ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

南極探検とペンギン 忘れられた英雄とペンギンたちの知られざる生態

ロイド・スペンサー・デイヴィス 訳・夏目大 青土社 2021.5.10
読書日:2021.7.5

ペンギンが専門の生物学者がペンギンの生態と極地探検家の生態を同列で観察し記述するという奇妙な書。

著者はニュージーランド人で、南極探検家の冒険を読んで南極にあこがれ、ペンギンの研究者となった。ペンギンを選んだのはかなり偶然で、最初は別の生物の研究をするつもりがだめになり、急遽ペンギンに切り替えたらしい。つまり何を研究するかではなく南極に行くほうを優先したわけだ。

そこでペンギンの性行動を観察し、オス同士の交尾行動、つまりペンギンに男色があることを発見し、驚愕する。しかもそれが、イギリスのスコット隊の学者によりすでに20世紀のはじめに観察されていた事を知り、その人類初のペンギン学者ジョージ・マレー・レビックに興味を持ち、調べたのがこの本だ。

レビックは男色だけでなくさまざまなペンギンの驚愕の性活動を観察したにも関わらず、発表しなかった。この本はそれはなぜかということを探る本でもある。

さらにレビックは探検家としても驚くべき経験をしている。食料も燃料もないままに南極に取り残されたものの、越冬して、無事に帰還するという信じられない経験をしているのだ。

レビックが参加したイギリスのスコット隊というのは、南極点一番乗りを争ったアムンゼンとスコットの話のあのスコット隊だ。アムンゼンは南極点到達のみを目標に、それを安全に早く確実に行うことに最適化した冒険隊だったが、スコット隊は科学研究を目的に掲げていたので、南極点探検だけでなくそのほかの未踏の地の探検も行った。

そしてキャンベル隊という南極点を目指すのと別グループが未踏の地に探検にでかけたのだが、このグループは探検に行った先で冬になり取り残されたのだ。食料も燃料もない極限状態だったが、なんと無事に生還した。レビックはこのキャンベル隊の医者として参加し、全員の健康を守り、無事に帰還させることに尽力したという途方もない人だったのだ。

南極で遭難して無事に帰還した話としては、シャクルトン隊の話が有名だが、キャンベル隊の状況はシャクルトンよりもさらに厳しい状況だったのに関わらず、全く知られていない。極地に到達したものの死亡して帰還しなかったスコットの悲劇の影に隠れてしまったのだ。

というわけで、この本は知られざる極地探検家としてのレビックを語る本でもある。当然ながら、当時の有名な極地探検家が勢揃いで出てくる。

これだけの材料を見てもなかなか面白そうなのだが、これは実に不思議な本でもある。何しろ生物学者である著者はペンギンとこれらの極地探検家たちの生態を区別することなく、同列で論じているのだ。まるで極地探検家がペンギンの一種であるかのように観察し、ペンギンと比べて評価している。本人的には全く違和感がないのだろうが、読んでいる方としては、違和感ありありだ。人間とペンギンを一緒に論じていいんだろうか。

具体的にはペンギンは見かけの貞淑なイメージとかけ離れており、離婚、不倫、レイプ、死姦、男色、売春と奔放な性のオンパレードなのだが、実は極地探検隊の人間関係もかなり性的に奔放なのだ。まず不倫は当たり前で、しかもライバル関係にある別の国の探検家とも不倫を行っている。たぶん一番衝撃的なのは、スコットが南極で苦労しているさなかに、妻のキャサリンノルウェーの有名な探検家ナンセンと浮気をしていたという事実だろう。ナンセンはスコットのライバルであるアムンゼンの師として有名だ。

そういうわけで、登場人物の性的嗜好について、著者はいちいち指摘しなくてはいられなかったらしい。これによると、ナンセンは不倫大魔王で多くの人妻と寝たし、アムンゼンも最初は女性にあまり興味がなかったようだが、有名になると、やはり人妻と愛を交わしている。南極に建てた基地となる小屋の性能をノルウェーで確認したとき、その小屋は不倫の愛の巣にだったらしい。またシャクルトンは港、港に女あり、という状況だったという。

