ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

世界を貧困に導くウォール街を超える悪魔

ニコラス・ジャクソン 訳・平田光美、平田完一郎 ダイヤモンド社 2021.11.2
読書日:2022.3.20

金融業が国の経済の中心になると、国民になんの利益ももたらさず、かえってその国の経済を衰退させ、国民を貧困に陥れると主張する本。

この本で書かれているのは、主にイギリスの経済に関することだ。しかし、イギリスで起きていることは、世界中で起きているのではないかと思われる。ちょっと戦慄すべき状況だ。

まずジャクソンは「資源の呪い」という言葉を説明する。例えばアンゴラはダイヤモンドと石油が豊富な国であり、このように豊かな国だと、輸出で得た金で国民は豊かに暮らすことが可能なはずだ。ところがこの国では、一部の人間が富を独占したり内戦がおきたりして、国民の幸福にはなんの投資もされず、国民は過酷な環境に捨て置かれているのだ。これが「資源の呪い」であり、豊かな資源を持つ国の国民はかえって不幸であるという逆説のことだ。

同じようなことが金融にも起こるという。これが著者のいう「金融の呪い」(本書の原題)で、金融があまりに発達してそれが主要産業になると、国民はかえって困窮してしまうのだという。どのくらい金融業に依存するとそれが起こるのかは定かではなさそうだが、イギリスの場合は銀行や保険業など金融業の所有する金融資産はイギリスのGDPの10倍以上になっているという。つまり国民が生み出す1年間の価値よりも一桁多い金融資産があり、これが暴力的に働いて国民の経済活動を圧倒してしまうのだ。

豊かな金融資産が国民の幸福のために投資されるのなら問題はないが、もちろんそんなことにはならない。なぜなら、これらの富は一部の人たちが握っていて大部分の国民には関係ないし、これらの富は別の金融商品に投資されるばかりで、国民への投資には回らないからだ。

その金融資産はこんなふうに運用される。こうした金融資産は、そもそも税金をまったく払わなくてよいように管理されている。なので政府を通して国民に還流しない。そしてその投資は、国民の富を搾取するような仕組みでなされる一方、なにか問題が起きるとそのつけは国民に押し付けるような設計になっている。つまり、うまくいってもいかなくても国民の財産は取られる一方なのである。金融セクターが他のセクターからお金を搾り取るので、イギリスの生産性は周辺国、例えばフランスなどよりも低くなっているそうだ。

では、具体的にどんなふうにそのシステムを実現しているのだろうか。それは、(1)タックスヘイブン、(2)信託、(3)プライベート・エクイティという手法で行われる。わしにとってもっとも興味深いのは(2)の信託なのだが、とりあえずは順番に見ていこう。

(1)タックスヘイブン
タックスヘイブンはとてもわかりやすい。タックスヘイブンは、たいていはケイマン諸島のような小国に存在し、法人税所得税を免除し、ペーパーカンパニーの設立など金融的なサービスを提供する国のことだ。国際的な取引を行うとき、タックスヘイブンに作ったペーパーカンパニーを輸出国と輸入国の中間に置き、ここに利益が発生するように会計処理すると、税金をまったく払わなくてよくなる。

このペーパーカンパニーの実際の所有者はわからないようにできるし、税務調査などの問い合わせには一切応じないし、たとえ裁判を起こして情報を得ようとしても裁判所もグルでなんの成果も得られないので無駄だ。タックスヘイブンは国の制度ごと金融産業に乗っ取られてしまっている。なにしろケイマン諸島の金融資産はそのGDPの1000倍あるというんだから。

タックスヘイブンが危険なのは、税金を支払わないとことだけではない。通常の国では金融当局がルールを設定し、危険な投資を行わないように目を光らせている。ところがタックスヘイブンでは事実上なんら規制を設けていない。規制がないので、新しい危険なデリバティブが作り放題なのだという。

たとえば、リーマンショックのときに有名になったCDSクレジット・デフォルト・スワップ)は最初タックスヘイブンで作られたという。これは債権がデフォルトしたときに元金を保証してくれるものだが、その債権にまったく関係のない人たちが自由に設定して売買できるという不思議なオプションである。このようなリスクのあるデリバティブを自由に設定し運用しているので、タックスヘイブンでどれだけのレバレッジがかけられているのか、外部からはさっぱりわからない。

レバレッジがあまりに大きすぎると、ちょっとした経済的変動で運用している金融機関が破綻してしまったりする。するとどうなるのか。たいていそのような金融機関は潰すには大きすぎるので、後始末は税金で行われ、損失は国民に押し付けられるのだ。

(2)信託
タックスヘイブンに比べて、信託というのはとてもわかりにくい。日本でも投資信託というのがあるように、言葉の意味自体は、信じて任せるということだ。しかしヨーロッパで信託の制度というのは、自分の財産を受託者に信託した瞬間にその財産の所有権を放棄してしまうことなのだ。そうすると、不思議なことに、その富は誰のものでもないという状態になってしまう。富は受託した管理者が適切に運用するのだが、発生した利益には課税されない。なにしろそれは誰のものでもないのだから。

これがもっとも効果を発揮するのは相続のときだ。財産を信託した者が亡くなっても、その財産が信託した状態なら相続税は課税されないのだ。何しろ誰のものでもないのだから。

