デヴィッド・グレーバー 訳・酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹 岩波書店 2020.7.29
読書日:2021.12.5
アナキストの文化人類学者で「負債論」のグレーバーが、クソどうでもいいブルシット・ジョブが増えていると主張し、その社会的・歴史的背景、仕事の意味、その対応について考察した本。
負債論のグレーバーがアナキストだとは知らなかった。負債論自体は非常に知的で、有意義な本だったから。だが、話があちこちに自由に飛ぶなど、体裁にとらわれないスタイルには、なんとなくアナキストと言われても納得できるところがある。
さて、日本でも最近、ブルシット・ジョブという言葉を聞くことが多くなった。日本は世界に冠たるクソどうでもいい仕事の王国であるから(たぶん)、とても便利なのだろう。ブルシット・ジョブという言葉を作り、広めただけでもグレーバーはえらい。しかし、この言葉が文化人類学者の達人、グレーバーの手にかかると、なんとも知的な味わいになるのだ。言葉を使うだけでもいいが、グレーバーの話を詳しく聞かない手はないだろう。
グレーバーがブルシット・ジョブの小論を発表したのは2013年のことだそうだ。ウェブマガジンに発表したのだが、ブルシット・ジョブという言葉はまたたく間に世界中に反響を呼んだ。あるアンケート調査によると、40%の人が自分の仕事はブルシット・ジョブだと答えているという。
日本でもこの言葉は広がったが、ブルシット・ジョブがブラック企業の仕事のことだと誤解されることが多い。確かにブラック企業の仕事はクソどうでもいい仕事かもしれないが、それはシット・ジョブと言うんだそうだ。このブルシット・ジョブというのはブラックと言うより、かなり情けない仕事のことを指すのだ。
まず、ブルシット・ジョブは別に忙しくないのが普通だ。というよりも、暇すぎる仕事のことだ。暇なのだが、だからといって遊んでいるわけにもいかないと多くの人は思うらしく、なにか仕事を作り出して忙しいふりをしたりする。こんな状態なのに、かなり給料もいいのだ。だが人間はどうやら何もしないとだんだん心が病んでくるらしい。それでついにその仕事を辞めようとすると、上司は辞めないでくれと引き止めるだけでなく、さらに給与を上げたりするのだそうだ。なにもすることがないのに、だんだん給与が上がっていくのだ。
そんなおいしい話が実際あるんだろうか? ところがそんな仕事はけっこうたくさんあるらしい。
というわけで、ブルシット・ジョブはブラックな仕事のことではなく、なくても誰も困らない(と本人が考えている)仕事のことだ。
しかしそんな無駄な仕事を抱える余裕が企業にあるのだろうか。企業は効率をあげて利益を出すのが使命なのではないのか。資本主義の社会でこんなことが許されるのだろうか。
ここでグレーバーは恐るべきデータを持ち出すのである(p237の図5)。アメリカの生産性の推移を見ると、生産性は毎年一貫して上昇している。生産性が上がるとその分、労働者の報酬も上がるはずである。1970年ぐらいまではたしかにそのような傾向がある。ところが、1970年代以降は生産性は変わらず向上するいっぽう、報酬は横ばいなのだ。では、生産性が改善した分、増えたはずの利益はいったいどこに行ったのか。
もちろんCEOへの報酬、株主への配当というエリート階級のところに行ったのは確かだろうが、グレーバーはそのうちのかなりが、上級管理職の必要のない仕事、つまりブルシット・ジョブの創出に使われたと見ているのである。
上級管理職の仕事は専門的な仕事ということになっていて、なにかの必要に応じて(例えば、政府の新しい規制に対応して)新しい専門的な役職が作られる。新しい役職には新しい部下も必要になる。仕事がなくても、部下がいれば、彼の仕事は部下を管理することだと明確に言える。
こうなってくると、ブルシット・ジョブに嫌気が差して辞めようとする部下を必死に引き止める上司というのも分かるだろう。彼の仕事はブルシット・ジョブをしている部下を管理するというブルシットなものなのだから、部下がいなくては彼の仕事が成り立たないのだ。ブルシット・ジョブは構造化して、ブルシット・ジョブどうしで支え合っているのだ。
こうして余計な仕事が生まれる体制のことをグレーバーは「経営封建制」と呼んでいる。昔の封建領主が、必要もないのにたくさんの家来を抱えていたことになぞらえているのだ。
