ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

87歳、古い団地で愉しむ ひとりの暮らし

多良美智子 すばる舎 2022.3.30
読書日:2023.3.5

87歳の著者が、古い団地でお金もあまり使わない豊かな暮らしを紹介した本。

最近、この手の高齢者が質素だが豊かに満足して暮らす様子を書いた本がベストセラーになっている。というわけで、読んでみようと思い、何冊か予約したうちの一冊目が届いた。

著者の美智子さんは夫婦でずっと団地住まいで、子供が独立してからは夫婦で住み、夫を7年前に亡くしてからはひとりで住んでいる。入居した当時は新築だったが、いまでは築55年の古い団地になっている。

部屋は4階だがもちろんエレベーターはない。1階に空き部屋もあるから移ったらと言われるが、美智子さんはインテリアが趣味で、自分好みに部屋を飾っており、一からやり直すのは億劫なので、いまでも4階に住んでおり、健康のためだと階段を登っている。

美智子さんは自分のやりたいことに正直で、やりたと思ったらぐずぐずせずにすぐに取り掛かるのだそうだ。65歳で調理師免許を取って、店で働いたりしているし、歌の会にも、書道の会にも参加している。ミシンが苦手だが、手縫いでいろいろ作っているようだ。

最近、始めたのはなんとユーチューバーで、孫が撮ってくれた映像をアップしている。はじめは家族で共有するためのものだったが、やがて何100万回も再生されるような人気コンテンツになったそうだ。(もちろん、出版社もこのように彼女がすでに客を掴んでいるから、出版を企画しているのである)。

健康に良いことはすぐに試して見る方で、最近ではお米を食べるのを止めて、オートミールの米化したものを食べているそうだ。朝はプロテイン入りのスムージーだそうで、ものすごく最新の食事だ。

毎朝のラジオ体操を欠かさず、体操のあとは15分のウォーキングを欠かさないという。

夫がなくなったときには、なんと22万円の自宅での家族葬だったそうで、自分も亡くなったら質素に送ってほしいという。

年金だけで生活するようにしてきたが、最近は貯めていてもしょうがないと、貯金を孫や自分のために使っているという。

団地の居心地が良いので、孫が住みたいと言っているが、付かず離れずの関係が良いと、それは断っているそうだ。周りの人とも薄い関係をたくさん築いている。

そうだねえ、わしも結婚前は公団に住んでいて、ものすごく安い家賃で過ごしやすかったので、団地には親近感がある。でもURになってからは、前住んでいたところも家賃は5倍以上になっていて、今ではとても住めないな。特に年金生活になってしまったら無理。でも、郊外の団地にはまだ安く住めるところもある。こういうところは交通も不便だけど、いざとなったらそういうところに住んでみるのも良いかもね。

★★★★☆

 

天才数学者、ラスベガスとウォール街を制す 偶然を支配した男のギャンブルと投資の戦略

エドワード・O・ソープ 訳・望月衛 ダイヤモンド社 2019.4.3
読書日:2023.3.4

世界で初めてブラックジャックのカウンティングの技術を発見し、オプションの価値を計算するブラック=ショールズの式を発表前から自力で発見し、適正価格から外れた銘柄をリスク・ニュートラルで運用して大金持ちになった数学者、エドワード・O・ソープの回顧録

この本は長らく読まなければいけない本に入っていたもので、ようやく読んだ。

わしはエドワード・O・ソープの名前を知っていたし、「ディーラーをやっつけろ」という本のことも知っていた。でも、エドワード・O・ソープがどんな人間かはまったく知らなかった。

この本を読んで、ソープの人柄を知ったが、思った以上に数学者なのだった。つまりお金儲け以上に数学の問題を考えるのが好きな人ということだ。ソープはお金持ちになっても数学的な論文を発表し続けているようだし、ブラックジャックのカウンティングの技術を発見してラスベガスで勝ちまくったけど、なぜラスベガスに行ったかというと自分の理論が本番で使えるかどうかを確認するためだった。ソープはなかなかナイスなやつだ。

面白いのは、あの大数学者のクロード・シャノンもギャンブルに強い関心を持っていて、やっぱりシャノンも理論が本当に使えるかどうかに強い興味を持っていたことだ。あのシャノンも実戦の人だったんだなあと感心する。

そんなわけで、ソープとシャノンは意気投合して、ルーレットの研究をする。そして世界初のウェアラブルコンピュータを作って、それを服の下に仕込んで、ラスベガスで実戦に臨む。このころソープの顔は知れ渡っていたので、あまり勝ちを重ねないうちにカジノから追い出されているのだが、十分実践に使えることが確認できたとして、実験をやめている。

