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Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章

ルトガー・ブレグマン 訳・野中香方子(きょうこ) 文藝春秋 2021.7.30
読書日:2022.1.20

オランダの革新的なジャーナリズムプラットフォーム「デ・コレスポンデント」の創設者のひとりである歴史家、ジャーナリストのブレグマンが、人類は基本的に善であることを主張した本。

ルトガー・ブレグマンは「隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働」という本で有名になった人だ。この本はわしの読まなくてはいけないリストに入っているものの、まだ読んでいない。(なんか題名を見ただけで中身が推察できそうな気がして(笑))。また彼が所属している「デ・コレスポンデント」は読者からの購読料だけで成り立っている調査報道専門のネット出版社で、たぶんアタリのいう未来のジャーナリズムのメディア、デジタル・アッヴィージにもっとも近いものだろう。

そういうわけでブレグマンの存在自体が、人類の希望とも言える状態なのだが、彼が今回取り組んだのが、人類はそもそも善なのか悪なのかという問題だった。

でも、この問題はすでにもう決着がついているのでは、というのがわしの感想だった。人間は善でもあり悪でもある、というのが答えで、ではなぜ人間はそのようなパラドキシカルな存在なのかということを考えたのが、ランガムの「善と悪のパラドックス」だった。

本書の議論はランガムの議論と大いに重なるので、ランガムが主張したことをもう一度振り返ってみよう。(ただし本書はランガムをまったく引用していないようだ)。

ランガムの議論で善とは暴力を振るわないことであり、悪とは暴力を振るうことだ。ランガムは暴力には反応的暴力性と能動的暴力性があるという。反応的暴力性とは感情的に暴力を振るうことで、生物的、遺伝的、本能的な暴力のことだ。一方で、能動的暴力性とは意図的に冷静に暴力を振るうことで、理性的、言語的、社会的な暴力と言え、警察の暴力、戦争などはこの中に入る。

ランガムは反応的暴力性はヒトでは少なく、暴力のほとんどは能動的暴力性だという。反応的暴力性がなぜ低いかというと、自己家畜化したからだという。ではなぜ自己家畜化したのかというと、人間には言語があり、暴力的で専制的なリーダーは皆が話し合って処刑してしまうからだという処刑淘汰説を唱える。処刑が淘汰圧となって、専制的なリーダーはしだいにいなくなったわけだ。処刑はみんなが話し合って納得して行う暴力であり、能動的暴力性である。そしてみんなで決めた暴力には誰もが従順に従う。

ランガムの議論の秀逸なところは、暴力を2つに分けて、お互いがお互いの原因になっていて、強化する構造になっていることだ。

能動的暴力性による処刑がヒトを自己家畜化して、平等的で自分だけが突出しない従順な特性、つまり反応的暴力性が少ない特性を作り上げ、その反応的暴力性が少ない従順な特性が能動的暴力性を発揮するときには、みなで決めた暴力に対しては従うという特性を作り上げる。これはとても見事な議論ではないだろうか。ここでは善と悪は両立するどころか、お互いが必要だという構造になっているのだ。

そういうわけで、ランガムの議論によれば、ヒトは個人では非常に平和的で融和的つまり善であるが、組織的にはいくらでも悪になれるという存在だということになる。(そしてつい専制的なリーダーや組織に従ってしまうのだ)。

ではブレグマンの議論はどうだろうか。

ブレグマンは人類は本質的に善だと主張しているけど、その理由はランガムと同じく自己家畜化しているというものだ。

しかしその善であるはずの人類がなぜ戦争を行うかというと、それは仲間のためだという。人は仲間を見捨てずに友情のために敵と戦うというのだ。これは人間がもつ共感力が働いているのだという。

この共感力は敵に対してさえも働く。したがって、現場では兵士たちが直接殺し合うことはじつはほとんどないという。人間は戦場であっても直接的な殺し合いを避けようとする。でもそれは現場の兵士の話だ。