企業は効率化のためにリストラを行う。しかし、上級管理職の経営封建制の内部にはそのリストラは及ばない。実際に作業を行っている現場のみでリストラは行われる。リストラをおこなって生まれた利益で、さらに経営封建制は強化される。
こうして経営封建制の内部にいる人たちは、極めて矛盾した状態に置かれる。ブルシット・ジョブは社会になんの役にも立っていない。だからと言ってその世界の外に出ると、収入が大幅に下がってしまうので、出るに出られなくなるのだ。
その対極にいるのがエッセンシャルワーカーと呼ばれる人々で、実際に社会の基礎を支えている人たちだ。ブルシット・ジョブの人たちがストライキをしてもなんの影響もないが、エッセンシャルワーカーの人たちがストライキをすると、社会が大混乱する。だから、確実に彼らのほうが社会の役に立っている。
ところが、彼らの収入は低く抑えられている。なぜなら、こういう基礎的なサービスは普遍的なものだから、なるべく効率的に運営して、誰にでも低価格で供給されなくてはいけないと考えられているからだ。こうして社会の役に立つ仕事ほど、収入が低いという矛盾した状況になっている。(ただし医師や配管工などの例外があるという)。
グレーバーはエリートたちはエッセンシャルワーカーたちに嫉妬しているのだという。社会に役立つやりがいのある仕事をしているのに、さらに高収入も得ようとするのは、贅沢なんだそうだ。ブルシット・ジョブが高収入なのは、つまらない仕事に耐えている報酬らしい(苦笑)。ともかく、エッセンシャルワーカーたちが高収入を得ることに対する反感は非常に大きいらしい。
結局のところ、何が起きているのだろうか。
グレーバーは、お金に換算できる「価値(value)」と換算できない「諸価値(values)」の問題として捉えている。お金に換えられない諸価値とは、家族、宗教、芸術などの主観に根ざした価値である。
現代の仕事のほとんどはサービス業、つまり他人をケアするケアリング業である。これは他人にお金に換算できない諸価値を提供する仕事である。この仕事に対してどのくらいの価値(=給与)を当てはめるのかは、なんの根拠もなく、まったく政治的である。もともと換算が不可能なのだから、政治的、恣意的にならざるを得ないのである。
それなのに、この諸価値に対して価値の概念を無理に持ち込もうとすると、ブルシット・ジョブが生まれるという。なぜならば、数値に換算できないものをなんとか数値として評価しなければならないからだ。そこで数値化するために、報告書の作成、数値の入力、承認、稟議、評議会、委員会、理事会、コンサルタント、アドバイザー、そしてそれらを管理、サポートするスタッフなど、膨大なブルシット・ジョブが生まれるのだという。そしてブルシット・ジョブは構造化し、お互いに支え合って、この価値(給料)でいいよね、と確認しあっているのだ。
どうすればいいのだろうか。
結局のところ、グレーバーはユニバーサル・ベーシック・インカムの導入を提案するのである。つまり、基本的に生活できる所得を先に分配してしまえば、人々は自分の諸価値(主観的価値観)にしたがって仕事をするだろう。これは価値と諸価値、生活と労働を分離する作戦なのだ。(グレーバーは、人は十分な所得があっても仕事をすると楽観的だ。)
グレーバーはこれは政策提言ではないと言っているが、わしにはますますベーシック・インカムが必要に思えてきた。
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ブルシット・ジョブの主要5類型
1.フランキー(取り巻きの仕事)
誰かを偉そうに見せたり、誰かをいい気分にするためだけの仕事。ドアマン、受付嬢、取締役のアシスタントなど。
2.グーン(脅し屋の仕事)
軍隊、ロビイスト、広報専門家、テレマーケター、顧問弁護士、コールセンターなど。
3.ダクト・テーパー(尻拭いの仕事)
必要な設備投資をする代わりの無意味な仕事。フリーのソフトウェアを使えるようのするためのプログラミング、節税目的の内容のないプロジェクト、eメールのコピペ、デジタル化する機械の代わりの書類の写真撮影、など。
4.ボックス・ティッカー(書類穴埋め人の仕事)
目的に寄与しない書類作成の仕事。政府の規制により生まれた報告書、見栄えが良いが誰も読まない報告書、パワーポイント資料、社内雑誌など。
5.タスクマスター(上司の仕事)
上司がいなくても回る職場の管理職、ブルシットの仕事を生み出すのが任務の上司。
★★★★☆
(追記 2021.12.25)
これをアップしたあと、グレーバーについて調べたら、2020.9.2にイタリアで亡くなっていました。59歳。死因は不明。惜しいなあ。