ニコラス・ジャクソン 訳・平田光美、平田完一郎 ダイヤモンド社 2021.11.2
読書日:2022.3.20
金融業が国の経済の中心になると、国民になんの利益ももたらさず、かえってその国の経済を衰退させ、国民を貧困に陥れると主張する本。
この本で書かれているのは、主にイギリスの経済に関することだ。しかし、イギリスで起きていることは、世界中で起きているのではないかと思われる。ちょっと戦慄すべき状況だ。
まずジャクソンは「資源の呪い」という言葉を説明する。例えばアンゴラはダイヤモンドと石油が豊富な国であり、このように豊かな国だと、輸出で得た金で国民は豊かに暮らすことが可能なはずだ。ところがこの国では、一部の人間が富を独占したり内戦がおきたりして、国民の幸福にはなんの投資もされず、国民は過酷な環境に捨て置かれているのだ。これが「資源の呪い」であり、豊かな資源を持つ国の国民はかえって不幸であるという逆説のことだ。
同じようなことが金融にも起こるという。これが著者のいう「金融の呪い」(本書の原題)で、金融があまりに発達してそれが主要産業になると、国民はかえって困窮してしまうのだという。どのくらい金融業に依存するとそれが起こるのかは定かではなさそうだが、イギリスの場合は銀行や保険業など金融業の所有する金融資産はイギリスのGDPの10倍以上になっているという。つまり国民が生み出す1年間の価値よりも一桁多い金融資産があり、これが暴力的に働いて国民の経済活動を圧倒してしまうのだ。
豊かな金融資産が国民の幸福のために投資されるのなら問題はないが、もちろんそんなことにはならない。なぜなら、これらの富は一部の人たちが握っていて大部分の国民には関係ないし、これらの富は別の金融商品に投資されるばかりで、国民への投資には回らないからだ。
その金融資産はこんなふうに運用される。こうした金融資産は、そもそも税金をまったく払わなくてよいように管理されている。なので政府を通して国民に還流しない。そしてその投資は、国民の富を搾取するような仕組みでなされる一方、なにか問題が起きるとそのつけは国民に押し付けるような設計になっている。つまり、うまくいってもいかなくても国民の財産は取られる一方なのである。金融セクターが他のセクターからお金を搾り取るので、イギリスの生産性は周辺国、例えばフランスなどよりも低くなっているそうだ。
では、具体的にどんなふうにそのシステムを実現しているのだろうか。それは、(1)タックスヘイブン、(2)信託、(3)プライベート・エクイティという手法で行われる。わしにとってもっとも興味深いのは(2)の信託なのだが、とりあえずは順番に見ていこう。
(1)タックスヘイブン
タックスヘイブンはとてもわかりやすい。タックスヘイブンは、たいていはケイマン諸島のような小国に存在し、法人税、所得税を免除し、ペーパーカンパニーの設立など金融的なサービスを提供する国のことだ。国際的な取引を行うとき、タックスヘイブンに作ったペーパーカンパニーを輸出国と輸入国の中間に置き、ここに利益が発生するように会計処理すると、税金をまったく払わなくてよくなる。
このペーパーカンパニーの実際の所有者はわからないようにできるし、税務調査などの問い合わせには一切応じないし、たとえ裁判を起こして情報を得ようとしても裁判所もグルでなんの成果も得られないので無駄だ。タックスヘイブンは国の制度ごと金融産業に乗っ取られてしまっている。なにしろケイマン諸島の金融資産はそのGDPの1000倍あるというんだから。
タックスヘイブンが危険なのは、税金を支払わないとことだけではない。通常の国では金融当局がルールを設定し、危険な投資を行わないように目を光らせている。ところがタックスヘイブンでは事実上なんら規制を設けていない。規制がないので、新しい危険なデリバティブが作り放題なのだという。
たとえば、リーマンショックのときに有名になったCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)は最初タックスヘイブンで作られたという。これは債権がデフォルトしたときに元金を保証してくれるものだが、その債権にまったく関係のない人たちが自由に設定して売買できるという不思議なオプションである。このようなリスクのあるデリバティブを自由に設定し運用しているので、タックスヘイブンでどれだけのレバレッジがかけられているのか、外部からはさっぱりわからない。
