ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

日本経済学新論  渋沢栄一から下村治まで

中野剛志 ちくま新書 2020.5.10
読書日:2021.9.16

ナショナリストの中野剛志が、日本の経済を引っ張った偉人たちは合理的な学問としての経済学ではなく、プラグマティズムと国の発展を考慮した経済ナショナリズムを展開したと主張し、それはいまの最先端の経済学を先取りしていると主張、現代の新古典主義的な経済政策を批判する本。

この本を読んでいると、中野剛志は本当にナショナリストなんだなあ、と思う。ナショナリストとはなにかというと、わしの理解では自分の国の発展を第1に考えるような人のことだ。

わしは日本は好きだし、日本以外で暮らすことは全く考えられないが、日本を第1に考えているかというとどうも違うという気がする。わしの関心は、人類とか文明とか、まあ、国単位よりももうちょっと広いんじゃないかという気がする。

とはいうものの、資本主義、民主主義、国民国家の三位一体を考えると気持ちは複雑だ。というのは、ふつうこの3つは同じ領域、国土の中でないと成り立たないと言われているからだ。そうすると、やはりナショナリストの発想を取り入れなければならないのか。そのへんがちょっと残念な気がする。

さて、中野剛志がこの本で取り上げているのは、渋沢栄一高橋是清岸信介、下村治の4人だ。

で、そのなかで、半分くらいを渋沢栄一に当てている。ここで中野剛志が証明しようとしているのは、渋沢栄一の「論語と算盤」という発想が、西洋の合理的な経済学ではなくもっとプラグマティズムなものであり、そしてそれが水戸学の朱子学に対する批判から来ていることだ。そしてもちろん渋沢栄一ナショナリストでなければならない。

ここで論語がどんなふうに発展してきたかを見てみると、孔子のもともとの発想では、一般市民を無視するものではなく、逆に国をよく治めるために、国民を富ませることを重視していたという。そして、国民にも論語を学ぶことを期待していたという。

ところが後年、それが朱子学に発展すると、論語は合理主義的に体系化されて、しかもそれは為政者のみが学べばいいものになったという。そして為政者は国を富ませるとかビジネスの発想はなく、武士は食わねどなんとかみたいな発想なのだという。

水戸で発達した水戸学はそういう朱子学を批判しており、渋沢栄一が学んだ論語はそのような水戸学の系譜だったので、渋沢栄一論語を実際の経済運営に活かすことができたのだという。つまり、渋沢栄一が学んだ論語は民衆を大切にする論語なのだ。

ところで水戸藩は強力な尊皇攘夷のお国柄であり、渋沢栄一自身も若いときには尊皇攘夷の志士だった。この過激な尊皇攘夷運動と現実的な経済政策が合っていないように思えるが、中野剛志はそうではないという。尊皇攘夷というのは、海外の脅威を逆手に取って国をまとめるナショナリズムの発想で、ペリーの来訪やアヘン戦争の前からあらかじめ用意されていたものだという。

そして渋沢は、国を富ませるためには豊かな中間層が必要だと考え、日本の資本主義の発展に邁進したというのである。

そういうわけで、中野剛志の主張は、渋沢栄一の学んだ論語のなかに、国民国家ナショナリズム)、資本主義(富国強兵のための産業を興すことと中間層の充実)、民主主義(エリート為政者の否定)の3点セットがすでに用意されている、という主張なのだ。

うーん、ちょっと都合よくまとめられすぎている、という気もするが、まあ、間違ってはいないようにも思える。

なので、渋沢栄一にかけていたものは、通貨に対する認識だけなのだという。渋沢自身は素朴な商品貨幣論(貨幣は商品の一部が普遍性を持って一般化したものという説)を信じていたようだ。

それが次の世代の高橋是清になると、一部旧来の考え方を引きずっているが、ケインズを先取りするような貨幣感を持つようになる。その結果、貨幣を増やしてもインフレは起こらず、需要が起きて初めてインフレが起きるとの認識にいたり、高橋是清国債発行による財政出動を行い、日本は世界に先駆けて世界恐慌から脱することができたのだという。

高橋是清に流れていたのも、合理主義ではなく、現実的なプラグマティズムであり、経済ナショナリズムなのだと中野は主張する。

次の世代の岸信介になると、自由な競争は国力全体が増進するような範囲内で行うべきだとして統制経済に進んでいくが、これも日本の現実を考えたプラグマティズムの考え方なのだという。中野に言えば、自由経済の理想は、英国がもともと保護主義的だったのに、自分の方が有利になるととなえたご都合主義的なものに過ぎないという。

