ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

ジャガー自伝 みんな元気かぁ〜〜い?

ジャガー イースト・プレス 2021.12.22
読書日:2022.5.4

千葉の英雄、ロックンローラージャガーさんの自伝。

わしは電子本派かつ図書館派なので、めったに実物の本は買わないが、このときなぜか本屋に並んでいたこの本を買ってしまった。ジャガーさんのことは、日本テレビの「月曜から夜ふかし」で知り、強烈な印象を刻みつけられたので、そのオーラについ惑わされたのだろう。このわしに思わず本を買わせてしまうとは、恐るべき影響力である(笑)。

なんと言っても、わしの興味はジャガーさんの成功の秘密である。

ジャガーさんはアーティストとして成功したのではなくて、まず実業家として成功してから、そのお金を使ってローカルの千葉テレビに5分番組を持ち、そこで自分のプロモーション番組を毎週流して有名になったのである。1980年代のことである。有名になったのも特異な風貌とキャラクターのせいで、アーティストとして成功したとは言い難い。たぶん、アーティストとしての活動はトータルとしては赤字だろう。

いまでこそ、ユーチューブなどの動画配信もあるし、自前でコンテンツを作成して有名になるのは不可能という感じはしない。しかし、インターネットのない時代に、テレビの放送枠を買い取ってしまい、コンテンツ配布を行うというのは規格外の発想である。内容も当時としては規格外の代物で、当時の中高生に強力なインパクトを与えたらしい。

みうらじゅんはこのジャガーさんの成功の仕方は、通常の成り上がりではなく、「上がり成り」なのだという。なるほどね。ちなみにジャガーさんのキャラ設定(ジャガー星から来た宇宙人とか)のほとんどはみうらじゅんが創ったものだそうだ。

さて、ジャガーさんの生まれは千葉ではなくて東京である。0歳の頃、家族は空襲にあって、焼き出されたあと、あちこち点々として、結局、千葉の長浦に落ち着いた。当時はもちろん自然がいっぱいで、海のそばだったから毎日のように遠浅の海で泳いでいた。父親は日本画家が本職だが、中学の数学と美術の教師として生活していた。母親はほとんど家にいなかったそうだ。都会が好きでずっと東京にいたらしい。母の方の実家が接着剤関係の事業で財をなしており、お金に困らなかったかららしい。ジャガーの足跡をたどると、父と母の両方の影響を受けている事がわかる。

驚くのは、この頃からなんでも自分で作ってしまうという自前主義である。工作が得意でアルコールランプで動く蒸気機関車を作って、それを父親が雑誌に載せたことがあるそうだ。望遠鏡も自分で作ったし、高校に入ってからは美術部で絵を描きながら、本当に動くエンジン付きの自動車まで作ってしまった。外装は板金を自分で叩き出したというからすごすぎる。学校の成績は学年で1番で、そのおかげで奨学金がもらえてそのお金でエンジンのジャンク部品を買えたという。ジャガーさんによると、当時は日本中が何かを作っているという時代だったそうだ。

このころ洋裁にもはまり、自分で服を作るようになる。妹や姉の服を作ってあげて喜ばれたという。楽器はピアノを習いたいと主張しても聞き入れられず、ハーモニカやギターをいじっていたという。しかしなぜかソニーのオールトランジスタのテープレコーダーがあり、FENから流れる音楽を片っ端から録音して繰り返し聞いていたそうだ。もちろん、電気的なメカについても詳しかった。父親がカメラ好きで、本人もカメラをもらって写真を取っていた。家の中に現像の設備があったらしい。

10代でこれだけたくさんの活動をしていたことにビックリだ。よく時間があったなあという感じだけど、テレビを見ていたという話はまったく書いていない。きっと1959年に東京タワーから放送するまでは、長浦に電波が届かなかったのだろう。テレビがないなら、田舎だから時間はたっぷりあったかもしれない。

学校の成績は1番だったので、東大受験を勧められたがまったくピンと来ず(笑)、写真家になろうと思って高校を卒業したら写真学校に入ったという。親は将来の進路についてまったく口を出さなかったそうだ。この辺は偉いなあ。

でも写真学校は退屈で、中退してしまい、そのころ住んでいた下総中山のレコードも置いてある電気屋イトーヤというところでアルバイトをする。そのお金で高級なオープンリールのテープレコーダーを買ったりしている。

