恐るべき「大外宣」の実態

www.hetareyan.com

時事ネタとして関心があるんでしょうか。そのうちアクセスはなくなる類の記事ですね。

 

9位 21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩

www.hetareyan.com

ピンカーの最新作もランク入りしています。しかしわしはピンカーの「暴力の人類史」は読んでいないんですよね。必読書みたいなんで、読むべきリストには入れているんですが。

 

10位 肩をすくめるアトラス

www.hetareyan.com

アイン・ランドの歴史的な傑作小説が10位ですね。これも、平等主義反対の本です。

 

こうやって全体を見ると、息の長い良書のレビューがかなりを占めていますね。当ブログは期せずしてロングテール狙いになっているんでしょうか(笑)。

 

以上 アクセスランキングでした。

 

第五の季節

N・H・ジェミシン 訳・小野田和子 東京創元社 2020.6.2
読書日:2020.8.26

(ネタばれあり。注意)

シリーズ三作がヒューゴー賞を三年連続で取ったという、鳴り物入りのSFファンタジーの1作目。(最近こういうのが多いな、三体とか)。

何しろ聞いたことのないような設定や能力が盛りだくさんで、とても全部は書ききれないが、とりあえずいくつかは書いておかないと話が進まない。驚くべきはこれだけ不可思議な設定が次々出てくるのに、すらすら読んでいけること。まあ、SF作家であれば必要な能力なのだが、著者は異常にその能力が高いと思う。

まずオロジェンという特殊能力をもつ人間が登場する。英語ではorogenで直訳では地学の造山(インド亜大陸に押されてヒマラヤ山脈ができたみたいな)のことだが、ここでは地球の地殻やマグマなどの地球物理学的な対象に直接影響を与えられる人々のことをいう。彼らは地震を起こしたり、逆にそれを押さえ込んだりすることができるオロジェニーという能力をもつ。

こんな人間がいるせいなのか、この世界では大陸さえも不安定で、よく地震が起こる。火山もよく噴火し、噴煙のせいで何年も寒冷化するといった異常気象も起きる。こうした異常気象の時期を「第五の季節」と呼んでいて、このため文明が何度も滅んでしまう。人類はこの季節を乗り越える知恵を、石に刻んで後世に伝えた。それらは「石伝承」と呼ばれる。

こうするうちに、サンゼ人の帝国が誕生し、必要な物資を貯蔵して異常気象の第五の季節に備えるようになった。また守護者たちがオロジェンたちを組織し、奴隷のように支配して、その力を使って地球の地質的な変動を抑えようとしている。こうして、第五の季節を人間はある程度やり過ごすことができるようになっている。

そして、古代の超文明の残骸もある。空にはオベリスクという謎の物体が浮かんでいて、移動している。また石喰いという白い磁器でできたような不死の存在がいる。石喰いたちは地中を移動できる。

というような世界で、三人の女性オロジェンの物語が並行的に語られる。

ひとりはエッスンという母親で、新しい第五の季節が始まったときに彼女の物語も始まる。彼女の夫が息子を殺して娘のナッスンを連れて出て行くという事件が起こる。エッスンは娘を追いかけて、第五の季節が始まった世界の混乱のなか、旅に出る。途中でホアという少年とトンキーという女性と道連れになる。エッスンの物語は「あんた」という二人称で語られ、誰が語っているのかは、最後に分かる。

二人目はダマヤという少女で、オロジェンの能力を持っているために、帝国の首都ユメネスにある訓練機関フルクラムに連れていかれる。ここでオロジェンとしての能力を鍛えるとともに、指導者カーストの少女ビノフと出会う。

三人目はサイアナイトという若い新人オロジェンの話で、アラバスターという有力なオロジェンのもとで初めての仕事に出張する旅に出る。しかし結局アラバスターと自由を求めてフルクラムを脱出することになる。彼らを追ってきた守護者たちと、オロジェニーを使った超能力対決を繰り広げる。

