ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

自由の命運 日本はどうなのか?

自由の命運で、著者たちは日本についてどのような評価を下しているのか、気になるところです。ですが、日本についてはほんの少ししか述べておらず、こんなようなことが書かれてあるだけです。

ーー日本は第2次世界大戦の敗戦までは典型的な専横型の国家だった。アメリカは戦争により完膚なきまでに日本を叩き、軍事的な妄想を一掃した。そして岸信介のようなエリート官僚を抱きこんで強力な国家を作った。自由民主党は一般民衆に政治参加を促し、日本は回廊へ入ることに成功した。

とまあ、非常に簡単な内容にまとめられて、ちょっと拍子抜けの感じすらします。外から見るとそのように見えるのかもしれません。しかし、日本人の我々から見ると、違和感を覚えないでしょうか?

問題は、アメリカが官僚を抱き込んで強力な国家を作ったというところではありません。民衆が政治に参加をしたというところです。この本の理論が正しければ、日本の社会も強力になって、政治に参加をしたことで、国家に足かせをはめることに成功し、日本は自由の回廊に入ったということでなければならないでしょう。でも日本の社会が国家に足かせをかけられるほど強力なものになったのでしょうか。

著者はそう主張したいのでしょう。しかし、実は著者もこの辺はちょっと自信がないのではないのではないかと思われるのです。たぶんそのせいでしょう、日本の社会自体ついてはほとんど何も触れていないのです。ただ単純にひとこと、一般大衆に政治参加を促すことに成功したと。

さて、実際には何が起きたのでしょう。

中村元は日本人の考え方の特徴として、日本人は現在の利益を重視して過去や未来は気にしない、といいます。また抽象的な原理や概念を思考することが苦手だといいます。つまり日本人は自分にとって得になるかどうかで判断して、自由や人権といったそういう原理からは考えないのです。

 

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このことから日本人、ひいては日本社会が、戦争に負けてどのように思考したかは明らかでしょう。日本の社会は軍国主義が優勢だったときには、軍国主義に賛成して追随しました。そのほうが得だっただからです。しかし、日本が負けて、アメリカが日本の支配者になった途端、日本の社会は軍国主義を捨てて、アメリカの求める自由民主国家を支持したのです。その変化について、日本人はまったく躊躇しなかったはずです。なぜなら、そのほうが得になるからです。おそらく過去の自分の発言との矛盾についても悩むことはなかったでしょう。

このような現状追随型の社会が国家に足かせをかけるほど強力とはとても思えないのではないでしょうか。

しかし、おなじ日本人のこの性質から別のことも言えるのではないか、と思えるのです。

日本人は自分の利益を重視するわけですが、そういう意味で非常に個人主義的です。そのせいか、自分を抑える権威というもの対して基本的に反感を持つような性質があります。反権威主義なのです。

考えてみれば、日本では歴史上、中央集権の政府というものはほとんど発生しませんでした。たぶん明治政府がほぼはじめての例ではないでしょうか。このような中央集権国家をつくることができたのは、外国に植民地されるかもしれないという恐怖から可能だったのであり、普段の日本人の性質からは埒外にある特別なことだったのではないか、という気がします。

このような権威を嫌うという性質が、ある意味、国家に対して歯止めになっている可能性があるのではないでしょうか。

最近のコロナ・パンデミックでわかったことは、給付金を支給することが、他の国では簡単だったのに、日本ではとても難しかったということです。それは国民のデータが整理されてマイナンバー等に一元化されていないからでした。

なぜこうなっているのでしょう。政府がバカだからでしょうか。

いや、そうではないと思います。たぶん日本人はその反権威主義のため、政府に個人データを一元化して補足されることをひどく嫌う人たちなのだと思います。なので、わざとこんなややこしいことになっているのではないでしょうか。

日本人は積極的に自分たちのデータをあやふやにして、政府から自分たちへの影響力を減らそうとしているのだとすると、これは一種のサボタージュに近いのだと思います。

世界でも珍しい、こんな特性を持つ国民を治めなければいけない政府は大変です。しかし、もしかしたら、こういう日本だからこそ、日本なりの方法で国家と社会がお互いに牽制し合っているのだと言えないこともない、そんな気もするのです。

