ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

奇跡

林真理子 講談社 2022.2.14
読書日:2022.10.22

芸術家・田原桂一梨園の妻であった博子の、出会ってしまった二人が激しい愛を貫いた実話。

うーん。どのへんが奇跡なのか読んでもよく分からなかった。

みなさんも人妻が夫以外の男を好きになって、夫と離婚後に再婚して、いまは幸せに暮らしている例をひとつかふたつ思いつくのではないだろうか。

まあ、一般的には不倫、略奪愛ということになり、離婚時にどろどろになるのかもしれないが、円満に離婚して再婚した例だってあるだろう。少なくともわしはそういう例を知っている。

こういう例となにが違うのだろうか。

博子がいろいろとうるさい芸能人世界の梨園の妻だったというところだろうか。それとも相手が有名な芸術家、田原桂一だったというところだろうか。二人のスマートな付き合い方だろうか。子供との関係も壊さずにうまく切り抜けたところだろうか。それとも誰よりも相手を求め合い、激しく愛し合ったというところだろうか。

最後の、他の人よりも激しく愛し合った、というのは、他の人の場合とどうやって比べればいいのだろう。比べようがないではないか。ひとはそれぞれ、自分なりの激しさで愛し合うのだろうから。激しくなくても、静かなまったりとした愛でもいいではないか。

結婚前であろうが結婚後であろうが、この人、と思える人に出会えて相手もそう思ってくれるのなら、それはすべて奇跡になるだろう。

林真理子が知らないだけで、そういう例はたくさんあるのではないだろうか。平凡すぎて本にはならないかもしれないが。

★★★☆☆

 

小田嶋隆のコラムの向こう側

小田嶋隆 ミシマ社 2022.8.30
読書日:2022.10.20

2022年6月24日に亡くなったコラムニスト小田嶋隆の遺稿コラム集。

小田嶋隆が亡くなる直前、ミシマ社社長の三島邦弘さんに遺稿集を頼んだのだそうだ。その結果できたこの本は、日経ビジネスオンラインの「ア・ピース・オブ・警句」に最近載ったものをまとめたものだ。「ア・ピース・オブ・警句」は、最後の方は有料コンテンツになってしまったので、わしは読んでいなかったから、まあ、良かったとも言える。

しかし、その時その時の話題に対応して書かれたコラムを読むと、コラムって寿命が短いなあ、と言う気がする。コラムってやっぱり、今回はどの話題をどんな切り口で語ってくれるのだろう、という興味がほとんどで、話題がちょっと古くなるとそれだけでコラムの価値も下がってしまうようだ。

そういう意味では、もしかしたら小田島隆の本よりも、岡康道の本の方が生き残るのかもしれない。岡康道はビジネス書も小説も書いているから。

しかし、読んでいなかった文章の中で、へーと意外に思ったこともある。小田嶋の維新の会に対する否定的な見解だ。当時、維新の会は大阪都構想を掲げ、住民投票を実施に移していた。

では維新の会のなにが問題なのか。

小田嶋は維新の会の「既得権益」に対する闇雲な敵意が問題だという。「既得権益」というのは、すでに得られている権益のすべてを指す。そして「既得権益」という言葉には「不当に手に入れられたものだ」というニュアンスが含まれているのだという。つまり維新の会はすべての権益は破棄されるべきだと言っている。

これはあまりに乱暴なプロパガンダであり、これは改革の名を借りた「一揆、打ちこわし」以外の何物でもない、という。

小田嶋は住民投票に、大阪商人の知恵が反映されることを期待している。

大阪商人は話をいつもニコニコと聞いてくれるが、最後には「またにしとくわ」といって断るのが常だという。今回も、大阪都構想は「またにしとくわ」と言って先延ばしにするのが、大阪の知恵だというのだ。

なるほど、なぜか説得力がある。もちろん、このあと大阪都構想は、小田嶋のいうとおり「またにしとくわ」と先延ばしにされたことをわしらは知っている。なるほどねえ。

ああ、残念だなあ。こういうコラムがずっと続いてくれたなら。もっともお金は払わないんだけど(苦笑)。

★★★☆☆

 

千代田区一番一号のラビリンス

森達也 現代書館 2022.3
読書日:2022.10.19

(ネタバレあり。注意)

ドキュメンタリー映像作家が天皇をテーマにドキュメンタリーを企画するものの、当然天皇とは接触できずうまくいかないが、ある超自然的な現象で天皇、皇后と繋がりができて、一緒に皇居の地下空間を冒険し、その内容をドキュメンタリーに撮る話。