自分のものでなければ、相続してもそれは使えないのではないか、という気がするが、そうではないのだ。信託の設計は非常に柔軟で、信託者の自由に設定でき、自分の必要なときに必要な分だけ引き出すようにすることが可能なのだ。たとえば信託からコンサルタント料として現金を払ってもらうことだってできる。必要な分はいつでも引き出せて、投資もでき、その資産は課税されない状態にできるというのなら、これは究極のいいとこ取りだ。

資本主義というのは、私有財産という概念にしたがって法制度が整っているが、私有財産を放棄することで私有財産にかかるすべての義務も放棄することができるということらしい。課税は財産ではなく財産を持った個人に対して行うという制度の盲点をついているわけだ。その一方、投資という資本主義のおいしい面はそのままなのだから、信託は資本主義を越えてしまっているといえる。

しかし、なぜこんな話がまかり通るのか不思議でしょうがない。日本でもこんな事が可能なんだろうか? わしが調べた限りでは、日本ではこんなことはできなさそうである。どうやらヨーロッパに(米国にも?)特有の制度のようだ。

こうしてなんの制限もなく、財産は一族に世襲されていく。

しかし、この制度はなんとも陰鬱なシステムでもあるようだ。信託のルールは信託したひとが自由に決められる。そうすると、その信託を相続した人は、遠い昔の先祖の決めたルールにずっと従わなくてはいけないのだ。一族で管理しているとすると、その一族からはじき出されると、なんの財産もないまま放り出されるということもあり得る。そんなわけで、お金はあるけど自由ではないというふしぎな状態に陥り、お金に人生を縛られてしまう可能性がある。

財産を管理する受託者の方はどうなのだろうか。大きな資産を運用していたとしても、受託者もものすごい報酬をもらっているわけでもなさそうだ。だが、受託者の仕事は大変だ。受託者は一族のさまざまなトラブルの面倒を見てあげなくてはいけない、まるで一族のかかりつけ医のようになるのだ。もともと受託者の役目は貴族の執事が担っていたらしい。だから現代の受託者も、かつての執事のように、一族の人生にまるごとコミットすることが求められるのだ。

大金を預かっているのだから、それを受託者が自分のものにする可能性はないのだろうか。不思議なことに、そのような事例は少ないようだ。もちろんそんなことをすると犯罪で、裁判で負ければ受託した財産を返さなくてはいけない。

そんなわけで、信託は誰にとっても不幸な制度にもなり得る。しかしここで問題なのは税金も取られずに自由に動き回っている膨大なお金があるということだ。

(3)プライベート・エクイティ
プライベート・エクイティというのは、つまり個人のお金を事業に投資をするということだ。しかし個人事業主と何がちがうのだろうか。個人事業主だって自分個人のお金を事業に投資しているのではないだろうか。ところがプライベート・エクイティは自己責任でおこなう個人事業主の発想とはかなり違うように運用されるのだ。

違いはプライベート・エクイティは投資をするときに外部の資本を入れるということだ。それはたとえばどこかの年金基金だ。そしてどこかの企業をまるごと買って、無駄を省いて効率化し、得た利益を配分する。

別になんの問題もなさそうだが、問題はプライベート・エクイティは投資を行う主体(ゼネラル・パートナーというらしい)の出資率が少ないことだ。どうも1〜2パーセント程度ということもあるらしい。つまり一見自分も投資をしてリスクを取っているように見えるが、実際には投資のほとんどは他人のお金を使う。ところが利益のほとんどは、自分たちが受け取り、外部からの出資者にはほとんど回さないような仕組みになっているらしい。ほとんど出資しないのに利益は大部分自分のものにするのだから、膨大な利益率になるという。

もちろん、再投資はほとんどしない。ここで効率化というのは、たいていは授業員をクビにするリストラや、給料を下げたり、あるいは労働条件を悪化させることだったりする。つまりしわ寄せは従業員(=国民)にいく。

こうすると、いっけん事業の効率が上がったように見えるから、この会社の価値が上がったように見える。そうすると、会社は別のプライベート・エクイティに売却され、そしてまた搾り取られて、だんだん会社の輝きがなくなっていくという運命にあるらしい。

しかしそうやって投資もせずに回しているうちに会社の競争力がなくなって、事業がうまくいかずに破綻してしまったらどうなるのだろうか。ここで資本主義の素晴らしい有限責任というシステムが機能する。つまり破綻しても自分が出資した以上の責任は取らなくてもいいのだ。こうして、後始末は他人に押し付けて、損失を最小限にしてビジネスを展開できるという。しかも、たいていは破綻前に搾り取った利益を配当として受け取っているので、トータルでは黒字になっていることが多いという。

ここでも自分たちはリスクから安全なところにいて、利益が出たら自分のものに、損失は国民に押し付けるという発想がある。しかもその利益は価値を生み出すというよりは、大多数の弱い人間から搾り取るというイメージに近い。

わしの意見では、これら(1)〜(3)の手法は資本主義の悪の面(ダークサイド)というよりは、資本主義ですらないように見える。資本主義は、投資家がリスクを負って事業をするということであり、そのために大きな利益が出て投資家が金持ちになってもそれを許容する。しかしこれらの手法は例外を設けてリスクを取らないようにするということであり、これは資本主義のルール違反だ。