そして、最後の下村脩になると、ケインズが見逃していた成長の理論(いわゆる乗数効果のこと)を発見し、欧米の経済理論を越えていたという。。そして、下村も現実に即して柔軟な発想をするプラグマティストであったという。

(なお欧米の主流の経済学が成長という現象を取り込むことに苦労した経緯については、この本に詳しい)。

バブルが弾けた90年代以降、新古典主義の理論を展開する人たちが、日本を改造すると言って、自由主義やまちがった貨幣論を展開して、日本の経済をむちゃくちゃにしたことに中野は憤っており、いまこそ日本の伝統的なプラグマティズムと経済ナショナリズムに即した経済学者、政治家が必要としているし、こういう伝統はきっと復活するという。

日本が復活するのはいいが、わしは国民国家、資本主義、民主主義の3点セットをグローバル社会とどう折り合いをつけていくのか、そのへんの加減が難しいと思うので、ぜひとも次の世代の経済学者、政治家にはプラグマティズムを発揮して腕を奮ってもらいたいなあと思う次第です。

人物的には、わしは岸信介に興味をもったので、そのうち彼の評伝をよんでみたいな。

★★★★☆

 

つりばしゆらゆら

もりやまみやこ つちだよしはる あかね書房 1986.3
読書日:2021.9.9

(ネタバレあり 注意)

つりばしのむこうにきつねの女の子がいると聞いて、女の子に会いたくて苦手なつりばしを渡ろうとがんばるきつねの男の子の絵本。

一時期、児童文学ばかり読んでいたことがあって、いまでも児童文学や絵本を読むことがある。なんといっても児童文学は心の奥に迫るシュールなところが魅力だ。普通の純文学よりよほどシュールだと思うんだが、いかがだろう。いっぽうの絵本はよほど気にならないと読まない。

この絵本のことは日経新聞のコラムに載っていたので知った。コラムのひとは、子供にこの本を読み聞かせて、自分が感動して、その感動を分かち合うために絵本を読む会みたいなのを創ったのだそうだ。

うーん。この本を読んで感動したのか。

まあ、わからないわけではない。とくに結末のところは理解できる。きつねの子は、苦手なつり橋を少しずつ遠くまでいけるように努力して、なんとか半分まで渡ったところで、持ってきたお花をそこにおいて、ハーモニカを吹いて、女の子と遊んだ気になって(女の子はいない)、「またいつかあそぼ」と言って帰ってしまう。

半分まで行ったのなら、いっきに渡っちゃえよ、と思うけれど、一線を越える前の躊躇する姿がいじましい、というところか。ここで終わったのは、実に戦略的でよろしい。これできつねの子がどうなったか気になるから、続編も作れる。とは思うが、別にわしはなんとも思わなかったな。すんません。

絵本でいつも驚くのは、その息の長さだ。この本も1986年に初版が出て、わしが読んだのは2012年12月の96版だ。いったん定番に入ることができれば、末永く売れ続けることができるのだ。

こういうロングセラーをすべての企業、クリエイター、作家たちは待ち望んでいる。特に本だったら、死後50年間、著作権が続いて、子々孫々に利益を与えることができるのだ。

とても素晴らしいと思う。なにより相続税がかからないところが(笑)。

 

話は変わる。

ここで突然だが、わしの人生に大きな影響を与えた絵本に関する小ネタを書く。わしはそのとき生まれて初めて本から影響を受けたのだ。

その作品の題名はきっと「ありのマック」なんじゃないかと思う。幼児向けの絵本雑誌に載っていたもので、その一度きりの掲載のまま世の中から消えてしまった。ゆえに正確な題名も作者もわからない。内容も実は大したことはないので、消えてしまっても仕方がないしろものだ。

その絵本の出だしはこうだった。

『ありのマックはかんがえた。こんなくらいあなのなかはいやだなあ。』

話の展開はありきたりだ。

暗い穴の中の生活にうんざりして、しかも自分が見つけた食料をみんなで分けるのはフェアじゃないと考えたマックは、巣からひとり脱走する。はじめは気ままな一人暮らしを満喫していたが、たぶん危険な目にあったか、食料がなくなったかで危機に陥り、そこをかつての仲間に助けられたマックは改心して、仲間のいる巣に戻るという内容だった。

こう言ってはなんだが、まったく心に突き刺さらないお話である。さらにわしはこの話の結末は好きではなかった。というか実はわしには話の内容はどうでもよかった。わしが衝撃を受けののは、でだしのこの言葉だ。

