デヴィッド・グレーバー 監訳・酒井隆史 訳・高祖岩三郎、佐々木夏子 以文社 2016.11.15
読書日:2020.12.17
貨幣の起源は負債にあり、負債の起源は人間のモラルにあると主張する本。
貨幣の起源について述べるのは普通なら経済学者である。しかし、クレーバーは人類学者なのだ。なぜ経済学者ではなく人類学者なのか。
どうも経済学者は思考の範囲が非常に狭いようで、人間の本質を観察する人類学者の視野の広さにはかなわないようだ。そして、経済学者はしょっちゅうあり得ないような仮定を持ち出すのに対して(たとえば人間はいつも合理的に行動する、とか)、人類学者の方が自分の思い込みではなく、客観的な観察から真実を導き出すことに長けていると言えそうだ。
経済学が描く貨幣の誕生はこういう感じだ。昔は貨幣がなかったので、物々交換を行っていた。しかし、お互いにほしいものを持っているとは限らないし、交換したいものが手に入る時期や季節が違うかもしれない。こうなってくると非常に不便だから、やがて保存できてよく使う商品を仲介して交換をするようになり、それが貨幣に発展した、というものだ。
この話が困るのは、そんな物々交換を行っている社会がこれまでどこにも発見されたことがないということだ。どんなに原始的な狩猟採集民であっても、そんなばかげたことをやっている社会はないのである。
ではどうやっているのかというと、普通に人間がやっているような貸し借りの世界なのである。足りないものがあったら、誰かに分けてもらう。自分が持っているものかあれば分けてあげる。こうしたお互いのやり取りはちゃんと覚えており、それなりに帳尻が合うようになっているのである。
これは完全に信用の世界だ。このような心の帳面に貸しと借りが記載する方法だと、そもそも貨幣など必要なはずがない。
もちろん、ひとりの人間がやり取りを管理できるのは限られた人数になるだろう。だが、それが大きな町になっても、そしてそれが国家に発展しても問題はないのである。帳面にそれを記載してあればいいのだ。メソポタミアではそうしていた。メソポタミアで見つかる楔形文字の文書のほとんどはそういう貸し借りの帳面、つまり負債の記録だったのである。
そもそもメソポタミアで国家が誕生したのは紀元前4000年のことだ。そして貨幣が初めて現れたのは紀元前500年のことだ。とすると、国家が誕生して3500年の間、貨幣なしでなんの問題なかったのである。おそらく、誰かに貸したという記録は、それ自体が価値を持って、他の人に譲渡され、実質的に貨幣と同じ役割を果たしていたと考えられる。
紀元前500年ごろに何が起こったのかというと、戦争である。これまでとはケタ違いの戦争が起きるようになり、兵士の給料として貨幣が配られるようになった。帳面による記録は、お互いに信用しあってるその国の人間だけに有効であり、異国の兵士はそのシステムに含まれていないから、帳面で帳尻を合わすわけにはいかない。なので、貨幣というものが重宝されたのだ。アレクサンダー大王の遠征のときには一日の兵士の給料が金0.5トン必要だったという。もちろんこうした金属は、征服した国から調達し、鋳つぶして作ったのである。そしてなぜ商人がこの貨幣を受け取ったのかというと、もちろん、相手が武力を持っていたからである。
そういうわけで貨幣と武力は切っても切れない関係があり、いまでもドルが世界最高の通貨なのは、よく言われるように、アメリカが世界最強の軍事力を持っているからなのだ。
貨幣が誕生するとたちまちそれが普及して貨幣なしではいられなくなった、というわけでもなく、ローマ帝国が滅んで中世に入ると、また人々は貨幣ではなく帳面の世界に戻って、貨幣なしで経済活動をすませるようになっている。
産業革命が起こり、資本主義が始まると、今度は金属の価値に依存する経済体制、つまり金本位制がとられるようになり、帳面に依存したバーチャルな信用経済はなくなってしまった。ところが1970年代に、ニクソンが金とドルの関係を絶ってしまい、貨幣はあるが、事実上バーチャルな世界の揺り戻しが起きているのが現在だ。
結論を言えば、貨幣は最初、帳面に負債をつけ、その負債のやり取りが通貨として機能したバーチャルな信用経済の時代があり、その後物質の金属をもとにした実物的な貨幣の時代が到来したが、その後は時代ごとに信用と実物の両者の間を行ったり来たりしていたということだ。そして強調したいのは、バーチャルの信用がすたれ、実物の貨幣が重んじられるときは、戦争が切実な問題となっている時代なのである。
以上が大まかで表面的な貨幣の歴史なのだが、クレーバーが言いたいのはそのような表面的なところだけではない。彼は、なぜ借りたものは返さなくてはいけないのか、というモラルの部分を問いたいのだ。なぜ人間は借りをそんなに気にするのか。負債とは何なのか。
わしは強盗や殺人といった凶悪な犯罪が起きて、その動機を聞いてときどきびっくりすることがある。犯人は借金をしていて、犯罪はその借金を返すためだった、ということが結構あるのだ。犯罪を犯してまで借金を返そうとする、その本末転倒さに驚くのである。負債とは、人間をそのような犯罪行為に駆り立てる部分がある。
