ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

ビリオネア・インド 大富豪が支配する社会の光と影

ジェイムズ・クラブツリー 訳・笠井亮平 白水社 2020.9.10
読書日:2020.5.29

いまのインドの発展段階はアメリカの金ぴか時代(19世紀後半)の段階にあり、経済発展により大富豪が誕生する一方、政治との癒着により腐敗が蔓延しており、インドが次の発展段階に行けるかどうかは、米国で金ぴか時代の次に起きた革新主義時代(20世紀初頭の独占禁止法など腐敗と独占を排除した時代)に移行できるかどうかだと主張する本。

ジェイムズ・クラブツリーはフィナンシャル・タイムズの元記者で、2011年から2016年までインドの支局長をしていた。いまでもフィナンシャル・タイムズに寄稿をしていて、日経新聞で記事を読むことができる。ちょうど本日の朝刊(2021.5.29)でも彼の記事が載っていたので、へー、と思ったところだ。

その彼が、インドで取材をしていて、もっとも気になったのが、今のインドの大富豪ということらしい。彼はムンバイにいたのだが、ムンバイには多くの富豪が住んでおり、特にムケーシュ・アンバニ(リライアンス・インダストリーズ会長)のアンティリアという超高層ビルの邸宅は有名で、ムンバイのあちこちから見えランドマークになっているらしい。表紙に写真が出ているが、片持はりのかなり個性的な形状だ。

もちろん、この一族は大変な権力を持っている。この本はそれを象徴するような2013年の交通事故の話から始まる。

高速道路で高級車のアストンマーチンが前を走っているアウディに追突し大破する。しかしアストンマーチンの運転手は別の車に乗って、消えてしまう。このアストンマーチンは大企業のリライアンス・グループの所有であることがわかるが、次の日、運転していた男と別の男が警察に出頭して、自分が試験運転中に事故を起こしたと主張する。なぜか警察も追突されたアウディの側もそれを認め、アストンマーチンは事故調査のために警察の駐車場に置かれるが、調査はまったく行われず、事故はそのままもみ消されてしまう。実際に運転していたのは大富豪ムケーシュ・アンバニの孫だったらしい。

大富豪になると、こういう事故をもみ消すぐらいいとも簡単だということがよく分かるのだが、もちろん交通事故などは問題にならないくらい、権力との癒着は大きい。

1990年代にグローバル化の波に乗って、インドでも規制緩和と自由化が進んだ。それまでインドでは社会主義的な政策のもと、あらゆることにライセンスが必要で、ほとんど自由な経済活動ができなかった。しかし、90年代以降はなぜかすべてのライセンスが次々に認められ、しかも特定の企業グループだけが規制緩和の情報を入手して、巨大な事業を行うことが可能になった。こうして世界の億万長者のリストにインドの大富豪も名を多く連ねるようになる。彼らはロシアの大富豪の資本家オリガルヒにちなんで、ボリガルヒ(ボンベイのオリガルヒ)と呼ばれるようになる。しかし貧乏人はそのまま捨て置かれたので、インドの経済格差はロシア以上になってしまった。

こうした腐敗に対抗するとして、ヒンドゥーナショナリストナレンドラ・モディが2014年に首相になると、高額紙幣をなくすなどの政策をとって、腐敗を撲滅しようとする。モディはそれなりに腐敗の排除に成功する。

いまは、モディもしくは彼の後継者が腐敗を撲滅し、さらに大富豪の力を削ぐことで、インドが次の時代にいけるかどうかの瀬戸際にあるというのが著者の見立てだ。マレーシアやタイなど東南アジアでは経済発展してもある段階で止まってしまっているという。それに対して東アジアの国々がそれを超えて発展しているのは、国民保険などの社会インフラを整備して、国民全てに経済発展の恩恵を広げたからだという。

こういう話はもちろんいいが、どちらかというと興味深いのは、著者が足で集めたインドの経済と政治のリアルな風景だ。

インドの経済的な地理感覚がまったくなかったのだが、著者によると、南や西では、経済が発展し、北のガンジス川周辺では政治力とは裏腹に経済的には貧乏なんだそうだ。どこが違うのかというと、南の方では政治家が搾取も行うが、再投資も行って、経済のパイを大きくして、全員が豊かになれるように配慮しているのだという。