で、ソープが考えていたのはどんなことだったのだろうか。ソープが考えていたのは、常に確率の問題だ。勝てる確率が数パーセント高くなる状況があるので、そういう状況になったときだけ大きくかければ、長くやっていると圧倒的に勝つことができるのだ。

カジノではいつも追い出されるようになったので、世界最大のカジノ場であるウォール街の市場で勝負するようになったのだが、やっていることは同じだった。つまり、勝つ確率を計算して、勝てるものだけにかけるということである。それはある銘柄について適正な価格から外れて歪んでいる場合ほど、勝てる確率が高くなるということである。

ソープは経済学者が信じているような、市場は完全だとはまったく思っていなくて、必ず歪みがあると信じている。歪みが大きくなればなるほど勝てる確率は大きくなる。たいていは数パーセント高くなるだけだったが、たくさんのそういう取引をすれば、統計的に大きく勝てる。なので、ソープはコンピュータを駆使してそういう銘柄を大量に取引したのだった。

そしてリーマンショックなどのブラックスワンがおきて歪みが大きくなると、他の人は大損しているのに、彼は大いに儲けることができるんだそうだ。

ソープはいわゆるクオンツの先駆けだったわけだ。

そうすると歪みの大きさを計算する必要があるが、そもそも適正な価格をどのように計算すればいいのだろうか。とくにオプションでそれを見積もる方法は知られていなかったが、ソープは自分でそれを理論的に求めたのだ。それはいわゆるブラック=ショールズの式として知られているもので、ブラックとショールズはこの功績でノーベル賞を取ったくらいだ。

ところで、ブラックがブラック=ショールズの式を発表する前、わざわざソープに知らせてきたのだという。なぜなら、ソープが基本的な考え方をすでに発表していたからだ。発表することを聞いた時、ソープはもう稼げないのだと確信したのだという。その式を知ってしまえば、誰もが同じことができるからだ。実際、そのとおりになり、次第にこの方法による投資のうまみが少なくなっていったそうだ。

まあ、そういう事もあって、ソープは実際の投資からは徐々に身を引いて、人生を楽しむことにカジを切っていく。足ることを知っている人なんだね。

ソープの投資の特徴は、まったくリスク・ニュートラルであるということだ。例えば、ある銘柄について、オプションと現物をズレが有るとする。すると、高い方をうり、安い方を買う。こうすると、もしも価格がとんでないことになっても、リスクは限定的だ。だからリーマンショックが起きても怖くないし、逆に大きく儲けることができる。

こういうソープの一番の理解者は妻のヴィヴィアンだったそうだ。彼女は本物を見抜く直観の強い人だったらしい。ブラックジャックの理論を作るときには何千枚もカードを配って実験に付き合っているし、ルーレットのときも玉を投げ入れる役をやってくれた。こういう自分をわかってくれる人と結婚できる人は、幸せだね。

この本は上下巻で構成されていて、上巻はこのような回顧になっているけど、下巻は一般的な投資の考え方を書いているだけで(例えば複利の力とか)、ちょっと退屈。もしかしたら、下巻はどこかの雑誌なんかで書いた記事の内容をまとめたものなのかもしれない。たぶん一般的な投資の話を知っている人は、下巻は読まなくてもいいと思う。まあ、復習で読むのはいいと思うけど。

ソープは楽しくていい人生を送ってていいなあ。わしもこうありたい。みんなもそう思うでしょ?

★★★★☆

 

総員玉砕せよ! 新装完全版

水木しげる 講談社文庫 2022.7.15
読書日:2023.2.27

(ネタバレあり 注意!)

水木しげるが体験したパプアニューギニア、ニューブリテン島での戦いを一兵士の視線で描いたもの。

のんのんばあとオレ」が印象深かったので、水木さんの代表作を読んでみたもの。マンガは基本書評しないことにしてるんだけど(切りがないから)、これは書くことにした。

物語の概略は以下の通り。

ニューブリテン島に敵が上陸して、部隊が送り込まれるが敵に囲まれてしまう。中隊長はジャングルに後退してのゲリラ戦を主張するが、率いる若い田所少佐は死に場所を求めているようなところがあって、玉砕を決行する。しかし81名は生き残って聖ジョージ岬に行き着く。軍は玉砕をしたのに生き残った兵士がいてはまずいと、木戸参謀(中佐)を送り込み、全員をもう一度戦場に送って玉砕させる、というもの。

遺骨とするために、まだ生きている兵士の小指をショベルで切断するシーン、口にくわえた魚が喉の奥に入って鱗が逆さだから取れなくなり窒息死するシーンなど、印象的なシーン満載。