ここからはネタばれだが、エッスンが長い旅の末にカストリマという町につくと、そこに3つの話の全ての登場人物が集合する。そして、エッスン、ダマヤ、サイアナイトの3人は同じ人物であることが分かる。そして第五の季節を引き起こしたのは、アラバスターだということが分かる。アラバスターには次の計画があり、それにエッスンを巻き込もうとしているところで、第1部は終了する。

なんとも不思議な話。いまのところは、石喰いとか、オベリスクとか、謎の部分が多いけど、その辺はおいおい説明されるんでしょう。なんか展開が宇宙にまで拡大されるような感じ。

それにしても、いろいろ細かい設定が次々に出てきて、ここまで設定を考えなくてはいけないというのも、作家はなんとも大変です。

(しかし、文庫本で1600円とは高いんじゃないの? わしは図書館使ってるから関係ないけど)

★★★★☆

 


第五の季節 〈破壊された地球〉 (創元SF文庫)

敗者のゲーム 金融危機を超えて<原著第5版>

チャールズ・エリス 日本経済新聞出版社 2011年2月25日
読書日:2013年09月30日

投資にはインデックスファンド、ETFが最適であることを主張する本。

「敗者のゲーム」とはものすごくいいネーミングだ。これだけでこの本のコンセプトを完全に表している。

最初にテニスのゲームについて話があって、プロの試合ではラリーの応酬のあと強力なショットで決まったりする。つまりスーパープレイだ。ところがアマチュアの試合ではスーパープレイなどなく、ミスをしたほうが負ける。つまりいかにミスをしないかが勝つ秘訣になる。投資でもまったく同じで、勝とうとするのではなく大きなミスをしないようにすることで勝つことができる、という。

ではどういう投資をするかというと、投資のリスクとしてもっとも大きいのはインフレだという。インフレに負けないように投資を実行するのは至難の業で、もちろん銀行預金では駄目で、債権もとんとんぐらいにしかならない。したがって株式投資しか選択肢がないという。株式投資のばあい投資信託は手数料を入れると市場のパフォーマンス以下にしかならないから、これもはずす。個人で銘柄選択するのは、プロでも難しいことを考えると選択肢に入らないので、結局、株式指数に連動したインデックスファンドかETFしか残らないという。

もう1つ大事なのは、国内市場だけでなく、外国の市場にも投資するということである。世界の成長に乗り、分散投資を行うところに意味がある。

このようなひどく退屈な投資でも、複利効果により10年後20年後には莫大な資産形成が見込まれるという。

わしはもちろんこのような退屈な投資はお断りである(笑)。

しかし、投資のリスクという意味では大変参考になった。これほどインフレが脅威だとは思ってもみなかった。デフレの世界に長くいすぎたせいだろうか。今後日本がデフレを脱却しインフレの世界に突入するのなら、ぜひともインフレのリスクを忘れずにいたいものである。

★★★★☆

(注:読んだのは第5版であるが、最新版をリンクしておく) 


敗者のゲーム〈原著第6版〉 (日本経済新聞出版)

われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか 進化心理学で読み解く人類の驚くべき戦略

ウィリアム・フォン・ヒッペル 濱野大道 ハーパーコリンズ・ジャパン 2019.10.19
読書日:2020.8.14

森からサバンナへの気候変動に直面した人類は、社会的認知能力(社会脳)を向上させ、社会的跳躍(ソーシャル・リープ)を成し遂げ、その影響は現代人にもあると主張する、最近はやりの進化心理学関係の本。

人間の脳が発達したのは社会的認知力を上げるためだったという「社会脳仮説」というものがある。600万年前のアフリカで気候変動により森が消え、サバンナで暮らすようになると、人間の祖先は仲間同士で協力し合うことで、危機を乗り越えようとした。協力するために仲間の心を推測し、自分の社会的な立場を確認する必要がでてきたから、脳が発達したというのである。

本当だろうか? そこで著者が示すのがこんな例だ。

太古の時代、狩猟採集民のひとりが仲間のところに帰ってきた。そのときに、仲間が自分の方を見てくすくす笑ったとしよう。もしそんなことが起きたら、笑われた人は何が起こったのかすぐにつきとめなくてはいけない。自分の歯にマンモスの毛がはさまっているせいのか、妻が寝取られたのか、そもそも自分に関係があるのか。もしかしたら誰かが自分を裏切ろうとしているのかもしれないから、状況によっては命が危いかもしれないのだ。なにしろ政府も警察もない社会では、誰も自分を守ってくれないのだから。