そういう権威を嫌う日本人は、専横的な政府は嫌うでしょう。でも、政治的な参加はあまりしないでしょう。こういう曖昧な状態が自分に得だと国民が思ってる間は、日本では自由と民主主義は続くでしょう。なによりメリットがあるうちはアメリカに追随するでしょうからね。

わしは、日本人というのは、いつまでたってもあやふやな状態で、すき間だらけの社会を作り、権威が自分たちのそばになるべく来ないようにする人たちだと思うのです。

 


自由の命運  国家、社会、そして狭い回廊 上


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自由の命運 国家、社会、そして狭い回廊

ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン 訳・櫻井祐子 早川書房 2020.1.25
読書日:2020.6.20

人が自由であるためには、国家と社会がお互いに牽制し合ってバランスを取った状態でなければならず、そのバランスを取った状態に入ることも、持続させることも難しい、ということを主張している本。

抑圧された人間が自由になるってどういうことだろう。普通イメージするのは、専制的な権力があり、それに耐えられなくなった人々が立ち上がって革命を起こす、というようなイメージではないだろうか。たとえばフランス革命のように。

しかし、いっぽうでは、我々は社会の中にいても、自分は自由ではないと感じる。

例えば、同調圧力の高い日本では、みんなと同じことをするようにと、親、兄弟、親類、学校、地域の人たちから圧力がかかる。なにか変わったことをしようとすると、そんなことはするものじゃないと言われる。一方、誰かが人と違うことをして成功し富を得ると、妬まれ、足を引っ張るようなことをされたり、挙げ句の果てにはなにか悪いことをしたんじゃないかと陰口を叩かれたりする。

今の日本でもそうなのだから、世界には社会の抑圧が強力に働いている社会も存在する。誰かが他人よりも富を蓄えると、周り中の人々が、それを分配するように強要する。この結果、人々に富を蓄えようとするインセンティブが欠け、やがて最低限のこと以外しなくなり、誰もが生きていくのがやっとの状態になる。そんな社会もあるのだ。これは全員が極貧になっても平等の方がいいという社会だ。平等はあるが自由がない。

つまり、強力な国家は人を押さえつけがちだが、強力な社会も人を押さえつける。国家と社会、どちらも人の自由を奪うのだ。

この状態を打破するには、国家と社会がお互いに牽制しあう状態を作ることがひとつの解になる。お互いに牽制することでどちらの力も削ぎ、国家と社会の両方から人を開放することができる。

強力な社会が問題なら、強力な国家を作れれば解決することがある。強力な中央集権的な国家なら、たとえば私有財産を保護する憲法を作り、個人が蓄えた財産を社会に奪われないようにすることができる。こうやって強力な国家は社会から個人を守ることができる。

一方、国家が強力で、大きな力で国民を抑えるのなら、それに抗議する強力な社会が必要になる。強力な社会があれば、例えば、自由選挙の制度を国家に作らせ、国家に自分たちの代表を送り込むことによって、国家の強さを抑えることができる。さらには国家に公共サービスを要求することもできる。たとえば健康保険、義務教育や社会的なインフラだ。

こうして、人は、国家と社会を互いに牽制し合う状態にすることで、国家からも社会からも自由になれる。さらには、国家と社会がお互いに能力を高めるようにすることで、自由の範囲をさらに広げることも可能なのだ。

しかしこのバランスを取ることはなかなか難しいようだ。まずバランスを取った状態にすること自体が非常に難しい。なにしろ一見同じような状態から出発した2つの国が、一方はバランスが取れた状態に達して国民が自由を得るが、一方は専横的な国家になることもあるのだ。そしてようやくバランスが取れた状態になっても、何かのきっかけでそのバランスが崩れてしまい、自由を失ってしまうこともある。