本書の主人公であるレビックにはそんなことはなく、どちらかというとビクトリア朝時代の堅物という感じで、そのせいか、ペンギンの奔放な性を確認しても、これを暗号で書き記して他人から読めないようにして、しかも発表しなかった。理由は最後まで不明だが、自分でそれをわざわざ発表することもないと判断したらしい。どちらにしても、世界最初のペンギンの研究書を発表したという栄誉はレビックが得ているのだから。

ペンギンの奔放な性については、ほとんどが南極における繁殖の期間が限られているという事実ですべて説明できるという。ペンギンは一夫一婦制ではなく、毎年のようにパートナーを変えるという。これは前のパートナーが戻ってくるのを悠長に待っていられないからだ。待っているうちに繁殖の期間を逸してしまうかもしれないからでやむを得ないらしい。そうすると、新しいパートナーと子作りをしているうちに、前のパートナーがやって来ることがある。するとメス同士で激しい喧嘩になるらしい。ペンギンの世界ではオス同士だけでなく、メス同士も喧嘩をするのだ。

不倫も同じで、メスはよく浮気するが、限られた期間に雛が確実にできるようにするためらしい。それは、パートナーの精子が使えないかもしれないからだ。もちろんオスはチャンスがあればいつでも交尾をしようとする。というか、オスはあまり相手をよく見ずに交尾する。前かがみになったペンギンらしきものを見ると、それがなんであれ構わずに交尾しようとする。それがオスでも、死んだ個体でも、さらにはぬいぐるみの人形でも、かまわず交尾しようとする。

ペンギンの世界では、巣を作るための小石が非常に貴重で、まるで通貨のような役割を果たすという。だから他の巣から泥棒するのは当たり前で、オスが巣にいると、メスは交尾をするふりをして石を持っていってしまうという。特にパートナーがいないオスは、暇なのでせっせと石を集めており、こういうオスにわざと近づいて、交尾をさせてそのスキに小石を持っていくという。これが売春と呼ばれる行為だ。

著者はレビックの生涯を追いかけているが、レビック自体は南極探検から帰るとペンギンの研究をやめて、軍医として働き、晩年は青少年の自然を体験するツアーを行う組織を率いたりした。南極で越冬したとき、帰ったら必ずオートバイを買ってカナダを旅するとさんざんキャンベルと話し合ったにも関わらず、帰ってきてからそれを実行することもなかった。著者はレビックの晩年にかなりがっかりしているようだが、確かにこれだけの冒険や実績を残しているのに関わらず、世間的にはまったく無名というのも不思議な話だ。

この本で少しでもレビックのことが知られればいいと思うが、しかしこのペンギンと探検家を同列に論じるという奇妙な本が、あんまり世間の注目を集めるとはとても思えないんだよなあ。(苦笑)

★★★★☆

 

ほめるのをやめよう リーダーシップの誤解

岸見一郎 日経BP 2020.7.29
読書日:2021.6.23

リーダーシップというのは先頭に立って人を引っ張ることではなく、部下を教育して自立させることだと述べる本。

アドラー心理学というのは、人の感情はその人がなにか目的があって起こすものだという解釈だから、ぱっと見、どこか取り付く島がないという感じがする。怒りという感情は、たとえば上司が部下に向かって叱責する場合、自分が上に立とうとするマウンティングのために自分で起こす感情だ、と述べたりする。

著者によると、企業などの組織では、目標を設定しそれを達成することが目的だから、こういう感情のやり取りはほとんど意味がないのだそうだ。この場合、叱責だけでなく、ほめるという行為自体もそうだというのである。

ほめるというのは、部下の承認欲求を満たすために行うのだが、そうすると部下はまたほめられるための行動を起こそうと動機づけられる。ほめられることが目的になると、その人が見ている前ではほめられる行為をしようとするが、見ていないところでは意味がないのでしないようになる。こうなると、組織のためというよりは、ある人のため(というか自分のため)に行うことになり、組織にとってよろしくない。

また、ほめる上司の方もじつはそのようにして、相手をコントロールすることが目的になっていることもある。

こういう感情のやりとりは組織の目的に対して逆効果だという。組織としては、リーダーのためではなく、組織の目標のためにそれぞれが自立し、協力して目標を達成できるようになっていないといけない。リーダーの役割はほとんどそのための教育、環境整備ということになる。

そのためにリーダーに必要なのは感謝と評価なのだという。

感謝というのは、その人がいてくれるだけでありがたい、という感謝である。どんな人でもいないよりはいてくれて貢献してくれたほうがいいので、いてくれるだけで感謝なのだ。(存在承認)

