ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

経済的平等の先にあるもの 「実力も運のうち」を読んで考えたこと

わしの平等に関する考え方はここに書いた。端的に言うと、ベーシックインカムで十分にお金を配ってしまい、また住宅すら配ってしまい、誰もがお金持ちに「へー、だから?」と言えるようにするというものだ。

だがしかし、これは経済的な話なのであって、いろんな意味でこれでは不十分なのは明らかだ。ひとは食うために生きるのにあらず、なのだから。

つまり、ひとは自分が社会に役立っていると思いたいのであり、他の人から感謝されたいと思っており、つまり自分に価値があると思いたいのであろう。

「あろう」と書いているのは、わしにはこの種の欲求が少ないので、いまいち実感がわかないからだ。わしは自分の仕事が人の役に立っているとかどうかはさほど意識していないので。

まあ、ともかく、どうやらこのような実感は、普通、仕事を通じて得られることになっているらしい。

サンデルの「実力も運のうち」でも、下層階級の人たちがエリートたちに蔑まれたうえ、さらにグローバル化の波に巻き込まれて、中国や移民たちとの競争にも破れ、仕事を通しても尊厳を得られなくなって、自分を肯定できなくなっていく様子が描かれている。

つまりひとは仕事を通して自尊心を得ているのであり、たとえばベーシックインカムの制度を作って、働かなくても暮らしていけるだけのお金をあげるよと言われても、それだけでは済まないのである。逆にそんなことをすれば自尊心を傷つけられる可能性すらある。

この問題はどう考えればいいのだろうか。

たぶんこれは根本的には、社会から承認されたいという承認欲求のたぐいだと思う。つまり社会から「君はここにいてもいいよ」とか「いてくれてありがとう」とか言われたいということだろう。仕事を通してそれが実感できるというのは、自分が製造した商品を買う人がいると、「ああ、自分はこのひとの役に立ったな」と思い、あるいは会社が自分に給与を支払ってくれるということは、自分はこの会社に、ひいては社会に役立っているんだな、と実感できるということなのであろう。

もしも必要なのは承認だけだとすると、話は簡単になるのだが、イメージしにくいので、とりあえずビジネスとして考えてみよう。

最近、わしが毎週みているテレビ番組に、中京テレビがやっている「ヒューマングルメンタリー オモウマい店」という番組がある。日本中にある個性的な飲食店を紹介する番組だが、通常のグルメ番組と異なるのは、対象が料理自体ではなくて、店主(あるいは従業員、あるいは常連客)の生き様だというところだ。

この番組で典型的なパターンは、「お客さんにお腹いっぱい食べてもらって、幸福な顔を見せてもらいたい」と店主が切に願っていて、ともかく安い値段でやたらたくさんの料理が出るというパターンだ。もちろんほとんど赤字か、赤字に近い値段である。(わしは番組に出てくる大盛りの料理を見ているだけで血糖値が上がりそうで、こんなおそろしい店にはとても行けない)。

中京テレビのディレクターは毎週よくこんな店を見つけるなあ、と思うのだが、こういう店の見つけ方のルールのひとつに、「店主が店に住んでいる」というものがある。ディレクターはタクシーに乗ってそんな店を探し回る。

なぜこんなルールが成り立つかというと、自宅が店で家賃がいらず、自分たちのわずかな生活費ぐらい稼げればいいということになると、原価率を100%ぎりぎりまで上げても続けて行けてしまうからである。

すると、ベーシックインカムで生活費は配ってしまい、さらに住居も配ってしまうということになると、誰でもこういう儲けを度外視したビジネスができてしまうことは明白だろう。

というわけで、とりあえず、客にお腹いっぱい食べてもらって喜んでもらうビジネスは可能だと分かった。承認欲求は満たされるだろう。

とはいえ誰も彼もが飲食を提供するサービスを始めても仕方がないだろう。(もっとも韓国では誰も彼もが自営業になるとフライドチキンの店を開くようだけど(苦笑))。

もちろん食事に限定する必要はない。オモウマい店では客のお腹をいっぱいにするということがミッションだが、人が喜んでくれるミッションならなんでも安くビジネスにできる。大きな赤字にならなければ、ずっと続けていけるだろう。とてもニッチで普通ならビジネスにできないようなこともビジネスにできるだろう。

どんなにニッチでもまったく問題ない。食事提供なら、食べに来られる、配達できるという地理的に限定されたビジネスになるしかないが、製造業なら世界中に配送できるし、情報提供の仕事なら配送もいらず、世界中を相手にできる。世界中に範囲を広げられるのなら、どんなニッチなビジネスでも成立する可能性がある。

そうすると、国や自治体は無料の通信インフラを配ってもいいし、無料で使える3Dプリンタなどの汎用マシンを揃えた工場のインフラを設けてもいいかもしれない。こういう物を使って儲けを度外視したビジネスをできるだろう。

で、ここまでいちおうビジネスとして話をしていたが、すでに気がついていると思うが、そもそも儲けを度外視している時点で、これはビジネスではないのである。再投資して資本を増やすことを目指さないので、すでに資本主義でもない。お金ではなく、お互いの承認や信頼を通貨とする信用社会、クレジット社会なのである。

そしてわしは、個人はこんなふうにどんどんニッチなところに進むべきなのだと思っている。人が生きていく意義を感じられるちょっとした隙間(ニッチ)をきっと誰もが見つけられるのではないだろうか。

日本の社会ってすでにそうなっているのではないか。たとえば経済複雑性指標( Economic Complexity Index )というものがある。これはどれだけ産業が多様化しているかという指標であるが、日本はすでにずっと世界一である。日本は世界中を統べるプラットフォームの構築はできないが、ニッチ企業の豊富さではどこにも負けていないのだ。ニッチ見つけてニッチを究めることこそが日本の得意とするところなのだ。

これは進化論の種の棲み分けとおなじことがどんどん進んでいるということだ。

同じように、日本国民の個人個人の生活自体もニッチへ進むべきだ。(そしてすでにそうなっていると思う。)

でも、もしもそんなニッチがあなたが見つけられなかったら?

承認が得られなくても平気になろう。わしは、人はただ存在しているだけの自分というものに慣れるべきだと思う。ひろゆきが言うように、団地でぷらぷらしているおっちゃんの存在のあり方を見習うべきだ。ひとには、いやどんな生物にだって、生きていることに特段の意味はないのである。

だから仕事がないことに罪悪感を持つべきではない。そもそもひとは存在しているだけで他人の役に立っているのだ。そうでないと、サービスする相手がいなくなるではないか。供給側に立ってサービスするばかりが自分の価値ではない。消費者側に立っている存在も同じくらい重要なのだ。

そしてベーシックインカムが始まって一世代が過ぎると、ひとはそれを当たり前に思って、ぷらぷらすることになんら罪悪感は持たなくなるだろう。彼らは彼らの興味に従って生活する。

そうすると、そのうち一定数は自分の興味に従って、政治にチャンレンジするようになるだろう。そして彼らのさらに一定数は実際に政治的ポジションを得るだろう。こうしてサンデルが危惧しているいうような、エリートが政治ポジションを独占している現状は、改善されるのではないか。

ようするにエリートたちに、だから? といえる社会を作ろうという話である。

みんながみんなに、だから? といえる社会を作ろう。

 

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