水木しげる自身は、負傷でラバウルで手当を受けていて、玉砕戦には加わらなかったが、多くの友を亡くしている。この戦争体験は強烈だったらしく、水木さんは1971年から10数回にわたってパプアニューギニアを訪れているのだという。

解説の足立倫行さんによれば、水木さんはこの訪問時に現地の様子をビデオに撮って大量に所有しており、このビデオを再生しながら何時間も熱心に解説するのだそうだ。なにしろ映像はどれも同じに見えるジャングルの風景が延々と続くもので、面白くもなんともなく、一方、説明している本人は次第に興奮してきて熱中するので、中座も許されず、地獄の体験になるのだそうだ。足立さんは幸運にも4時間で開放されたらしい(笑)。

水木さんは晩年、ボケてしまったあと、鬼太郎など創作したマンガの話は忘れたと言って全くしなかったが、戦争のことはずっと話していたという(日経新聞、2022.9.3)。

そういうわけで、水木しげるさんの原点には、なによりも戦争体験があるのだということがわかる。まあ確かに、戦争を体験したら、それよりも強烈な体験ってめったにないよねえ。

★★★★☆

 

人類学者K ロスト・イン・ザ・フォレスト

奥野克巳 亜紀書房 2023.1.9
読書日:2023.2.25

人類学者のKがボルネオの狩猟採集民プナンで一緒に生活した経験を語る本。

人類学者のKとはもちろん著者自身のことだろうが、この本ではまるで小説のように三人称でKの体験を語っている。どうしてこんなふうにしているのかよくわからないが、論文ではなくて曖昧な印象を語るための工夫なのかもしれない。

ところどころに人類学と関係ないKの個人的な話が挿入されている。たぶん事実の話だと思うが、創作かもしれない。そういう意味でも、このようなスタイルがとられているのだろうか。

なお、最初に、カフカの「城」が引用されていて、「城」はKが城に行こうとして決してたどり着けないお話だから、この本の主人公がKとされているのも、プナンの人たちと一緒に生活しても決してプナンの人たちにたどり着かないことを象徴しているのかもしれない。

プナンの人たちに関するいろいろなことが語られるが、所有に関する観念がなく、持っている人が持っていない人に配るのが当然という態度で、さらにプナンの人たちは他人の金を使ってしまっても、悪びれることはしないし、説明もしないし、そして誰もそれを咎めないんだそうだ。

でも、この辺の、私有の富が存在せず、すべて分配するという態度は、狩猟採集民に普通に見られることだから、あまり驚くべきことのようには思えなかった。

やっぱり驚くのは、プナンの人たちの死者への態度だ。

死者が出ると、死者に関するすべてを捨て去るのである。死者の名前を出すことも決してしないし、死者の持ち物はすべて焼却する。それだけでなく、家族の人たちは自分たちの名前すら変えてしまう。こうして全く新しい家族として再出発するのだ。

ちなみにどうしても亡くなった家族への悲しみに襲われたときには、ノーズフルートを夜に奏でるんだそうだ。

こんなふうにすると、もちろん先祖の話が家族に伝わることはありえないので、自分が知っている以上の先祖のことはまったく分からない。そうすると人間の経験という知識の蓄えもなかなか増えないのではないかと思う。

ともかくプナンの人たちは過去は振り返らない人たちなのだ。そして、同様に未来も存在しない。未来に何をするという計画は存在しない。子どもたちに将来何になりたいか、というような質問は質問自体が理解できない。

プナンの人たちには現在という時間しかないようである。永遠の現在が存在するだけなのだろう。計画しなくても、毎日、食料を手に入れることが可能な南国の世界には、現在しかないということかもしれない。

そんなプナンの人たちも現代に毒されて、定住もするようになってきたし、富を自分だけで独占するような人も現れているらしい。

エピローグは副題のとおりに、森の中で実際に道を失って、迷ってしまう話である。迷っているのは道だけでないのかもしれないが。

★★★☆☆

農家はもっと減っていい 農業の「常識」はウソだらけ

久松達央 光文社新書 2022.8.30
読書日:2023.2.22

28歳のときに農業に新規参入して実地で農業を見つめてきた著者が、世間が抱いている農業の常識は幻想だと喝破し、小さな自営業の農業が生き残っていくのに必要なのは競争することではなく、ファンを増やす最愛戦略を駆使することで、勝つのではなく負けないことを目指すべきだと主張する本。

久松農園は、農作業の人数が4人で、出荷チームが3人の7人体制で、とれたて野菜をネットで直接販売して、年間5000万円ほどの経営規模なんだそうだ。顧客数は毎週送るのが30件程度、隔週が70件、月イチが30件ほどらしい。そのとき一番いい旬な野菜をみつくろって送るのが基本で、顧客は送ってほしいものを選ぶことはできない。いちおう有機栽培なのだが、有機栽培を売り物にしているわけではないそうだ。