主人公は森克也というドキュメンタリー映像作家で、当然、著者自身である。森達也氏と言えば、オウムのドキュメンタリーを撮ったりして国際的な評価の高い人だ(観たことはないけど)。こういう人なら、いつか天皇をテーマにドキュメンタリーを撮ってみたいという妄想をふくらませることもあるだろう。この小説はそんな妄想をフィクションとして表現したものだ。

もう一方の主人公は退位前の天皇である明仁と妻の美智子、本人である。時代は明仁天皇を退位する少し前に設定されている。二人の日常の生活や会話がなされているが、こちらはもちろん著者の妄想である。ふたりのキャラクターは夫婦として微笑ましく表現されている。明仁スマホやパソコンなどのテクノロジーに疎いが、美智子はスマホでSNSやアマゾンとかのネット通販を使いこなしているという設定だ。

しかしまあ、歴史上の天皇ならばフィクション化しても違和感はないが、まだ存命中の前天皇と前皇后をフィクションで登場させるというのは、最初は相当違和感を感じた。もっともすぐに慣れたけど(笑)。

天皇や皇室とはなにか、国体とはなにかを問おうとするお話はありえるけど、存命している皇室の人物を登場させるというのは相当勇気のあることである。トラブルが目に見えるようだからだ。しかしそこで起こるトラブルこそが森達也が問いたかったことなのだとしたら、これもしょうがないのかもしれない。

物語は、ドキュメンタリー映像作家の森克也が日比谷を歩いていると、横断歩道の向こうからマスクとサングラスをした天皇が歩いてくるのを見かけるところから始まる。いきなりこれだから(笑)。天皇がお忍びで護衛もなしに街を散歩してコンビニでブリトーを買って食べるということが本当にあるのだろうか。なんかやっていそうな気もする。

まあ、そんな事もあって、フジテレビのドキュメンタリー番組の企画会議があって、森克也は天皇をテーマにすることを考えた。いきなり天皇をテーマにすると言っても通らないので、メンバーの統一テーマを憲法として、自分は憲法1条(天皇)を担当することにする。そういう策略も効いて、この企画は通過してしまう。

しかしながら、フジテレビの上層部がこの企画のリスクに気がついて、ないことにしようとする。ここで問題なのは、フジテレビ自身が自分の意思でもってこの企画を潰すわけにはいかないということだ。なぜなら、一度通した企画を取りやめるたことが知られると、フジテレビ自身が世間の矢面に立ってしまうからだ。マスコミとしては、皇室や天皇制について自分の立場を明確にせずあやふやなものにしておきたいという気持ちがある。つまり企画をなくす際になんらフジテレビの判断を含ませたくない。というわけで、フジテレビとしては、森克也が自分から降りるという体で企画を潰したいのだ。

しかし、皇室だけでなく、ここでもフジテレビという実在のテレビ局をあげるというというのはどういうことだろうか。どうも、実際に森達也とフジテレビとの間に、オウムのドキュメンタリーに関して同様のやり取りがあったようなのである。つまりここに述べられている話はほぼ実話と考えて良さそうである。そのせいか、このやり取りは大変緊迫感があり、じつはこの物語の中で一番面白いのがこの部分なのである。

そして、森克也は自分から降りるとは一言も言っていないのに、自分から辞めたように企画が中止され、森克也は思わずその場で涙を流してしまう。たぶん泣いたことも実話だろう。

ここでは番組の制作にきちんとした契約書がかわされない、日本独特の慣習が利用されている。正式に契約書を交わしていたら、こんなふうにはなかなかいかないだろう。マスコミはどこまでも自分の立場を曖昧にしておきたいようだ。

さて、この物語のテーマは「国体」という幻想についてである。国体とは共同幻想と言ってもいいようなことで、つまりはファンタジーである。というわけで、このファンタジーを体現するもう一つの存在があり、それがカタシロと呼ばれる霊的な存在だ。カタシロはある日突然に日本に現れ、ただ存在し、触れることもできず、現れたり消えたりする。これが不思議なことに、世界の中で日本の国土の中にしか現れない。なので、日本と深く結びついた存在ということになっている。

カタシロはもちろん形代のことであり、「形代(かたしろ)とは、神霊が依り憑く(よりつく)依り代の一種。(ウィキペディより)」である。日本の神が乗り移ったものであり、そういうわけで「穢れ(けがれ)」や「清め」との関係が話される。