そして感謝を伝える言葉は「ありがとう」である。

評価というのは、ある行動がよかったか悪かっただけを伝えるというものである。そのときにほめる必要はないのである。逆に悪くても叱責はしない。悪かった場合はどうしたらいいか相談するだけである。感情のやり取りは不要だ。

もし感情を使って組織の環境を良くしようとするのなら、リーダーが機嫌よくすることだという。リーダーが機嫌が良くて、組織に笑いが起こっているのなら、その組織は前向きになれる。もしリーダーが不機嫌なら、リーダーの機嫌を損ねないように注意が働いてしまい、組織の行動に制限をかけてしまう。

リーダーとしてはメンバーになにか言わなくてはいけない場合がある。どんな言い方をしても、あいてがそれをどう捉えてしまうかわからない。なので、必ずどう受け取ったか確認する必要がある。ほめているのでもなく叱責しているのでもないことが伝わらなくてはいけない。

そしてリーダーはすべてができなくてもいいし、完全でなくてもいい。できないことはできないし、自分ができなくてもほかにできる人がいればいいし、自分でアイディアを思いつかなくても何かもっといい考えがないか部下に聞いてみればいい。すべて相談である。

そうすると、リーダーは、尊敬されていなくてもいいし、感謝されなくてもいいし、さらにはバカにされてもいい。

究極的にはいてもいなくてもいい存在になるのが理想みたいになってしまうので、きっと一部の人には、じゃあいったいリーダーをやる意味があるんだろうか、みたいになるかもしれない。しかも責任は取らされる、というか、責任を取るのがリーダーなので、さらに割に合わないと思うかもしれない。

もちろんリーダーも幸福になれなくてはいけない。こうなると、リーダーは自分で自分を幸福にするすべを身に付けておかないといけない存在なのかもしれない。

アドラーはひとは幸福になろうとした瞬間に幸福になれると主張している。なので、ぜひみなさんもアドラー心理学を学んで、すぐに幸福になっていただければと思う。

わしはアドラー心理学はある種の真実だと思っております。

というか、そもそも自分が幸福かどうかを気にする心理自体がわしにはわからん。そんなものどうにでもなりません? ひとは不運で絶望的な状況のさなかでも幸福になれますし、羨むような幸運な状況でもいくらでも不幸になれます。これだけ幸福に幅があるとすると、そもそもそんな事考えてもしょうがないってことだと思います。

いつだって幸福になろうとした瞬間に幸福になれる。これでいい。

★★★★☆

 

アダプティブ・マーケット 適応的市場仮説 危機の時代の金融常識

アンドリュー・W・ロー 訳・望月衛、千葉敏生 東洋経済新報社 2020.6.11
読書日:2021.6.21

これまでの経済学は物理学を模倣して「効率的市場仮説」で理論を組み立てていたが、実際の経済活動は生態学との親和性が高く、ダーウィンの適者生存の法則を模倣した「適応的市場仮説」による理論を作るべきだと主張する本。

これまでにも何度か述べてきたことだが、わしは「効率的市場仮説」あるいは「ランダムウォーク」などといった概念が大嫌いである。実際に経済がそうなっていないということを日々実感しているということもあるが、ともかく発想自体が生理的に受け付けられない。

そもそもこれらは経済的には完全に合理的に判断し行動するホモ・エコノミクスとよばれる架空の人間の存在が前提だ。しかし今生きている人間のなかに、自分は完全に合理的な経済活動をする、などと自信をもって言える人はひとりもいないだろう。つまりなんとも非人間的、非現実的な前提なのだ。

効率的市場仮説によると、市場につく価格、たとえば株価はすべての情報をすでに織り込んでいて完全だという。この情報の中には、現在の実際の情報だけでなく、将来どうなるかという人々の予想も織り込まれているという(合理的期待仮説)。そしてある新しい情報、例えば金利が上がりそうだという情報が出てくると、それに対する直接的な反応だけでなく、その反応に対応する動き、さらにその動きに対応する反応というふうに、幾重にも折り重なった反応がすべて一瞬のうちに織り込まれるのだという。

