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ホモ・デウス : テクノロジーとサピエンスの未来

ユヴァル・ノア・ハラリ 河出書房新社 2018年9月6日
読書日:2018/11/13

技術の発達で、人間がアップグレードして、別の段階、つまり神性を獲得する方向に向かうという話だが、それ自体は科学的、技術的な話題として別の本でも取り上げられている。では、歴史学者として、著者がこの話に貢献できるのはなんだろうか。

前書の「サピエンス全史」では、人間の歴史を振り返り、人間が他の動物と決定的に異なったのは何かと問い、認知革命が起きたからだと主張した。つまり、人類は認知革命の結果、ひとつの物語を多くの人間の間で共有することで、何万人、何億人の人間が協力できるようになり、これが他の動物と決定的に異なったのだという。

したがって、人間が次の段階に進んだ時に、この共有している物語は続くのか、物語もアップグレードしなくてはいけないのか、それともそもそも物語自体が必要なくなるのか、などといったことがこの本で述べられなくてはいけないのは当然のことである。

未来のことであるから、当然のことながら正しい答えは得られるはずもないが、それでも著者は重要なヒントを多数提示している。

まず今の人類が持っている物語を再点検している。現在の人類の共有している物語は、近代に誕生したひとりひとりの人間の経験や感情に価値があるとする、人間至上主義であるという。これが自由主義を基礎とした国民国家、資本主義、科学技術とぴったり一致し、現代の社会を作り上げているという。人間至上主義は、社会主義や全体主義という亜流を生み出しながらも、いまも続いている。

だが科学技術の発達は、この物語に挑戦する。

国民国家は国民が自分の国を守るというのがその根幹である。そのために、国民に高い権利を与えている。しかし、今後は戦争は知能をもった機械対機械になるので、人間に軍事的価値はなくなる。

また機械がほとんどの仕事をこなすようになれば、人間は経済的にも価値を失ってしまう。ほとんどの人は無用な人間になってしまう。

このようにほとんどの人間は軍事的にも経済的にも無用な存在になってしまう。

このような状況で、一部の人間はアップグレードされた存在になり、超人になると、彼らが無用な人間を支配したり、切り捨てたりするかもしれない。

しかしアップグレードしても、そもそも個人の意識も無用とみなされてしまうかもしれない。なぜなら人間の意識も、化学物質や電磁気などでいくらでも操作可能になっていくだろうから、意識すらも絶対的なものではなくなってしまう。

また、無理に支配しなくても、提案という形などで外部のアルゴリズムが人間を管理するようになり、個人の存在意義はなくなっていく。集合としてのデータのみに価値が生じる。

こうして人間至上主義という現在の人類の持つ物語の基盤が消滅してしまった後は、どうなるのだろうか。著者は、データ教が後を継ぐのかもしれないという。データのみが価値があるとするデータ至上主義という考え方だ。もしもデータ教が主流になると、歴史的には人類の存在自体も、データを増やし処理するための、一時的な存在だったということになるかもしれない。そこには人類が存在する意味がないから、人類は機械に後をゆずって滅亡するのかもしれない。

以上が、本書の概略。

さて、科学技術の人類の物語に対する挑戦への答えは、この本でも示されているわけではない。しかし考えるに、今後ますます哲学者の役割が重要になるだろう。つまり、人類のための新しい物語を考え出すという仕事だ。そうなると、AIにより、仕事が次々に亡くなっていく中で、最もエキサイティングな仕事は、哲学ということになるのではないだろうか。
(もうひとつは、人間が暇になっていく中で、時間をつぶすための夢中になれる娯楽を考え出す人かな)。

★★★★☆


ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

 

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