では戦場から遠くで指揮している指導者たちはなぜ戦争ができるのだろうか。それは現場から遠く離れた指導者には敵に対する共感はないからだという。そしてこういう指導者は偏執的なナルシストなのだと断言する。

でも、ホロコーストのような虐殺はなぜ起きたというのか。これほどの悪をブレグマンはどう説明するのか。ブレグマンのいうには、ホロコーストを指導したアイヒマンは狂信者なのだという。本人はそれが正しいと信じきっていた。つまり何が善かという確信がねじれていただけで、善を行おうとしたことには間違いがないらしい。ここでは正しいと信じるヒトラーに同調しようという力が働いて、大きな悪が実行できたのだとする。

現場の人間は善良だが、指導者はナルシストや狂信者だったからというのは、なんだか一般性がなくて、いまいち主張が弱いように思える。わしとしてはランガムのように、普通の人間のなかに戦争や虐殺を計画、実行できる素養があるという理論じゃないと納得性がないと思う。そういうわけで、ブレグマンは悪があることの説明、あるいは人に悪がないことの説明に失敗していると思う。

人間の本質は善と信じるブレグマンは、人間が偏見なく共感をもってお互いに交流できれば、世界は良くなるという。

わしも、地球という惑星がますます狭くなって、惑星全体が村のようになれれば、他の人に知られずに悪を実行できる可能性が減っていき、善の世界が実現する可能性があると思う。なので、ブレグマンの素朴とも言える発想は成就するかもしれない。みなが仲間になれば、ランガムの理論とも矛盾しないだろう。地球が善におおわれることを祈りたい。

以上がこの本の概要だ。

ところで、実をいうと、この本でもっともエキサイティングなところは、こういう人間の善を説明することではない。ブレグマンは、先ほど述べたように悪がないことの説明に失敗していると思う。そもそも論理的に「ないこと」を証明することは不可能なので、仕方ないのかもしれない。その代わりに、彼は従来の人間の本性が悪だと主張する理論や観察、実験をことごとく論破して、それをもって人間が善だと主張しようとしているのだ。

正直に言って、このやり方はあまり賢くないと思う。過去の理論や実験が間違っていたからと言って、人間の本性は悪でないと証明できたことにならないし、ましてや善だと証明できるわけでもないからだ。

しかしながら、ブレグマンは有名な学説や常識に噛み付いており、これまで正しいと思われていた常識が間違っていたということになると、これはこれでなかなか衝撃的だ。挑んでいるのはどれもよく知られた大物研究者の学説だ。この検証にかけるブレグマンの熱意は相当なものであり、実はここがこの本の最大の魅力といっていい。

ブレグマンが噛み付いたのはおもに次の5つだ。

(1)小説「蝿の王
(2)ピンカーの「暴力の人類史」
(3)ジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊イースター島
(4)心理実験:ロバーズ・ケーブ実験、スタンフォード監獄実験、ミルグラム電気ショック実験
(5)マルコム・グラッドウェルの「ティッピング・ポイント」のキティ・ジェノヴィーズ事件、窓割れ理論

どれも有名な話で人の暴力性を説明するものだが、ブレグマンによりそれは否定される。わしは特にジャレド・ダイアモンドの話に衝撃をうけたな。正しいと信じていたから。ジャレド・ダイアモンドはこれに反論したのかしら?