著者たちは、この国家と社会の微妙なバランスが取れた状態を「狭い回廊」と呼び、この回廊に入れた国、逆に回廊に入れなかった国(こっちの方が多い)、また一度は回廊に入ったが回廊から外れてしまった国などについて、いちいち具体的に国名をあげ、その国の歴史をかなり詳しく説明している。なにしろ歴史上には多数の国が発生しているので、どの例もたくさんあるようだ。

しかしここでは、それぞれの場合について詳述するのはやめ、一番気になる国々について著者たちがどういう評価を下しているのか見てみよう。

その国のひとつはもちろんアメリカだ。著者らのアメリカに対する評価は、けっこう辛口だ。

アメリカは建国時に社会(州政府+民衆)の力が大きかった。建国の父たちは強い中央政府が必要だと信じていたが、反発が大きく、結果としては弱すぎる国家ができてしまった。この結果、奴隷制という非人権的な制度が残ってしまった。また連邦政府には全国的に公共サービスを提供する手段が極端に限られてしまった。例えば警察や医療保険は提供できなくなってしまった。それで州政府の専横から国民を守る手段がなくなってしまったのである。

南北戦争後、奴隷はいったんは解放されたかに見えた。だが、警察は州が握っていたので、黒人を犯罪者に仕立ててしまえば黒人を好きなように扱うことができた。こうして、黒人差別はもとに戻ってしまい、それは21世紀の今も尾を引きずっている。

また、連邦政府は公共サービスが提供できないので、連邦政府はほとんど全ての公共サービスを民間とのパートナーシップで提供するようになった。たとえば大陸横断鉄道は、民間の鉄道会社に敷設を任せた。そのインセンティブとして、線路の周辺の土地を与えるという方法を使った。(鉄道会社は土地を売って大儲けした)。

国家事業は民間とのパートナーシップが基本のため、戦争においてすら民間の会社を活用するようになっており(イラク戦争で民間の戦争請負会社が存在することが分かって世界を驚かせた)、医療保険も民間を中心にしたいびつなものになっている。

連邦政府はあとになって、さまざまな制度を秘密裏に作って国家を強化することになった。例えば連邦国家の警察能力であるFBIは、司法省内にひそかに発足し、後になって実際に制度化された。似たような方法で発足した組織にはCIAのほか、スノーデン事件で有名になったNSAなどがある。これらの組織の問題点は、秘密裏に発足した経緯もあり、誰にも説明責任を負っていないということで、大統領すらその実態を掴めないという。(記憶ではFRBもかなりどさくさに紛れて秘密裏に設立された気がする)。

こうして、アメリカの場合、国家の力が弱すぎたために、今でも狭い回廊の中にいるものの、国家の能力を増やして行く方法は限られており、今後も国家の問題に対応していけるかに問題を抱えている。最近の新型コロナ蔓延のさなかに起きたミネソタ州のジョージ・フロイド事件を見ても、アメリカの問題は多くは解決されていない。

もう一つの国はもちろん中国である。

かつて鄧小平が中国を開国に向かわせたとき、世界は中国も豊かになれば民主化が進むだろうと期待して、協力した。中国は豊かになったが、中国共産党は中国国民を監視し抑圧を強めている。もちろん少数民族の人たちも香港人も抑圧しており、中国が民主国家になる気配はない。

結局のところ、中国には国家に対抗する社会の力はまったくない、ということである。歴史的に見ても、中国は基本的に法家の思想によって治められている。法家の思想は国家が社会を押しつぶすことで秩序を作ることを基本にしている。一方、儒教は皇帝に民の声を聞く「仁」の政治を勧めいる。たが、その場合でも皇帝の権威は絶対で、民が政治に参加することを認めていない。

このように、社会の力がまったくないため、中国は回廊の中にはいることはあり得ないという。そして自由が全くないところではイノベーションが起きず、経済発展は限られるという。

この理論は非常に分かりやすいため、自由について、それぞれの国がどのような方向に向かうかを考えるのに、一定の枠組みを提供していると言えそうだ。

著者たちは、自由の狭い回廊が今後どうなるかについて懸念を強めているようだ。特に世界的なポピュリズムの中で、専横的になっていく国家に対して社会が対抗できるのどうかを心配しているようだ。そこにはもちろんトランプ政権を抱えるアメリカが含まれる。しかし、ジョージ・フロイド事件で、アメリカ中市民がデモに立ち上がった様子をみると、アメリカの社会はまだそうとう力強さを保っていると言えいえるのではないだろうか。