ネットを使ったスモールビジネスということになるが、ビジネス戦略という意味では、通常のスモールビジネスとほぼ重なる。つまり、ファンである固定客をがっちり掴む粘着性のあるビジネスを行うということである。というわけで、農業も他のビジネスと何ら変わりがないというのが久松氏の主張である。

ただ農業にはネットビジネスでよく使われる差別化戦略は使えないのだという。

通常のスモールビジネス戦略では、一部に熱狂的なファンがいる一方で、市場規模は大手が参入するには小さすぎる商材を見つけることができれば、成功の確率は非常に高くなる。しかし農業ではこの手法は使えないのだそうだ。なぜなら、たとえ一部に根強いファンがいる珍しい野菜を見つけたとしても、ある程度の技術をもつ農家なら簡単に栽培できてしまい、たちまち市場は飽和して、優位性はなくなってしまうからだそうだ。農産物はどこまで行ってもコモディティなのだという。

商品で区別ができないということになると、誰から買うか、という売り主の区別が大切になる。というわけで、ファンになってもらうための久松農場の戦略が(1)自分の悪いところも正直にさらけ出し、(2)自分が自信をもって自慢できる野菜をドヤ顔でおすそ分けするような感覚で売り、(3)SEO検索エンジン対策)のような姑息な手段を使わずひたすら事業を磨くこと、なんだそうだ。まあ、つまりは自分自身のブランド化ということである。これは、なんというか、極めて普通である。

というわけで、ビジネスとしては農業も普通のビジネスと変わらないわけである。ところが、これが農業というだけで、特殊な状況になるのである。

一つには、安いコストで農地を所有できる農地法や農業振興のための補助金などの、政治的な問題がある。

普通のビジネスならば、事業は強いプレーヤーにどんどん集約化されるはずであるが、農業では、ほとんどの農家が売上が500万円にも満たない零細農家であり、赤字なのになかなか集約化が進まないのだそうだ。というのは、ほとんどの農家は年金をもらっている高齢の農家であり、利益は関係ないからである。これは家賃のいらない自宅で飲食店をずっと続けるような場合に近いそうだ。農地法により、所有のコストが安いうえに、なにかの機会に宅地や公共的な目的のために売ることが可能なので、農業をしていなくても農地として保有し続けて、集約が進まないのだという。

しかも世間的には、零細な農家は弱者であり、保護しなければいけないという雰囲気がある。食料自給が問題になると、なぜか生産力をアップする集約化ではなくて、農家をもっと増やそうという話になる。

というわけで、著者はほとんどの農家は業(ビジネス)として機能していないので、農家はもっと減っていいという主張をしている。実際には、スピード感を持って集約は進まないかもしれないが、高齢者はどんどん亡くなっていくから、遅かれ早かれ集約は進む方向らしい。まあ、30〜50年ぐらい経てばという話ですが。久松さんは遅すぎると思っているかもしれませんが、政府はそれまで待つ気満々のようです。

もう一つ、農業が普通の事業と異なるのは、グリーンやエコだったり、健康的なイメージだったり、さらには自然と親しむ癒やしのようなヒーリングのような独特のイメージがあること。それが勘違いを生む。

たとえば農業を始める人の中には、かなりの確率で組織の人間関係に疲れた人が、人間関係は必要ないという幻想を抱いて始める場合がある。そして儲けはそこそこで、自給自足的な環境に満たされる世界を空想しているわけだが、実際には自営業なので、むちゃくちゃ人間関係構築力が必要なんだそうだ。農業はいろんな関係者のサポートで成り立っていて、その関係を構築、維持する必要がある。

さらには、学び続けないと維持も難しく、そのような学びや新しいプロジェクトのためのネットワークを構築する必要もある。

農業をやっている人のほとんどは科学知識に乏しくて、自分で考える力がなく、周りの人のやっていることを真似しているだけなんだそうだ。その一方で、農業に変態的に取り組んでいる人も日本中にはたくさんいて(笑)、そういう人と付き合うと、学ぶものがたくさんあるという。あるとき、種を植える深さをミリ単位で揃えないと、発芽のタイミングが狂って、最終的には作物が同じ時期に取れなくなると注意されて、そこまでやるのか、と驚いたのだそうだ。

著者はこのようなネットワーク構築力を「座組み力」と呼んでいる。

さらには、有機栽培やオーガニックという言葉のイメージも問題で、オーガニックだから特別に健康に良いとか安全ということはないのだという。たとえ農薬を使っているような普通の栽培でも、今の農産物は十分安全で、残留農薬などはほぼないのだという。著者が有機栽培をしているのは、単にそっちのほうが面白いからだそうだ。