『ありのマックはかんがえた。』

たぶん、このときはじめて、考える、という言葉を聞いたのだろう。そしてその意味を理解したわしは思った。

 ーーありのマックは考えたんだ。なんてすごいんだ。

そう当時のわしは思ったのだ。

母親によると、わしはこの本を何度もせがんで、本を読んでもらうと、ひとり静かに座っていたという。なにしてるの、と聞くと、「考えてるの」と答えたという。もちろん母親は笑って放っておいてくれた。

以来、わしは考え続けている…というわけではもちろんないが、ここから分かるのは、どうでもいいようなくだらない絵本でも子供にものすごく影響を与えることがあるということだ。

この本のせいか、少なくともわしは自分で考えることをくだらないとか、自分よりももっと頭のいい人のいうことを聞いていればいいとか、そういうふうに思ったことはこれまでない。

だって、そうでしょ? ありのマックだって考えたんだから。

★★★☆☆

 

 

なぜ生物は生きようとするのか 新基礎情報論を読んで考えたこと

すまん。内容は題名とは異なっている。わしがこれから話すのは、別に生物は生きようとしているわけではない、という話なのだ。

新基礎情報論で著者の西垣は「意味」とは何かについて述べ、結局それは、「生物にとっての価値/重要性」なのだという。

そうすると、生物なのだから、きっと生きていくこと、生き続けていくことに価値があるだろう、ということになる。そこに価値があり、そこから意味が生まれるのだろう。それは間違いない。

ただ、だからといって、生物は生きようとしている、つまり生きようという意思を持っているかというと、そうではないという気がするのだ。

これはわしらが普段見ていることに反しているように思える。動物だろうが植物だろうが、多細胞生物だろうが単細胞生物だろうが、もしかしたらウイルスすらも必死に生きているように見える。だいいち死の危機に直面した生物は、たいてい生き延びようとジタバタするではないか。

これは生物のどこか根源に、たとえば遺伝子のなかに、生きようという強力な因子があり、生命力とでもいうものを生み出しているのではないか、という気にさせる。

もしかしたら、そうなのかもしれない。いつの日かそういうものが見つかるのかもしれない。あったとしても矛盾はない。

だが、そういう因子が特になくても、やはり矛盾はないのだ。

どういうことか。

ダーウィンの進化論によれば、ある生物が生き延びるのはその生物が生きようとしたからではない。その状況に適応していたからだ。意思はあってもいいが、なくても問題ない。意思があろうとなかろうと、たまたまその環境に適応していれば生き延びるのだ。

そうすると、これは生きようとするゲームではない。なるべく死なないようにする、というゲームなのだ。生きようとするのと死なないようにするというのでは、積極性の観点から微妙にニュアンスが異なる。

死にやすい生物と死ににくい生物がいれば、死にやすい生物は本当に死んでしまっていなくなり、死ににくい生物が残る。生物たちはますます死ににくくなるだろう。そして死ににくいシステムを発達させる。こうしたシステムの中には、死にそうになったらジタバタするというシステムも含まれているかもしれない。もしそのほうが死ににくいのなら。

あなたが死の危機に直面するとする。たとえば、車に轢かれそうになる。すると危機を回避するためのシステムが発動する。まず脳は色の処理を省略する。色の処理は時間がかかるからだ。あなたは白黒の世界に生きることになるが、そのかわり画像を処理する時間が短くなり、脳内映像のフレームレートが上がる。これまで1秒に20枚程度の映像しか処理できなかったが、60枚とか100枚とか、そんな数になる。きっと時間がゆっくりと流れているように感じるだろう。アドレナリンがあふれて、心臓の鼓動も早くなる。こうして危機を回避しやすくする。

まあ、こういう瞬間的な危機もあれば、気候が変わって食料が減っていくというような長期の危機もあるだろう。そのために、移動するとか、消費カロリーを少なくするとか、新しい食料を開拓するとかの適応がありえるだろう。

こうした危機回避のためのシステムは、ないよりもあったほうが死ににくいだろう。死なないようにジタバタするシステムは細菌、プランクトンのレベルから人間のような大型の動物にもあるし、それに動物だけではなく植物にもある。すべての生物はなるべく死なないようにしようというシステムを持っている。その様子を観察すれば、あたかもすべての生物は生きようという意思に満ち溢れているように見えるだろう。

同じように、生物が周囲の情報処理をするとき、死なないことに役立つ情報処理が行われるだろう。それが、「意味」ということになる。生きようという意思があろうがなかろうが、その情報に意味があるのなら、それを活用した生物が生き残るだろう。

