角幡唯介(かくはたゆうすけ) 新潮社 2024.11.20
読書日:2025.4.20
かつて人類が地球全体に広がったときが根源的な冒険であり、それでこそ目の前の自然と向き合えるとして、そういう状態を再現するために、何ら予備知識もなく、地図も持たずに日高山脈に入り、縦断を目指して漂泊した記録。
現代の冒険家って大変だなあ、と思った。
かつて冒険家は、地図の空白を埋めるために世界中をめぐり、その土地の地形や様子を報告するだけで尊敬と名誉を勝ち得ることができた。しかし、そんな空白地帯は地球からなくなってしまい、誰もやったことのない新しい冒険を計画することはすでに困難である。
しかも現代の冒険はかつてのものと異なる。たとえこれまで人が通ったことのないルートをたどるとしても、地図や衛星写真を駆使して最適なルート計画を立案し、GPSや通信機器を備え、万一の場合のレスキュープランも整えて、万全の状態で冒険に臨む。そうすると、すでに計画段階で未知なものは排除され、冒険者は単に予定ルートを計画通りにもっとも効率的にオペレーションするだけの存在になり下がってしまう。現代の冒険者は計画の実行に囚われて、自分のまわりの自然と深く交わるような感覚を得ることはない。はたしてこのような存在が冒険者と呼べるのだろうか。
という問題意識を抱えて、角幡さんは事前知識なし、かつ地図を携行せずに、人に侵されていない十分な広さを持つ日高山脈を縦走する漂泊行を計画するのである。
なんとも哲学的な問題意識である。この冒険の意義を説明するのに、角幡さんは、実存だとか脱システムとかいう言葉を駆使して説明する。いったいどこの大学の出身?と思って調べてみたら、早稲田大学探険部の出身。うーん、またか(笑)。
こんな漂泊を行うことって可能なのか。どうやるかというと、普段からその地域の情報を得ることを慎重に避けてなるべく白紙の状態を保つようにする。そして出発点(静内のシュンベツ川の双川橋、日高山脈の南側)だけ決めておく。登山計画は、シュンベツ川をさかのぼって日高山脈の稜線に到達し、北上するという、大雑把な計画だけをたてておく。大雑把な計画しかないから、登山計画書も大雑把なものしかない。もし遭難しても、救助隊が彼を探し出すのは困難だから、けっこうリスキーである。スタートは決めた出発点にタクシーで行き、冒険を始める。
さて、地図をもっていないとどうなるかというと、例えば川が分かれているたびにどちらに行くか自分で決めなくてはいけない。間違えたと判断して、引き返すことはしょっちゅうである。なにか特徴のある地形を見つけると、それに名前をつけて、メモに記す。日高にはピラミッド形状の山がたくさんあるそうで、やたら三角山という名前が増えたというのには笑った。こうして初めてその地を訪れた人類のごとく、その土地と全面的に関わり合うのである。
食料はある程度持っていくが、基本は現地調達である。そのために釣りの基本技術、テンカラ釣りをマスターして、魚を釣って食料とする。日高の川では魚影は非常に濃いようで、じっさい角幡さんはたくさんの魚を釣っている。
地図を持たないことの最大の問題は、先がどうなっているのか読めないことによるストレスだったという。どちらか一方の川を選ぶのだが、その先には危険な滝やゴルジェが出現し、進むのが困難になっているかもしれない。もしも滝を登れなければ川から離れ、藪をかき分けて進むしかないが、これがどれだけ続くのかさっぱり分からない。このような先の読めなさがとてつもないストレスになるのである。もしも簡単な地図が1枚あれば、そのようなストレスから解放されるだろう。あと100メートルと分かっていれば耐えられるのに、そのようなちょっとした情報がないために、心が折れそうになったりする。
時間的な問題があるので、この漂泊は4回に分けて行われた。1回目の2017年は、シュンベツ川をさかのぼって、非常な難路をたどって、カムエクらしい山の頂上についたところで終わっている。
1回目の旅があまりに辛かったこともあって、2回目は少し時間がたった2020年になる。2回目からは、山口君という連れができた。2回目からは、1回目に来たところに未知さが消え、すっかり馴染みの土地になっていたという。
2回目からは方針が少し変わって、山の稜線を行くという登山的な発想ではなく、たどれる水系を伝って北上するという方針に変わっている。普通、人間はわざわざ険しい道をとおらずに食料の得られる通りやすい道を選んで行くはずなので、そのような方針に変えたのだ。だから2回目はシュンベツ側の北にある別の水系に移る抜け道をさがすということが課題になっている。
もうひとつ重要な方針の変更は、出会った人間に話しかけて情報を得ることを厭わなくなったということである。1回目の時は、なるべく人に会わないように、しかも人間が作った人工物も避けていた。最初にそこを訪れた人類という架空の物語を貫くのにこだわったのである。しかし、よく考えると、人は未知の土地でほかの人間に会うと、いろいろ情報交換をするのは自然なことである。だからそれもオーケーにしたのだ。もちろんあまりに詳細な情報を得ることは避け、簡単な情報を得ることに留める。しかし「この先にはシュンベツ川のような難路はない。高校生でも行ける」などという簡単な情報でも、旅のストレスが大幅に下がったという。
3回目の2021年ではすっかり慣れて、4回目の2022年で一気に北上して、冒険は終わるのである。
冒険が終わったあと、編集者と一緒に本物の地図を見て、冒険の答え合わせをしたところ、地図に載っている情報になんの驚きもないままに、答え合わせはすぐに終わってしまったという。何の驚きもなかったことが、最大の驚きだったそうだ。角幡さんは日高の水系を知り尽くしてしまい、重要な情報を見逃すはずはなかったのである。こうして、自分の地図を作りながら漂泊するという試みは、成功したと感じる。
でもまあ、角幡さんが味わった漂泊の安全バージョンは、わしらの身の回りでも意外に簡単に味わえるのではないかしら。
わしは駅チカのマンションに住んでいるが、重要な施設はほぼ駅の周りにあるのだから、駅から遠く離れた住宅地を訪れることはほとんどない。ついこの前、駅から2キロ離れた住宅地にある施設を訪れるということがあった。2キロぐらいならちょっと長い散歩ぐらいかと思って徒歩ででかけた。
初めての町ということもあって、勝手がわからないから、最初はストレスがあった。ところが2回目には、かなり馴染んで、もっとよく町を観察するようになった。チェーン店ばかりの駅周辺とちがってそこには地元の商店街があり、個人商店がたくさんあるのに驚いた。その中には、次に来たときには使ってみたい店が何件もあった。駅から2キロも離れると独自の生態系が生き残っている、というのが面白かったのである。まあ、確かに2キロも離れると、住民はわざわざ駅前まで出かけることはなかなかないのかもしれない。
こうして、わしの自宅周辺の地図は更新された。
こんなミニ冒険なら、誰でも決行できるんじゃないかな。まあ、こんなのは冒険ではないかもしれないけど、心理的には同じことを体験してるんじゃないかしら。違うかな?
★★★★☆