久松さんによれば、自分だけが頼りの自営業には特有の問題があるという。それは自分を大切にしないことなのだそうだ。つまり、頑張りすぎてしまい、身体や心を壊してしまう人がたくさんいるんだそうだ。実は著者もその罠にハマって、あるとき身体が動かすことができなくなって、精神科に通ったそうだ。それからは自分だけで無理はせずに、人を雇うようにしたのだそうだ。そして、毎朝ストレッチをしっかりしないと仕事ができないのだという。

この辺は、「失敗のしようがない 華僑の起業ノート」に通じるものを感じるな。華僑は考える人と実行する人を必ず分けるようにするそうだ。

わしも農業には多少興味がある。

しかし、わしがやってみたいという農業は自営のために農業ではなくて、放っておいても作物がなるような方法を試してみたいのだ。ほったらかし農業である。不耕起のもっとすごいやつというか。何しろわしの投資もほったらかしに近いですからのう。

そういう手間をかけない農業が可能なのかどうかをやってみたい。雑草も取らないし、もちろん肥料もやらない。しかし、雑草も取らないような方法は貸し農園じゃ、手入れしていないと怒られそうだし、虫がたくさん発生して苦情が来るかも。

そうなると、それなりの田舎でやるしかないだろうが、それも引っ越さない限りなかなか難しい。というわけでちょっと無理かな。

ところで、この本の表紙の写真だが、なんかちょっとあざといなあ。まあ、別にいいけど。

★★★☆☆

我々はどこから来て、今どこにいるのか

エマニュエル・トッド 訳・堀茂樹 文藝春秋 2022.10.30
読書日:2023.2.18

家族形態と現代政治との関係を見つめてきた人口歴史学者エマニュエル・トッドが、これまでの研究成果をまとめて、民主主義の行く末を示唆する衝撃の書。

第三次世界大戦はもう起こっている」を読んで、米英と異なる視点の発言に大いに感心したけれど、この本を読んで、改めてエマニュエル・トッドがフランス人で良かったと思った。米英の研究者ではこの本は書けなかったのではないか。フランスは、ジャック・アタリもそうだが、別の視点から世界を見ることを教えてくれる大切な国だ。

この本はこれまでエマニュエル・トッドが発表してきた研究の内容をまとめた集大成だが、わしはエマニュエル・トッドをこれまで読んでいなかったので、その内容に衝撃を受けた。

エマニュエル・トッド自身は、自分の研究には過去の文化人類学者や社会学者、人口歴史学などの成果によっており新しいところはない、自分に新しいところがあるとすればそれらを現代社会に当てはめて考察したところだけだ、となかなか謙虚である。

エマニュエル・トッドが発見したのは次のようなことだ。

その国の政治形態はその国民の家族形態に沿ったものになっている、ということである。

米英は核家族を中心とする世界で、兄弟間の不平等は認めるが、個人の自由は最大限に認める家族形態である。このようなところでは政治形態は個人の自由を重んじる民主主義国家になる。一方、父親の権威を重んじ、兄弟間の平等を重んじる家族形態であるロシアや中国では、権威主義な国家になる。だから共産党の権威が最高で国民がそれに従うような共産主義国家は、このような国にしか根付かなかった。

マルクスは、社会は政治などの上部構造とそれを支える経済という下部構造があり、上部構造は下部構造によって決まると言っていたが、下部構造のもっと下には家族形態という深層(基底)が潜んでいるというわけである。家族形態にマッチした政治形態でなければ、それはその国の人にとって受け入れられない、ということだ。

そうなると、かつては中国が経済的に発展すると民主主義国家になるという幻想があったが、家族形態が父系の権威主義的な形態なので、そもそもそんなことはあり得ないことだったということである。ロシアもソ連が崩壊したあと、自由主義的な世界になると期待されたが、結局はプーチンにより権威主義的な国家に戻ってしまった。しかし、その方が国家は安定するのである。何よりも、国民自身がそのような国家を望むのである。そしてその基底には、国民自身の家族形態が絡んでいる。

ここまでは、なるほど、というレベルである。しかし常識が覆されるのはここからだ。

わしらは社会の発展段階として、なんとなく、最初は抑圧的な世界があって、社会が発展して個人が力をつけると、抑圧的な政治を倒して個人の政治的な自由を獲得し、個人が尊重される世界になるという、そういう発展段階の順番を思い浮かべる。つまり自由な社会は人類が到達した究極の世界というわけだ。中国が経済力をつけると民主主義国家になるのではないかという幻想には、なんとなくその順番が当然という幻想が働いている。