ここでも、カタシロは物語の核心でありながら、すこぶるあいまいな存在で、こうしてみると日本という国家や社会自体が明確化しないあいまいな状態でしか存在できないかのようだ。

明仁と美智子は、皇居の下に地下空間にラビリンス(迷宮)が存在することを発見する。それは戦時中に昭和天皇が暮らし、御前会議が開かれた空間だということがあとあと分かるのだが、思えば第2次世界大戦での敗戦は日本の国体がもっとも危機に陥った瞬間だった。この地下空間は日本の国体の危機の象徴でもある。カタシロはこの空間が本拠地らしい。

そしてカタシロはもちろん神話と関係があり、地下空間はイザナギイザナミを黄泉の国から取り返そうとするあの神話とも関係があるらしい。それを象徴するように、この地下空間には許された人しか入れない。

明仁と美智子は、退位する前に、この地下空間を調べなければと決意する。そのときに記録係として選ばれたのが森克也なのだった(笑)。

明仁と美智子が森克也とつながるところには、皇居に出現するカタシロと、森克也のマンションのベランダに出現するカタシロに関係があり、カタシロにお互いの顔らしきものが写っていて、美智子と森克也は会ったときにお互いをカタシロの人だと認識した、ということになっている。

この辺はなんともご都合主義としか言いようがない展開だが、まあ、このくらいは許されるだろう。なお、森克也と美智子との出会いは、これまた実在の国会議員、山本太郎が皇居へ行ったときに森克也が頼み込んで秘書役で付き従ったときに会う、ということになっている。あれま(笑)。まあ、いいか。

まあ、ともあれ、地下空間には許された人しか入れないが、カタシロでつながった森克也はその許された人物だと明仁も美智子も確信するのだ。そればかりか、明仁と美智子は、なぜ撮らないのか、と積極的にカメラを回して記録に残すことを森克也に勧めることすらする。なんとも主人公にとってはありがたい展開だ。

一度目の探検はラビリンスを途中まで探検して終わる。地下世界は思ったより奥が深かったからだ。

このあと、美智子と森克也の恋人の桜子(この名前もなあ)が行方不明になるという事件が起きる。二人がいるところはラビリンスだと直感した明仁と克也がイザナギなみに地下へ二人を探しに行くという展開になる。こうして、地下世界で死と再生の物語ということになり、最後に美智子が「私はピュリファイされました」と宣言して物語は終わるのである。

……ピュリファイ。英語なんだね、へー。ちなみに、森克也は、せっかく記録した内容はまだ公表すべきでないとして封印しちゃうんだけどね。

わしは、終盤の地下空間探検の話よりも、フジテレビの話のほうが面白かったな。

ところで、主人公の森克也は神経の関係で生まれつき勃起しないという障害をかかえていることになっていて、これは森達也の実話なのか、なにかの象徴なのか、それともキャラクターには欠陥を与えるという物語の常套手段なのかよくわかりませんでした。

独特の緊迫感がただようこの小説ですが、日本人以外の人が読んでも、いったいどこが大変かなんてことは、きっとまったく理解できないでしょう。やっぱり日本は不思議の国なんでしょうか。

★★★★☆

(追記)
この中で出てくる、ザ・ニュースペーパーがコントの紛争のまま一般参賀に行ったというのは本当の話だったんですね。なんでもお話に取り込んじゃうんだなあ。

 

リバタリアンが社会実験をしてみた町の話 自由至上主義者のユートピアは実現できたのか

マシュー・ボンゴルツ・ヘトリング 訳・上京恵 原書房 2022.3.1
読書日:2022.10.15

リバタリアンたちが自分たちの理想郷を作ろうと、ニューハンプシャー州のグラフトンという町に移り住んだ顛末を描く本。

リバタリアンと言えば作家アイン・ランドである。アイン・ランドの「肩をすくめるアトラス」では、リバタリアンの経営者たちが、人間の創意を否定する政府から逃れて、秘密の町を作る話が出てくる。そこは魔法のような科学技術が使用され、誰もが思うがままに活動し、豊かに暮らしている。リバタリアンの理想郷である。

こんな町を実際に作ることができるのだろうか。無謀な試みのようにも思えるが、そこはアメリカであるから、実際にそれを作ろうという人たちがいるのである。

最初、リバタリアンたちはいちから新しい町を作ろうとした。当然ながらそれには土地を買う必要があり、さらにインフラ整備も必要だ。するとお金がたくさん必要になる。でもお金がないので、戦略を変えた。どこか小さな町に大量に移住して、その町を乗っ取ってしまえばいいのではないか。でもどこに?

