(ネタバレあり。注意)
ドキュメンタリー映像作家が天皇をテーマにドキュメンタリーを企画するものの、当然天皇とは接触できずうまくいかないが、ある超自然的な現象で天皇、皇后と繋がりができて、一緒に皇居の地下空間を冒険し、その内容をドキュメンタリーに撮る話。
主人公は森克也というドキュメンタリー映像作家で、当然、著者自身である。森達也氏と言えば、オウムのドキュメンタリーを撮ったりして国際的な評価の高い人だ(観たことはないけど)。こういう人なら、いつか天皇をテーマにドキュメンタリーを撮ってみたいという妄想をふくらませることもあるだろう。この小説はそんな妄想をフィクションとして表現したものだ。
もう一方の主人公は退位前の天皇である明仁と妻の美智子、本人である。時代は明仁が天皇を退位する少し前に設定されている。二人の日常の生活や会話がなされているが、こちらはもちろん著者の妄想である。ふたりのキャラクターは夫婦として微笑ましく表現されている。明仁はスマホやパソコンなどのテクノロジーに疎いが、美智子はスマホでSNSやアマゾンとかのネット通販を使いこなしているという設定だ。
しかしまあ、歴史上の天皇ならばフィクション化しても違和感はないが、まだ存命中の前天皇と前皇后をフィクションで登場させるというのは、最初は相当違和感を感じた。もっともすぐに慣れたけど(笑)。
天皇や皇室とはなにか、国体とはなにかを問おうとするお話はありえるけど、存命している皇室の人物を登場させるというのは相当勇気のあることである。トラブルが目に見えるようだからだ。しかしそこで起こるトラブルこそが森達也が問いたかったことなのだとしたら、これもしょうがないのかもしれない。
物語は、ドキュメンタリー映像作家の森克也が日比谷を歩いていると、横断歩道の向こうからマスクとサングラスをした天皇が歩いてくるのを見かけるところから始まる。いきなりこれだから(笑)。天皇がお忍びで護衛もなしに街を散歩してコンビニでブリトーを買って食べるということが本当にあるのだろうか。なんかやっていそうな気もする。
まあ、そんな事もあって、フジテレビのドキュメンタリー番組の企画会議があって、森克也は天皇をテーマにすることを考えた。いきなり天皇をテーマにすると言っても通らないので、メンバーの統一テーマを憲法として、自分は憲法1条(天皇)を担当することにする。そういう策略も効いて、この企画は通過してしまう。
しかしながら、フジテレビの上層部がこの企画のリスクに気がついて、ないことにしようとする。ここで問題なのは、フジテレビ自身が自分の意思でもってこの企画を潰すわけにはいかないということだ。なぜなら、一度通した企画を取りやめるたことが知られると、フジテレビ自身が世間の矢面に立ってしまうからだ。マスコミとしては、皇室や天皇制について自分の立場を明確にせずあやふやなものにしておきたいという気持ちがある。つまり企画をなくす際になんらフジテレビの判断を含ませたくない。というわけで、フジテレビとしては、森克也が自分から降りるという体で企画を潰したいのだ。
しかし、皇室だけでなく、ここでもフジテレビという実在のテレビ局をあげるというというのはどういうことだろうか。どうも、実際に森達也とフジテレビとの間に、オウムのドキュメンタリーに関して同様のやり取りがあったようなのである。つまりここに述べられている話はほぼ実話と考えて良さそうである。そのせいか、このやり取りは大変緊迫感があり、じつはこの物語の中で一番面白いのがこの部分なのである。
そして、森克也は自分から降りるとは一言も言っていないのに、自分から辞めたように企画が中止され、森克也は思わずその場で涙を流してしまう。たぶん泣いたことも実話だろう。
ここでは番組の制作にきちんとした契約書がかわされない、日本独特の慣習が利用されている。正式に契約書を交わしていたら、こんなふうにはなかなかいかないだろう。マスコミはどこまでも自分の立場を曖昧にしておきたいようだ。