このようにすべてが織り込まれた完全な価格であるから、例えば株で儲けることはできないという。株価の動きは大気の分子と同じようにランダムに動くしかなく、したがって株に投資することはすべてギャンブルと同等になり、儲けたとしてもそれは単なる幸運ということになる。バフェットなどの成功している投資家は、外れ値と処理される。(外れ値にしては大きすぎる存在ですが)。

これに対して、適応的市場仮説は、それぞれの人が経済環境の変化に適応しようとして予測し、行動する結果が現在の経済を作っていると発想する。この仮説の世界では経済は静的なものではなく、常に変化する生態系なのだ。自然と同じようにもっとも成功するのはもっとも新しい経済環境に適応した者だ。しかし当然ながら環境はすぐに変わるので、今日の勝者が明日の勝者になるとは限らない。

確かに完璧に合理的と仮定されているホモ・エコノミクスよりはマシな設定だし、そう考えるほうが現実にあっているのはわかる。2008年のようなリーマンショックが起きて株式市場が急落したときに、効率的市場仮説の経済学者はそれがなぜ起きたか説明することはできなかった。なにしろ市場は完全というところで思考停止しているんだから。しかし適応的市場仮説ならば、みんなが適応するようにこんなふうに動いたから、などと説明することができる。

なるほど。

たしかに納得性は高まるし、思考停止の効率的市場仮説よりははるかに好ましい。でもねえ、これがきちんと理論化されて何か使えるものになるかというと、はなはだ心もとないんですよ。

たとえば、ローは適応的市場仮説にしたがった投資戦略について述べてるけど、これが、どれも「リスクがあり、注意が必要」という但し書きがついているんだな。だって当たり前だよね。生態系が、環境が変わることが前提の理論なんだから、変わったら戦略を変えなければならず、よく言われるように生き残れるのは変化し続けたものだけ、ということなんだから。まさしく、パラノイアだけが生き残れるんでしょうか。

今後の発展に乞うご期待! みたいなことをローは言ってるけど、この仮説から本当に役に立つ理論が生まれるのか、心もとない気分になりました。

しかし、ローが心に描く今後の発展のイメージには期待が持てるかもしれない。何しろ、これまでの効率的市場仮説ではすでに市場は完全だから、これをなんとかしようなどという発想自体がない。一方、適応的市場仮説では、生態系が発想の源なので、(主に政府が)生態系に手を入れるという発想を含んでいるからだ。

これを例えるのなら、国立公園で野生動物の生態系を管理する、みたいな感じでしょうか。経済の生態系はテクノロジーの発展と政府による規制の影響を強く受けることが分かっている。なので、この規制をうまく使うことが述べられている。

まずは生態をよく知るために、いろんな経済状況を測定できるツールをたくさん用意する。なにしろ科学は測定するところから始まるのだから。そして、なにかリーマンショック級の大きな経済的な事件が起きた場合、なぜそれが起きたかの独立した航空機の事故調査委員会のようなものを組織して、提言をしてもらい、規制をすることで、大きな経済事故が起きる可能性をどんどん下げていく事ができるのではないか、と述べている。

(ただ、経済的な事件はその原因の合意が得られないことについても述べられているのだけれど。大恐慌が起きた原因についても未だに議論が行われ、2008年のリーマンショックについても未だに論文が発表されているという。)

さらには、金融を工学的に使って、人間の健康の発展や貧困の解消を後押しすることができるのではないかという。ローはスタートレックに出てくるような貧困者がいない理想的な未来を実現できると信じているのだ。

しかし、まあ、適応的市場仮説をもとにした使える有望な理論が出てくるのに、あと10年はかかるんじゃないかって気がしました。これまでの効率的市場仮説よりははるかにマシなのは確かですので、長い目で見ていこうと思います。

本の内容は、ほぼローの学者人生全体を含んでいて、なかなかおもしろかったです。

学者になりたての頃、軽い気持ちで株式市場でランダムウォークが成り立っているのか検証したところ、なりたっていなかったので、これまた軽い気持ちで学会で発表したところ、大物の経済学者から反発をくらい、プログラムのバグだろうぐらいの扱いをされたらしい。ここで自分が正しいと強く出たらまずいとの判断が働いて、いったん引いた、というのがアジア系(ローは中国系)のふるまいっぽくてリアリティがありました。もちろん適応的市場仮説を大声で唱え始めたのは、終身教授になってからなんでしょうね。