タックスヘイブンはある国家の法治の及ぶ範囲外の場所を設けるという地理的な例外だし、信託は私有財産制度を逆手に取って私有財産以外の所有の方法を認めるという例外だし、プライベート・エクイティに関してはほとんど詐欺に近い。

わしは、お金持ちがいくら富を持っていても別に構わないと思うが、その富が何ら価値を生み出さないばかりか、その他の者からさらに富を絞り出そうと苦しめるだけなら、これは認められないし、あまりにも強欲すぎると思う。

納税に関しては、世界中の国が連携して、制度のタダ乗り、フリーライドはなくさなくてはいけないと思う。すくなくともある国で利益を出したら、他の国に持っていけずに、その国に必ず納税を行うようにしなければいけないと思う。でも利益というのは会計上の解釈によって大幅に減らしたり増やしたりできてしまう。なので、どの国にどれだけ納税するか議論がまとまらないかもしれない。

そこでジャクソンは、税の体系を固定資産税中心にすることを提案している。固定資産は文字通り動かすことができないし、取り上げることも可能だからだ。わしは個人的に固定資産税が嫌いだが、確かに動かしようがないから、固定資産税を利用するのはいいかもしれない。(なにしろわしが嫌いなのも、逃れようがない税だからだ。)

こんなふうな世界になってしまったのは、またしてもグローバル化、つまり新自由主義ネオリベラリズム)のせいにされている。まあ、それは確かだけれど、もうグローバル化以前には戻れないから、逆に法治の網も国を越えてグローバル化するしかないかもしれない。つまり解決策は、やっぱり世界政府ってことになるのかな? ジャック・アタリの言う通りに。

★★★★★

 

生涯弁護人

弘中惇一郎 講談社 2021.11.30
読書日:2022.3.14

村木厚子事件、三浦和義事件、薬害エイズ事件など、無罪引受人として有名な弘中さんが、これまで受任したうちから、記憶に残る事件を記載した本。

弘中さんが弁護士になってから50年、半世紀が過ぎたのだそうだ。そういうわけで回想録のようなものを書くことになったが、ひとつひとつの事件が非常に個性的であるから、まとめることができずに事件簿という形で主な事件ごとに書くことになったらしい。

読んで思ったのは、弁護士というのは非常に創造的な仕事ということだ。法律の条文はすべての場合を網羅しているものではないから、現実に適用すると、あいまいな部分がかならずできる。このあいまいな部分に、創造性を発揮する余地が生まれる。新しい解釈や適用があった法律は判例という形で判例集に残ることになる。

驚いたことに、弘中さんは弁護士になった新人のときの仕事でもう判例集に載るような仕事をしている。そしてその後の多くの仕事が判例集に載っている。別に判例集に載るような仕事をしたいと取り組んでいるわけではなく、愚直に弁護に取り組んだ結果なのだろうけど。

こういう創造的な仕事をしてそれが判例になると、その判例はずっと残って、日本の法曹会の財産になるのだから、非常に意義深い仕事だ。もちろん、弁護士と言ってもいろいろで、判例からはみ出さない定型的な仕事をする人がほとんどだろうけど。

一方で、検察側はどちらかというと、ある定形フォーマットを思い描いて、そのフォーマットに無理矢理でも当てはめて処理を進めようとする傾向が大きいように思えた。そのために必要な調書や証拠のセットが決まっているから、それを作って組み立てていくようなところがある。こういう定型的な発想で作るから、無理が生じ、反論の余地が生まれるのだろうという感じがした。

そういうわけで、きちんと調べれば検察のストーリーが成り立たないことが分かることが、多々あるのだ。検察は必要な材料が集まればそれ以上集めないし、きっとほとんどの弁護士もそんな地味な確認は行わないのだろう。それは例えば膨大な書類や論文をひとつひとつチェックすることだったり、関係者全員の話を聞くことだったり、遠くの現場に足を運ぶという、なんとも地道な作業の連続になるからだ。

わしは自分が弁護士に向いていると考えたことはないけれど、こういう相手の論理(しかも定型的なもの)を崩すというというのは、なんかわしに向いているような気がした。来世があったら、弁護士になるのもいいかも。まあ、どうみても日本の弁護士ではお金持ちにはなりそうもないけどね(笑)。

それにしても、こういう本を読むと、いったん逮捕されたら、被告は本当に厳しい状況に置かれることが身にしみて分かる。日本の検察、司法制度はひどいとは思ってたけど、やっぱりひどい。なんとかならんのかねえ。

***(メモ:本に載っている事件)***
事件ファイル①
第一章 国策捜査との戦い 村木厚子事件、小沢一郎事件、鈴木宗男事件
第二章 政治の季節 マクリーン事件、刑事公安事件(学生運動関連)
第三章 医療被告と向き合う 薬害事件(クロマイ薬害事件、クロロキン薬害事件) 医療過誤事件
第四章 「悪人」を弁護する 三浦和義事件