レバレッジがあまりに大きすぎると、ちょっとした経済的変動で運用している金融機関が破綻してしまったりする。するとどうなるのか。たいていそのような金融機関は潰すには大きすぎるので、後始末は税金で行われ、損失は国民に押し付けられるのだ。
(2)信託
タックスヘイブンに比べて、信託というのはとてもわかりにくい。日本でも投資信託というのがあるように、言葉の意味自体は、信じて任せるということだ。しかしヨーロッパで信託の制度というのは、自分の財産を受託者に信託した瞬間にその財産の所有権を放棄してしまうことなのだ。そうすると、不思議なことに、その富は誰のものでもないという状態になってしまう。富は受託した管理者が適切に運用するのだが、発生した利益には課税されない。なにしろそれは誰のものでもないのだから。
これがもっとも効果を発揮するのは相続のときだ。財産を信託した者が亡くなっても、その財産が信託した状態なら相続税は課税されないのだ。何しろ誰のものでもないのだから。
自分のものでなければ、相続してもそれは使えないのではないか、という気がするが、そうではないのだ。信託の設計は非常に柔軟で、信託者の自由に設定でき、自分の必要なときに必要な分だけ引き出すようにすることが可能なのだ。たとえば信託からコンサルタント料として現金を払ってもらうことだってできる。必要な分はいつでも引き出せて、投資もでき、その資産は課税されない状態にできるというのなら、これは究極のいいとこ取りだ。
資本主義というのは、私有財産という概念にしたがって法制度が整っているが、私有財産を放棄することで私有財産にかかるすべての義務も放棄することができるということらしい。課税は財産ではなく財産を持った個人に対して行うという制度の盲点をついているわけだ。その一方、投資という資本主義のおいしい面はそのままなのだから、信託は資本主義を越えてしまっているといえる。
しかし、なぜこんな話がまかり通るのか不思議でしょうがない。日本でもこんな事が可能なんだろうか? わしが調べた限りでは、日本ではこんなことはできなさそうである。どうやらヨーロッパに(米国にも?)特有の制度のようだ。
こうしてなんの制限もなく、財産は一族に世襲されていく。
しかし、この制度はなんとも陰鬱なシステムでもあるようだ。信託のルールは信託したひとが自由に決められる。そうすると、その信託を相続した人は、遠い昔の先祖の決めたルールにずっと従わなくてはいけないのだ。一族で管理しているとすると、その一族からはじき出されると、なんの財産もないまま放り出されるということもあり得る。そんなわけで、お金はあるけど自由ではないというふしぎな状態に陥り、お金に人生を縛られてしまう可能性がある。
財産を管理する受託者の方はどうなのだろうか。大きな資産を運用していたとしても、受託者もものすごい報酬をもらっているわけでもなさそうだ。だが、受託者の仕事は大変だ。受託者は一族のさまざまなトラブルの面倒を見てあげなくてはいけない、まるで一族のかかりつけ医のようになるのだ。もともと受託者の役目は貴族の執事が担っていたらしい。だから現代の受託者も、かつての執事のように、一族の人生にまるごとコミットすることが求められるのだ。
大金を預かっているのだから、それを受託者が自分のものにする可能性はないのだろうか。不思議なことに、そのような事例は少ないようだ。もちろんそんなことをすると犯罪で、裁判で負ければ受託した財産を返さなくてはいけない。
そんなわけで、信託は誰にとっても不幸な制度にもなり得る。しかしここで問題なのは税金も取られずに自由に動き回っている膨大なお金があるということだ。
(3)プライベート・エクイティ
プライベート・エクイティというのは、つまり個人のお金を事業に投資をするということだ。しかし個人事業主と何がちがうのだろうか。個人事業主だって自分個人のお金を事業に投資しているのではないだろうか。ところがプライベート・エクイティは自己責任でおこなう個人事業主の発想とはかなり違うように運用されるのだ。