つまりこういうことだ。

いったん生物というシステムが確立したら、つまり代謝して遺伝子を(ときには改変して)次世代に伝える進化というシステムが確立したら、進化論のルールが働いて、生物はまるで生きようとしているように見えるように進化する、ということだ。

生物の根源に生きようする生命力の因子はあってもなくても同じ結果を生むことを考えると、きっと存在しないんだろうなという気がする。なるべく死なないようにする無数のシステムがその代わりなのだ。

こんなことを考えていると、じゃあ、わしらが生きていることになにか意味はあるのか、という気がしてくる。

わしは生きていることに特に意味はないと思う。わしらはただ生きているのだ。意味はない。ちょっと残念な気もしないではないが、とりあえずはそれで十分だろう。

 

新基礎情報学 機械を越える生命

西垣通 NTT出版 2021.6.21
読書日 2021.9.7

生命と機械は別の情報システムであり、コンピュータから人間を越えるスーパーインテリジェンスが誕生する可能性はなく、生命を中心とする新しい情報学が必要と主張する本。

2010年代に入ってからシンギュラリティという言葉が氾濫し、AIが人間を越えるということが言われている。しかし、西垣は生命とコンピュータでは情報システムがそもそも異なるために、いまのコンピュータを使ったシステムでは、その可能性はないという。

西垣によれば、情報システムには「コンピューティング・パラダイム」と「サイバネティック・パラダイム」の2つがあり、コンピュータは前者であり生命は後者であるという。したがって前者のシステムがいくら発達しても後者にはならないので、そもそも越えるとか越えないとかの考え方自体がおかしいということになる。

では両者のシステムでは何が異なるのであろうか。

コンピューティング・パラダイムはシャノンの情報理論で取り扱われているような情報に限定されているものだ。シャノンの情報理論は情報をいかに効率的に誤りなく伝送するかということを検討するが、その中身は問わない。つまり量だけが問題なのであって、その「意味」を問わないのである。

致命的なのは、このシステムでは、自己言及の命題に対応することができないことだ。自己言及の命題とはたとえば「わたしは嘘つきです」というような言明のことで、イエスといってもノーといっても矛盾するので、どちらとも判断できない命題のことだ。これは数学的にはゲーデル不完全性定理、プログラム的にはチューリングの停止問題(あるプログラムが停止するかどうかを判断することはできない、という問題。自己言及の判断がプログラムに含まれていると、正誤のどちらの結果になるかわからないので、判断不能になってしまう)として知られる。

しかし、いまAIは大流行である。では、いまのコンピューティング・パラダイムで流行っているAIとはどういうものなのだろうか。これは大量のデータを統計的に処理することで、たぶんこれが一番確からしいだろうと判断しているだけで、何か意味を捉えて判断しているわけではないのである。つまり大量のデータに支えられた疑似知性なわけだ。

コンピュータはデータを処理するが内容の意味を理解しているわけではないということはこれまでさんざん言われてきたことだが、西洋でコンピュータの知性が現れるという幻想が何度も現れるのは、西洋の一神教の考え方が根本にあると西垣はいう。つまり人間を超えた存在「トランス・ヒューマニズム(超人間主義)」への信仰なのだという。

では、生命の知性に対応する「サイバネティック・パラダイム」とはどういう情報システムなのだろうか。

生命の知性のあり方は、主体的に周囲を観測して自律的に知の構成を変更するような知性だという。つまり、神の座から見ているような客観的な状態を仮定するのではなく、自分で観察可能な範囲を観測した結果で世界のルールを自分で構築するような主観的な知性だ。これはカントやフッサールの哲学に対応する考え方だという。

面白いのは、この知の主体が作る知識体系が独善的なものにならないように、主体的な観察者を観察するもう一つの主体を仮定していることだ。これを「2次サイバネティクス」というんだそうだ。たしかに自分を振り返ってみても、自分を観察している自分がいることは明らかなように思える。(これが意識?)。コンピューティング・パラダイムでは自己言及の矛盾を解決できないのに対して、サイバネティック・パラダイムではシステム自体が自己言及的な構造を持っているのである。