そういうわけで、南の都市チェンマイなどでは政治的な腐敗も大きいが、民衆はそれなりに満足しており、政治的なボスは愛されているようだ。ここでは縁故政治が凄まじく、選挙時には冷蔵庫やテレビ、携帯電話が大量に選挙民にばらまかれるという。

スポーツの全国組織(インドで熱いスポーツはクリケット)や衛星放送なんかもムンバイが中心のようだ。やっぱり経済は南と西が中心なのだ。

こういう経済地理的な感覚は、へー、と思った。南のほうが豊かなんだ。

負債の話も面白い。インドでは銀行は弱すぎるんだそうだ。

富豪たちは膨大な借金をしているという。なので、なにか経済的な波が不利な方に働くとたちまち破産するのだが、富豪が実質的に破産しても、なんとかつては銀行による取り立ては不可能だったのだという。銀行にそんな力がなかったのだ。そんなわけで、2000年代に銀行が裁判などで勝利を収めて、実際に差し押さえを行うようになると、富豪たちに衝撃が走ったんだそうだ。へー。

それにしても、インドは社会的にこれだけ格差が大きいのに、民主主義が根付いている(と言っていいのか?)珍しい国なので、民主主義の未来にとってもインドは重要だ。ぜひ発展してほしい。

インドと言えば、わしなんかはすぐにスラムが思い浮かぶが、うまく行けばスラムが一掃されて、テーマパークの中にしかない日が来るのかもしれない。まあ、わしが生きているうちは無理な気もするが、とりあえず、インドのスラムを書いた、「いつまでも美しく」でも読んでみるかな。

本書は著者にとって初めての本だそうで、力が入っているせいか、内容に比してページ数が多すぎると思った。半分ぐらいでいいんじゃないの。校正の人もそう思ったのか、後半は気が抜けたようで、後半は誤字や抜けが少し目立ちます。

★★★☆☆

 

江戸のことば絵事典 『訓蒙図彙』の世界

石上阿希 KADOKAWA 2021/3/2
読書日:2021.5.23

江戸時代に出版された日本初の絵入り事典『訓蒙図彙(きんもうずい)』は子供向けだったが、大人も含めてベストセラーになり、絵入り事典というフォーマットを作り出し、類似の事典も多数出版されて、明治までのロングセラーになったことを紹介する本。

訓蒙図彙の作者は京都の儒学者、中村てき斎で、自分の子供ために作ろうと思ったのがきっかけだそうだ。集めた項目数1400だそうで、その全部に絵がついている。江戸時代になって、出版技術が進歩しないと出てこない類の本で、江戸文化の成熟ぶりを示すものと言える。とくに京都では、狭い範囲に儒学者と出版する本屋が集まっていたことが良かったようだ。

著者の石上さんは、訓蒙図彙のデジタルデータベースを構築した人だそうで、この本は半分は訓蒙図彙のなかから抜き出して内容を紹介するものになっており、残り半分は、作者中村てき斎のこと、本が生まれた経緯、図の元ネタ、出版した本屋の細かい検証、その後続いた他の事典への影響、この本から影響を受けた有名人(南方熊楠など)などの話からなっている。

しかし、まあ、わしは江戸文化にはそんなに興味がないので、へーっ、という程度で終わってしまいました。

しかし読んでいたら、子供の頃を思い出した。

わしの家は子供の頃は畑の中にぽつんと建っているようなところで、周りに同年齢の子供が少なすぎた。歯医者に行くにも散髪もスーパーも学校もうちからは遠かった。

そんな環境だから、友達と遊ぶことも少なくて、それでどうなったかというと、土日はすることがなくて暇だった。

家には子供向けの百科事典があった。「あ」から始まる五十音順で10巻ぐらいだったと思う。たぶん子供への教育効果を狙って、親が買ったのだろう。

なにしろすることがなかったので、わしはよくその百科事典を読んでいた。項目別ではなくて、五十音順だったので、いろんなトピックスがランダムに出てくるから、楽しめたのだ。たぶん、少なくとも10回以上は繰り返したんじゃないかな。