しかし順番は逆なのである。

もともとホモ・サピエンスは、約20万年前に誕生して以来、核家族を中心とした世界で、男女の差も少ない自由な社会だったのだ。

このような核家族の社会が変わったのは約1万年前(紀元前8000年)ごろにユーラシアの中心で農業が発達してからだ。農業が発達すると、農地や農業技術を誰かに継承しなければならなくなる。ここで選ばれたのは、特定の男性(たいてい長男)だった。この結果、女性の地位は下がり始める。これが第1段階である。ドイツや日本はこのレベルにある。(レベル1、父系直系家族)

この男性の継承が遊牧民族に伝わると、さらに発展した。遊牧民族は農業国を襲うように軍事化したので、兵士の役割を担う男性の兄弟は重要だから、兄弟間で平等化が進んだ。一方、兵士を供給しない女性の立場はますます低くなる。遊牧民は農業国を征服したので、このような父系化が農業国に導入された。家族は核家族のようにばらばらにならず、一族として一緒に住むようになる。中国やロシアのレベルである。なお、この段階では女性は一族の外部から得ている。(レベル2、外婚制父系共同体家族)

さらに進むと、女性を外部と交換することが減り、一族内でやり取りするようになる。つまりイトコ同士の結婚が増える。ここで、女性の地位は最も低くなる。これはアラブ・ペルシャ世界の家族形態である。(レベル3、内婚性父系共同体家族)

このように農業の発生した中心部(メソポタミア、中国)で家族形態が進化していき、その家族形態が農業の伝播にともなって、レベル1、2、3の順番でゆっくりと周辺部に伝わっていった。つまり核家族の家族形態がどんどん父権を強化するような、進化した家族形態に転換していったのである。いまではもともとのホモ・サピエンスの家族形態である核家族を維持しているのは、ユーラシア大陸ではヨーロッパの一部など、ユーラシア大陸の周辺部に限られているのである。

この事実には慄然とさせられる。

いまのところ、米英は民主主義や男女平等などのリベラルな概念を世界に普及させようと盛んに運動している。しかし、そういった理念のもとになっている核家族自体は、過去1万年の間、進化した父系の家族形態に負け続けているのだ。そして、いちど父系化した社会が核家族に戻った例はないらしい。すると、民主主義やリベラルの理念が本当に世界に広がるのかどうかは、はなはだ心もとないと言わざるを得ないのではないだろうか。

ちなみに日本はレベル1の直系家族の段階に分類されている。中国の隣国という状況にも関わらず、日本が直系化したのは非常にゆっくりだった。財産と技術の継承を理念とする直系家族だが、日本でそれが始まったのは13世紀の鎌倉時代で、武士を中心に広がっていった。しかし、日本国民全員にそれが制度として定着したのは明治時代である。たった100年ちょっと前の話である。

日本はもともと女性の地位が高い国だった。ところが一度レベル1の父系化が確立すると、女性の地位向上を進めるのに現在非常に苦労している。この事実だけを見ても、いちど父系化した社会を逆転させるのがいかに難しいかが分かるというものだ。とくに、一度軍事国家化すると、ユーラシアの遊牧民と同様に男性の地位が急速に向上して、父系化が根付くような気がする。

日本はレベル1の父系化であるが、このレベルは微妙な段階である。米英の民主主義も受け入れることもできるが、中国やロシアのようなレベル2を受け入れることももちろん可能だろう。いまは米国の勢力下にあるので民主主義、リベラルの理念を受け入れている。しかし、もしも将来、中国の勢力下に入ることになれば、比較的簡単に権威主義的な社会を受け入れるのではないだろうか。

このように人類の歴史を振り返ると、核家族社会が父系化社会に圧倒されてきた。しかし、いまの世界は米英(アングロサクソン)の核家族の社会が覇権を握っている状況である。一体何がおきたのだろうか。

これはもちろん、イギリスで産業革命が起きた一方、イギリス人が世界中、とくに米国に移住して数を増やしたからである。米国もイギリスと同じように核家族社会を作っており、その結果、民主主義の国になっている。国民国家として誕生したときにはイギリスには数100万人の人口しかなかったが、それがいまではヨーロッパ全部の人口よりも大きな何億人という人数になっている。アメリカなどでは、他のヨーロッパからの移民も多かったが、彼らもアメリカでは核家族化していったので、核家族社会がそのまま増えたのだ。

そうなると、なぜイギリスで産業革命が可能でドイツができなかったのか、ということを問わなくてはいけなくなる。なぜなら、プロテスタント革命によって、じつは民衆の識字率はドイツが高かったので、知識の大衆化という点ではドイツのほうが有利だったからだ。