見つけたのがニューハンプシャー州のグラフトンという町だった。ニューハンプシャー州は植民地時代に最初にイギリスに税金を納めることを拒否した州らしく、気質的にリバタリアンに近いらしい。その中でも、グラフトンという町の住民は税金を納めることを毛嫌いしていて、町の予算もいつも削ろうとする。そしてあらゆる規制に反抗的らしい。

これなら住民とも仲良くできそうだし、実際すでにリバタリアンの住民が何人かいたので、この町をリバタリアンの理想郷にしようと決めて、フリータウン・プロジェクトというのを起こした。ウェブにプロジェクトのホームページを作ってリバタリアンに移住を呼びかけたのである。その結果、それに共鳴したリバタリアンたちが移り住んできた。2004年のことである。

だが、これがどうも違うのである。これじゃないもん、状態なのだ。

アイン・ランドの秘密の町で政府に対抗したのは、皆とても優秀な経営者たちであり、彼らは町の中でもいろんな事業を展開して、民営の各種サービスで町は豊かである。したがって行政サービスは必要ない。

ところが、グラフトンに集まった自称リバタリアンたちは自由を求めているが、それは要するに自分勝手に暮らしたいという人たちのようで、お金もあまり持っていない人も多く、貧乏そうである。コミュニケーション能力も低く、社会不適応者の集団とでも言ったほうが合っている気がするほどで、そもそもビジネスに向いていない。社会から遊離しているということで、彼らのことをフリー・ラジカル(化学の遊離基と自由急進派をかけた言葉)と著者のヘトリングは呼んでいるくらいだ。

というわけで、集まったリバタリアンたちの多くはお金を持っていなかったので、森の中に(たぶん自然発生的に誕生した)キャンプ場に、キャンピングカーなどの移動式の車や、テントで暮らすようになる。これでは単なる浮浪者との違いが難しい状態である。

しかもフリータウンという言葉に引かれて集まってきたのは、リバタリアンだけではなかった。

資本主義が崩壊することを望む急進的な左派も政府の規制を嫌っているのでやって来たし、自由な信仰を求める宗教家も来た。じつは宗教に関しては、カルトの統一教会(安倍首相のテロ事件にまつわり有名になったあの宗教)が1990年代に研修所をグラフトンに作ったこともある。

こういうわけで、2009年までに有権者800人だった町に200人の移住者がやって来たらしいが、いろんな人が集まったので、そのうちリバタリアンが何人いたのかはっきりしていない。(どうでもいいが、移住者は圧倒的に男性の比率が高かったので、この結果、町の男女比率は大きく崩れた)。

面白いのは、思想は異なるのに、リバタリアンとほかの急進的な人たちの間で共通していることがあり、それは銃の所持率の高さである。もともとニューハンプシャー州では銃の数は住民の何倍もあるらしいんだが(苦笑)、集まってきた人たちも銃を普通に所持しているのである。食べ物やガソリンの調達に苦労しているにもかかわらず、銃は持っているのだ。リバタリアンは政府が警察権力を持つことに反対し、自分の命は自分で守るという方針らしいから、まあ、それは理解できないこともない。

しかしグラフトンの住民には銃を持つ切実な理由が別にあるのである。それは熊で、ニューハンプシャー州は熊が多いらしいのだ。グラフトンはまったく土地の管理をしていないので、鬱蒼とした森が生い茂るままになっており、熊はグラフトンの森をうろついて、森の中にまばらに建っている住宅のすぐそばに来るような状況なのだ。いつ住民が襲われるかわからない。著者のヘトリングも最初は熊の取材でグラフトンに来ていたくらいなのだ。

こうしてリバタリアンたちが大量に移ってきたが、そのせいか、もともと少なかった町の予算はどんどん削られていき、住民はどんどん生活に苦労するようになる。火事になっても、消防隊員は当直一人だけで何もできないし、警察は自前の車もないし、図書館は100年前のものを使っている。そんなわけで、警察や消防、救急車などの行政サービスは事実上近隣の町がやってくれているようなのだ。貧乏なグラフトンでは携帯電話すらサービス圏外だそうで、住民たちは緊急時になかなか助けを呼ぶことも難しいようだ。