昔の狩猟採集民の生活を、まるで見てきたかのように書いているが、非常に説得力がある。相手の心を理解するというのがこんなに複雑で、こんなにいろいろ推測しなくてはいけないのなら、なるほど脳のかなりを社会的なことに費やさなくてはいけないだろう。

そしてひとの心を理解できるようになれば、間違った情報を相手に与えてその心を操作して、自分に有利な状況を作ろうという動機にすぐに結びつく。つまり人は嘘をつく。だから、人が嘘をつくのはそういった社会脳を持ったからだという。ただし、嘘は共同体にダメージを与えるため、どんな文化でも、嘘は必ずタブーとなっているそうだ。(そりゃそうだ)。

嘘をつくのが悪いことだとしても、嘘をつかずに他者を説得できれば、問題はない。そこで、社会脳はもっと巧妙な戦略を用いると著者は主張する。つまり「他人を欺くためにまず自分を欺く」というのだ。もしも自分のことを心から信じていれば、自分の発する言葉は説得力を増すことになる。

そのために、ひとは自分を実際よりも高く評価する傾向があるというのだ。だいたい実際よりも2割り増しくらいに高く評価するという。この結果、ひとは自信過剰になり、その言葉は根拠のない説得力を持つ。(そして、自信過剰のあまり無謀な試みも行ったりする)。

話はここで終わらなくて、なぜ論理的な議論を人間が発達させたのかというと、自分の信念を他人に説得するため、なんだそうだ。それほど自分の意見を認めてほしいという気持ちが大きいということだ。そうすると、哲学や科学の発達も含めて、それらは「社会脳」の副産物ということになる。ほんまかいな。

まあ、この辺はどうかなという気もするけど、なぜ科学技術の発達(イノベーション)はなかなか起きないのか、という説明に「社会脳」を使って説明しており、これはけっこう説得力がある。名付けて「社会革新仮説」というんだそうだ。

例として、車輪付きのスーツケースをあげている。いまとなっては想像もできないが、スーツケースには長いこと車輪がついていなかった。付いたのは、1970年代なんだそうだ。それまではどうやっていたかというと、空港や駅にポーターという職の人がいて、その人たちがカートにスーツケースを載せて、目的地まで運んでいたんだそうだ。

でもどうしてスーツケースに車輪を付けるみたいな簡単な工夫が、長いことなされなかったのだろうか。

社会脳仮説によれば、脳は人が協力するように進化したので、なにか問題が起きると、まずは社会的な仕組みで問題を解決しようとする傾向がある。そういう脳を持っている頭のいい人たちは、荷物を運ぶために、ポーターという職を作り人を配置する。確かにこれでかなりの程度、問題は解決する。

一方、社会的な仕組みでなく物自体に目を向ける人は非常に少ない。繰り返すが、これはもともと脳が人の協力で物事を解決する傾向で発達しているからだ。つまり、人間にあまり関心がなく物自体に目を向けるエンジニアのような人ひとたちは少ない。だから、なかなかスーツケースに車輪がつかなかったという。同じようなことがすべてに当てはまるから、一般にイノベーションはなかなか起きないのだそうだ。

うーん、エンジニアの人たちが人にあまり興味がない人たちだと決めつけるのが気になるけど、確かに物自体に目を向ける人は少数派かもしれない。そして日本のように社会が緊密で、お互いの協力が発達している社会では、さらに物自体に目を向ける人が少ないという気もする。

これが日本の生産性が低い理由のひとつかもしれない、という気もしてくる。日本人は社会脳が発達しすぎているのかもしれない。

さて、社会脳仮説によれば、ひとは協力するように仕向けられているわけだけど、人が協力するのは仲間の集団の中だけという。つまり、見知らぬ別の集団に対しては、そのような協力は起きない。なので、国と国同士はなかなか協力し合わない。世界平和という観点からは、人間の脳の進化は現状に追いついていないわけで、今後もなかなか厳しそうだ。