どうもこれは核家族社会の変化への柔軟さという点に求められそうだ。それは例えば産業革命が起きてからの人口の移動をみても分かるという。農業社会だったイギリスが産業革命が起きてたった40年で都市人口が72%になったという。猛烈な人口移動が起きたのだ。これに対して過去の継承のためのシステムである父権直系家族のドイツでは、そのような柔軟性が少なく、硬直的な社会だったということらしい。ただし父系直系家族は技術の継承という点では非常に有利なので、日本やドイツでは一度産業が確立すると、それを継承発展させるという、特徴がある。

柔軟さという点では政治制度の発明についても、イギリス人は柔軟だ。イギリスは初めて国民国家をフランスとともにつくった国で、しかも民主主義についてはフランスよりも100年早かった。エマニュエル・トッドは、経済的な動きの前に必ず政治的な動きが先行すると言っている。イギリスは政治的な発明でも、その後の経済的な発展を用意していたということだ。

では、民主主義は今後どうなっていくのだろうか。

エマニュエル・トッドは未来の予測はしないと言っているが、いくつかの示唆を示している。

まず地理的には、今のヨーロッパはあまりよい状況とは言えないようだ。民主主義は核家族社会との相性がいい。そうすると、EUが東ヨーロッパを取り込んで拡大した一方、イギリスがEUから抜け出た結果、現在のEUの核家族社会の割合は27%にすぎず、少数派に転落している。EUは父系的な権威主義の方向に向かう可能性が高まっている。これは民主主義にとっては試練となりそうだ。

民主主義のもうひとつの重要な概念である平等はどうなるだろうか。核家族は自由を尊ぶが、平等はそれほどでもない。

イギリスは階級社会を維持している。

アメリカには強力な黒人への人種差別がある。アメリカは少なくとも黒人以外の人種の平等についてはそれを目指してきた。これは、黒人と比べれば他のヨーロッパ人やユダヤ人は仲間と認められる、という意味である。最近では、アジア人も仲間に認められるようになってきた。アメリカの平等は黒人(+ネイティブアメリカン)への差別の上に成り立っている。

しかし、近年は新しい階級が誕生して民主主義に脅威を与えている。学歴の高いエリートが高い収入の職を得て、学歴のない非エリート層が没落していくという能力主義メリトクラシー)による新しい階級の出現である。

これについては、イギリスが早くも非エリート層の要望を取り入れるような動きがあるという。これはもともと階級社会で、上流階級が労働者の要望を取り入れてきたイギリスの知恵が働いているのではないかという。おそらくアメリカもそれに追随するであろうという。

どうやらメリトクラシーは解決される方向とエマニュエル・トッドは見ているようだ。

もうひとつの重要な因子は人口だ。

世界的に人口が減る方向だが、父系化社会の方が人口が著しく減る方向だ。中国はもちろん、日本やドイツも減っている。一方で、核家族社会の方はまだ人口を置換できる2.1人に近い1.9人を女性が産んでいるという。またアングロサクソンの国々は移民も当てにできる。移民により高学歴化の停滞も克服できるかもしれない。そして、新しい産業が生まれるのは、やはり核家族の社会かもしれない。

一方で、米国はグローバル化メリトクラシーにより、幼児死亡率や自殺率、平均寿命などの指標が悪化しており、社会が崩壊に向かっていることを示している。

こうしてみると、いろんな指標が強弱並行して存在しているので、民主主義について簡単に未来を予見するのは難しそうだ。

なお、エマニュエル・トッドが特に興味を持っている国はロシアのようだ。ロシアは、強烈な父系共同体家族の国にも関わらず、女性の地位が非常に高いという特徴を持っているからだ。これは父系共同体家族になったのが17世紀でまだ歴史が浅いからかもしれない。さらに歴史的には、普遍主義的な共産主義システムを自らに課すということをし、ナチズムを打ち破って人類に貢献もしている。トッドはロシアは特異例かもしれないと言っている。

日本については困惑しているようだ。なぜなら、日本は世界のどことも異なった傾向を持っているからだ。同じような父系の韓国や台湾のほうがまだ分かるという。韓国はドイツに近いそうだ。

日本は具体的にどこが違うのだろうか。人口が減っていることに対して、ドイツは移民を増やしている。韓国もそうだ。しかし外向的なドイツに対して、日本は極端に内向きで、移民を増やそうとしない。ドイツが東ヨーロッパに労働力を求めたときも、日本はサプライチェーンを維持しようとしていただけだった。東日本大震災の後も、原子力産業を維持するという内向きの対応しかしなかった。そして国全体が国力が落ちて国際的地位が下がる道を甘んじて受け入れているようだという。