このとき、効率的市場仮説信仰がいかに根強いかということに気がついた、と言ってるんですが、しかしですねえ、ここを読んで、わしは本当に大学で経済学に進まなくて良かったと思いました。きっとこんな不自然で狂信的な学問には耐えられなかったでしょうからねえ。(まあ、これはアメリカの話で、しかもわしの進んだ大学の経済学部はほぼマルクス経済学系だった気が(笑))

ところで、適応的市場仮説は、効率的市場仮説を含んでいる存在なんだそうです。つまり、市場という生態系の変化が少ない定常状態の場合が効率的市場仮説の状態らしいのですが、まあ、これは納得できるかな。それで適応的市場仮説と効率的市場仮説の関係は、アインシュタイン一般相対性理論ニュートン力学みたいな関係だといいます。まあ、そうとも言えるかな。

ほかにも興味深い話が満載で、読んでいる分にはとても楽しめました。

★★★★☆

 

教養としての地政学入門

出口浩明 日経BP 2021.3.1
読書日:2021.6.13

立命館アジア太平洋大学学長の出口さんが、豊富な教養をもとに、地政学の基本的な考え方を、実際のマハンやマッキンダーの著作に基づいて解説した本。

きっとこの本に地政学を期待して読み始めたら、なんのことだと思うだろう。最初のうちは、なぜ地政学が必要かという話があり、国家は引っ越せないから、と明快に語るところはいい。

しかし、その後、陸の地政学と海の地政学に分けて話をするのだが、陸の地政学とは自分がサンドイッチの具にならず、いかに相手をサンドイッチの具のように挟み込むかであると定義し、その状況に関して延々と歴史的な話をする。さらに海の地政学とはシーレーンを確保することだと定義し、延々とシーレーンを制する歴史の話をする。しかも大体がヨーロッパ、中東の話なので、少々うんざりする。

そういうわけで、およそ3分の2ぐらいはそういった歴史の話を聞かされるので、これが本当に地政学の本?、と思うわけだが、どうも本物の地政学の本も、歴史の話が大きな割合を占めるようなので、まあ、そんなものかもしれない。

いちおう、中国とインドの地政学的な特徴についても記載がある。しかしなぜかアメリカ合衆国地政学的な特徴についてはなんの記述もないようだ。どうして? アメリカはただ最強の海軍力を持ってシーレーンを制していることだけが強調されている。アメリカの国としての地政学的状況にはなんの問題もないので、述べるに値しないと思ったのかもしれないが、いちおう述べておかないとおかしいのではないだろうか。(まあ、アメリカに関しては本当に問題はないんだけどさ)。

たぶん、本書を読む人には、第4章の日本の地政学に関するところがもっとも重要だろう。

日本は地理的にロシア、中国、北朝鮮、韓国、台湾を接していて、太平洋を隔てて隣国としてアメリカがいる。アメリカ以外とはすべての国と国境に問題を抱えていて、非常に厳しい状況だという。こういう状況を放っておくというのは、普通ならあり得ないが、日本の場合はアメリカという最大の同盟国があるので放置しているという。

また日本が同盟を結ぶ相手としては、日本の国としての規模を考えると、アメリカ、中国、EUしかあり得ないという。しかし中国とは政治体制が違いすぎて同盟は成り立たないし、EUは遠すぎて同盟を結ぶ意義がそもそもEU側にはないという。したがってアメリカ以外は今のところ選択肢がない。

しかし、アメリカはいつでも日本を切り捨てて、中国と手を結ぶことが可能なので、そういう可能性も留意する必要がある。今はありえない可能性かもしれないが、長い年月のうちにはそういうことが起きることも想定に入れて置かなければいけないという。もしアメリカが日本を切り捨てるのなら、日本には周辺に味方がいなくなってしまうので、とても厳しい状況になるだろう。

こういう中で、日本の生きる道はグローバリゼーションに貢献することだという。つまりは世界に貢献する日本を目指すということだ。

第5章ではマハンとマッキンダーの著作を紹介しているが、とくにマッキンダーハートランドユーラシア大陸の中央部のこと)について説明していて、これはとてもわかりやすく解説してあって、いい。マッキンダーハートランドの話は、今流行のメタ歴史の走りだという説明には納得だ。