こんなことすっかり忘れていたが、この本を読んで思い出した。いまでもいろんな分野の本を興味本位に読んでいるのは、こういう体験があったからかもしれない。文学にあまり興味がわかないのもそのせいかな(笑)。

★★★☆☆

 

世界史は化学でできている 絶対に面白い化学入門

左巻健男 ダイヤモンド社 2021/2/17
読書日:2021.5.19

世界史に化学が果たしたエピソードを述べた本。

これはある意味、とても賢い視点だ。なにしろ人間が火を使ったときから、人間の暮らしや歴史と化学はまったく途切れることなくつながっているから、ある意味どんなふうにも歴史の断片を切り取れる。

しかもこの本では物理も生物もその現象を化学現象として取り扱っているから、もうなんでもありだ。

学問的な内容は、そこそこ読者の好奇心を満足させるレベルでやめて、難しいことは述べていないのだが、その加減が絶妙だ。

そしてもちろん歴史的なエピソードも適度にブレンドしていて、化学のことをよく知っているひとも、この点は知らないことが多いだろうから、とりあえず何ページか読むと、新知識に出会えるようなあんばいになっている。

しかも、最近の本もよく引用していて、作者は知識を油断なくアップデートしていることが分かる。

もちろん個人的な経験をスパイスとして加えることも忘れていない。

調べてみると、この人は一般書を多数書いていて、その辺の加減はこうした経験から得られたものなんだろう。たぶん、同じような知識を、視点を切り替えることで何度も使っているんじゃないだろうか。

知識の二毛作、三毛作を実践しているわけで、しかもその多数の著書のうち、いくつかは本書のようによく売れているようだ。

いや、こういうふうにして、おなじような著作を多数出して、著作権もたくさん持っていて、それは子孫に財産として50年間受け継がれるわけで、たいへん偉いなあと思います。

内容ですが、上記のようなところに感心はしましたが、わしには知っていることが多くて、少々退屈でした。でもまあ、いちおう全部に目を通せられるくらいには楽しめましたよ。

★★★☆☆

家は生態系 あなたは20万種の生き物と暮らしている

ロブ・ダン 訳・今西康子 白揚社 2021.2.28
読書日:2021.5.18

生態学者がひとの家の生物を調べたら、とんでもない量の新種が発見され、人間が生物に囲まれて生活していることを実感する本。

身の回りにどんな生物がいるかという問題は、生態学者の興味をまったく惹かないという。彼らは熱帯雨林などの、遠い世界の生態に憧れて、身の回りの生命に興味がないのだ。著者は、生態学者は遠視なのだという。近いところが見えないという皮肉だ。

最近は技術の発達のおかげで、どんな生物がいるかを、とくに遺伝子レベルで簡単に、詳しく分かるようになった。コロナウイルスで有名になったPCR検査という方法だ。これは遺伝子の数を増幅して解析するので、少量の遺伝子でも解析できる。

そこで、著者はアメリカ中の家庭に協力を、依頼し、家のあちこちを綿棒でこすって送ってもらった。そして綿棒についた遺伝子をPCR検査で調べたところ、名前もついていない未知の細菌の遺伝子がたくさん見つかったという。

しかしこれらの生物は生態学者だけでなく、一般の人の関心も惹かない。なぜならそれらの菌が無害だからだ。人間は自分に悪さをする菌には注目するが、無害な菌にはまるで無頓着なのだという。しかし人間にとって害のある菌は100種類ほどしかなく、残りの何万種という菌の生態はまったく不明のまま放置されている。

面白いのは、ガスの給湯器付近には、高温に耐えられる耐熱性の菌が住み着いていたりするんだそうだ。いったいどこからどんな経路で来たんだろうか?

