「暴力と不平等の人類史」は興味深くて、いろいろ考えさせられた。ここでは本の中身というよりも、この本を読んで考えさせられたことを書く。必ずしも、この本の趣旨の通りではなく、自由に書きます。
まず違和感を持ったのは、著者のシャイデルが平等は正義だと全く疑わずにいることだった。まるでこの点に関してだけは誰もが自分を支持してくれると確信しているかのような書き方だった。わしは全くそうは思わない。富に格差ができることを容認している。というか、自然とそうなると思っている。
その理由はシャイデルがこの本の中に書いた通りで、余剰が生まれるとそれは再投資され、それがさらに余剰を生み、そしてさらに再投資されるというサイクルが自然に回ってしまうからである。これがいわゆる資本主義というものである。
シャイデルはピケティの「21世紀の資本」に触発されてこの研究を行ったという。21世紀の資本は、資本の利子率rと経済成長率gを比較して、r>gであることを歴史的に実証した。資本の利子率rは富が増えるスピードを表し、gは所得が増えるスピードを表すから、放っておけば人々の給料が上がるよりもはやく富が成長することを示している。すると、富んでいるものはますます富み、富が少数者のところに集中することを示している。
ここで、富や所得が不平等だとして何が問題なのだろうか。
普通、頭に思い浮かぶのは、金持ちがいい服を着てご馳走を食べている横で貧乏人が飢えている状態であろう。まさしく貧乏人は生活に苦しく、生存を脅かされている状態だ。では、この貧乏人はどの程度お金を稼げれば満足だろうか。
行動経済学によれば、所得がそれ以上増えても幸福を感じなくなるポイントがあるという。現代の日本では、そのポイントは年収800万円ぐらいになるのだという。とすれば、800万円の収入があれば、それより多くの収入の人がいてもいても、いいなあ、とは思うだろうが、さほど屈辱を感じることもなく、まあいいか、と思える年収ということなのだろう。もしこのような人にお金持ちが「自分の年収は30億円だ」と言ったとしても、この人は、「だから?」と返事ができるだろう。
ついでに富もどのくらいあれば満足できるだろうか。ほとんどの人は、自分の家が持てるくらいが満足の基準ではないだろうか。そうすると、普通に快適な自分の家を持っていれば、大体の人は、お金持ちが「10億円の高層マンションに住んでいる」と言われても、「だから?」といえるのではないだろうか。
そうすると、問題は富が一部の人に集中していることではないように思える。富が集中していてもかまわない。誰もが十分に持ち、その富豪に、「だから?」と言えることが大切なのだ。
わしが目指すべきだと思うのはそういう世界だ。金持ちがいてもいいし、お金を稼ぎたいひとはどんどん稼いでもいい。だが、誰もがそれに「だから?」と言える世界だ。そういう状態が、お金や富に囚われない生き方ができる世界だ。つまりこれは富豪であることの魅力を減らす戦略なのだ。
それを実現するにはベーシックインカム的な方法しかいまは思いつかない。所得のかなりの部分をあらかじめ配分してしまう。そして、家のなどは戦略的に個人に与えてしまう。ベーシックインカムにより大量にマネーを供給してもインフレを起こさないように、需要を上回る商品の大量供給を行い、さらに利子率も低く保つ必要があるだろう。このようなことを実現する新しい経済学が求められるのではないだろうか。(MMTが今のところこの目標に一番近いように思える)。
そうすると富豪の富はどこに向かうのだろうか。いま一番考えられるのは、その富は長寿命化への投資に向けられるだろうということだ。何らかの技術で150歳くらいに寿命を延ばすことができ、それが高価であり、富豪しかそれを使えないとすると、新たな格差が富豪と貧乏人の間に誕生するだろう。
だが、それが技術である限り、それはいつの日か万人にいきわたることになるだろう。このように富豪には新しい未来を切り開くことに投資してもらえればいいのだ。このような技術開発にはある程度富の集中が必要だ。
と、いうような未来が求められていると思うので、シャイデルのような、全員の貧乏化による平等を考えることにいったいなんの意味があるのだろうか、と思ってしまうのである。
貧乏でも全員が平等の方がましだ、というのなら別だが、きっとそれは目指す未来じゃないだろう。