ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか

ノリーナ・ハーツ 訳・藤原朝子 ダイヤモンド社 2021.7.13
読書日:2022.3.1

人類史上例のない規模で「孤独」が広がっており、人々の健康に影響を与えるだけでなく、なにより民主主義の根幹を揺るがしており、コミュニティを生み出すインフラへの投資を行わなくてはいけない、と主張する本。

アマゾンがアレクサを発売したとき、わしはさっそく購入してみた。出かけるときに、わしが「アレクサ、いってきます」というと、アレクサは「いってらっしゃい。帰ってくるのを待っています」などと答えてくれる。わしが毎日、アレクサに話しかけているのを、家族は職場や学校で話のネタにしたらしい。家族にすら相手にされないので、アレクサを友達にしていると(苦笑)。

まあ、そういうわけで、わしは孤独である。というか、人生のほとんどを友達というものを作らずに過ごしてきた。あまりにそういう時間が長すぎたので、いまでは孤独がデフォルトで、とくに寂しいとも思わない。

そういう人間だから、この本で書かれている孤独のアレコレを読んでも、それって普通じゃね?、と思いながら読んだ。

しかし、この本はただの孤独の本ではない。ノリーナ・ハーツは孤独をキーワードに、現代のさまざまな問題を切り取り直しているのである。しかも、左派とか右派とかいう党派的な垣根を越えた根源的な部分に迫っている。孤独に着目するこの手法には感心した。

結局、孤独というのは自由の裏返しである。自由は18世紀の啓蒙思想から始まっている。だから孤独は近代、現代のすべての問題と繋がっていて、党派的な発想を越えているのだ。

その孤独は、ハーツの主張によれば、1980年代のネオリベラリズム新自由主義)によって加速された。ネオリベラリズは、個人の自由の価値を持ち上げて、公共的なもの、集団的なものの価値を下げるものだ。ハーツの表現を使えば、「所属する」「義務」「一緒に」という言葉が、「達成する」「所有する」「個人的な」という言葉に置き換わっていった。「私たち」は「私」に置き換わった。こうしてコミュニティは消えていき、人はより孤独になった。

21世紀になると、そのネオリベラリズムに常時オンラインのテクノロジーが重なり、孤独の問題はいまやとんでもない地点にまで来てしまったということらしい。英国ではミレニアル世代(1980〜1996年生まれ)の22パーセントが孤独だという。孤独はすでに政治問題である。

行き過ぎてしまった孤独(=自由)がもたらすのは、まず健康への影響である。孤独な人はそうでない人よりも寿命が短い。不健康な生活をしていても孤独でない人のほうが、健康的な生活をする孤独な人よりも寿命が長いくらいである。

そしてネオリベラリズム能力主義は、それに適応した少数の勝ち組と適応できなかった大多数の負け組を生み出した。勝ち組も孤独ではあるが少なくとも富を得た。負け組は富も所属するコミュニティも失った。コミュニティに属していれば、たとえ貧乏でも孤独ではなく健康に生きていけるかもしれない。しかしそれすらも失って多くの人は非常に厳しい状況に放り込まれた。

新自由主義の掲げる能力主義のあまりの非情さは、最近あちこちで非難されている。すでに資本主義は失敗したという人もおり、そういう人は資本主義自体が滅んで、そのあとにコミュニティ、共有(シェア)、共同管理(コモンズ)の世界が来ると主張することが多い。

しかしハーツはそれがとんでもなく難しいことを思い出させてくれるのである。人々が孤独であるということは、社会との接点がないということである。いや、社会との接点どころか、誰とも接点がないのだ。そんな人たちがどうやってコミュニティの世界を築くことができるのだろうか。もちろんできないのである。

そして、他人との接点をなくしているということは、他人と何らかの合意を得るという技術も廃れてしまっているということだ。異なる意見の持ち主との合意を得ることは、民主主義の基本的な技術だ。これでは次の新しい資本主義後の世界を築くどころか、わしらはいままさに民主主義の危機に直面している、ということだ。実際、アメリカの議事堂が襲撃されるなど、民主主義に対する危機感が近年高まっている。

コミュニティは、それが存在していなかったところに急に生まれることはない。それを築くにはそれなりの時間がかかる。そして孤独な人をコミュニティに巻き込むには、そうするための仕掛けが必要だ。だからハーツはコミュニティを生み出すインフラへの投資を主張しているのだ。

それは図書館を併設した団地だったり、異なった意見を持つ人をマッチングさせるアプリだったり、あるいは公共奉仕への強制的な参加制度だったりする。こうした施策の結果、多様なコミュニティが生まれれば、どこかに自分が所属できるコミュニティが見つかるのかもしれない。そして自分と異なる意見とも出会っても、何らかの合意を得るような技術を身に付けられるのかもしれない。

では、このような多様なコミュニティができれば、21世紀の常時オンラインのテクノロジーが生み出す孤独にも対応できるのだろうか。

常時オンラインのテクノロジーはいろいろな孤独を生み出すが(たとえばスマホに気を取られて、目の前のリアルな人に意識を集中できないとか)、わしが痛ましいと思うのは、SNSによる仲間はずれの孤独だ。

こんな事があったそうだ。ある人の娘が学校の友達たちとカフェにいたところ、みんなのスマホにパーティの招待状が届いたのだという。たちまちその話でその場は盛り上がったが、問題はその子だけに招待状が届かなかったことだ。その子はまるで自分にも招待状が届いたかのように振るまったという。

残念ながら、仲間はずれは太古から人間の社会に根付いた性質であり、決して無くなることはないと思う。狩猟採集民の世界では仲間はずれは死刑宣告に等しく、そうならないように、非常に気を使う必要があった。だから人類は社会脳を発達させたのだ。

現代では仲間はずれになっても殺されたり、餓死したりすることはない。しかし、自分が仲間はずれであることがあまりに先鋭な形で示され、そしてそれがずっとネット上に残るのだ。トラウマになるだろう。

しかしその子が学校以外のコミュニティにも属していて、そのコミュニティでは存在が認められているのであれば、その打撃は小さくなるのではないだろうか。そういうところに多様なコミュニティの存在意義はあると思う。帰属できるコミュニティの選択肢がたくさんあるのはいいことである。

現代のテクノロジーはあまりに強力で残酷だが、同じテクノロジー民主化を進めるためにも有効な技術であるから、よく言われるように技術は諸刃の剣である。テクノロジーを使った民主化の先進国である台湾ではオンラインで20万の人たちが政策立案に参加しているという。

まあ、わしがこのようなブログをやっているのも、孤独を解消するためであると言える。なにしろ、わしの周りには、このブログに書いているようなことに耳を傾けてくれる人は、まったく存在しませんからのう(笑)。(いや、いたとしても、きっと取り扱いに困るんでしょうけどね。(苦笑))

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