ハートランドとは文字通り心臓部のことで、ここを制すると全てを制するという場所のことだ。これまでは陸は移動が難しく、海のほうが船を使って移動が簡単なので、海に接する周辺部が栄えてきた。しかし技術の発達で、たとえば鉄道などを使うと簡単に大量に兵や物資を送ることが可能になった。この技術変化のおかげで、ユーラシア大陸の中央部を制すると、周辺部のイギリスや日本などを脅かすことができるという。簡単にいうと、騎馬兵でユーラシアを制したモンゴルの再来が起こりかねないということだろう。なので、歴史的なパラダイムシフトを迎えているので要注意だという話。

まあ、これは20世紀初頭の話で、航空機や宇宙技術も含めると、必ずしも今でも当てはまるとは思えないけど、発想としては面白い。

こんなふうに考えると、歴史というのはなかなか便利な器だなあ、と思う。歴史には人間の行いが全て含まれるので、政治や戦争はもちろん、科学技術や宗教や哲学もなんでも含まれる。

地政学をメタ歴史の話ととらえる出口さんの見方も、出口さんが歴史好きだからだろう。あまり歴史好きとは言えないわしにも、メタ歴史ならなんとかなるかな。でもくどくどヨーロッパの歴史を聞かされるのは、やっぱりちょっとなあ(苦笑)。

★★★★☆

 

ジャックポット

筒井康隆 新潮社 2021.2.15
読書日:2021.6.13

筒井康隆の死の影があふれる最新短編集。

表現の仕方は筒井康隆特有のアドリブ的なものだけど、ほとんどがそれぞれのテーマごとに昔を振り返る感じのもので、びっくりするくらい死の影が濃い。

ご自身がもう死を意識しなくてはいけないのは当然だが、息子で画家の筒井伸輔さんが2020年に51歳で亡くなったことが影響していることは間違いない。収録作品のうち半分以上がその後で発表されているのだから。

わしも息子が自分よりも先に亡くなったら、そうとうこたえるような気がするから、気持ちはわかる。

ジャックポットとはギャンブルの大当たりのことで、ハインラインの名作短編「ザ・イヤー・オブ・ザ・ジャックポット(大当たりの年)」から来ているのだという。これはすべての現象が最悪の周期を迎える年のことで、コロナの世相がどうもこの短編を思い起こさせるということで、最近注目されているという。

自分も、息子も、社会も、終わりの兆候を迎えているということで、こういう死の影が濃厚になるもの致し方ないのかもしれない。

さいごの「川のほとり」は、三途の川とおぼしき川のほとりで死んだ息子と会話する話だが、こういう夢をきっと本当に見たんだろうなあ。

★★★☆☆

 

ポール・ローマーと経済成長の謎

デヴィッド・ウォルシュ 訳・小坂恵理 日経BP 2020.1.27
読書日:2021.6.10

経済成長というダイナミックな現象を経済学が理論的に取り入れる過程を通じて、経済学がどういう発想の人達で発展し、その学説の戦いがどんなふうに進行していくのかを垣間見せてくれる本。

原書が書かれたのは2006年らしい。それから14年経って訳本が出たのは、2018年にこの本の主要登場人物のローマーがノーベル賞を取ったからだ。そういうわけで表題にでかでかとポール・ローマーの名前が出ているわけだ。しかし、この本はローマーだけを取り扱った本ではない。

それどころか、なんとアダム・スミスの時代までさかのぼって書かれているのである。というのも、この本の題名の「経済成長」というのは、アダム・スミス国富論でピン工場の分業の話から始まっているのに、ずっと経済学の中にうまく取り込めなかったテーマだからだ。

というか、19世紀の後半になるまで、経済成長自体を経済学者は認めていなかったらしい。そればかりか、経済学は産業革命という社会現象自体もなかなか認めなかったらしい。

19世紀にようやく経済が成長することを認めたが、それは理論にうまく組み込めなかった。20世紀になってようやく、外部変数扱いにして謎のブラックボックスのようにして、取り込んだ。(マーシャルの外部性)

その後も説明のつかない成長の部分を残差として、定量的に掴めるようになったが、それが何を意味しているのか、その後もなかなか納得の行く説明がつかなかった。(ソロー残差