身の回りで知られない生物の話として、ペットの話も出てくる。著者はある学生に、犬と一緒に生きている生物のリストを作るように指示した。見込みでは数ヶ月でそのリストは完成し、猫やその他のペットのリストも作るはずだったという。ところが、その学生はその研究で学士を取り、博士号をとってもまだ犬のリストは完成せず、就職してからも相変わらずそのリストを作り続けているのだという。いつ完成するのか、見込みは立っていない。

同じペットでも、ネコの寄生虫であるトキソプラズマはちょっと恐怖だ。この寄生虫はマウス経由でネコの腸に達する寄生虫だが、マウスの脳にいるときにはマウスの性格を冒険的に変えて、ネコを怖がらなくするという。そしてネコに食べられるようにする。この寄生虫は人間にもかかるが、どうも人間の性格も大胆になるように変えてしまうようだ。この寄生虫の影響を受けると、冒険的になり冷静さが必要な管理職には向かないので出世はできにくくなり、さらには交通事故に合う確率も高くなるという。

というわけで、このくらい身の回りは未知の生物であふれているわけだ。

このような細菌や真菌(カビのこと)や虫たちのことを話すと、一般の人たちはこれらの生物たちを駆除することを考えるという。しかし、著者の考えは逆で、これらの虫や菌をいったん駆除すると、そこはまったく競争のない社会になり、人間に害のある虫や菌が逆にはびこるということだ。

その具体例としては、チャバネゴキブリが興味深い。チャバネゴキブリは東アジア発祥らしく、ヨーロッパに入ったのは中世の頃らしい。以降、人間はあらゆる駆除剤を用いて、このゴキブリを駆除してこようとした。しかし、駆除剤はゴキブリだけでなく、他の虫たちをも駆除した。ところが、肝心のゴキブリは素早く進化して、駆除剤に対する耐性を身に着け、他の虫がいなくなった楽園で大幅に増えたのだった。

チャバネゴキブリは自然界ではまったく強くなく、いろんな動物や虫たちに食べられるか弱い存在だという。ところが人間が殺虫剤を撒くような屋内では、強烈な強さを発揮するのだそうだ。つまり人間がわざわざゴキブリの繁栄する環境を作ってあげているのだという。

アレルギーでも同じようなことが言える。アレルギー予防では害のない多数の菌に曝露していることが大切なのだという。なので、裏庭を作って、さらにその土壌をいじると菌に触れるのでアレルギーには効果的だという。

単純にいうと、わしらの生活環境にも生物多様性が必要で、そうでないと、わしらの健康は保てないということだ。

そういう意味では、きれいな水の定義も作者は一般の人のイメージとは異なる。普通の意味のきれいな水とは、塩素などで十分殺菌した水のことである。しかし、著者の定義では、生きている細菌がいる水のことである。塩素で殺菌すると、塩素に耐性のある菌が残り、それが大々的に繁殖するということが起きる。

それでシャワーのノズルには塩素に耐性があり、高温にも平気な菌が集まったシート状の「ぬめり」が形成されているという。ヨーロッパでは、帯水層から取り出した水は塩素処理されずにそのまま水道に使われるという。細菌はいるが安全なんだそうだ。

この著者には他にも興味深い本が何冊もあるようだ。チェックしてみようかな。

★★★★☆

 

小説家になって億を稼ごう

松岡圭祐 新潮社 2021.3.17
読書日:2021.5.16

ベストセラー作家が読むに値するストーリーの作り方をおしげもなく伝授し、しかも成功したあとの心得まですべて教える本。

わしとしては、小説をほとんど読まないので、このお方がどなたなのかまったく知らなかったわけであるが(すみません)、このところいくつか成功した作家の話を読んでいるし、なによりも富を得ようというところに心惹かれるので、読んでみた次第。

この人のストーリー作成の手法を読むと、あまりにアメリカの成功した脚本家が書いた「SAVE THE CATの法則」にそっくりなので、びっくりした。もちろん脚本と小説の違いがあるが、かなりの部分似ている。