事件ファイル②
第一章 報道が作り出す犯罪 安倍英医師薬害エイズ事件
第二章 弱者とともに 下館タイ女性殺人事件 小学生交通事故死事件
第三章 名誉毀損・プライバシー侵害と報道の自由 名誉毀損・プライバシー、野村沙知代事件、中森明菜事件 プロダクションとの紛争、加勢大周事件 記号化による人権侵害、オセロ中島知子の洗脳報道事件 報道の自由噂の真相名誉毀損事件など
第四章 誰もが当事者に 警察官による暴行事件 痴漢冤罪事件(映画「それでもボクはやっていない」の元ネタ)
第五章 日本の司法の現実 カルロス・ゴーン事件

★★★★☆

 

 

日本語の大疑問 眠れなくなるほど面白いことばの世界

国立国語研究所 幻冬舎新書 2021.11.25
読書日:2022.3.9

国立国語研究所に寄せられた様々な質問に、第一線の研究者が答える本。

言語学バーリ・トゥード」がけっこうわしの琴線に触れたので、言語学もいいかと思ってこの本を手にとってみた。しかしあまり面白くなくて、眠れないどころかかなり眠くなった(苦笑)。

とはいえ、いくつかわしの心に引っ掛かった部分もあるので、そこだけ書いておくことにする。

わしはキーボード入力で困惑したことが何度もあった。正しく入力したはずなのに、思った漢字が出てこないのだ。なぜきちんと変換されないのか。

もちろん自分が思っていた読み方が間違っていたわけだが、しかし、これまでなんの疑問もなく使っていて、日常で問題なかったのに、なぜというものもあった。

たとえば、「全員」。

わしは「ゼイイン」と子供の頃から発音していて、まったくこれが正しいと信じていた。たまに「ゼーイン」と発音している人がいたら、「ばかめ。ゼイインが正しいに決まってる」と思っていた。

しかし、正解は「ゼンイン」である。もちろん。

そう入力しないと変換されないから、いまでは覚えたが、しかしいまだに「ゼンイン」と正しく発音されているのを聞いたことがない。

これは「発音のゆれ」という現象で、
・撥音(ン)が長音(ー)に変換される 店員(テーイン)、原因(ゲーイン)
などがあるそうだ。

「全員」に関しては、81%の人が「ゼーイン」と発音しているという調査結果がこの本に載っている。なるほど。正しい発音が聞かれないはずである。

他にも読み方が不思議な漢字に「女王」がある。わしはずっと「ジョウオウ」が正しいと信じていた。

だが、正解は「ジョオウ」である。もちろん。

これは日本語のリズムの問題だそうだ。

日本語は基本的に「強弱強弱」というリズムと相性がよく、「ジョオウ」のような「強強弱」のリズムは「強弱強弱」に変換されがちで、そのため弱い「ー」がついて、「ジョーオウ」となるんだそうだ。

というわけで、長年疑問だった発音の問題が少し分かったので、まあ、よかった。もっともそういう傾向があるということは分かったが、なぜかそうなるかは記載されていない。きっといつまでたってもわからないだろう。

興味深かった問題としては、言語が思考のどのくらいをカバーしているのか、という問題があった。言語が思考の範囲を完全に限定していると考える言語学者はいなくて(そうじゃないと、新しい概念や名前が発生しないことになるからね)、でも言語をまったく使わないというひとももちろんいないから、どのくらいカバーしているのかで議論になるんだそうだ。なるほどねえ。こちらも結論は出ないんじゃないかと思いますが、面白い研究結果を出していただきたいものです。

ほかに面白かったものには、明治時代に犬(ただし洋犬に限る)が「カメ」と呼ばれていたという話があった。なぜカメかというと、英語の「come、come(おいで、おいで)」がカメ、カメと聞こえたからだそうだ。カメって明治時代では犬のことだったんだ。

なぜこれが面白かったかというと、単純で、我が家では息子が小学生の時に買った「ミシシッピアカミミガメミドリガメ)」をずっとペットとして飼っているから。ものすごく巨大化して困惑しているのですが、いちおうかわいがっています。(笑)

★★★☆☆

 

作家で億は稼げません

吉田親司 エムディエヌコーポレーション インプレス 2021.12.1
読書日:2022.3.8

架空戦記ものの作家である吉田親司が、天才でなく平凡な小説家がサバイバルする方法を具体的に伝授する本。

最近、この手の創作の手法とか作家で生きていく方法とかの本がやたらアマゾンで勧められる。あまりに多いのでなんでだろうと不思議に思っていたら、かつてレビューした「小説家になって億を稼ごう」という本は、図書館で借りたのではなく、珍しくキンドルで買ったのだった。さらに脚本の書き方の「SAVE THE CATの法則」もキンドルで買っていた。

なんだ。じゃあ当たり前だ。同じ傾向の本を2冊も買っているのだから、アマゾンとしてはどうしてもこの手の本を勧めざるを得ないわけだ。なにしろ、その他の本の購入はほとんどマンガだからなあ。

で、わしも芸人や俳優が若いときに売れなくてアルバイトした話とか、こういう作家のサバイバルみたいな話はけっこう好みなので、勧められると、つい手に取ってしまうのだった(笑)。もっともこれは買ったわけではなく、図書館で借りたんだけど。(図書館派なので、めったに本は買わない)。

さて、架空戦記などというジャンルのどこが面白いのか理解不能なので手に取ったこともないから、著者の名前は初めて知ったが、2001年にデビューすると、20年にわたって100冊以上の本を出版してきたそうだ。これはすごい。単純計算でも年に5冊以上出している。