こういうことをまとめて、マトゥラーナ、ヴァレラが「オートポイエーシス(自分で自分を創る)理論」を1980年に発表して、大きな影響を与えているという。

しかし、オートポイエーシス理論の指し示すのは孤立した知性の主体(APSとこの本では呼ばれている)なのであり、孤立した主体同士がどうやってコミュニケーションをとっているかという問題が起こる。コミュニケーションをとらないと情報論とは言えない。ところがそもそも閉鎖的なAPSがお互いにコミュニケーションを取ることが自己矛盾になってしまう。それを解決したルーマンの機能的社会文化理論が紹介されているが、これは意味を作り、送られた情報を解釈する主体をカッコに入れて見えないようにして一見もっともらしくしているような理論なんだそうだ。

これは不完全な理論なので、西垣は「HACS(階層的自律コミュニケーションシステム)」というのを提唱している。そこでは個々のAPSは自律していながら、ある階層では他律のシステムのように見える、そんなシステムなんだそうだ。他律的に振る舞う階層ではコミュニケーションが可能になる。これは、たとえば会社員が会社では役割にしたがって、他律的に行動することに対応しているという。

まあ、こういう議論はそれなりに興味深いし、最近流行りのマルクス・ガブリエルの新実存主義との比較も興味深いけれど、やはり読んでいると隔靴掻痒の印象が免れない。

だって、サイバネティック・パラダイムの知性の特徴は分かったけれど、それってこのままじゃ実装できないじゃんってことになる。つまり人工的にこの知性を作り出せない。そもそもこの知性の主体がどうやって観察結果から意味を作り出しているかという肝心なところがさっぱりわからないんだから、できなくて当然なんだけど。

生物が意味をどうやって得るのかという点は、多くの研究者の努力でも、いまだに謎なのであって、それがわかればとっくにやっているよ、という状態なのだ。

では「意味」とはなんだろうか。西垣によれば、結局それは、「生物にとっての価値/重要性」なのだそうだ。それはまあ、理解できる。しかしまだ根本的な問題が残っているんじゃないだろうか。

つまり、こういう問題だ。

そもそも生物はなぜ生きようとするのだろうか?

(メモ1)
この本は、実はユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」への反応として書かれているのだが、レビューはわしの興味に従って書いた。そこでこの部分をメモに残しておく。

「ホモ・デウス」では人間は神の領域に迫るが、人間至上主義からデータ至上主義と言われるような世界になり、AIが自分で情報を作り出せるようになると人間は存在意義を失って滅亡するかもしれないという未来が描かれる。

しかし、現在のコンピューティング・パラダイムのもとではそのような新しい情報を作り出すような知性はできないのだから、人間がいなくても成り立つ自律的なAIは生まれないだろう。

しかし、人間はAIにはできない意味解釈を行うエンジンとして存在する可能性がある。ここでは人間は尊厳を失い、単なる機械の部品として存在するだけなのだ。

つまりハラリの想定するルートではないが、やはりデータ至上主義のようなディストピア的な未来が実現してしまう可能性があるわけだ。

AIはあくまでも人間の思考の補助であるという制度的な議論が必要だ、と西垣はいうのだが。

(メモ2)
西垣さんは、あらゆる分野に目配りして、それを端的にまとめ上げる力がすごい。マルクス・ガブリエルの新実存主義のまとめ方も素晴らしい。新実存主義の問題点について西垣さんはどういっているのだろうか。

西垣さんは新実在論は科学的知見と人文社会的な知見をあまりに峻別しすぎるという。両者はそんなに明確に区別できないというのだ。

マルクス・ガブリエルは、客観的な科学的知識と人間の幻想などのようなイメージも意味の場として存在すると言っている。それは正しいが、そうするとその両者を区別する境界が必要になる。しかし、それは難しい。科学的な言明なら確認できるから、客観的な知識と言えるというが、実際にはそのように簡単にいかない。一見すると科学的な言明も不明確な主観に依存することが少なくなく、知識とイメージの境界は揺らいでいるという。

(だから自分の情報基礎論が必要、と続く(笑))。

★★★★☆

 

世界のリアルは「数字」でつかめ!

バーツラフ・シュミル 訳・栗木さつき、熊谷千寿 NHK出版 2021.3.25
読書日:2021.8.30

夢のような未来ではなく、リアルな今を数字で感じとることが大切と主張する本。

シュミルはエネルギー関係が専門らしいが、徹底的なリアリストらしい。ここには、AIも永遠の命も夢のエネルギーも出てこない。その代わり、今の世界の実情、あるいは今の世界を支えている本当の技術について、71のエピソードでこんこんと説いているのだ。

