デヴィッド・ウォルシュ 訳・小坂恵理 日経BP 2020.1.27
読書日:2021.6.10
経済成長というダイナミックな現象を経済学が理論的に取り入れる過程を通じて、経済学がどういう発想の人達で発展し、その学説の戦いがどんなふうに進行していくのかを垣間見せてくれる本。
原書が書かれたのは2006年らしい。それから14年経って訳本が出たのは、2018年にこの本の主要登場人物のローマーがノーベル賞を取ったからだ。そういうわけで表題にでかでかとポール・ローマーの名前が出ているわけだ。しかし、この本はローマーだけを取り扱った本ではない。
それどころか、なんとアダム・スミスの時代までさかのぼって書かれているのである。というのも、この本の題名の「経済成長」というのは、アダム・スミスの国富論でピン工場の分業の話から始まっているのに、ずっと経済学の中にうまく取り込めなかったテーマだからだ。
というか、19世紀の後半になるまで、経済成長自体を経済学者は認めていなかったらしい。そればかりか、経済学は産業革命という社会現象自体もなかなか認めなかったらしい。
19世紀にようやく経済が成長することを認めたが、それは理論にうまく組み込めなかった。20世紀になってようやく、外部変数扱いにして謎のブラックボックスのようにして、取り込んだ。(マーシャルの外部性)
その後も説明のつかない成長の部分を残差として、定量的に掴めるようになったが、それが何を意味しているのか、その後もなかなか納得の行く説明がつかなかった。(ソロー残差)
でも、なぜ成長はそんなに経済学にうまく取り込めなかったのだろうか。というわけでアダム・スミスに戻る。
アダム・スミスのピン工場の話はこうだ。
ピンを一人で作っていたのでは100本が限度のところ、数人で分業すれば一万本作れ、非常に生産性が上がるので、安く大量に作れる、という国富論の冒頭の有名な話だ。これは成長(収穫逓増、しゅうかくていぞう)を示している。
アダム・スミスはもう一つ重要な「見えざる手」のことを言っていて、市場に任せていれば、うまく価格と供給を調整してくれるという話だ。
見えざる手の方は完全平衡という発想で理論化された。また供給を増やしても効果がだんだん減っていく「収穫逓減(しゅうかくていげん)」ということもすぐに理解された。この2つを組み合わせると、市場の規模にはある限界の大きさがあり、その限界のなかで効率的に市場は働く、というイメージができあがり、市場は成長しないことになった。そして、成長は忘れ去れたという。
しかしまあ、この本を読んでみると、なかなか成長というテーマは難題だという事がわかる。
経済学というのは経済のモデルを作るのが重要な仕事なのだが、成長をモデル化するということは、そもそも成長がどういうメカニズムで起きるのか、という部分からモデル化できなければいけない。では成長の原因はなんなのか。
それは技術革新だ!っと言ったところで、では技術革新とはなんだろうか、という話になる。
そうすると最終的には、それは知識だ、という話になりそうだ。つまり知識が集積すると、そこに技術革新が起きるのではないか。
ところが、じゃあ、知識とはなにかと考えると、いろんな矛盾にぶつかってしまうのだ。
たとえば、知識はいくら使っても減らないし、コピーもし放題だし、いくら秘密にしようとしてもいつかは出回ってしまうという性質がある。すると、原理的には、どこにいる誰にでも同じ知識が手に入るはずだ、となる。でもそうだとすると、誰にでも手に入る知識でそもそも商品が差別化ができるものだろうか。誰にでも手に入る知識なら、たちまち同じものが出回り、価格は抑えられ、利益は得られないのではないか。利益が得られないのに成長はありえないだろう。
こういった知識について根本から検討してモデルに組み込んだのがローマーということになるらしい。(だからノーベル賞を取ったのだけど)。
具体的には、知識にもうひとつ排他性の軸をつくり、その排他性をうまく制御できると利益をあげられ成長するということらしい。排他性とは単純に公開せずに秘密にすることだったり、特許などの独占的な知的財産のことだ。こういう排他的な知識を創ることをイノベーションという。こうしたイノベーションに企業や国家は投資をする。
いや、こう書くとあまりに当たり前の結論でめまいがしそうだけど、すでに世の中で知られていて実際に行われていることがきちんと経済学のモデルとして組み込まれるまでには、とても長い検討の工程が必要らしい。経済学の発展の過程を追体験できるという意味ではなかなか興味深い本だった。
というか、この本はほとんど話題にならなかったが、びっくりするくらい読み応えがある。経済学というものをいちから見直すという点では出色の本なのではないか。
実をいうと、わしは経済学があまり好きではなかった。どうもわしの感覚に合わないからだ。たとえば経済学はよく市場が完全平衡状態だと仮定するけど、そんなはずない。たとえば、市場の値段が完全だとする効率的市場仮説とか。そんなわけないでしょ。あとは、市場の上がり下がりはランダムウォークだといいきるとか。これもありえないよね。こういうくだらない仮定で構築した理論が正しいはずがない。もしそうなら、誰も投資で儲けられない。
だが、こういうわしが嫌いな経済学は、どうも新古典派とかいう連中のもののようだ。(つまりシカゴ派ということになる。)
でも経済学もいろいろある。ケインズだけでなく、MMT(現代貨幣理論)や行動経済学もある。こういうのはとても合う。
最近、経済学もだんだんわしがなじめるように変わってきているようだ。
★★★★☆