しかしながらほとんど重版もされず、ベストセラーもないそうで、これまでの年収は190〜920万円だったそうだから、たぶん平均的には400万円ぐらいだったんじゃないかと推測する。日本人の年収の中央値が437万円(2019年)だから、あまり変わらない。小説だけで普通の年収を得ているわけだから、ものすごく立派だ。

つまり著者はベストセラー作家ではないが、普通に暮らしていけるくらいには稼いでいるわけで、平凡な才能の小説家がいかに生き抜いていくかという具体的なサバイバル法を伝授する資格は十分ある。

では、その普通の作家がどうやってサバイバルしているのか見ていこう。

まずデビューの仕方でずいぶん違うという。出版社はいつでも新人を待ち望んでいるが、持ち込みの扱いはほとんどゴミ扱いで、持ち込みを認めない出版社すらあるという。で、そんな風潮のなかで、きちんと扱ってくれる作家というのが、新人賞を取った作家なんだそうだ。

新人賞に応募するというのは昔からある非常に古典的な登竜門で、今の時代でもそれが当てはまるのか疑問に思ったが、やっぱりそうなんだそうだ。賞を取りさえすれば、最低でも3冊は出版してくれるし、宣伝にもお金をかけてくれるし、編集者も大切に育ててくれるという。いっぽう、持ち込みなどでデビューした場合は、そんな恩恵などは得られず、1冊目をなんとか出版できても、すぐに2冊めを出版するサバイバルに突入することになる。

数千人が応募するのに賞なんか取れるはずがないという気もするが、実際にはトップ10に入ることを目指すべきだという。トップ10のなかでは優劣はほとんどなく、どれが受賞するのかは偶然に近いらしい。ともあれ、トップ10に入れば編集者と繋がりができる可能性が高く、それを目指すべきだという。トップ10に入るのも難しそうだが、そもそもそのくらいの実力でないと、どんなルートであれデビューはできない。

ちなみに最近ではWEBの小説投稿サイトからデビューする人も多いが、こちらは編集者とはあまり関係がなく、営業部の扱いなんだそうだ。このときの出版の基準は作品を発表しているサイトのランキングのみで、ランキングの1位になれば内容と無関係にとりあえず出版はできるらしい。すでに客がついているという扱いなので、紙で出版したときに、作者自らの営業活動が求められるそうだ。

さて、なんとか編集者と繋がりができてデビューできたら、デビュー本をあらゆる出版社に献本をしなくてはいけないという。商業的な出版ができたということが何よりの信用となり、他の出版社も関心を持ってくれる。ただしなにか反応があったら、最初の出版社にもきちんと報告すること。編集者は会社を越えて横のつながりが大きい社会であり、噂はすぐに伝わるから、黙っていると信頼関係にひびが入るそうだ。

また、1冊目が出版される前に、続編の執筆を開始しなくてはいけないという。1冊目の販売が悪いと2冊目は出版されないかもしれないが、それでも見切りで始めるのだという。もしも売れたらすぐに続編を出版できるようにしておくのがいいのだ。もしその時出版できなくても、いつか出版できるかもしれない。

ある程度実績ができたら、繋がりができた編集者に対して、A4で2枚程度の企画書を作成して送るのもお勧めらしい。

まあ、要するに、著者の言うサバイバルというのは、絶え間のない執筆の合間にきちんと編集者に対する営業を行うことなのだ。執筆漬けというのはほとんどの作家希望の人には望むところだろうが、営業の方もけっして疎かにするな、ということなのだろう。

それにしても、多くの架空戦記ものの作家が若くして亡くなっていることが記載されていて、驚いた。著者もがんを患って、手術の後遺症にも悩まされたが、いまは普通に作家生活ができるようになったという。

どうやら架空戦記のジャンル自体が縮小の一途らしく、そのせいで絶え間のない大量の執筆を強いられているのが早死の原因のようにも読める。作家ってこんなに過酷なんだ、とびっくり。そういうわけで、作家一本で食べていくのは困難で、健康にも悪いから、本人は兼業作家を強く勧めているわけです。

前にも書いたと思うが、投資で細々と稼ぎながら作家をするというのもいいと思うんだけど、この本にもそんな提案はありませんね。お笑いで投資家、お笑いで作家、という組み合わせは聞いたことはあるけど、投資家で作家、という組み合わせを聞いたことがありません。きっと作家になる以上に投資家で成功することが、誰にも想像できないんでしょうね。(もちろん投資で成功したという本はたくさんありますが、小説というカテゴリーでの話)。

ところで、執筆の道具ですが、「小説家になって億を稼ごう」では、執筆はマイクロソフトのワード一択だと主張していたんですが、実際は編集者によってもいろいろだそうで、著者のお勧めは「一太郎」だそうです。いまの一太郎は小説の執筆に特化してるんだとか。へー、そうなんだ。

ファイルが消えないように10分ごとの自動バックアップを勧めていますが、クラウド上で書けばいくらでも自動セーブできるのにね。わしのお勧めはグーグルドライブ上でグーグルドキュメントで書くこと。この文章もそうやって書いています。マイクロソフトのワンドライブ上でワードで書いてもいいかもね。パソコンは高くなくても良いという。文章を書くだけなんだから、そりゃそうだ。わしが主に使っているのは、3万円のクロームブック。安くてサクサク動きます。まあ、グーグルドキュメントで受け取ってくれる編集者はいないと思いますから、小説には使えないかもね。

