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「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学

マルクス・ガブリエル 訳・姫田多佳子 講談社 2019.9.10
読書日:2020.7.14

なぜ世界は存在しないのか」のマルクス・ガブリエルが、人間の精神は脳という物質に依存せず、徹底的に自由であると主張する本。

「なぜ世界は存在しないのか」では、世界自体は存在できないが、それ以外は何でも存在でき、形而上的な実体のあるものも存在するし、幻想のような実体のないものも存在する、という主張だった。これは我々の生活感とも一致するものであるから、不自然さがなく非常に好ましものである。

ところで、幻想のような実体のないものは、ようするに人間の精神の産物である。一方、人間の精神活動は脳という物質で営まれている。すると、脳の物質的な状態がすべて分かり、そこで起こる因果関係が判明すれば、人間の精神活動もすべて予測できるのだろうか。

もしそうなら、例えば、自分が何かを選択したと思っていても、その選択は脳内の物質的な因果関係で決まったのであり、つまり人間にはまったく自由がない、ということになってしまう。

私は自由なのか、自由でないのか。どうすればそれがわかるのだろう。

論理的には、もしも私が脳を使って考えていたとしても、私という存在が脳と関係ないのなら、私は脳から自由だといえるだろう。つまり脳を用いずに私を定義できるなら、「私」は脳ではない、と主張でき、私は自由なのだ。これがマルクス・ガブリエルのアイディアだ。

では、私とはなんなのか。

普通はこう考える。我々には意識があり、自分というのは意識を通じて認識される。だが、我々は自分に意識があることをどうやって意識しているのだろう。

我々は意識に上った内容をたえず評価し、どんな感情を起こし、どんな行動を取るかなどを考えている。このようなことをする存在を自己意識という。

自己意識とは、ようするに、意識に上った内容を意識するような存在だ。

すると自己意識が私なのだろうか。

ところが自己意識を使った説明はすぐに矛盾に陥ってしまう。意識に上がった内容を意識するのが自己意識の役目なら、自己意識が意識した内容を、どうやって意識するのだろう。そうすると、自己意識を意識する第2の自己意識が必要になるだろう。さらに第3の自己意識が必要になり、ということが繰り返され、意識の無限後退に陥ってしまう。

これを避けるために、自己意識は自分自身で自分を意識できるとする考え方もある。これを意識の循環論法というのだそうだ。だが、そうすると、自己意識だけでなく、意識自体も自分で自分を意識できることになり、そもそも自己意識など必要ないのではないか、という議論になる。そうすると意識に上ったことを評価し、情動を起こす仕組みを説明するのが困難になってしまう。

こうして自己意識が私であることは、無限後退や循環論法に陥ってしまい、意識を使った私の定義は困難に直面するのである。

では、どうすればいいのだろうか。

ここで、マルクス・ガブリエルは少々トリッキーな方法を使う。答えを言うと、

 「私」とは何かを知っている「誰か」

と定義するのだ。もしくは、

 「私」とは何かを知っていて、その何かを分かち与えることができる「誰か」

と定義する。つまり、何かを知っている主体が「私」だ。もちろん定義に脳が入っていないので、「私」は脳ではない、と主張できる。「私」にかっこが付いているのは、この定義による私、ということらしい。

これは18世紀の哲学者フィヒテの「私」の定義で、これを現代に復活させようというのがマルクス・ガブリエルの意図なのだ。

この表現は否定できないという特徴がある。つまり、何かを知っている「誰か」などいない、と否定することはできない。そうしたとたん、<何かを知っている「誰か」などいない>ということを知っている自分がいる、と表明することになり、自己矛盾に陥ってしまうからだ。こうしてこの定義は誰にも否定不可能な表現になっている。

このようなトリッキーな表現は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の表現とよく似ており、マルクス・ガブリエルはフィヒテ版の「我思う、ゆえに我あり」だと言っている。

何かを知っている、ということはその何かは知識に他ならないわけだが、ここで知識は分かち合える、つまり他の誰かに伝えられるという点が大切だ。これがイメージとの違いだ。イメージだと、その内容を説明することはできるが、他の誰かと完全に共有することはできない。(同様に「意識」も他の誰かと共有できないところに注意。意識というのはイメージに近い)。

一方、知識だとその内容を確認することができるので、別の誰かと共有可能なのだ。数学や物理の知識などが共有できるのはもちろんだが、日常の事実も確認できるなら知識と考えて問題ないし、確認しなくてもその知識が真実である理由を直ちにあげることが可能で、説得力があるなら、その知識は真実であろうと考えることも可能だ。

もちろん、その知識も間違っていたということはあり得るわけだが、間違っていたということが分かる以上、すなわち確認可能だということだし、それ自体が新しい知識になる。

このように、脳に依存せずに「私」(かっこ付きの私だが)を定義できるというのは、非常に驚きである。もちろん脳だけでなく、全ての物質とも無関係だ。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は自分の意識が確かに存在している、ということを示すものだった。だが、デカルトはその自分の意識がどこにあるのかを説明できなかった。脳の中心部の松果体ではないかと予想を出すことはできたが。

それと同じように、フィヒテの「私」も自然と(つまり物質と)どういう関わり方をしているのか不明だ。したがって、物質(脳)で全てを説明しようとする神経中心主義者(ニューロ中心主義者)たちの批判を受ける余地がある。

そして、個人的には、この論理が本当に「私」の自由を意味しているのか、いまいち釈然としないところがあるのも事実である。

そういう意味で、議論の決着は付いていないように思えるし、永久に決着は付かないのかもしれないが、「私」は脳ではない、と言える論法があることは知っておいていいのではないか。

ところで、「私」を知識を知っているかどうかで定義した場合、AIが問題になるのではないかと個人的には思う。この本の中ではAIについて議論はなされていないが、たとえば数学の新しい定理をAIに見つけさせようというプロジェクトがある。もしもAIが新しい定理を発見した場合、AIにも分かち合えるものができることになる。AIも「私」なのだろうか?

 

(以下は個人的なメモです)

以下にフィヒテの「知の学問の三原則」について記す。

第1の原則 「私」=「私」
 何かを知っている「私」を否定できないことを示す。つまり、何かを知っている者が必ずいることを示す。本書の表現では、”知と同一視できるものが少なくとも1つある”。少なくとも1つというから、「私」は複数の「我々」の場合も含む。

第2の原則 「私」≠「私でないもの」
 「私でないもの」とは、何かを知ってる誰かではないもの、例えば、石とか草原とか銀河とかのようなもの、つまり「私」でない自然のこと。したがってこの表現は、「私」と自然を切り離した状態を示す。自然を客観的に観察するために、自分、つまり「私」を自然と切り離して、外から自然を見ようとする、その態度を表している。(ただし実際には私を自然から完全に切り離すことはできない)。

第3の原則 私は「私」の中で、分かち合える「私」に対して、分かち合える「私でないもの」を対立させる。

 ここで、
1.「私」(=知ることができる状況にある自分)
2.分かち合える「私」(=自分の知識、自分が知っていること)
3.分かち合える「私でないもの」(=知識全般、自分が知っていないすべての知識)

 を意味する。

 この不思議な文言の意味は単純で、他の人が知っていて自分が知らない知識を私は知ることができる、つまり知識は伝達できて、共有できるということを示している。

 ★★★★★

 


「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学 (講談社選書メチエ)

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