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未来学 人類三千年の<夢>の歴史

ジェニファー・M・ギドリー 訳・南龍太 白水社 2025.2.10
読書日:2025.4.26

人類がこれまで未来についてどのように考えて、取り組んできたかを概説する本。

念のために言うと、この本は「未来学」という学問を紹介する本で、未来を予測したり予測する方法を説明する本ではない。未来を予測する方法は未来学の一部ではあるけれど、それは未来学の全てではないのだそうだ。

ギドリーがこのような本を書こうと思ったのには、どうも最近の若者はSF映画などの影響を受けすぎて、未来はディストピア社会になると考える傾向があるかららしい。未来は、もっと多様で能動的なもの(つまり自分が関与して変えることができる)という考え方を身に着けてほしいようだ。

しかしそうなると、結局のところそれは未来というものをどのように捉えるかという、未来という言葉に対するイメージについて考えることとほとんど同義なのである。

そもそも未来という概念が生まれたのは、人類の数10万年の長い歴史の中でつい最近のことなんだそうだ。過去、現在、未来という直線的な時間の考え方が生まれたのは、約2500年前だそうだ。それまでは時間というのは周期的に同じことがくり返される循環的なイメージだった。

直線的な時間のイメージの誕生に大きな役割を果たしたのは宗教家のようだ。つまり、預言者と呼ばれる人々が現れて、神の計画について語るようになったことで、過去の世界と異なる別の世界が未来に起きるという考えが芽生えたらしい。

古代ローマ時代にキケロが過去と未来についてはっきりと区別する記述を残したという。ちょうど同じ頃、中国でも司馬遷などが歴史の法則を見出して、未来を予測することを試みたという。司馬遷を未来学者と考えるというのは初めて聞いたけど、まあ確かにそう言えなくもないかな。中国は宗教とは無関係に未来を考えたのが特徴的なんだそうだ。(どちらも紀元前100年頃)。

ルネサンス時代になると、大航海の時代が訪れ、地理的な拡大が生じた。すると、海の向こうの見知らぬ世界への空想が生まれ、ユートピア物語が生まれた。ユートピアはもともとは未来の話ではなく、同じ時代の別の世界の話だった。しかし、後に、ユートピアは同じ社会の未来の姿と考えられるようになる。(たぶん、地理的な空白が埋まってしまったため)。

近代になると、産業革命が起きて、ダーウィンの進化論もあって、時間が進むにつれて技術が進歩し、それにともなって社会も進化するという単純な考え方が主流になる。同じ技術を使うなら、同じような文化や社会になると考えて、未来はひとつの姿だった。

ところが20世紀にはいると、相対性理論量子力学の衝撃もあって、異なった時間の流れや確率的な未来の発想が入ってくる。さらに20世紀後半にはポストモダン的な発想も入って、未来はひとつではなく、複数の未来という考え方が主流になった。たとえば「起こりそうな未来」、「起こり得る未来」、「起こしたい未来」などという考え方が出てくる。「起こしたい未来」になると、そのような未来にすべくなんらかの運動を起こすという話も含んでくる。未来のイメージの数だけ、未来へのアプローチがあるという状況だ。

というわけで、現代では未来はいろいろな種類があり、混乱しているが、ここでギドリーは大胆に2種類に分類してしまう。

ひとつは「人間中心の未来」であり、人道的、哲学的、生態学的な未来である。人間、地球、宇宙の生態学的バランスをとり、文化的多様性、経済的平等などを重視する。

もうひとつは、「テクノトピア的未来」であり、機械論的で、人間の枠をテクノロジーで超えるトランスヒューマン的な発想である。

テクノトピア的未来のひとつとして現代の誰もが思い浮かべるのは、カーツワイルの「シンギュラリティ」の話であろう。だが、シンギュラリティの話はこれまでも何度も語られたよくあるタイプのひとつだとギドリーは切って捨てる。そして、テクノトピア的未来の知性は、サイバネティック的なもので、<貧相>なんだそうだ。(そうかなあ(苦笑))。

こういうものの言い方から分かるように、ギドリーは明らかに「人間中心の未来」に好意的で、「テクノトピア的未来」に批判的である。ちなみに、この2つの未来像は18世紀の啓蒙時代以降、常に争ってきたのだそうだ。

ギドリーは「テクノトピア的未来」を「人間中心の未来」に吸収してひとつにすることを提案する。というのは、トランスヒューマンというのは、いまではテクノロジーで人間の枠を超えるという意味になっているが、もともとはテクノロジーだけでなく、生物的な進化も含めた、もっと大きなものを表していたからだ。

例えば、ピエール・テイヤール・ド・シャルダンは人間の精神が地球規模に広がって、高次な次元の精神(Ωポイント)を宿すと主張しており、こうした考え方からトランスヒューマンという考え方がでてきたわけで、単にテクノロジーの発展だけを示しているわけではない。フランスのジャック・アタリなどは、トランスヒューマニズムは利他的で、隣人と対等で、世界を尊重する惑星制度を創るだろう、と言っており、まさしく「人間中心の未来」を表している。

なおシャルダンについては以下参照。

www.hetareyan.com

そして時間のイメージも現代では、人間中心のものに「再発明」されたという。フッサールは絶対的な時間ではなく、人間の心の「主観的な時間(=魂の時間)」という考え方を発展させ、ハイデガーは「実存的な時間」というものを語り、ベルクソンは「デュレ(生命の意識的な流れ)」と表現した、という。こういう新しい時間に対する感覚も、人間中心の未来の方向性を指し示しているとギドリーは主張したいようだ。

そういうわけだから、若者は「人間中心の未来」に基づいて、気候変動などの地球規模の問題に気づいて、ポジティブな未来を築いてほしい、ということらしい。

結局はここに落ち着いてしまうのか、というのが、かなり残念な結末である。人文系の人ってどうもなんでも教育で切り抜けようとする傾向がある気がするんだよね。そして、そこにはなにか教条的な感じが漂ってしまう。まあ、分からないでもないけど。

わしはどちらかと言うと、テクノロジーの発展に楽天的で、「テクノトピア的未来」の方の人間だから、テクノロジーでだいたい解決できると考えてるんだよね。何度も言っていますけど、テクノロジーで、エネルギー、食料、住居、教育などがほぼ無料に近くなれば、今のほとんどすべての社会的問題は解決されるんじゃないかしら。

どうも人文系の人とは、いまいち波長が合わないなあ。

★★★☆☆

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