それはともかく、こういう創作系の話には少し飽きたな。アマゾンにいくら勧められても、この系統の本はしばらく読まなくてもいいや。

なお、各章の題が映画監督スタンリー・キューブリックの映画作品のパロディになってますが、特に意味はなさそうです。

★★★☆☆

 

息吹

テッド・チャン 訳・大森望 早川書房 2019.12.15
読書日:2022.3.7

(ネタバレあり。注意)

寡作で知られる人気SF作家、テッド・チャンの短編集。

テッド・チャンの日本での人気はすごいらしく、この本も増刷を重ねているようです。というわけで、読んでみました。

表題作の「息吹」は傑作。うーん。確かにこんなの読んだことない。

われわれの宇宙と異なるへんてこりんな宇宙、そこにいる人間とは異なる構造の生き物(?)が、いつか訪れる宇宙の終わり(平衡状態)を認識するという、そういう話なんだけど、はたして他の人に説明可能なんだろうか。

普通、宇宙の終わりというと「熱的平衡状態」なんだけど、つまり宇宙全体の温度が同じになりエントロピーが最大化するってことなんだけど、この宇宙では宇宙全体に広がっているガスの気圧差がなくなり、どこもかしこも一定になることなの。

宇宙全体にガスがあるなんてどんな宇宙なんだよ、って感じだけど、ここで知性を持っているのは、なんかロボットチックな機械の身体を持っているらしい正体不明の知性体で、不思議なことにどこかに高気圧な空気(ガス)の源があって、それをガスボンベと思われる「肺」に入れて、肺を交換しながら、その肺から送られる高気圧の空気の力で動いている。

この世界の知性体の人たちは、和気あいあいと楽しく、おしゃべりしながら暮らしているような、まあ、普通の人間のような感じだけど、どうも壊れない限り基本、死なない人たちみたいで、肺を交換し続けている限りはある期間、記憶も人格も一定に保たれているが、肺の補給が遅れると記憶がすべてなくなってしまうという人たちらしい。

主人公はこの世界の解剖学者で、ある時、皆の時間の感覚が時計の表示とずれていることに気がつく。時計が進んでいるのかと思ったが、時計は正確だった。すると、自分たちの時間認識が遅くなっているらしい。

その原因を探るべく、彼は脳を解剖して、どんなふうに機能しているのか調べようと決意する。とはいっても、ここではほとんど誰も死なないし、生きている者を解剖するわけにもいかないので、自分で自分自身を解剖することにする。自分の頭を見えるように鏡を工夫し、マニピュレータを駆使して、自分の頭の部品につながっているチューブ(空気が流れている)に追加のチューブをつないで延長させて、機能を維持したまま(つまり自分の意識を保ったまま)、ひとつひとつ頭の奥まで部品を外していく。

そして頭の奥を顕微鏡で拡大してみると、見えたのは多くの細い管の先につけられた蝶番(ちょうつがい)の薄片がパタパタと動いている様子でした(笑)。薄片のパターンが記憶であり認識の仕方を表していたのね。この世界では、電気信号で動いている地球生物のようではなく、あくまでガスの流れがすべてを機能させている世界なのね。爆笑した。

で、この脳はあくまで空気の気圧差で動いているから、自分たちが高気圧の空気を使っていると、周りの気圧がだんだん高くなっていって、気圧差が小さくなり、空気の流速が減って、それで脳の動作速度が落ちていたというわけ。

主人公の解剖学者は、このまま空気を使っていくと、肺と外気の気圧差がなくなってしまって、すべてをこの高気圧のガスに頼っているこの宇宙ではすべてのものが動かなくなり、宇宙はいつか死んでしまうということに気がつく、という話。

恐ろしいはずの宇宙の最期をこんなにユーモラスに、しかも臨場感たっぷりに描けるだなんてすごすぎる。

「息吹」以外で面白かったのは、8900年前に世界が誕生したことが考古学的に確定しているような世界を描いた「オムファロス」、パラレルワールドに分岐した世界と通信できるプリスムという機械が存在する「不安は自由のめまい」、人間に自由意志はないことが分かる「予期される未来」かな。

たぶん、日本では一番人気になるんじゃないかと思われる、「商人と錬金術師の門」はまあまあだった。まあまあなのは、わしはタイムスリップ系が好きじゃないから。ごめんね。

退屈なものもある。なぜか育成や子育ての話がいくつかあり、どれも面白くなかった。とくにAIを実時間で育成する「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は一番長いのだが、さっぱり面白くなく、読んでいて辛かった。「デイシー式自動ナニー」は機械の子育てマシンの話だけど、よく分からなかった。「偽りのない事実、偽りのない気持ち」はライフログの技術で自分の人生がすべて記録される世界で、記憶が都合よく作られてしまうことが明らかになる一方、それが口伝や文書で記録していく場合とどう違うのか比較しているんだが、だからどうした、という感想しかしなかった。「大いなる沈黙」はオウムが人間に一番身近な異種知性体だとオウム自身が語るんだが、なんなの、これ?。