ちなみにこんなにケチケチしてるのに、周囲の快適な町に比べて税金は3割ぐらいしか安くなっていない。行政サービスの劣化とまったく見合っていない。

町にはやる気のない雑貨屋が一軒だけあったが、それすらも閉店してしまうと、わざわざ隣町までいって、買い物をしなくてはいけなくなる。お金があるリバタリアンはもっとサービスのいい町に移っていき、それにともなってリバタリアンの活動も州都など他の町に移っていき、グラフトンは寂れていくのである。

グラフトンのフリータウンプロジェクトはいまも完全に消えたわけではなさそうだが、ちょっとやっぱり、行政サービスをぜんぶやめるというのは無理があるんじゃないかなあ。

リバタリアン的には、行政がやらないと、それを代替する民営会社のビジネスが花開くはずだったんだろうけど、住民が税金を払うことを拒否するグラフトンでは、民間企業にだってお金を払うはずはないのでした。なにしろみんな貧乏なんだから。加えてビジネスに不向きな人たちばかりでは、なんとも話は先に進みようがないのでした。

わしはリバタリアンには精神的に親近感が湧くけれど、リバタリアンの作る町はなんか持続可能性の点で、ちょっと無理そうです。

★★★☆☆

 

東大金融研究会のお金超講義 超一流のプロが東大生に教えている「お金の教養と人生戦略」

伊藤潤一 ダイヤモンド社 2022.3.15
読書日:2022.10.7

東大を卒業して20年以上ヘッジファンドのマネージャーをしていた著者が、東大の学生に頼まれてマネーについて教える金融研究会を開くとたちまち人気となった内容を書いたもので、人生の本質について考える力が大切と主張する本。

この本の初めの方に、知らない知識であっても自分である程度推定することが可能だといい、例として日本に理容師(+美容師)が何人いるか推定してみるという話があった。いわゆる地頭力を見るというたぐいの問題だ。わしはこの手の推定がなぜか得意で(たとえばここ)、答えを見る前に自分で考えてみた。と言っても、30秒ぐらいだが。

1人の理容師が1日5人の髪を切るとして、1ヶ月に20日働くと、1ヶ月に100人ぐらいだろうか。だから1ヶ月に1億2千万人の国民全員の髪を切るには、100万人ぐらい必要だろう。しかし、毎月髪を切る人は少ないだろうから、平均2ヶ月に1回とすると、50万人ぐらいか?

答えは53万人だそうで、ほぼ合っていたので笑ってしまった。

しかし、合っているかどうかは問題ではなく、自分でロジカルに考えることが重要なんだそうだ。たとえば「円高になると景気が悪くなるというのは本当か」を自分の頭で考えろというのだ。どうも東大生は知識を得るとそれ以上考えることをしない人が多いのだそうだ。べつに東大生に限らず、そういう人がほとんどじゃないかと思うけれど。

まあ、こういうところは普通だし、他にも書いてあることはだいたいいいと思うが、どうしてもわしが引っかかるところがある。それは著者の時間に関する考え方だ。

著者は長年ヘッジファンドの運用をしていたせいか、シャープレシオを重視している。シャープレシオというのは、リスクをあまり取らずに安定的に運用するという発想だ。リスクというのは変動幅(ボラティリティ)のことだから、つまり同じ運用成績なら資産の変動が少ないほうがいいというのだ。

だが、これは著者が毎期成績を問われるファンドの運用者だからで、個人投資家はこういう発想をする必要はまったくない。別に株価がどんなに変動して、資産総額がどんなに変動しても個人投資家ならぜんぜん構わないのだ。

また、ある銘柄を平均どのくらいの期間持っているかという話では、ファンド運用者はどうも2期(6ヶ月)を基準に考えているようだ。それは平均でありもっと持つ場合もあるというが、どちらにせよ数ヶ月という単位での発想は、ファンド運用者の発想だろう。個人投資家なら、同じ銘柄を何年も持ち続けていてもいいのだ。わしなんか10年以上持っている銘柄もある。成長を続けている限りは持ち続けてもいいのだ。本当は銘柄の変更をせずにずっと持ち続けるのが理想なのだ。

とは言っても、この本は別に実践的な投資の話ではなく人生の考え方を述べるのが主眼らしいから、別にいいと言えばいいのだが、しかしどうも他の点についてもファンド運用者的な発想が強すぎるように思う。たとえば人生の時間に関する発想もそうなのだ。