なお、日本については別に議論したい。

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最後に、この本で使っている特別な用語についてメモを残すことにする。

リヴァイアサン》:ホッブスの本の題名。無秩序を抑えるための力のこと。伝説の海獣の名前。

《専横のリヴァイアサン》:民衆を支配しようとする国家のこと。

《不在のリヴァイアサン》:民衆を押さえつける社会のこと。

《足枷のリヴァイアサン》:国家と社会がお互いに牽制されて、どちらも大きな力を発揮できないようになった状態。狭い回廊にいる状態。

《赤の女王効果》:国家と社会がお互いに牽制し合う中で、お互いに能力を高めていく効果のこと。鏡の国のアリスの話からきている。

★★★★★


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読書という荒野

見城 徹 幻冬舎 2018年6月6日
読書日:2018年09月09日

戦争体験を別にすれば、読書体験こそがもっとも人間の幅を広げるのに有効と主張する本。自分に影響を与えた読書を振り返りつつ、熱く語る。

少年青年時代に読んでいた本を聞くと、わしと重なるところが結構あって、びっくりした。だが、同じ本を読んでいても、著者と真逆といっていいほどの逆の影響を受けている。例えば、著者は真の読書人は左翼に傾倒するという。だが、わしは逆に左翼を嫌悪する方向に行ったので、まったく逆である。わしは左翼の理想主義に眉唾を感じたのだから。

逆に、リバタリアン系の本を全く紹介していないのはどうしてなのだろう。例えばアイン・ランドの本はわしがこれだけ影響を受けているというのに。(日本で出版されたのは確かに21世紀に入ってからだが)。

でも、たぶん、もっとも大きな違いは、わしが影響を受けたSF系の本が全くないことだろう。そして社会科学系、科学系の本も全くない。つまり、氏が影響をうけたのは、ほぼ全てが文学しかないのである。

だが、一番興味深いのは、編集者になるまでの読書体験はとても参考になるのに、編集者になってからの話が急に薄っぺらになってしまうこと。「編集者という病」をすでに読んでいるせいもあるのかもしれないが、編集者になってからの読書は、著者にとっては付け足し的なものなのかもしれない。学生運動を全うできなかったという負い目を払しょくするための…。

★★★★☆

 


読書という荒野 (NewsPicks Book)

ダルタニャンの生涯 −史実の『三銃士』−

佐藤賢一 岩波新書 2002.2.20
読書日:2020.6.6

フランスの歴史小説を得意とする佐藤賢一が、ダルタニャンのモデルとなった本物のダルタニャンの生涯を語るというノンフィクション。

三銃士は読んだこともあるし、映画も観たことあるが、まさかモデルがいるとは知らなかった。しかもダルタニャンだけでなく、アトス、ポルトス、アラミスの三銃士にもモデルがいるのだ。実に不思議で意外な事実である。

で、この4人に共通するのが、フランスとスペインの国境地帯にあるガスコーニュ地方の出身者、ガスコンであるということなんだそうだ。ガスコーニュは軍人を輩出した地方で、田舎貴族で次男、三男で家督を継げなかった若いガスコンは、フランス軍に職を求めるというのが定番だったらしい。当時、フランス国王は常備軍を整備していた頃で、職業としての軍人が選択肢としてあり得るようになってきた頃だという。

ダルタニャンは四男だったらしく、当然家督に縁がなかったので、一旗揚げようとパリにやってきた。当時は縁故採用が普通だったので、銃士隊にいるガスコンの親戚を頼って、無事に銃士隊に入隊することができたらしい(1633年頃)。当時、三銃士の悪役だった枢機卿リシュリューの時代だったが、この時代のダルタニャンはどんな感じだったのか、まったく動静がわかっていない。

