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実力も運のうち 能力主義は正義か?

マイケル・サンデル 訳・鬼澤忍 早川書房 2021.4.21
読書日:2021.11.8

能力主義メリトクラシー)の負の局面が最大限に達して、いまや民主主義すらも危機にさらされており、寛容な公共社会につながる新たな共通善の構築が必要と主張する本。

日本語タイトルには感心しないことが多いが、この本のタイトルには唸ってしまった。普通は「運も実力のうち」というが、本の内容に即せば、本人に実力(能力)があるかどうかはエリートの家に生まれるかどうかで決まってしまうということだから、タイトル通りである。まさしく「親ガチャ」である。(親ガチャとは、親は選べないことをカプセルトイのガチャガチャになぞらえたもの)。

では、サンデルのいう能力主義メリトクラシー)とはなんだろうか。

能力主義メリトクラシーとは、イギリスの社会学マイケル・ヤングが1958年の「The Rise of the Meritocracy(日本語版は講談社メリトクラシー」)」という本で述べたものだ。能力主義の社会とは、生まれや育ちの階級ではなく、それぞれの人がその能力で評価され、報われるという社会のことで、一見、望ましい社会である。ところがヤングはこれが行き過ぎるとどのような社会になるかも見通していた。

社会が能力により正しく評価される社会という建前になると、成功している者は能力があり、成功していないものは能力がないという非常に単純な結論になってしまう。そうすると、低所得者貧困層の人たちにとって、成功しないのは自分に能力がないからだということになる。

いっぽう、成功している人たちは、間違いなく自分に能力があるから成功しているのだと確信するだろう。自分を過信するとともに、成功していない者を、能力がないものとして蔑むようになってしまうだろう。

蔑まれた方は、これに対して反論することが難しい。彼ら自身も能力主義を信じており、人は能力に応じて報われるべきだというテーゼを否定することは難しいからだ。自分にもチャンスがあったはずなのにできなかったということになると、自分が劣っており能力がなかったからだと認めることになる。そうすると、蔑まれた怒りはどこにも行きようがなくなってしまう。

さらに問題なのは、これが世襲してしまうことだ。もしも本当に個人の能力のみが関係するのなら、生まれや世代に関係なく、個人ごとに成功したり成功しなかったりしてもいいはずだ。社会的流動性ってやつだ。ところがそうなっていないとサンデルはいう。

明らかに成功したエリートの子供はやはり高学歴になり、高収入の職についてしまう傾向がある。本人の努力もあるだろうが、おかれている環境がエリートの子どもたちに大いに役立っているのは否定できない。こうして世襲が継続するとエリートの階級ができてしまうが、生まれだけで決まっていた昔の貴族階級と違って、能力主義という建前のもとではエリート階級に反対するのは難しいのである。低所得者がフェアでないといっても、ではあなたは自分の能力を開発しなさい、と言われるだけだろう。

国家や自治体がこの問題を解決しようと思ったら、その原因はこの人たちの問題は能力が低いからだということになるから、その解決策は彼らの能力を高めるということになる。教育の制度を整えて、いま世の中で求められている能力、例えばプログラミングとかITリテラシーとかを身につけなさい、ということになる。つまり教育問題に落ち着いてしまう。この解決策はますます能力主義を認め、加速する方向になってしまう。

だが、そもそも能力主義は正しくないのである。単純に、能力があるから成功するとは限らないし、成功しているからと言って能力があるとも限らないからだ。興味深いことに、自由主義者であるハイエクと平等主義者であるロールズの両方から、能力主義は間違っているとされている。どういうことだろうか。

自由主義者ハイエクによれば、その人の価値と経済的報酬との間にはなんの関係もない。経済的報酬とは、需要と供給の関係で決まるものなので、ある意味偶然の産物なのだ。同じ能力を持つ人でも、他に替えがいないと経済的価値は高くなり収入も増えるだろうが、同じことをする人がたくさんいれば、収入は減るのである。(たとえば教師は社会的にとても価値が高いが、給与は高くない)。

いっぽう、平等主義のロールズの立場からいっても能力主義は間違いなのである。まず経済的不平等が遺伝的に決まる能力差で決まるということが不公平である。さらに育つ環境に違いがあるのも不公平である。本人が努力して能力を上げた場合でも、家庭環境によって成功しようとする意欲を高めるかどうかが異なるのだから不公平なのだ。つまり遺伝的にも環境的にも同じでないなら、能力主義は平等ではない。

能力主義が行き渡ってしまうとどうなるのだろうか。アメリカでいま起きているのが、エリートと非エリートとの闘争だ。それがトランプ現象となって現れていることは、よく知られているとおりだ。かつては民主党が非エリートの人たちの味方だった。しかし民主党の幹部もエリートばかりになり、しかも彼ら自身も能力主義を全面に押し出しているので、非エリートの人たちにとっては、もはや民主党は自分たちのために働いていないのである。

一方、能力主義の世界で成功しているはずのエリートの人たち自身もまったく幸せではない。生まれてからずっと能力があることを証明することを迫られる日々を送っており、一流大学にはいるために受験勉強をし、ボランティアをし、運動やら何やらで忙しく活動しなければならない。それが終わっても、就職先でまた自分が優秀で能力があることを証明する日々を送らなくてはいけない。自分がしたいことをしているのではなく、いまそこにある選別装置に対応しているだけなのだ。そうする以外に自分の存在価値を証明できない、ということでもある。そして自分の子供も能力を持つようにいろいろ関与する。

ではこのような能力主義ディストピアをどうすれば解決できるのだろうか。残念ながらサンデルに処方箋はないのである。

サンデルは、エリートたちが、自分の成功は自分だけで行ったものではなく、社会からの恩恵を受けたものであり、いかに自分が幸運だったか思い起こせば、もっと謙虚になり、能力の専制を越えて、怨嗟の少ないより寛容な公共生活に向かう、というだけである。

共通善の構築がエリートの意識のみにかかっているなら、はなはだ心もとない状況と言えるだろう。

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