著者は若者に時間を有効に使ってほしいという。体感時間では歳をとるほど時間は加速して感じられるので、人生80年と仮定すると、20歳で人生の半分は終わっているという。だから時間を大切にしてほしいというのだ。

わしはこういう考え方は好きではない。わしの考えでは無駄と思えることに人は時間をいくらでも使っていいのだ。シャープレシオとか効率とか考えなくてもいい。

それで、20歳でもう半分過ぎているとすると、歳を取ってからの人生は短いと著者は思っているのかというとそうでもないようだ。人生100年時代では、定年後の人生は意外と長いという。そして定年後に限られたお金でだらだら長生きするのは幸福ではないなどという。

結局、人生の時間は(歳によって)長いのか短いのか?

もちろん、それは主観によるのである。主観によるのだったら、20歳で半分過ぎているとか、定年後の人生は長いとか、そんなことをわざわざ計算して考えるなんてばかげている。というわけで、わしはこういう発想には反対だ。

わしの時間に関する考え方は、「人生の短さについて」で書いた。

そこで書いたように、わしは時間は無限にあると考えるのが好きだ。実際には有限かもしれないが、なにか考えるときには時間は無限にあると仮定して決定する。だから、投資だろうが人間関係であろうが、どんなに変動が大きくてもいいし、人が無駄と思えることにどれだけ時間を費やしても後悔する必要はない。

著者は金融的な発想で人生戦略を構築してほしいという。具体的には先程のシャープレシオの発想で人生にアプローチするべきだというのだ。同じリターンをもたらすにも、リスク(変動)を抑えるべきだという。例えば、人間関係が幸福をもたらすと考えるならば、人間関係の多様性を確保して変動を抑えるべきだというのだ。

どうやら著者は現在、人間関係の構築にものすごく力を注いでいるようだ。これはきっと社会資本の蓄積に役立ち、著者の嫌いな変動を下げることにつながるだろう。しかも人間関係の構築も図式化して評価し、無駄のない人生を送れるのだろう。

しかしわしが目指す社会は、一見無駄と思えることに誰もが存分に時間を費やすことができる社会なのだ。効率も無視だ。言ってみれば、水木しげるが無駄なことにさんざん時間を費やしてきた、そんな時間の使い方である。もしくは何もせずに2000日過ごすことである。こういう時間の使い方が無駄だとはわしは思わない。そして人間関係も同じで、変動が大きくてもちっとも構わないと思っている。時間が無限にあると発想できれば、人間関係なんてどうとでも可能なのだ。そしてこういう世界を実現したいものだとわしは思っているのだ。

わしはこの本は60%はいいことを言っていると思うが、どうも残り40%は気に入らないのである。それもかなり気に入らない。

★★★★☆

人類の起源 古代DNAが語るホモサピエンスの「大いなる旅」

篠田謙一 中公新書 2022.2.25
読書日:2022.10.6

発掘された人類(ホモ属)の骨のDNA解析からホモサピエンス(ヒト)の誕生、他のホモ属との交雑、出アフリカ後の移動の様子が分かるようになり、最新の情報について解説した本。

この本を読んでいるときに、今年のノーベル生理医学賞は古代人の骨から人類とネアンデルタール人が交雑していたことを突き止めた、スウェーデン出身で、ドイツのマックス・プランク研究所のスバンテ・ペーボ博士に決まったとのニュースが入ってた。個人的にはなんともタイムリーでございました。

DNAを使った研究は2010年代にものすごく発展して、この本に書かれていることは知らないことばかりだった。へーと思っているうちに読み終わってしまった。

たくさんの情報が書かれているが、わしがへーと思ったところをいくつかピックアップしてみよう。

わしはヒトとネアンデルタール人との交雑については知っていたが、デニソワ人というのがいて、ヒトはその人類とも交雑していたというのは知らなかったな。デニソワ人は2010年代に別の種と断定されて、ヒトとネアンデルタール人の共通祖先から分岐したのは104万年前なんだそうだ。デニソワ人についてわかっているのはDNAだけで、詳しい形態もよく分かっていないそうだ。デニソワ人はいくつかの骨の断片が残っているだけで、遺伝情報だけで新種と断定された初めての人類だという。