リシュリューはその後しばらくして亡くなり、その後を継いだのが枢機卿マゼランだった。ダルタニャンはそのマゼラン枢機卿の秘書として突然、歴史に姿を現す。そして、枢機卿の代理のような立場で、あちこちの戦場や有力者の間を飛び回っていたらしい。そのころ、フランスはドイツ三十年戦争に介入していたのだ。

そこに三十年戦争の戦費のために課した重税に反発してフロンドの乱が発生する(1646年)。マゼラン枢機卿は絶体絶命になり亡命する。ダルタニャンはこの乱の間、マゼラン枢機卿への忠誠を近い、この乱が収まってマゼラン枢機卿が復活したとき、近衛隊長代理に就任する。その後、いろいろあって結局、精鋭部隊である近衛銃士隊の隊長代理になり、出世の足場を固める。(銃士隊の隊長は国王なので、実質的な隊長)。

やっぱりダルタニャンといえば銃士隊で、史実のダルタニャンも近衛銃士隊のトップになったのだ。

その後マゼラン枢機卿が亡くなり、その後を継いだ実力者が財務長官フーケだった。しかし国王ルイ十四世は、邪魔になったフーケを失脚させることにし、その逮捕、監禁の任をうけたのが、国王に信任の厚いダルタニャンだった(1661年)。この仕事は非常に難しいものだったが、ダルタニャンは見事にその仕事をやりとげ、国王の信頼を不動のものにしている。しかも、相手のフーケにも男気のある親切な対応をして、二人の間には友情のようなものまで育ったという。

こうしてしっかりとフランス政府内に地位を確立したダルタニャンは、戦時には将軍のような立場で遇されていたが、リール市の総督を務めたあと、オランダのマーストリヒトで銃弾に倒れて亡くなったという(1673年)。部下に慕われていた彼が倒れたとき、銃弾が降ってくる中、何人もの部下が彼を運んだという。

なお、亡くなったあと、遺産はほとんどなく、借金すらあったという。出世はしたが、蓄財には縁がなかったのは、いかにもダルタニャンらしいと思った。

さて、その後、1700年に、サンドラスという作者の《ダルタニャンの覚え書き》という偽の回想録が出版され、さらにそれをもとにしたデュマの《三銃士》が1844年に発表されると、この歴史の中に埋没してしまっても不思議ではないダルタニャンは、フィクションとして不朽の名声を博してしまう。

しかし、敵にも味方にも愛される、自分の信念を貫く熱血漢という点に関しては、フィクションではなく史実だったのだ。

佐藤賢一も言っているが、初めて訳したひとはよく「三銃士」と訳したものだと思う。「銃士」という言葉には、騎士に近い、人間の生き方のようなものを感じるではないか。

★★★☆☆

 


ダルタニャンの生涯―史実の『三銃士』 (岩波新書)

新型コロナウイルスの影響をどう見るか(5)

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新型コロナウイルスの影響が市場にどんなふうに出るか考察するシリーズですが、いまのところ、よくわからないというのが正直なところです。

新型コロナウイルスの影響をどう見るか(3) - ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

上の投稿で、株価が少し戻っただけでわしの金融資産は元に戻ったといいましたが、その後も株価の上昇が続き、ついには過去最高の水準で推移しているのです。不況の中の異常な、ある意味、不思議な株高といっていいでしょう。

これをどうとらえればいいのでしょうか。

普通に考えれば、日銀が買いまくってるから、ということになるのでしょう。世界各国も大幅な金融緩和をしていることも確かです。でも、それだけでは下支えになっても、ここまでの株価上昇はちょっと想定外です。

あり得るとしたら、新型コロナウイルスの影響はどんなものか、だいたい分かった、と市場が見ているということでしょう。リスクは影響が分からないから高くなるのであって、今後、第2波、第3波が来た時も、まあだいたいこんな程度だろうという予想がつくようになったので、不安が減り、リスクは大きく低下したのでしょう。