すると、この方法は、もしかしたらストーリーを創る上で基本的なことなのかもしれない。

ともかく松岡さんの手法を順に述べるとともに、似ているところがどこか示していこう。

物語を創造するとき、キャラクターから入る場合と、ストーリーラインから入る場合があるが、松岡さんはキャラクター派である。まずキャラクターを作り上げ、そこから物語を紡いでいく。キャラクター優先という意味では、漫画原作者の小池和夫と似ているかもしれない。

そのために松岡さんが行っているのが「想造」と呼んでいる過程で、キャラをメイン7人、サブ5人の計12人のキャラを創る。このとき、たとえばネットで自分のイメージに合う人の写真(これは有名人でもいいし、一般の人でもいい、アニメでもいい)を選んで印刷し、壁に貼り、このキャラがどういう人なのかを空想していく。舞台になっている町のイメージがあるのなら、その写真も印刷して貼っておく。

そうしてこれらの人間関係や起こる小さな事件や日常生活などを妄想を開始する。うまく妄想ができないのなら、キャラが合っていない可能性があるので、キャラの写真を変えて、試行錯誤する。

妄想を行っていくと人間関係の問題や事件などが発生するが、そうするとその解決策を妄想する。するとその結果として、また別の問題が発生するから、その問題も解決する。ということを繰り返していくと、どうにも解決ができない問題に行き当たる。

ここが、物語の結末に向かう転換点になる。そして結末として、最後にどうなっていてほしいかだけを考える。解決策はまだ考えない。

ここまで妄想するまでは、なにも書いてはいけないという。書いた時点でその書いたことに思考が限定されてしまうからだ。また、書いていくと修正するのが大変だが、頭の中の妄想だけなら、すぐに変更可能なので、便利だという。

これだけの詳しい妄想を実行することで、作家はまるでキャラクターの行いをすぐそばで見てきたような状態になり、それはノンフィクション作家が対象に直接取材したように、生き生きとした情景を書くことができるという。

ここでようやくパソコンを開いて、ワードに書くのだが、書くのはまず3行にまとめた物語だという。

1行目には設定の話、2行目は問題が行き詰まるまでの話、3行目は結末だ。これを1行40文字以内で書く。これが書けないと、まだストーリーはできていないので、想造からやり直す。

書けるようなら次の段階にすすむ。

設定の部分は10行分、転換点までの話は20行、そして結末までの話は10行取る。全部で40行だ。そして1行40字以内で物語の1シーンを書いていく。妄想がしっかりできていれば、ここを書くのは簡単だという。決められた行数よりも多くなるようなら、複数の行をまとめるなどして短くする。

結末の10行だけは特別な書き方がある。まず最後のシーンの状態になるにはどうなっていなくてはいけないかを反対側から考えるという。1行ずつ、何が起きたらそうなるかを逆に考えていく。そして転換点にうまくつながれば、最大の問題点から無理なく結末につなげることができるという。

この40行の骨格を作り上げるまでは小説を書き始めてはいけない。うまく40行で書けなかったら、また想造を行う必要がある。

ではここで、「SAVE THE CATの法則」と比較してみよう。どのへんが似ているのだろうか。

SAVE THE CATの法則ではまず1行のログラインを創る。そのログラインとは物語を1行で表したもので、それを聞いただけで、面白そうと人に思わせる物語のポイントだ。このログラインで面白そうと思ってもらえないなら、そもそもそれは誰にも読んでもらえないという。

そして、次のように言っている。

ーー物語を1行のログラインで表現できるまでは、書き始めてはいけない。

おお、一緒だ!

まあ、この本では3行と言い、SAVE THE CATの法則では1行だが、要するにポイントがしっかり決まらないうちは書いてはいけないのだ。

その後、キャラクターを決めて、妄想をするところは一緒だが、次に、40枚のカードを用意する。映画はかならず40のシーンで構成される、というのがSAVE THE CATの法則での鉄則で、40枚に収まらなかったら、数枚を1枚にまとめたりして、ブラッシュアップする。

この40のシーンにまとめるというのも一緒だ!