で、シュミルによると、今の世界を支えている技術は、1880〜1900年の間に生まれたらしい。19世紀の終わりに発見された技術が、今も世界を支えているというのだ。

たとえば、水力発電や火力発電の発電は1882年に始まった。当たり前だが、電気がなければいまのインターネットも存在しない。ガソリンエンジンもこの時代にでき、これがなければ自動車は生まれなかった。電磁波(電波)の発見もこの時代だった。鉄骨のビルもエレベーターもこの時代だし、自転車もある。世界最高の効率をほこる技術、ガスタービンもこの時代にできたのだそうだ。というわけで、1880年代こそ、イノベーションの時代だったのだという。

それに比べて、いま流行りの技術に対してはかなり手厳しい。環境に優しいグリーンエネルギーは、風力発電はあの大きなプロペラを作るのにも莫大なエネルギーが必要で、太陽光発電に関してはまだまだ水力発電にも追いついていないし、電気自動車は化石燃料で発電した電気を使っているし、しかも船や飛行機を電気で動かすめどは立っていない。グリーン発電しても、それを蓄積するたくさんのバッテリーが必要になるが、エネルギーを蓄積する技術ではいまだに1890年代に実用化された揚水発電にまったく太刀打ちができない。そういうわけで、エネルギーの転換には、世間で考えられているよりもはるかに長い時間がかかるという。

こういうグリーンエネルギーに夢中になるよりも、安上がりに確実に環境に貢献できることがたくさんあるという。たとえば住宅の断熱構造だ。窓を3層ガラスにして、壁を断熱材にすると、これだけで大幅にエネルギー消費を効率化できるという。そして、おおきな家ではなくて必要なだけの小さな家に住めば、もっといい。夢の技術ではなく、シンプルで確実な方法を使ったほうがよほどいいという。(この辺は、もっとも確実な資産形成は「節約」だ、というのとよく似ている気がする)。

これにはわしも大賛成だ。第一、わしは本当にアルミサッシにはうんざりしている。アルミサッシのおかげで冬にどれだけ寒い思いをしているのか分かっているのか>日本の建築業界。しかもわしのいるマンションの規約では、窓は替えることができないらしい。なんということでしょう。わしは冬、あの窓際に漂う冷気が嫌いだ。

世界の食料に関しては、1909年の空中窒素を固定するハーバー・ボッシュ法の貢献にまさるものはないという。これにより窒素肥料ができたからだ。この方法がなければ世界の人口は30億人程度で頭打ちになっただろうという。

大量に生産されるようになった食料は、いまではフードロスのほうが深刻だ。アメリカで廃棄されるフードロスは40%にもなるので、大豆からフェイクミートを作ってさらに食料を増やすよりも、フードロスを減らしたほうがはるかに効率的だという。肉の生産も、鶏肉、豚肉、牛肉の割合を50%、40%、10%と変えるだけで世界中の人に1年間45キログラムを提供できるという。(日本人の1年の消費量と同じくらい)。つまり、新技術はそれほど必要ないのだ。

また、技術の発展するスピードに関して、ムーアの法則(2年で2倍)のように加速度的に発展することを現代人は期待しているが、半導体以外にムーアの法則を期待するのは無理があるという。ほとんどの技術は1年に1〜2%とか、そのくらいのゆっくりしたスピードで発展していくという。しかし人々は半導体並みのスピードを期待して、未来を過大に見積もってしまうのだという。

こういうリアルなものの見方というのは、すぐに夢のような未来技術に夢中になってしまうわしのような人間にはかなり目からウロコだ。シュミルにとっては、AIすらまだお笑い草らしい。最近はやりの人新世(人間が地質学的な影響を与えているという説)についても、人類があと1万年ぐらい続いたら考えてもいい、ぐらいの感覚なのだ。

ちょっと不満なのは、バイオテクノロジーについてほとんど語っていないことだ。バイオテクノロジーについては、ワクチンの費用対効果の高さを褒めているが、これも19世紀の技術だ。もしかしたら、シュミルの目には、バイオテクノロジーはそれほど人の生活を変えるほどの効果はまだ見せていないということなのだろうか。

それにしても今ある技術だけでも世界をもっとよくできるという、このシンプルな発想は見習うべきものがある。

★★★★☆

 

ターシャの庭

 

ターシャ・テューダー 写真:リチャード・W・ブラウン 訳:食野雅子 メディアファクトリー 2005.6.3
読書日:2021.8.28

絵本作家ターシャ・テューダーバーモント州の山奥に作っている庭の写真集。日本オリジナルの本。

ターシャ・テューダーってどんな本を書いた人か知らないけど、有名な絵本作家なんだそうだ。しかし絵本作家は食べていくためで、本人は自分の庭の世話をし続けるのが一生の生きがいらしい。それで住んでいたニューハンプシャー州からさらに田舎のバーモント州の山奥に56歳に引っ越しをして、ずっとそこで庭の世話をして暮らしている。もちろん庭と言ってもとても広く30万坪もあるのだ。中には池もあるし、ヤギや鶏を飼っているし、犬や猫ももちろんいる。