なによりエマニュエル・トッドを驚かせたのは、ある国際的なアンケート調査で日本だけが事実上の無回答(イエスでもノーでもない中間を選択)の多さで際立っていたことだという。ヨーロッパとも他のアジアの国とも違うのが日本という国らしい。

日本に関しては、本当にどこの国とも違う特別な国だということを認めなければいけないかもしれない、と言っているくらいだ。

エマニュエル・トッドにも不思議の国と呼ばれる日本。喜んでいいのか?(苦笑)。

★★★★★

 

 

早朝のガストで

わしは早朝のガストがけっこう好きだ。

休みの日には近所のガストで朝食を食べて、そのままドリンクバーのカプチーノ(シナモンが好きなのだ)を飲みながら、喫茶店代わりに数時間ゆっくり過ごし、ランチの客で混み始める午前中11時頃に退店するというパターンが多い。

まあ、ガストを選ぶのは、株主優待の消化という側面も大きいんですけどね。たぶん優待がなかったら、行かないと思う。

朝食を食べている人には固定客が多くて、いつも同じ人が同じ席に座っていることが多い。一度固定化すると、2、3ヶ月はそのままのメンバーが続く。でもガストで過ごすことに飽きるのか、やがて来なくなり、そうやってメンバーは変わっていく。

わしが好きなのは奥まったコーナーの一番隅の二人がけの席だが、そこは最近新しいメンバーの女性がずっと占拠するようになっていたので、そのコーナーの別の二人がけの席を使っていた。

その日、珍しいことにこのコーナーには常連が一人もいなかった。なので、とても空いていた。わしはいそいそと(笑)、一番奥の二人がけのお気に入りのテーブルに着いた。

朝食を食べ終わって、カプチーノを飲みながらタブレットを使って書き物をしていると、ちょっと疲れた感じの女性がやってきて、わしのそばのテーブルに座った。しばらくすると、男性がやってきてテーブルに着いた。

そして二人はけっこう深刻な話を始めたのである。だいたい次のような感じだ。

女性「ここに弁護士さんに作成してもらった書面が2枚あります。確認してください」

男性は書類を確認する。

女性「そこに書いてある金額が私の払えるぎりぎりです。あなたが、もういくらでもいいと言ったので、その金額にしました。それで納得していただけるのなら、振込先の口座番号を記入してとサインしてください」

男はスマホを取り出して、それをみながら書き込む。

女性「それから、弁護士さんの言うには、写真を世間に流出させないと約束する念書を書いてもらったほうがいいということでした。一筆書いていただけませんか」

男は小さな声で話していてよく聞き取れなかったが、念書を書くことは拒んでいるようだった。女性はしばらく弁護士がどうしたとか言って男を説得しようとしていたが、結局諦めたようであった。

こうして二人は席を立ち、ガストを出ると、左右に別れて消えていった。その間、15分ほどだった。

まあ、ガストでは真剣なビジネスの話や各種勧誘、セミナーといったことがされることも多いのだが、とくにひと目がつきにくい、この奥まったコーナーではこういう微妙な法的な交渉シーンにも活用もされるということであろう。

しかし、わしが驚嘆したのは、実はそこではない。じつは、二人はガストで何も注文もしなかったのである。(苦笑)

どんな目的に使うとしても、ガストに入ると、せめてドリンクバーくらいは注文するものだが、それすらもしなかった。

早朝のガストには、広い店内にホールスタッフが一人か二人ぐらいしかいないし、注文はタブレットからするし、配膳はネコ型ロボットがするし、ぱっとみてテーブルがどういう状況なのか(注文前なのか、食べ終わってくつろいでいるところなのか)もわからないし、そもそもホールスタッフが余計な声をかけることは絶対にないから、もちろんそういう使い方は可能だ。

でも、なかなかこういう思い切った使い方はできないものである。ということで、えらく感心したわけである。

まあ、理由は知らないけど、女性はお金をたくさん払わなくちゃいけないみたいだし、余分なお金は一銭も払いたくなかったんだろうな、ということは分かりますが。

それにしても、話の内容よりも、注文していないことのほうが気になるわしは、なんとも小市民だなあ、と我ながら思ったしだいです。(苦笑)

p.s.
ちなみに最近ガストでよく聞く質問は、「コンセント、使えないの?」である。以前、ガストは、コンセントを自由に使えることを売りにしていたのだが、電気料金が上がったせいか、二人がけ以外の席では、コンセントをキャップで塞いでしまった。

でも、コンセントにフタを被せているだけなので、それを取っちゃえば使えると思う。(試したことがないので、たぶん、ですが)。もしくは注文用タブレットのコンセントを外して、電源を乗っ取ってしまえばいいのでは。まあ、わしはたいてい二人がけ席なので、コンセントは使えているので、関係ないのですが。

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