ここでカードを並べながらああでもないと妄想をふくらませるのが、脚本で一番楽しいところだという。いろいろ状況を空想することで、実際に書くときに、書きやすくなるという。

この本では、妄想を十分ふくらませるまでは書いてはいけないという話だが、SAVE THE CATの法則では、脚本家なら妄想は十分に膨らんでいるという前提で、それをうまくまとめるということろに重点があるのだろうから、ほぼ一緒と言ってもいいだろう。

SAVE THE CATの法則は、映画の脚本の話だから、脚本の何枚目にどんな事件起きるということも記載してあるが(1枚1分ぐらいの計算らしい)、しかし小説ではそのような全体の長さは関係ないから、まあ、これは無視してもいいだろう。

そうすると、実質的にこの2つの本は同じことを言っているのではないだろうか。もしかしたら松岡氏もSAVE THE CATの法則を参考にしたのかもしれないと思えるほどの一致さだ。

なるほどねえ。ひとに読んでもらえるお話を創るには、一定の法則があるようだ。

★★★★★

 

断食療法の科学 体質改善の実際

甲田光雄(医学博士) 春秋社 1976.5.30第3版 2001.3.10新装第1版
読書日:2021.5.12

医学的に正しい断食を実行することで、さまざまな体質を改善することができると主張する本。

なにしろ古い本で、こんなに古い本がまだ再版されて人々に読まれているというのは、実に不思議な気がする。図書館で予約がいつも付いている状況なのだ。きっと断食に関して、科学的な本が少ないということだろう。

しかし、書いてある中身は、インスリンという言葉は出てこないが、少し前に読んだ「トロント最高の医師が教える世界最新の太らないカラダ」に出てくることと結構重なる部分がある。

例えば、人間は原始時代は不安定な食生活だったのだから、断食というのが当たり前の状況だった、だから断食しても問題ないし、逆にそのおかげで体の持つ生命力が活性化されて、体調が良くなる、などという主張はそっくりだ。

もしかしたら、この言い草は、断食派の人々の間で、昔から使い古されているテーゼなのかもしれない。

甲田医師は自分の体調がずっと悪かったのだが西洋医学では直すことができず、断食を中心とする西式健康法という民間療法で直すことができたという。それを自分で極めたのが本書の内容で、断食することでいろいろな病気が治せると主張している。

現代では飽食により、次から次へと食料を取るので、消化吸収されなかった食料が宿便として溜まっているという。そこで断食を行うと、胃腸が活性化されて胃腸に溜まっていた宿便が出てくるのだという。こうなると、非常に少ない食料で十分な栄養を取れる状態になるので、野菜食や玄米食の少しの食料で元気に暮らすことが可能になるのだという。

面白いのは、痩せていて太りたいという人にも断食を勧めていることだ。やはり、胃腸が弱っているので、それを活性化するために断食するのだ。するともちろん最初は体重が減るが、やがて宿便が出ると、こんどは少量の食料を取るだけで、逆に体重が増えていくという現象が生じるのだという。

同じように、冷え性を直したい人には冷やすのがいいといい、塩を取らないと不調になる人には塩断ちを勧めて、少ない塩で生きていいけるように身体を改善するのがいいという。まあ、ともかく普通言われていることの反対のことをすればいいという考えのようだ。

陰性体質、陽性体質などという聞いたことのない、たぶん東洋医学の言葉らしい言葉も出てくるし、酸性体質、アルカリ体質という懐かしいような言葉も出てきて、そんなに科学的とは言えないんだろうけど、断食を進める人のロジックは西洋でも日本でもなんかよく似ているなあ、というのは確認できたのではないか。

まあ、それなりに面白かった。爽やかな空腹感、という表現が記憶に残った。空腹ってさわやかなんだ。

さて、わしのダイエットの話だ。

最近、体重は順調に減少して、半年前に80キロ後半だったのが、71キロ台まで落ちてきた。断食関係の本に書いてあるとおり、食べている量を減らしても、別段なんともない。それにお腹もそんなに空かなくなってきた。空腹という感覚から解放されたのは朗報か? もちろん、糖尿病にはいい効果が出てるんだろうけど、でもなんかこんな食生活、つまんない気がするなあ。

まあ、いいか。

★★★★☆

 