デニソワ洞窟で発見されたからデニソワ人なのだが、デニソワ洞窟に残されていた1万個以上の動物の骨をズーマス(ZooMS)という新技術で人類の骨を見つけ出して解析したら、新発見があったという。ズーマスとは、骨の中のコラーゲンのアミノ酸配列を質量分析装置で決定する技術だそうで、それによりその骨がなんの動物の骨かが分かる。ズーマスで解析したら、その中に1つだけ人類の骨が混じっていたんだそうだ。大変ご苦労なことである。そのDNAを調べてみると、なんとそれはネアンデルタール人とデニソワ人の混血だったことが分かったのだという。

というわけで、ヒトとネアンデルタール人、デニソワ人の3種の人類はお互いにあちこちで交雑していたわけだ。ヒトの2.5%ぐらいはネアンデルタール人由来の遺伝子で、数%はデニソワ人由来の遺伝子らしい。ただし、残っている遺伝子の割合は民族によって大きく異る。パプアニューギニアの人々の3〜6%はデニソワ人の遺伝子だというから、かなり驚きである。一方、ネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子をまったくもっていない、ピュアなホモ・サピエンスだけの遺伝子を持っている民族もいる。アフリカのカラハリ砂漠にいるコイ・サン族がそれで、このことから交雑は人類の出アフリカのあとでユーラシア大陸で起きたことを示している。

というわけで、人類は遺伝的には大変複雑な構成になっていて、単純に直線的には進化してはいない。

また、ネアンデルタール人、デニソワ人と分岐した60万年前から数10万年分のヒトに関するデータが極端に不足していて、実際にどんなふうにヒトが誕生して広がっていったのかがよく分かっていない。ヒトはアフリカで誕生したのは確実だが、どこで誕生したかも分かっていない。

ホモサピエンス同士の広がり方具合は、ヨーロッパを中心に理解が進んでいて、ヨーロッパには東の方から何度か人々がやってきて、遺伝子を置き換えるということが起きているらしい。

最初は狩猟採集民族の人々がヨーロッパに広がった。その後、農業が起きたトルコのアナトリアから人々がヨーロッパに広がり、次に黒海カスピ海周辺の牧畜をしていたヤムナヤ文化の人々がヨーロッパに広がった。ヤムナヤ文化は車輪と馬の文化を持っていて、強力に広がっていったらしい。これは言語学の研究とも整合的で、つまりヤムナヤ文化の人々がインド・ヨーロッパ語族のオリジナルの言葉を話していたと考えると、辻褄が合う。面白いのは、白人の肌の白さと目の青さは別の民族の遺伝子を引き継いでいることで、アナトリアの人々が青い目を持っていて、ヤムナヤの人々が白い肌を持っていたらしい。なので、昔はヨーロッパには褐色の肌に青い目の人たちがいたんだそうだ。へー。

ヨーロッパの方は比較的研究が進んでいるが、アジアの方はまだ漠然としか分かっていない。アジアへは、ヒマラヤの北と南の2つの経路で伝わった。南のルートではインドからアンダマン諸島を経由して広がった人々がいて(つまり海を舟で広がったらしい)、東南アジアでデニソワ人と交配して、その人々がパプアニューギニアに移動したらしい。ところが、南の温暖な気候のせいで、DNAがきちんと残っている化石がほとんどないので、よく分かっていない。この人々が東南アジアを海、または内陸を経由して北に向かい、東アジアの古代人のグループを形成したらしい。(一部が日本に到達して縄文人になる)。

アンダマンの人々はヒマラヤを超えて、チベットなどを経由して、バイカル湖付近で西の民族と混血したが、東アジアの人々が優勢の状況で、それがシベリアに広がり、さらにはベーリング海峡を超えてアメリカにヒトが進出する。ベーリング海峡超えは一度ではなく、何回に分けて行われているらしい。イヌイットは最後に到達した人たちだそうで、遺伝子が昔の化石で残っているものとは異なっているそうだ。

面白いのは、ポリネシアミクロネシアの人々は、台湾を出発して南下した人々であることが確実なんだそうだ。台湾、フィリピンを経由してポリネシアに達している。

まあ、こんなところかな。まだまだ不明なことが多いので、あと5年ほどしてこの手の本を読んだら、きっとまた驚くような話が聞けるんじゃないだろうか。ズーマスのような新技術もきっと生まれているだろう。

それにしても、恐竜とかのDNAはどうなんですかね。ネットで調べると、2020年にはじめて恐竜の化石からDNAが抽出されたみたいだけど、この辺の話も5年後ぐらいに読めるといいな。