なぜそんなに必死になって負債を返そうとするのか、ということについて、残念ながらクレーバーは十分に解答を与えてはくれない。クレーバーが進化心理学者だったら、人間は社会的な暮らしを続けていくうえで信用が重要だから、とか、社会脳がどうした、とか、そんな話をしてくれたのかもしれない。でも人類学者であるクレーバーはそんな話はしてくれない。しかし、負債が人間にどのようなことをさせるかについては、いろいろな知見を語ってくれる。
そもそも負債がないのに、お前には生まれながら負債を持っていると宣言して、その負債を一生その人に負わせて縛りつけることも可能だ。例えば宗教だ。神がお前を作ったと言えば、それが原罪となって、神に負債を返すために宗教に縛り付けることができる。(ついでに言うと、罪sin,guiltyと負債debtの単語にはつながりがあるそうだ)。または、いまお前がいるのはお父さん、お母さん、ひいてはずっと昔の先祖のおかげだ、その恩を返さなくてはいけない、といって一族のために奉仕させることもできる。
国の場合は、どこかの国を植民地にすると、いきなり税金を設定し、つまり負債を設定し、負債を返させるために先住民を強制的に働かせたり、負債漬けにしてすべてを取り上げることもできる。クレーバーによれば、ヨーロッパでローマ帝国が滅んだあと中世が始まったのは、自由な独立した農家が借金で没落し、かつての自分の土地を耕す小作人になってしまい、土地に縛り付けられてしまったからだという。(そういえば、現代でも返しきれない借金を貸し付けて、その国の資産を取り上げてしまう、某中国という国もありますなあ)。
スペイン人は南アメリカで原住民を奴隷化して、金山などの鉱山で働かせて、ありえないほど悪逆非道なことをしたが、そもそもスペイン人たち自身のほとんどが借金を返すためにアメリカにきたのだ。そしてスペイン国王も借金漬けで、せっかくの金や銀も借金返済に回されたのだという。(奇妙なことに金、銀は最終的には中国に渡ったのだという。)
負債を負わせられると、ひとは最後には自分自身も売り飛ばして自分から奴隷になってしまう。ここでびっくりなのは、資本主義に必要な概念である「私的所有権」も、奴隷と関係があるという指摘である。私的所有権はローマ法で初めて規定された権利で、所有している物に対していかなることをしてもいいという権利だ。で、この「物」というのが、じつは端的に奴隷のことを表しているというのだ。ローマ法では、所有とは人が物との関係を結ぶことなのだという。だが、人が物と間に関係を結ぶとはどういうことか。そもそも物と関係が結べるのか。しかし、ここで言っている物とは奴隷(=人間)のことだと分かれば、それが納得できるというのだ。
それだけでなく、奴隷という制度は女性の地位も下げていったという。かつてメソポタミアでは女性の地位はそんなに低いものではなかったのだそうだ。ところが奴隷という制度が生まれると、だれかが女性を「彼女は奴隷ではない」と守る必要が出てきた。そういうわけで、それが家父長の地位を上げることになり、逆に女性の地位がさがったというのだ。
さらにいうと奴隷は民主主義の根幹の自由とも関係がある。自由であるとは、端的には奴隷でないということだからだ。そして賃金労働者というのは(われわれのことだ)、自分の時間を売り渡し、自由を減らして金を得ているのだから、奴隷の概念ととても近い。
このように、負債というのは人間にとんでもない負荷をかけるものなのだ。したがって、何かを人に与えるときには、それがその人への負い目にならないように慎重に振る舞うことが必要になる。
狩猟採集民の世界は徹底した平等の世界で、必要な物資はすべて一族でシェアする世界だった。このような世界で、たとえば誰かが大物の動物を捕らえたとか、そういうときに他の人にそれを分けたりするときには、それがまったく大したものではないというふうに振る舞わなくてはいけない。「全然大したものじゃなくて、こんなもので恥ずかしいんだが。。。」みたいなことをさんざん言って、分けるのである。与えた人に対して負い目を与えないために気を使っているのだ。日本人が、つまらないものですが、といって物を渡すのと同じことだ。
いっぽうで、負債は負の側面だけではなく、人と人をつなぐものでもある。ある人がアフリカに引っ越したとき、近所の人がさっそく贈り物をもって訪ねてきたのだそうだ。次の機会に、お返しに同じ価値のものを返したら、ひどく怒られたのだそうだ。同じ価値の物を返すのは、それはお互いの関係を精算するときで、関係を続けたいときは、少しだけ少なく返すか、少しだけ多く返すものだという。そうすると、どちらかに負債が残り、貸し借りの関係は途切れず、関係はずっと続くからなのだという。なるほどねえ。こうやってちょこっとの貸し借りをしながらずっと人は繋がっていくのかもしれない。この話は、この本のなかでほっこりした数少ない話の一つだ。
負債に関連してさまざまなテーマがかなり自由にあちこちに話が飛びながら語られるが、内容が面白いので、混乱しながらも最後まで読み切ってしまう、これはそんな本だった。
★★★★★