ちなみに、共通の敵がいなくなれば、仲間内で分裂するのも社会脳のなせる業で、アメリカが現在極端に2極化しているのは、ソ連という全米共通の敵がいなくなったことが大きいと、著者は述べている。なるほど。

そうすると、中国という仮想敵国を得た今のアメリカは、また一体になるのか。アメリカだけではなく、中国も共通の敵は好都合なのか。

ちなみに、人がなぜお人好しかというと、公平に扱われていると感じると、人はほとんどの人を信頼できると思うからだそうで、いつでもお人好しというわけでもないようです。ただ狩猟採集民だったころは、極端に公平な社会だったみたいだから、ひとは基本的にお人好しだったんでしょうね。ちなみに、人間を含めて、動物は公平さに厳しくて、自分が周りから公平に扱われているかどうかのチェックは、進化的にも非常に発達しているんだそうです。

ほかにも、どうやったら幸せを多く味わうことができるのかなどについても述べているが、個人的にはこれはなんだか付け足しのように感じた。

これまでにもそうじゃないかと思っていたことを、社会脳仮説でもういちど説明し直されただけのような気がするけど、なかなか面白かったです。

★★★★★

 


われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか 進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略 (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)

貧農史観を見直す

佐藤常雄 大石慎三郎 講談社現代新書 1995.8.20
読書日:2020.8.12

時代劇などに出てくる貧しい農民の姿は事実ではなく、日本の農民の生活は豊かだったと実証する本。

どこかでこの本のことを知り、読まなくてはいけないリストに入っていましたが、夏休みになってやっと読みました。

この本には江戸時代の百姓のリアルな生活が収められてあって、体制の中でどんな存在だったのかとか、どんなふうに管理されていたのか、などが書かれています。その中でわしの関心のあるのは、百姓がどのくらい豊かだったのか、という点だけでして、それが書かれてあるのは、第3章の40ページほどです。

それによると、江戸時代の初期は新田開発や治水工事などの費用を負担するため、かなり税金が高かったようですが、開発が一段落すると、税金は安くなっていきました。17世紀にいったん村の生産量を測定して、村ごとの産出量を測定し、それに対して20〜30%ぐらいの税率だったようです。その後、その産出量の再測定は江戸時代の間行われませんでした。つまりこのときに税金は固定化されたのです。

その後も、農業技術が発展し産出量は増えていきましたが、納める税金は変わりませんでした。しかも農村では換金化がしやすい高付加価値の農作物(綿や生糸など)やあるいは加工品などの生産も行われましたが、それでもおさめる税金は変わりませんでした。その結果、実質の税率はどんどん下がり、中には税率は10%を切るの村も多数あったようです。累進課税なんかはもちろんありません。なんて羨ましいんでしょうか。

こんな感じですから、農村の富は増え、経済力は上がり続けました。衣食住はもちろんですが、祭りや芸能などの遊びが充実しました。年間のお休みの日数は30日〜40日ぐらいあり、中には60日お休みがあった村もあったといいます。昔の日本では、若い男は若者組という組織に入って、一緒に過ごすのですが、その若者たちは若者らしいむちゃをする一方、歌舞伎、踊り、獅子舞、相撲、花火などのイベントをしょっちゅう行っていたようです。

侍が農村に行って監督するなんてことはまったくありませんでした。決められた税金さえ払えば、村に干渉することはなかったのです。農民は自分たちで村の中を治めていました。高度な自治を持っていたわけです。自治を行わなくてはいけませんから、村を治める庄屋は少なくとも読み書き算盤をできなくてはいけませんでした(藩への報告の義務があった)。なので、各村に少なくともひとりはそのような教養を持っている人がいたわけです。

というわけで、江戸時代の日本国民3000万人は、概ね豊かな生活を送っていたようです。また宗教的なしばりは一切なく、物質的で、享楽的な人生を送ったようです。中村元の言ってたとおりですね。

★★★★☆

 


貧農史観を見直す (講談社現代新書)

にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