★★★★☆

 

「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた

グレゴリー・J・クバー 訳・水谷淳 ダイヤモンド社 2022.5.31
読書日:2022.10.3

ネコが空中でなんの支点もなしに回転できる理由を多くの科学者が解き明かそうと奮闘した数百年の歴史を振り返る本。

いちおう本を開く前に、自分でネコが空中で回転できることを説明できるか考えてみた。しかし、どうしても角運動量保存則が絡んでくるので、非常に説明が難しい。いままで疑問に思ったことはなかったが、ネコが空中で足を下向きの方向に自由に回転できる理由が思いつかなかった。なるほど。確かにこれは難問である。

どこが問題か説明すると、空中で静止しているものが回転するとき、反対方向の回転も起きて、全部合わせて回転がゼロにならないといけないという物理法則があるのである。これを角運動量保存則という。空中に浮かんだ状態でなければ、床を蹴ったり、壁を押したりと別の物体との反作用として回転の力を得ることができる。しかし、なにもない空中で回転しようとすると反対の回転もおきるから、自由に回転できない。逆にある角速度で回転していたら回転し続けてそれを止めたりはできない。

この問題は数百年の間、何でも不思議に思う科学者の頭を悩ませてきただけだった。(科学者の好奇心の旺盛さには頭がさがる)。ところが、20世紀後半になって、これが突然重要な問題になったのだ。というのは、無重力の宇宙空間で宇宙飛行士がどうやって身体の向きを変えるかという、切実な問題が発生したからである。しかし、ネコの立ち直り反射(どんな姿勢からでも下向きになること)について研究が進んでいたので、科学者はどうすればいいかという問いに無事に答えることができたのである。というわけで、現在は宇宙ステーションでも、宇宙飛行士は身体をネコのようにくねらせて、向きを変えることができるのでした。

いったい何が役に立つか分からないものである。まるで科学における数学の役割の話を聞いているようだ。数学もなんの役に立つかわからないが、あとで物理に応用できることが分かったりする。

まあ、数百年の科学者の議論の歴史は本書を読んでもらうとして、結論に行こう。

基本的なモデルは2つあって、「タック・アンド・ターン」モデルと、「ベント・アンド・ツイスト」モデルだ。

「タック・アンド・ターン」モデルは、上半身と下半身を順番にひねるというものだ。このとき上半身をひねるときには前脚を縮め、後ろ脚を垂直方向に(回転軸から離れるように)伸ばす。すると、上半身が回っているときに、下半身は反対方向に回ろうとするのだが、後ろ脚を伸ばした分だけ下半身の回転角度が小さくなるので(角運動量は質量と回転軸からの距離がある方が大きくなるため)、ほぼ上半身だけが回ることになる。上半身が回転し終わったあと、今度は前脚を垂直方向に伸ばして、後ろ足を縮めるかあるいは真後ろに伸ばして、脚を回転軸に近づけると、下半身だけ回すことができるので、回転が完了する。

実際のネコの動作に近いのは、「ベント・アンド・ツイスト」モデルのようだ。これは身体を回すときに身体をくの字に曲げて身体をひねるというもので、このようにすると、見かけ上、上半身と下半身は反対方向に回るので、角運動量保存則を満たしたまま、身体を回転させることができる。身体を180度曲げることができ、上半身と下半身を重ねた状態なら完璧だが、それができなくてもある程度曲げた状態なら角運動量を相殺できて、回転できるようだ。実際には、90度回転したところで、一度身体を伸ばして、またくの字に曲げて回転するということをするらしい。(でないと腰を横方向に曲げることになりなかなか苦しいからだと思う。少なくとも人間には無理(笑))

この動作を高飛び込みの選手にさせてみたところ、空中で見事に身体の向きを変えることが確認できた。(写真付きでネコと同じ動きを再現して見せている。)

なるほどねえ。すごいね。

この問題解決に時間がかかったのは、ネコが身体を回転させるのは一瞬のことなので、どうやっているのか観察が難しかったからだ。これは高速度撮影技術が発達しないとなかなか解析が難しかったという。現在では、コンピュータによる解析も行われているし、立ち直り反射ができるロボットの制作も行われているそうだ。

実際にこの問題に関わった科学者でいちばん有名なのは電磁気学で有名なマクスウェルのようだ。へー、マクスウェルがねえ。

なお、立ち直り反射は、ネコだけでなくウサギもできるのだそうだ。

★★★★☆

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