やがて、お金をためて市川市本八幡でクリーニングの取次店を始める。もちろん資金が足りないので、母からの援助もあるが、祖母の財力の手助けがあったのだろう。なぜ本八幡だったか、なぜクリーニングの取次だったのかは、なんとなくで理由はないそうだ。下総中山の近くで一番栄えていたのが本八幡だったかららしい。看板は父親が描いてくれた。

クリーニングの取次をしていると、洋服直しの依頼がたくさん来た。当時は服は直して着続けるものだったのだ。そんなのは得意なので、自分でやってあげていたが、やがて注文が来すぎてしまい、クリーニングをやめて洋服直しを専門にするようになった。すぐに事業は軌道に乗り、2店目、3店目と増えていき、最大では30店まで増えたという。店の内装なんかは自前でやる。鉄骨の溶接までも自分でやるそうだ。店が人に任せられるようになったので、ジャガーさんは洋裁学校に通って洋裁の専門技術を学んだそうだ。X−JAPANのyoshikiがバイトしていたことも有名。

このころからだんだんと見た目が自然と派手になっていき、長髪、金髪になっていったそうだ。もちろん誰も何も言わないので、自由にやっていくうちにいつのまにかジャガーになっていたらしい。

ライブハウスも運営するようになる。やがてスタジオも作り、3000万円の12トラックのレコーダーも買い、オリジナル曲も作るようになる。これまた全部自前の機材でやる。こうして自分でデモテープを作ったがメジャーにはまったく相手にされなかったそうだ(まあ、そりゃそうだ)。そこで、これまた自前でレコードを作って、店に並べてもらったけど、やっぱり売れなかったそうだ。

ある日、千葉テレビの櫻井さんというひとが来て、CMを出さないかと営業に来た。話をしているうちに5分番組を作らないかという方向になって、自分のプロモーションビデオを流せることに興奮して、やることにする。これがまた、全部自分で制作するのだ。撮影機材を買って、カメラマンは従業員にやらせて、構成も自分でやる。こうしていろんな意味で衝撃的な番組、「HELLO JAGUAR」を1985年に開始する。人気が出てきて、ライブハウスのJAGUAR CAFEも自分で作ると、チケットは完売するようになる。ライブハウスは格安で貸し出すので、千葉県の音楽界の恩人と言われるようになる。

このころの映像がユーチューブに残っているけど40歳前後で若々しいね。

でも、バブルが弾けたあと、ビジネスが縮小して、従業員の持ち逃げ事件なども起こったりして、なにか嫌になって活動をやめてしまった。この間はともかく事業を存続させることに集中したらしい。モットーは損をしないこと。

21世紀になって復活。インターネットの時代になると、かつて番組を見ていた人達の間でじわじわ復活し、「月曜から夜ふかし」などに取り上げられて、知名度は全国区になる。

2021年にジャガー星に帰還。亡くなったという話もありましたが、まあ、もう70歳後半ですから普通に引退したということでしょう。車椅子生活だという噂もありますが、体調を悪くされたことは間違いないでしょう。元気なうちは活動は止めないと思いますので。

それにしても女性あるいは男性と付き合ったという話はまったく書かれていません。歌の中に、市川から通う女性をテーマにしたものもありますが、恋愛とかしなかったのでしょうか? 恋愛経験はあったのかもしれませんが、恋愛自体に興味がなかったのは確かなんじゃないかと思います。ジャガーさんにとっては恋愛や結婚よりも自由に生きることのほうが大切だったんでしょうね。

ユーチューブに当時の経営者として働いていた姿が残っていますが、経営者のときは厳しい目をしているし、売上にものすごくこだわっていますね。こうして忙しく働いていて、週イチで番組も作っていたんですからすごいなあ。

それにしても、全部自前でやらないと満足できないというのは面白いですね。企業に頼らないとある一定以上には大きくなれないのかもしれませんが、それでも自前でやってるときの満足度は高いんでしょうね。

わしも投資で儲けたら、上がり成りして、アーティストをしようかしら(笑)。前にも言ったけど、どうも投資家兼アーティストって、なんか見かけないんだよね。

★★★★☆

 

にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