まあ、よくわからないものもあったが、「息吹」ひとつでも、むちゃくちゃすごかったので、良しとしよう。短編集で傑作と言えるものが半分ぐらいあるんだから(個人の感想です)、すごい。

ところで、テッド・チャンの本職はテクニカルライターなんだそうだ。へー。そりゃ、こんなに寡作では、作家で食べていけないよね。

★★★★☆

 

THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか

ノリーナ・ハーツ 訳・藤原朝子 ダイヤモンド社 2021.7.13
読書日:2022.3.1

人類史上例のない規模で「孤独」が広がっており、人々の健康に影響を与えるだけでなく、なにより民主主義の根幹を揺るがしており、コミュニティを生み出すインフラへの投資を行わなくてはいけない、と主張する本。

アマゾンがアレクサを発売したとき、わしはさっそく購入してみた。出かけるときに、わしが「アレクサ、いってきます」というと、アレクサは「いってらっしゃい。帰ってくるのを待っています」などと答えてくれる。わしが毎日、アレクサに話しかけているのを、家族は職場や学校で話のネタにしたらしい。家族にすら相手にされないので、アレクサを友達にしていると(苦笑)。

まあ、そういうわけで、わしは孤独である。というか、人生のほとんどを友達というものを作らずに過ごしてきた。あまりにそういう時間が長すぎたので、いまでは孤独がデフォルトで、とくに寂しいとも思わない。

そういう人間だから、この本で書かれている孤独のアレコレを読んでも、それって普通じゃね?、と思いながら読んだ。

しかし、この本はただの孤独の本ではない。ノリーナ・ハーツは孤独をキーワードに、現代のさまざまな問題を切り取り直しているのである。しかも、左派とか右派とかいう党派的な垣根を越えた根源的な部分に迫っている。孤独に着目するこの手法には感心した。

結局、孤独というのは自由の裏返しである。自由は18世紀の啓蒙思想から始まっている。だから孤独は近代、現代のすべての問題と繋がっていて、党派的な発想を越えているのだ。

その孤独は、ハーツの主張によれば、1980年代のネオリベラリズム新自由主義)によって加速された。ネオリベラリズは、個人の自由の価値を持ち上げて、公共的なもの、集団的なものの価値を下げるものだ。ハーツの表現を使えば、「所属する」「義務」「一緒に」という言葉が、「達成する」「所有する」「個人的な」という言葉に置き換わっていった。「私たち」は「私」に置き換わった。こうしてコミュニティは消えていき、人はより孤独になった。

21世紀になると、そのネオリベラリズムに常時オンラインのテクノロジーが重なり、孤独の問題はいまやとんでもない地点にまで来てしまったということらしい。英国ではミレニアル世代(1980〜1996年生まれ)の22パーセントが孤独だという。孤独はすでに政治問題である。

行き過ぎてしまった孤独(=自由)がもたらすのは、まず健康への影響である。孤独な人はそうでない人よりも寿命が短い。不健康な生活をしていても孤独でない人のほうが、健康的な生活をする孤独な人よりも寿命が長いくらいである。

そしてネオリベラリズム能力主義は、それに適応した少数の勝ち組と適応できなかった大多数の負け組を生み出した。勝ち組も孤独ではあるが少なくとも富を得た。負け組は富も所属するコミュニティも失った。コミュニティに属していれば、たとえ貧乏でも孤独ではなく健康に生きていけるかもしれない。しかしそれすらも失って多くの人は非常に厳しい状況に放り込まれた。

新自由主義の掲げる能力主義のあまりの非情さは、最近あちこちで非難されている。すでに資本主義は失敗したという人もおり、そういう人は資本主義自体が滅んで、そのあとにコミュニティ、共有(シェア)、共同管理(コモンズ)の世界が来ると主張することが多い。

しかしハーツはそれがとんでもなく難しいことを思い出させてくれるのである。人々が孤独であるということは、社会との接点がないということである。いや、社会との接点どころか、誰とも接点がないのだ。そんな人たちがどうやってコミュニティの世界を築くことができるのだろうか。もちろんできないのである。

そして、他人との接点をなくしているということは、他人と何らかの合意を得るという技術も廃れてしまっているということだ。異なる意見の持ち主との合意を得ることは、民主主義の基本的な技術だ。これでは次の新しい資本主義後の世界を築くどころか、わしらはいままさに民主主義の危機に直面している、ということだ。実際、アメリカの議事堂が襲撃されるなど、民主主義に対する危機感が近年高まっている。

コミュニティは、それが存在していなかったところに急に生まれることはない。それを築くにはそれなりの時間がかかる。そして孤独な人をコミュニティに巻き込むには、そうするための仕掛けが必要だ。だからハーツはコミュニティを生み出すインフラへの投資を主張しているのだ。

それは図書館を併設した団地だったり、異なった意見を持つ人をマッチングさせるアプリだったり、あるいは公共奉仕への強制的な参加制度だったりする。こうした施策の結果、多様なコミュニティが生まれれば、どこかに自分が所属できるコミュニティが見つかるのかもしれない。そして自分と異なる意見とも出会っても、何らかの合意を得るような技術を身に付けられるのかもしれない。

