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世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見るか

マルクス・ガブリエル 訳・大野和基 PHP新書 2020.2.28
読書日:2020.8.28

なぜ世界は存在しないのか」「「私」は脳ではない」のマルクス・ガブリエルが自分の哲学がリアルな世界の危機とどう関係してかを語った本。なお、世界史が巻き戻るとき、というのは、世界が19世紀の国民国家の時代に逆戻りしているということを表しているが、本質的なことではないので、ここでは議論しない。

新しい実在論は、これまでになかった考え方を提供しており、その考え方はそれだけで非常に好ましい物であると思う。しかし、この考え方を適用した場合、現実の認識はどのようにかわるのだろうか。

マルクス・ガブリエルによれば、新しい実在論はデジタル社会の発展により出てきたものなんだそうだ。つまりインターネットにフェイクニュースがあふれ、何が正しいかわからなくなった時代に対応するために出てきた哲学ということになる。

まず新しい実在論とは何かを振り返ってみよう。

新しい実在論はまず「世界は存在しない」と主張する。別の言葉では「あらゆるものを包括する単一の現実は存在しない」ということだ。これは直ちに「いろいろな現実が存在する」という結論になる。つまり物質の現実もあるし、幻想の現実も存在する。これはまさしくインターネットが身の回りにあるわたしたちのリアルな現実の状態と言っていいだろう。

次に、新しい実在論は、われわれはその現実についてそのまま知ることができる、という主張する。

この意味は、その言葉のまま、素直にとらえればいいようだ。つまり、われわれは身の回りの現実を見たままに捉えることができるし、幻想の現実もそういう文章を読んだり映像を見たり、自分の頭の中に思い描いたりして知ることができる、ということだ。それは確かにできるだろう。

では、こんな特徴を持つ新しい実在論はいったい何ができるというのだろうか?

これに対しては、新しい実在論は事実とバーチャルの間に明確に線を引けるのだという。

どういうことか。

例えば目の前にあるグラスが見えるとする。グラスが実際にあるか、それともプロジェクターに投射されたイメージか、を知るにはグラスを確かめればよい。このとき、自分の考えは無関係である。対象自身がそれを決定する。つまり、対象が本物と確認できれば事実で、それ以外はイメージとなる。

ばかばかしいくらい当たり前である。だが、大切なのは、自分の考えと無関係、という部分である。自分の考えはさておいて、対象自身で客観的に確認できるということだ。

いろいろな表現があふれている現代では、確認できる対象を含んでいない表現もたくさんある。つまり、それは事実を根拠としておらず別のイメージを根拠にしているわけだ。それはイメージ操作であり、イメージ操作がまるで事実のように氾濫しているのが現代なのだ。

(なお「私は脳ではない」で、事実と確認できる知識は他人と共有可能だが、イメージは説明できるが共有できない(つまり全員が少しずつ違ったイメージを持つ)、と言っている、ことに注意)。

このような事実とイメージが混在している状況を、マルクス・ガブリエルは「表象の危機」と呼んでおり、現代のすべての危機の根底にあるという。

 すべての危機とはなんだろうか。

現代の第1の危機は、「価値の危機」だという。

価値の危機とは価値観の違いによる問題、たとえば差別である。

マルクス・ガブリエルは普遍的な道徳的価値観というものが存在するという。例えば人を殺さないといったことだ。それは我々が同じ人間だという生物的な基盤に基づいている。したがって、これは確認できる事実の一種だ。一方、文化的な違いは、この道徳的価値観の表層を覆っているものにすぎない。

イスラム教徒を敵視し、差別することを考えてみる。なぜ差別するかというと、イスラム教徒はテロリストのイメージと結びついているからだ。この場合、イスラム教徒を差別する根拠はイメージにしか過ぎない。表象(主張)の根拠が表象(イメージ)でしかないので、これは間違っているということになる。誰かがテロリストであることが別の人がテロリストであることの理由にはならない。

第2の危機は「民主主義の危機」だという。

マルクス・ガブリエルによると、民主主義の機能というのは「意見の相違が生じたときに暴力が起きる可能性を減らすこと」だという。そして民主主義とは「明白な事実の政治」なのだという。明白な事実とは、例えば人権のことだ。すると、普遍的な道徳的価値観と同様に、このような誰もが納得する概念も、マルクス・ガブリエルは事実として認めるわけだ。