でも、なぜ成長はそんなに経済学にうまく取り込めなかったのだろうか。というわけでアダム・スミスに戻る。

アダム・スミスのピン工場の話はこうだ。

ピンを一人で作っていたのでは100本が限度のところ、数人で分業すれば一万本作れ、非常に生産性が上がるので、安く大量に作れる、という国富論の冒頭の有名な話だ。これは成長(収穫逓増、しゅうかくていぞう)を示している。

アダム・スミスはもう一つ重要な「見えざる手」のことを言っていて、市場に任せていれば、うまく価格と供給を調整してくれるという話だ。

見えざる手の方は完全平衡という発想で理論化された。また供給を増やしても効果がだんだん減っていく「収穫逓減(しゅうかくていげん)」ということもすぐに理解された。この2つを組み合わせると、市場の規模にはある限界の大きさがあり、その限界のなかで効率的に市場は働く、というイメージができあがり、市場は成長しないことになった。そして、成長は忘れ去れたという。

しかしまあ、この本を読んでみると、なかなか成長というテーマは難題だという事がわかる。

経済学というのは経済のモデルを作るのが重要な仕事なのだが、成長をモデル化するということは、そもそも成長がどういうメカニズムで起きるのか、という部分からモデル化できなければいけない。では成長の原因はなんなのか。

それは技術革新だ!っと言ったところで、では技術革新とはなんだろうか、という話になる。

そうすると最終的には、それは知識だ、という話になりそうだ。つまり知識が集積すると、そこに技術革新が起きるのではないか。

ところが、じゃあ、知識とはなにかと考えると、いろんな矛盾にぶつかってしまうのだ。

たとえば、知識はいくら使っても減らないし、コピーもし放題だし、いくら秘密にしようとしてもいつかは出回ってしまうという性質がある。すると、原理的には、どこにいる誰にでも同じ知識が手に入るはずだ、となる。でもそうだとすると、誰にでも手に入る知識でそもそも商品が差別化ができるものだろうか。誰にでも手に入る知識なら、たちまち同じものが出回り、価格は抑えられ、利益は得られないのではないか。利益が得られないのに成長はありえないだろう。

こういった知識について根本から検討してモデルに組み込んだのがローマーということになるらしい。(だからノーベル賞を取ったのだけど)。

具体的には、知識にもうひとつ排他性の軸をつくり、その排他性をうまく制御できると利益をあげられ成長するということらしい。排他性とは単純に公開せずに秘密にすることだったり、特許などの独占的な知的財産のことだ。こういう排他的な知識を創ることをイノベーションという。こうしたイノベーションに企業や国家は投資をする。

いや、こう書くとあまりに当たり前の結論でめまいがしそうだけど、すでに世の中で知られていて実際に行われていることがきちんと経済学のモデルとして組み込まれるまでには、とても長い検討の工程が必要らしい。経済学の発展の過程を追体験できるという意味ではなかなか興味深い本だった。

というか、この本はほとんど話題にならなかったが、びっくりするくらい読み応えがある。経済学というものをいちから見直すという点では出色の本なのではないか。

 実をいうと、わしは経済学があまり好きではなかった。どうもわしの感覚に合わないからだ。たとえば経済学はよく市場が完全平衡状態だと仮定するけど、そんなはずない。たとえば、市場の値段が完全だとする効率的市場仮説とか。そんなわけないでしょ。あとは、市場の上がり下がりはランダムウォークだといいきるとか。これもありえないよね。こういうくだらない仮定で構築した理論が正しいはずがない。もしそうなら、誰も投資で儲けられない。

だが、こういうわしが嫌いな経済学は、どうも新古典派とかいう連中のもののようだ。(つまりシカゴ派ということになる。)

でも経済学もいろいろある。ケインズだけでなく、MMT(現代貨幣理論)や行動経済学もある。こういうのはとても合う。

最近、経済学もだんだんわしがなじめるように変わってきているようだ。

★★★★☆

 

あやうく一生懸命生きるところだった

ハ・ワン 訳・岡崎暢子 ダイヤモンド社 2020.1.15
読書日:2021.5.30

人生に正解などないと主張し、親や世間の期待という荷物をおろして、他人と比べることをやめ、一度立ち止まってゆるく生きることを勧める本。

うーん、と読みながら考え込んでしまった。内容についてではない。だって、たぶん、わしはこんな生き方をしているから(笑)。まったく違和感はない。

会社は辞めてはいないけど、もともとほとんど残業もしないし、追い込まれるような仕事の仕方もしていないし、でも目標はたいてい達成してなんかうまく行ってる、、、と思う。というか、そもそもわしは他人と同じような土俵で勝負をすることを避けて、競争の少ないフィールドを目指す人なのだ。そういうフィールドこそ、自分のペースで生きていける余地があるんじゃない?