では、このような多様なコミュニティができれば、21世紀の常時オンラインのテクノロジーが生み出す孤独にも対応できるのだろうか。

常時オンラインのテクノロジーはいろいろな孤独を生み出すが(たとえばスマホに気を取られて、目の前のリアルな人に意識を集中できないとか)、わしが痛ましいと思うのは、SNSによる仲間はずれの孤独だ。

こんな事があったそうだ。ある人の娘が学校の友達たちとカフェにいたところ、みんなのスマホにパーティの招待状が届いたのだという。たちまちその話でその場は盛り上がったが、問題はその子だけに招待状が届かなかったことだ。その子はまるで自分にも招待状が届いたかのように振るまったという。

残念ながら、仲間はずれは太古から人間の社会に根付いた性質であり、決して無くなることはないと思う。狩猟採集民の世界では仲間はずれは死刑宣告に等しく、そうならないように、非常に気を使う必要があった。だから人類は社会脳を発達させたのだ。

現代では仲間はずれになっても殺されたり、餓死したりすることはない。しかし、自分が仲間はずれであることがあまりに先鋭な形で示され、そしてそれがずっとネット上に残るのだ。トラウマになるだろう。

しかしその子が学校以外のコミュニティにも属していて、そのコミュニティでは存在が認められているのであれば、その打撃は小さくなるのではないだろうか。そういうところに多様なコミュニティの存在意義はあると思う。帰属できるコミュニティの選択肢がたくさんあるのはいいことである。

現代のテクノロジーはあまりに強力で残酷だが、同じテクノロジー民主化を進めるためにも有効な技術であるから、よく言われるように技術は諸刃の剣である。テクノロジーを使った民主化の先進国である台湾ではオンラインで20万の人たちが政策立案に参加しているという。

まあ、わしがこのようなブログをやっているのも、孤独を解消するためであると言える。なにしろ、わしの周りには、このブログに書いているようなことに耳を傾けてくれる人は、まったく存在しませんからのう(笑)。(いや、いたとしても、きっと取り扱いに困るんでしょうけどね。(苦笑))

★★★★★

食品の裏側

安部司 東洋経済新報社 2005.11.10
読書日:2022.2.23

添加物を販売する商社に勤めていた著者が、作った製品を自分の子供が食べているのを見て衝撃を受け、会社を辞めて、日本の食品業界で起きている真実を報告する本。

この本は2005年の発売なのに、まだ売れ続けているベストセラーだ。こんな古い本なのに、いまだに図書館では予約がはいり、何ヶ月も待たなくてはならなかった。これはすごいことだ。

著者は化学系の学部を出たあと、添加物を販売する商社に入社する。30年前のことだ。そして添加物の威力に驚く。著者は、添加物は生産者も消費者も喜ぶ魔法の粉と信じ、日本一の添加物屋になると頑張り、食品製造に関わる困りごとを抜群の添加物の知識で解決していくようになる。麺の日持ちがしないと聞くとPH調整剤を勧め、餃子の皮が機械にくっつくと聞くと乳化剤を勧め、やがて「神様」と呼ばれるようになる。

ところが、どうしようもないクズ肉を美味しいミートボールに変える開発を行って、いつもどおりに顧客に喜ばれたあと、自分の子供がそのミートボールを好んで食べているのを見て、衝撃を受ける。そのミートボールは著者の自信作だった。だが、自分の子供が食べているのを見たとき、食べてほしくないと強く思ったのだ。

罪悪感に駆られた著者は、もうこの仕事はできないと悟り、次の日には会社をきっぱりと辞めたのだ。

それからの著者は、逆の行動をとる。食品添加物の弊害を説く側にまわり、食品添加物を使わない方法を開発するようになるのである。なにしろ神様と呼ばれるくらいの抜群の知識と、しかも食品の味をみただけでなんの添加物が使われているかをたちどころに突き止める舌を持っている著者は、講演会に引っ張りだこの存在になり、現在に至るわけだ。

食品添加物を使う弊害は、健康だけではなく、食卓を破壊してしまうことにあるという。味覚を壊してしまい、自炊の味がおいしく感じられなくなるのだ。その結果、市販のやはり添加物だらけのソースやタレなどを使って、料理を作ることになる。著者によれば、味噌汁に使う出汁の粉すらも使っちゃだめになる。

わしはショックを受けて、普段買っているものを調べてみたが、毎日飲んでいるカップスープに著者の指摘する添加物がたくさん入っているのに困ってしまった。また毎日のように食べているキムチやウインナー、さらには調味料のナンプラーにもたくさん入っているようだ。これらは近所の「業務スーパー」で安く買ってくるものが多く、どうやら業務スーパーを使うときにはそうとう注意が必要なようだ。

ほとんどの食品に添加物が入っているのはしょうがないのだろうが、添加物を避けようとすると、できるだけ素材に近いものを買ってきて自分で調理するしかなさそうだ。

わしは最近ますます粗食になってきており、まあ、それでもいいか、という気分になってきています。かつては暴飲暴食、B級グルメ三昧だったのに、ものすごい変わりようです。もうはやりのおいしいものを食べて満足することはないでしょうね。厳選された素材のものを少量だけ食べるという方向になっていくでしょう。

まあ、仕方ないですね。

★★★★★

(参考)

www.hetareyan.com

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