一方、独裁政権では明白な事実は隠されるという。中国では、誰が見ても独裁国家だが、中国はそれを否定する。一方、民主主義国家のアメリカでも、トランプのアメリカでは明白な事実を否定する傾向があるので、民主主義の危機が生じているという。

だれが見ても明白な事実に基づく政治が民主主義だが、興味深いことに、明白な事実がいったいどれだけあるのか、まだ不明だという。明白な事実かどうかは、合理的な分析や公開ディベートの結果で決定されるという。

新しい実在論では、誰もが合意できる「明白な事実」、たとえば人権というような概念も、確認できる事実として認定しているということは、興味深いことである。

第3は「資本主義の危機」だという。

資本主義の危機とは具体的にはグローバリゼーションのことだ。つまりはグローバル経済は国家を超えておりどこもそれを制御できないし、ある意味、民主主義国家を破壊している部分がある。例えば、利益を優先して、人間の自由などは考えないところがある。したがって、グローバル企業に倫理観を与えることが回答の一つになるという。(マルクス・ガブリエルは簡単なことだと言ってるが、全然簡単じゃないだろう)。

ところが最近、別の問題が現れているという。

最近、グローバル経済が進展して、人類は「統計的には貧困は減った」と主張する人たちがいる。ピンカーは「21世紀の啓蒙」で、貧困の相対的な割合が減少したと言っている。

しかし、新しい実在論では、このような、人を捨象した扱いは認められない。マルクス・ガブリエルは統計的な割合では減っていても、絶対数は増えているではないかと主張する。

マルクス・ガブリエルは、あくまで個人を大切に考えているようだ。実在を判断し決定しているのはそれぞれの個人の精神だから、ということなのだろう。実際、いま貧困にある人に、貧困者の割合が減っていると話しても、慰めにもならないだろう。

どうやらマルクス・ガブリエルの考え方では、統計はイメージ操作のごまかしで、事実とは異なるらしい。(個人的には、こういう統計処理も価値あるものだと思うのだが)。

なお、新しい実在論は、それぞれの個人のあり方に関する「新実存主義」を提案できるという。そのためにはマルクス資本論に相当するような経済システムに関するグランドセオリーが必要だという。(新実存主義もグランドセオリーも、まだできていないのでなにも説明されていない。今後のマルクス・ガブリエルの仕事になる)。

第4の危機はテクノロジーの危機だという。

マルクス・ガブリエルは自然主義を批判する。自然主義とは、自然科学を研究し応用することが最も大切と考えることだ。彼が自然主義を批判するのは、自然科学には倫理を考える枠組みがないからだ。科学の進歩が人類を救うというのは、迷信に過ぎないという。

マルクス・ガブリエルは科学知識を否定はしないが(確認できる事実だから)、それが自然主義のようなイデオロギーになることに反対しているのだ(確認できないイメージだから)。

それは分かるが、人工知能はあり得ない、と断言するのはどうなんだろう。個人的には、知能は情報処理の一種だから十分あり得るように思うが。マルクス・ガブリエルによれば、知能は生物学的なものだから、機械の知能を考えること自体がばかげている、のだそうです。

それはともかくとして、機械が人間を置き換えた時に、人間にベーシックインカムを与えることを考えるというようなことが正しい思考法なんだそうです。


さて、どうだろう。確かに新しい実在論は、新しい見方を提案してくれている。確かにイメージの垂れ流しや炎上の絶えないインターネットの時代に合っているのかもしれない。

しかし、この考え方をすべての基本にして思考を行うには、十分でないような気もする。とくに資本主義の危機とテクノロジーの危機にはどのくらい役立つのか、なんとも不明だ。とくに資本主義の危機は根本にあるという表象の危機とどう絡んでいるのか、いまいち分からない。

とりあえず、新実存主義やグランドセオリーなるものが完成し、それを読んでみなくてはいけないだろう。それがいつ完成するかは分からないが、本当に新しい実在論がみなに認知されるかどうかは、そのグランドセオリーの出来にかかっているのでしょう。

★★★☆☆

 


世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか (PHP新書)

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