写真集なので、その庭の全貌が次々に紹介されるわけだが、わしは何よりも、りんごの木(クラブアップル)や西洋ナシやブルーベリー、いちご、モモなどの木がのびのびと自由に伸びている様子に感嘆した。こういう風景いいなあ、と思う。なぜなら、わしが子供の頃に暮らした実家は、いちじくやすもも、ぐみ、びわなどが自由に育っていて、よく手でもいで食べていたから。最初は周りになにもないところだったのに、残念ながら、いつの間にか周りが住宅だらけになってしまって、それらの木は切らざるを得なくなった。それでいまでもこんなふうに自由に伸びて実をつける果物に憧れるのだ。

とはいうものの、残念ながら、わしは都会の生活を離れられないと思う。ターシャのように暮らすことはとてもできない。農業にもあまり興味がないし。きっとわしは、株式市場が与えてくれる小さなお金を掠め取りながらほそぼそと都会の片隅で生きていくのだろう。

「ポツンと一軒家」というテレビ番組があるが、それを時々見ることがある。そこに出てくる人はよく、自分で決めたことをたんねんにこつこつと続けて時を過ごしている。なにか迷いがないというか、自分にしかできないことをやっているような気がする。そういう人生はすこし羨ましい気がする。

ターシャは2008年に亡くなった。彼女が世話をした動物たち植物たちはどうなったんだろうか。

(なお、彼女の遺産は美術品だけでも200万ドルだったそうで、遺族の間で訴訟沙汰になったそうだ。やれやれ。)

★★★★☆

 

混迷の国ベネズエラ潜入記

北澤豊雄 産業編集センター 2021.3.22
読書日:2021.8.28

無能な左派政権により国家が破綻寸前と言われるベネズエラに潜入して、国民の生活は意外に普通であることを報告した本。

昔(19世紀ぐらいまで?)の冒険者というのは、未知の土地にでかけて、そこにいる住民や動物、鉱物などについて報告する人のことだった。現代の冒険者とは、戦争、犯罪、テロ、難民、経済崩壊した国など、普通のジャーナリストも危険なのでなかなか行けないところに行って実情を報告する人ということになってしまったのかもしれない。

経済崩壊した国家として知られている国にベネズエラがある。ベネズエラは、まるでアイン・ランドが小説「肩をすくめるアトラス」で書いたことが実際に起った、と言われる国だ。

左派政権が自由経済を無視して、貧困層に極端な分配政策をとったため、国家財政が破綻し、猛烈なインフレと産業の衰退が起きているといわれている。原油の埋蔵量は世界有数なのに、設備のメンテナンスをしていないため産油量が激減、石油を輸入しているという笑えない話もある。

国民が大量に国外に逃げ出していて、彼らの言葉からは絶望的な雰囲気が漂ってくる。そのイメージはこんな感じだ。経済はストップしてビジネスは不可能になり、失業者や貧困層があふれ、餓死者が発生し、麻薬組織とテロが渦巻く犯罪国家になっている、、、そんなイメージだ。

北澤氏はそんなベネズエラへ行き、実際にどうなっているのか見てみようと思った人である。実に奇特な人である。

なにしろ危険と言われているので、協力者の確保が欠かせない。北澤氏は隣国のコロンビアに滞在していたことがあり、その人脈を使ってベネズエラに協力者を得ようとしたが、なかなかうまく行かない。コロンビアにはベネズエラから逃げてきた人が多数いるので、なんとかなりそうなものだが、どうも外国人と関係しているだけで危険と思われるらしいので、なかなか難しいのだ。

このコロンビアでは日本食レストランの社長(日本人)と懇意にしていて、彼はいろいろやってくれるのだが、思いつきでなんともいい加減なプランをでっち上げるような人物で、危険なところにわざわざ行くべきだと行って送り出して、無事に帰ってくると驚くような人だ。もっとも北澤氏も準備不足というかいい加減なところがあるので、まあ、お互い様なのかもしれない。

結局、現実的なプランを出してくれる人がいて、何回かベネズエラに滞在することができた。しかし、その目で見てきたベネズエラは、なんともこちらの期待を裏切るものなのだ。