一方で、人間が善であることを示す事例も豊富に示される。
(1)マーシャルの「撃たない兵士」の報告
(2)デ・ブローグが始めた在宅ケア組織、ビュートゾル
(3)自由な学習を実践するオランダの学校、アゴ
(4)ベネズエラのほぼ直接民主主義自治体トレス
(5)機能するコモンズ(よく知られる「コモンズの悲劇」の反例)
(6)ノルウェーの拘束しない刑務所 ハルデン刑務所
(7)南アフリカの内戦を防いだ双子の兄弟の例
(8)第1次世界対戦のクリスマスに戦場で起こった例

まあ、こうして、理論的というよりも、具体例をあげて人間が善であることをブレグマンは読者に納得させようとしているわけです。

繰り返しになりますが、わしはランガムがいうとおり、人間は個人的には善であるが組織的には悪を実行できる存在、と信じていますので、もし個人的なつながりのようなものを地球全体に広げられれば(可能かなあ?)、地球全体が善になることは、まあ不可能でもないかなあという気もする次第です。

***メモ***
(3)ジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊イースター島
ブレグマンが噛み付いた理論のうち、一番ショックだったジャレド・ダイアモンドイースター島についてだけ、メモとして残しておく。

ともかく、ジャレド・ダイアモンドが誤っていると主張するのには驚いた。わしもこの本を読んでおり、とても説得力があるので、正しいと思っていたからだ。これを否定するのは相当困難ではないかと思われた。しかし、この問題に関してはブレグマンは説得力ある反論を展開している。

ジャレド・ダイアモンドの主張を簡単に記すと、イースター島はもともと木がたくさんあった緑豊かな島で、1100年頃に移住したポリネシア人たちはその資源を使ってモアイを創るなど高度な文明を有していたが、やがて天然資源を使い果たして森はなくなり、残った資源を巡って戦争を起こし(1680年頃)、人口は1万5千人から数千人に激減し、文明は崩壊してしまった、という説だ。

もちろんジャレド・ダイアモンドは、人類は地球の資源を使い果たしてしまうと、こんなふうに文明が崩壊して滅んでしまうかもしれないぞ、という警告を発しているわけだ。

人間は貪欲で自己中心的で暴力的で愚かしいという主張にはなっているわけで、ブレグマンがこれを否定したい気持ちはわかる。(まあ、日本人のわしには、これって善と悪の問題なんだろうかという気がするんですけどね)。

ブレグマンはイタリアのヤン・ボーセマの2002年の研究に基づいて反論している。

もともとイースター島で凄惨な戦争が起きたという話は1914年キャサリン・ラウトレッジという人類学者が島民から聞いた話が基になっている。ところが、イースター島を発見した当時(1722年)の記録によれば、島民はみな健康で、豊かな生活をしていたそうだ。したがって、文明が崩壊して悲惨な生活をしていたという話と矛盾する。

ヤン・ボーセマは100人のポリネシア人が1100年に上陸して、通常の農業社会の人口増加率0.5%/年で計算すると、イースター島が発見された1722年には2200人になることを示した。これは発見時の記録にある島民の人口、約2000人と一致する。

すると、ダイアモンドの主張する島民の最盛期の人口1万5千人という数字はどこから出てきたのだろうか。ダイアモンドは考古学的遺跡からかつて島に何件の家があったかを推察し、そこから人数を割り出したうえ、端数を切り上げて計算したのだという。つまり推定値でしかないわけで不適切、とブレグマンは主張する。

さらには、数年前、スミソニアン研究所が18世紀の数百体の遺骨を調べたが戦争をした痕跡はなく、みな健康であり、飢えていた証拠はなかったという。

また敵を虐殺したと伝えられている場所からは、その証拠となる人骨、武器などは発見されていないという。

つまりダイアモンドが主張した1万5千人ははじめから存在せず、戦争と虐殺は起きていなかったというのだ。

ブレグマンはさらに、森が消えたのはポリネシア人たちがもちこんだネズミのせいだと主張し、しかも森がなくなったので耕地が増えて、生産量が増大したとさえ主張する(ほんまかいな)。

うーん、ネズミの話はともかく、ブレグマンの主張はかなり説得力があるように思える。これが本当だとすると、わし的にはショックだなあ。ジャレド・ダイアモンドはこれに反論したのか知りたい。

www.hetareyan.com

★★★★☆

 

 

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