それはそうなのですが、一方ではやっぱり今後もそんなにうまくいくかなあ、という気がしています。破綻する企業は予想通りに破綻するでしょうが、破綻するはずがないと思われた企業が破綻した時、市場はやっぱり疑心暗鬼になって、株価は急激に落ち込むのじゃないでしょうか。わしはとくにヨーロッパの銀行に不安を持っています。(ECBのラガルドさん、お願いしますよ)。

そういうわけで、相場が落ちた時のために、高めた現金比率はそのままにしておこうと思います。いつバーゲンが発生してもいいように備えておかなくては。

それはそうと、わしの勤めている会社も順調に業績が落ちており、従業員を休業させて国から補助金を得ようとしています。6月は実に半分を休まなくてはいけません。それなのに、仕事は減らないので、今月はむちゃくちゃ働いています。だらだら働くのがわしの仕事スタイルなのに、こんなに一生懸命働くとは。(苦笑)

まあ、わしが勤めているのはそれなりに大きな会社で休業手当の補助の申請処理もできるんでしょうが、中小企業だとなかなかこういう申請書類を整えるのも大変なんじゃないでしょうか。日本の行政システム、もっと簡単になりませんかねえ。

そうそう、それから、週に一回の出社も始まりました。改めて思うけど、会社、遠いですね(笑)。通勤に1時間かかるんですけど、なんか耐えられそうにない。

値下がりしたペッパーフードサービスを買いました。優待でいきなりステーキ食べたいな。

 

新型コロナウイルスの影響をどう見るか - ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

新型コロナウイルスの影響をどう見るか(2) - ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

新型コロナウイルスの影響をどう見るか(3) - ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

新型コロナウイルスの影響をどう見るか(4) - ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

 

 

数学の大統一に挑む

エドワード・フレンケル 文藝春秋 2015年7月13日
読書日:2016年04月25日 23:25

旧ソ連ユダヤ人であるがゆえに大学に進めず、それでもあきらめずに数学を続け、やがてあらゆる形式の数学がどれも同一のものを表しているという数学の大統一論に挑み、ソ連を脱出してアメリカで研究を続けるという、数学の最先端と自伝が一体になった本。

数学の本で久々に面白かったです。ユダヤ人差別の旧ソ連で、諦めずに数学の道をまい進した著者も偉いが、何百年にわたって数学を発展させてきた数学者の皆さんも偉いと思いました。

しかしそれにしても数学というのは不思議です。なぜこんなに物理と親和性のある構造になっているんだろうかと不思議でなりません。わしの考えでは、私たちが数学の世界を考えられるのも、具体的な肉体とか肉体を構成している時空とかの構造を通してなので、物理の限界がそのまま数学の限界になっているのではないかということでした。

そして、改めて素数の不思議には目を見張らされましたね。本当に素数って何でしょう。素数が分かれば、きっとすべてが繋がるんじゃないかなあと思いました。

★★★★★


数学の大統一に挑む (文春e-book)

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

高橋 昌一郎 講談社 2008年6月17日
読書日:2010年07月27日

これを読んでいると、20世紀はいろんな限界が明らかになったんだなあということがよく分かる。しかも、それが理論的に導き出される、というのが興味深い。つまり理性が自分の限界を理性的に導き出しているわけだ。そのせいか、どの限界もどことなく構造が似ている。具体的にはパラドックスやシステムの自己言及性といったことに関係している。

そのなかにあって科学の限界である量子力学の話は異質なような気もするし、他の限界と似ているような気もするし、ちょっと判断が迷う。その理由は、他の限界が実体がないか頭の体操的な感じがするのに、量子力学だけは実験が可能だからだ。だが、おそらく、量子力学は他の限界と関係していると強く思う。

民主主義と決定が両立しない「アロウの不可能性定理」は初めて知った。驚きだ。またスマリヤンが示した「ゲーデル不完全性定理」の状態を示す具体例はあまりに簡単でこれも驚き。

なぜ人間はこのような論理の限界を証明できるのだろう。ゲーデルがいうように、人間は論理を超えた存在としか言いようが無い。論理は人間の思考の機能の一部に過ぎないということなのだろうか?

★★★★★

 


理性の限界 不可能性・不確定性・不完全性 限界シリーズ (講談社現代新書)
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