確かに犯罪はたくさんあるし、役人は腐敗していたりするが、中の人の生活は意外に普通なのである。スーパーには商品が大量に並んでいるし、レストランもやってるし、サッカーリーグも行われているし、地下鉄も走っているし、高速道路には車も走っていて渋滞している。

驚くのは、ハイパーインフレーションのおかげで紙のお金は重すぎて事実上持ち歩けないので、カード決済、あるいはスマホ決済が発達していることだ。銀行の口座からその場で引き落とすデビッドカードの方式だが、誰もがこの方法で支払っている。確かにこれならハイパーインフレーションでお金を持ち運ぶという苦労はない。IT技術はハイパーインフレーションの困難を克服するのだ。

社会の中では富裕層と貧困層の生活は以前とあまり変わっていないようだ。富裕層は海外に資産があるのだろうか、そんなに変わっていなくて普通にスーパーで買い物をして、レストランで食事をしているようだ。いっぽう貧困層も昔から貧困なので、あまり生活に変わりはないらしい。

悲惨なのは中間層で、つまり給与で生活している人だ。インフレが激しくて、日本円に換算して数万円あった給与が数百円のレベルに下がってしまった。さすがにこの収入では暮らしていけないので、副業をやったりしているが、追いつかない。

こういう人が国を脱出して、国外で働いて家族に送金すると、それだけでその家族はけっこうましな生活ができたりする。

一方で、役人も給与生活者だから、困窮していくが、当然ながら人々から金を絞りとろうとする。犯罪者よりも警察やなんらかの認可権をもっている役人のほうがたちが悪いという。

驚くのはインフラは徐々に劣化しているものの、いまだに機能していることだ。電気はよく停電が起きるがまだ提供されているし、インターネットもできる。高速道路は建設時の作りがしっかりしているので、隣国のコロンビアよりもましな状況だという。地下鉄も動いていて、乗ることができる。

面白いのは、こうしたインフラの提供は国民の不満を和らげるためにやっているようで、きちんと料金を徴収していないことだ。何年も電気代を払っていないという人がいたり、地下鉄にお金を払う人がおらず、人々は改札を勝手に乗り越えて乗ってしまう。じつは切符を作るための紙がないのだそうで、売ろうにも売れないらしい。ときどき切符があるときに売ろうとするが、当然誰も払おうとしない。

こうしたインフラも更新投資はされていないだろうから、そのうち徐々に劣化して使えないくなるかもしれないが、とりあえずはいまは使えていて、ひとびとはそれなりに生活している。

ここが左派政権の面目躍如なのか、政府は食料を袋や箱詰めにして配布したり、ガソリンは無料だったりしている(ただし行列がすごい)。そういう分配政策を積極的にやっているのだ。

こんな状況でも若者は夜の店に集まって、ダンスをしたりして遊んでいる。北澤氏はここで美女と知り合って、美術館巡りのデートをし、その日のうちにホテルに誘われ、シャワーを浴びているうちに全財産を盗られたそうだ。困った事態になったわけだが、なんとなく旅にありがちなおいしいネタとして扱っているようにも見える。

ともあれ、ここでわかるのは、国家経済が破綻しても国民の生活は続いていて、意外に普通であるということだ。人々の生きて生活が続いていくうちは、経済は回るのである。

さて日本も国家財政が破綻すると言われて久しい。日本政府が破綻することと日本という国家が破綻することは別だから、この不安はまったく間違っているのだが、まあ、仮に日本国家自体が破綻したとしても、この事例を見る限りそんなに心配する必要はないのかもしれない。

戦争なんかでインフラが徹底的に破壊されると生活は悲惨そのものになるが、単に経済的に破綻しただけなら、過去のインフラ投資が生きて、しばらくはそれなりに快適に暮らせそうだ。そうならば、過去の資産が残っているうちに、国民が付加価値をつける製品やサービスの提供を行うのなら、国家としてもきっとやっていけるに違いない。

何よりも日本ではほかの社会的インフラを失ったとしても、教育インフラは絶対に手放さないだろうと確信できる。食べていけて、教育が続くなら、なんとかなる気がする。

これまでもロシアなどのかつての共産国圏の国々、財政が破綻したギリシャキプロスなどいろいろな国が経済的に破綻した。もちろん自分ではどうしようもない運命に見舞われ苦労した人はたくさんいるだろうが、経済的困難などは、戦争に負けたり外国に占領されたりする安全保障的な困難に比べると、そんなに気にする必要のない話なのかもしれない。

★★★☆☆

 

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