さて、この物語のテーマは「国体」という幻想についてである。国体とは共同幻想と言ってもいいようなことで、つまりはファンタジーである。というわけで、このファンタジーを体現するもう一つの存在があり、それがカタシロと呼ばれる霊的な存在だ。カタシロはある日突然に日本に現れ、ただ存在し、触れることもできず、現れたり消えたりする。これが不思議なことに、世界の中で日本の国土の中にしか現れない。なので、日本と深く結びついた存在ということになっている。
カタシロはもちろん形代のことであり、「形代(かたしろ)とは、神霊が依り憑く(よりつく)依り代の一種。(ウィキペディより)」である。日本の神が乗り移ったものであり、そういうわけで「穢れ(けがれ)」や「清め」との関係が話される。
ここでも、カタシロは物語の核心でありながら、すこぶるあいまいな存在で、こうしてみると日本という国家や社会自体が明確化しないあいまいな状態でしか存在できないかのようだ。
明仁と美智子は、皇居の下に地下空間にラビリンス(迷宮)が存在することを発見する。それは戦時中に昭和天皇が暮らし、御前会議が開かれた空間だということがあとあと分かるのだが、思えば第2次世界大戦での敗戦は日本の国体がもっとも危機に陥った瞬間だった。この地下空間は日本の国体の危機の象徴でもある。カタシロはこの空間が本拠地らしい。
そしてカタシロはもちろん神話と関係があり、地下空間はイザナギがイザナミを黄泉の国から取り返そうとするあの神話とも関係があるらしい。それを象徴するように、この地下空間には許された人しか入れない。
明仁と美智子は、退位する前に、この地下空間を調べなければと決意する。そのときに記録係として選ばれたのが森克也なのだった(笑)。
明仁と美智子が森克也とつながるところには、皇居に出現するカタシロと、森克也のマンションのベランダに出現するカタシロに関係があり、カタシロにお互いの顔らしきものが写っていて、美智子と森克也は会ったときにお互いをカタシロの人だと認識した、ということになっている。
この辺はなんともご都合主義としか言いようがない展開だが、まあ、このくらいは許されるだろう。なお、森克也と美智子との出会いは、これまた実在の国会議員、山本太郎が皇居へ行ったときに森克也が頼み込んで秘書役で付き従ったときに会う、ということになっている。あれま(笑)。まあ、いいか。
まあ、ともあれ、地下空間には許された人しか入れないが、カタシロでつながった森克也はその許された人物だと明仁も美智子も確信するのだ。そればかりか、明仁と美智子は、なぜ撮らないのか、と積極的にカメラを回して記録に残すことを森克也に勧めることすらする。なんとも主人公にとってはありがたい展開だ。
一度目の探検はラビリンスを途中まで探検して終わる。地下世界は思ったより奥が深かったからだ。
このあと、美智子と森克也の恋人の桜子(この名前もなあ)が行方不明になるという事件が起きる。二人がいるところはラビリンスだと直感した明仁と克也がイザナギなみに地下へ二人を探しに行くという展開になる。こうして、地下世界で死と再生の物語ということになり、最後に美智子が「私はピュリファイされました」と宣言して物語は終わるのである。
……ピュリファイ。英語なんだね、へー。ちなみに、森克也は、せっかく記録した内容はまだ公表すべきでないとして封印しちゃうんだけどね。
わしは、終盤の地下空間探検の話よりも、フジテレビの話のほうが面白かったな。
ところで、主人公の森克也は神経の関係で生まれつき勃起しないという障害をかかえていることになっていて、これは森達也の実話なのか、なにかの象徴なのか、それともキャラクターには欠陥を与えるという物語の常套手段なのかよくわかりませんでした。
独特の緊迫感がただようこの小説ですが、日本人以外の人が読んでも、いったいどこが大変かなんてことは、きっとまったく理解できないでしょう。やっぱり日本は不思議の国なんでしょうか。
★★★★☆
(追記)
この中で出てくる、ザ・ニュースペーパーがコントの紛争のまま一般参賀に行ったというのは本当の話だったんですね。なんでもお話に取り込んじゃうんだなあ。