まあ、そんなことはどうでもいいや。

気になったのは日本と作者の韓国でどのくらい時代がリンクしているのか、という部分だった。日本でもこういう主張が受けるようになった頃というのは、バブル崩壊してしばらくたった90年代後半ぐらいからではないだろうか。

この本でも具体的に挙げられている、「孤独のグルメ」の連載が始まったのは1994年だ。本格的に人気に火がついたのは、2012年からのドラマの放送からだろうけど、すでにその下地はあったと思う。

SMAPの「世界にたったひとつの花」がヒットしたのは2003年だ。これも自分と他人とを比較することの無意味さを主張する内容だ。

ゆるキャラ」がみうらじゅん氏により登録商標されたのは2004年で、2008年に流行語大賞の候補になった。

そういうわけで、わし的には、日本では2000年前後からこの手の主張が受け入れられてきたような気がする。

韓国の事情はあまり良く知らないが、検索してみると、この本が出版された2018年頃には、「ありのままの自分で生きる」コンテンツがいろいろ普及していたというから、まあ、きっと2015年ぐらいから一般化してきたんじゃないだろうか。

そうすると、日韓では、始まった時期にだいたい10年ぐらいのずれがあるんじゃないかなあ、という気がする。訳者の岡崎暢子さんも、2000年代前半では、韓国の本屋で並んでいたのはモーレツ社員向けの本が多かったと言ってるし。ああ、これは検索したらそんなことを語っているサイトに行き当たったので、本書の中には書いてありません。念のため。なお、訳者の岡崎暢子さんは、この本を読んで自分も会社を辞めたんだそうです。(笑)

まあ、生き急いでいる韓国は、すでに日本を追い越して、先を言っている気もするけどね。特にコンテンツ系はぜんぜん負けてるし。最近は韓国のやりかたが色んな分野で紹介され、参考になることも多くなった。この本もその一例なんだろう。

などと言いながら、少し気になったところをいくつかあげていこう。

(1)個人営業店
韓国の会社員も日本と同じように、会社に不満があると会社をやめて独立することを夢見るんだそうだ。で、この内容というのが、どうもほぼ「個人店営業」、つまり自分の店を出すというところに帰着してしまうんだそうだ。そして、退職後に誰もがフライドチキンの店を出すことになる。

韓国では発想に多様性がないことを著者は嘆いているわけだが、本当かなあ。わしは日本は多様性がありすぎる国だと思ってるんだけど、同じく韓国も十分多様性があるような気がするけどね。違うのかなあ。著者の周りだけなんじゃないの?

(2)存在している理由
著者のハ・ワン、は自分が存在しているのはただ生まれたからで、特に理由がないことにいま気がついたんだそうだ。著者はだいたい40歳ぐらいだそうだ。

よかった。わしがその事に気がついたのは20代だが、こんな簡単なことに気がつくには遅すぎたんじゃないかと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。

(3)こういうコンテンツを参考にしているとは
ハ・ワンは映画や小説をよく読んでいるようだが、引用しているなかには、この本のテーマとしてちょっと首をかしげたくなるようなものも。

ELLEという映画を例にあげているが、監督がポール・バーホーベンですからねえ。この作品は見たことはないけど、ポール・バーホーベンというだけで、ありえない変態映画でしょうから、参考にしてもいいのかしら? 

もうひとつ、映画「酔いどれ詩人になる前に」を引用しているけど、まあ、引用している部分はいいと思うけど、なにしろ、これってブコウスキーが原作でしょ? ブコウスキーってただのセックスと酒のひとで、まあ、確かに自由なのかもしれないけど、普通の人の参考になるのかしら。超疑問。彼はやりすぎだよね、ぜったい。なお、ブコウスキーは本は読んだことあるけど、この映画は見てません。

まあ、こういうのも参考にして何かを感じ取るっていうところが、この著者の独創的なところかもしれませんが。

★★★★☆

 

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