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

河野啓 集英社 2020.11.30
読書日:2021.5.9

登山をエンターテイメントビジネスにした栗城史多を身近で見てきた著者による評伝。

何年か前に飛行機の中で「エベレスト3D」という映画を見たことがある。1996年のエベレスト登山における大量遭難事件を扱ったものだが、驚くのはエベレスト登山が完全に観光ビジネス化しており、旅行会社がそれほど練度が高くない客をエベレストに登頂させるという事実だった。登山ルートはノーマルルートと呼ばれる1つだけしかあり得ないから、その1本道を登山客が大混雑で押し合いへし合いして登っていく光景が異常だった。

90年代にすでにこのような状況だったのだから、2000年代にはいるともっとそれが進んだのは想像に難くない。

一方で、登山には植村直己以来、冒険というイメージが付きまとっている。そこには「夢」というキーワードが付いている。

そして、2000代以降には、インターネットという新しいメディアも誕生している。

こうなると、ハードルが低くなった登山でインターネットを使った登山エンターテイメントのビジネス、という発想ができても不思議はない。昔よくTVでタレントを世界に派遣して冒険のようなものをさせるという企画があったが、そのビジネスを個人で登山を用いてできるようになったということだ。

栗城史多はそれほど経験がないのに、マッキンリー登頂に成功して、それから世界7大陸の最高峰のうち6つを制して、残るはアジア最高峰のエベレストのみとなり、2008年から挑戦した。

栗城史多の売りは「無酸素単独登頂」であった。しかし、登山をやっている人からみると、この無酸素(酸素ボンベを使わないこと)というのはお笑い草だったようだ。なぜなら、エベレスト以外の最高峰はせいぜい6000メートル台で、無酸素が当たり前だからだ。

しかし、「無酸素」を売りにしていた結果、エベレストでもそれを実行せざるを得なくなり、それは栗城史多にとって実力を越えたものだったようだ。なんども失敗するが、そうしているうちにエベレストの観光化はさらに進み、サポートも充実して、いろんな人が登れるようになっていった。

例えば、両足義足の人が登頂に成功したり、トレイルランニングの専門家がベースキャンプから身軽な装備で1日で山頂まで駆け上がり降りてくるという離れ業を披露するようになる。

こうなると、栗城の売りは「無酸素」「単独」だけでは足りなくなり、頂上からの生中継などを企画したり、他の人が登らない季節に挑戦したりする。(しかも公表していないが、実際にはベースキャンプでは酸素を吸っていたし、シェルパもたくさん雇って、荷物を運んでもらっていたらしいから、単独でもありえない。)

2012年の失敗では、9本の指に凍傷を負って切断することになるが、この凍傷は下山の言い訳に自分でやった可能性が高い。本人はきっと切断しなくていい軽い凍傷くらいにするつもりが、やりすぎてしまったらしい。

そして最後の2018年のエベレストでは、ありえない危険なルートを選択し、滑落して死亡している。

もちろん、そのくらいやらなくてはもう目立たないということもあったのかもしれないが、このころの追い詰められていた栗城を知る人のなかには、限りなく自殺に近いと考えている人も多いようだ。

栗城史多は、子供の頃からクラスの中心で、こういう子にはよくあるように、お笑いを目指して吉本の学校に入っている。しかしすぐに諦めたらしく、大学に戻って、空手などをしながら登山にも手を出し、素人同然でマッキンリー登頂に成功してしまう。

もしもこのマッキンリー登頂成功がなければ、栗城は別の道を探しただろうに、登山でいけるというふうに思ったらしい。

こうしてみるとクラスの人気者って、世の中に出てからけっこう辛い人生になるんじゃないだろうか。うまく社会に適応できないんじゃないかって気がする。それはたぶん、大学あたりで顕在化すると思うので、そこでうまく方向転換できないと厳しいような気がする。

ただ、発達障害などとかとは違って、本人は自分の好きでやっているだけなのだから、支援のしようはないんですけどね。そういうことを論じた本はなにかないのかしら?

読みながら、この小説を思い出しました。ちょっと似ている気がします。

★★★★☆

 

にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