違いはプライベート・エクイティは投資をするときに外部の資本を入れるということだ。それはたとえばどこかの年金基金だ。そしてどこかの企業をまるごと買って、無駄を省いて効率化し、得た利益を配分する。
別になんの問題もなさそうだが、問題はプライベート・エクイティは投資を行う主体(ゼネラル・パートナーというらしい)の出資率が少ないことだ。どうも1〜2パーセント程度ということもあるらしい。つまり一見自分も投資をしてリスクを取っているように見えるが、実際には投資のほとんどは他人のお金を使う。ところが利益のほとんどは、自分たちが受け取り、外部からの出資者にはほとんど回さないような仕組みになっているらしい。ほとんど出資しないのに利益は大部分自分のものにするのだから、膨大な利益率になるという。
もちろん、再投資はほとんどしない。ここで効率化というのは、たいていは授業員をクビにするリストラや、給料を下げたり、あるいは労働条件を悪化させることだったりする。つまりしわ寄せは従業員(=国民)にいく。
こうすると、いっけん事業の効率が上がったように見えるから、この会社の価値が上がったように見える。そうすると、会社は別のプライベート・エクイティに売却され、そしてまた搾り取られて、だんだん会社の輝きがなくなっていくという運命にあるらしい。
しかしそうやって投資もせずに回しているうちに会社の競争力がなくなって、事業がうまくいかずに破綻してしまったらどうなるのだろうか。ここで資本主義の素晴らしい有限責任というシステムが機能する。つまり破綻しても自分が出資した以上の責任は取らなくてもいいのだ。こうして、後始末は他人に押し付けて、損失を最小限にしてビジネスを展開できるという。しかも、たいていは破綻前に搾り取った利益を配当として受け取っているので、トータルでは黒字になっていることが多いという。
ここでも自分たちはリスクから安全なところにいて、利益が出たら自分のものに、損失は国民に押し付けるという発想がある。しかもその利益は価値を生み出すというよりは、大多数の弱い人間から搾り取るというイメージに近い。
わしの意見では、これら(1)〜(3)の手法は資本主義の悪の面(ダークサイド)というよりは、資本主義ですらないように見える。資本主義は、投資家がリスクを負って事業をするということであり、そのために大きな利益が出て投資家が金持ちになってもそれを許容する。しかしこれらの手法は例外を設けてリスクを取らないようにするということであり、これは資本主義のルール違反だ。
タックスヘイブンはある国家の法治の及ぶ範囲外の場所を設けるという地理的な例外だし、信託は私有財産制度を逆手に取って私有財産以外の所有の方法を認めるという例外だし、プライベート・エクイティに関してはほとんど詐欺に近い。
わしは、お金持ちがいくら富を持っていても別に構わないと思うが、その富が何ら価値を生み出さないばかりか、その他の者からさらに富を絞り出そうと苦しめるだけなら、これは認められないし、あまりにも強欲すぎると思う。
納税に関しては、世界中の国が連携して、制度のタダ乗り、フリーライドはなくさなくてはいけないと思う。すくなくともある国で利益を出したら、他の国に持っていけずに、その国に必ず納税を行うようにしなければいけないと思う。でも利益というのは会計上の解釈によって大幅に減らしたり増やしたりできてしまう。なので、どの国にどれだけ納税するか議論がまとまらないかもしれない。
そこでジャクソンは、税の体系を固定資産税中心にすることを提案している。固定資産は文字通り動かすことができないし、取り上げることも可能だからだ。わしは個人的に固定資産税が嫌いだが、確かに動かしようがないから、固定資産税を利用するのはいいかもしれない。(なにしろわしが嫌いなのも、逃れようがない税だからだ。)
こんなふうな世界になってしまったのは、またしてもグローバル化、つまり新自由主義(ネオリベラリズム)のせいにされている。まあ、それは確かだけれど、もうグローバル化以前には戻れないから、逆に法治の網も国を越えてグローバル化するしかないかもしれない。つまり解決策は、やっぱり世界政府ってことになるのかな? ジャック・アタリの言う通りに。
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