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自由の命運 国家、社会、そして狭い回廊

ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン 訳・櫻井祐子 早川書房 2020.1.25
読書日:2020.6.20

人が自由であるためには、国家と社会がお互いに牽制し合ってバランスを取った状態でなければならず、そのバランスを取った状態に入ることも、持続させることも難しい、ということを主張している本。

抑圧された人間が自由になるってどういうことだろう。普通イメージするのは、専制的な権力があり、それに耐えられなくなった人々が立ち上がって革命を起こす、というようなイメージではないだろうか。たとえばフランス革命のように。

しかし、いっぽうでは、我々は社会の中にいても、自分は自由ではないと感じる。

例えば、同調圧力の高い日本では、みんなと同じことをするようにと、親、兄弟、親類、学校、地域の人たちから圧力がかかる。なにか変わったことをしようとすると、そんなことはするものじゃないと言われる。一方、誰かが人と違うことをして成功し富を得ると、妬まれ、足を引っ張るようなことをされたり、挙げ句の果てにはなにか悪いことをしたんじゃないかと陰口を叩かれたりする。

今の日本でもそうなのだから、世界には社会の抑圧が強力に働いている社会も存在する。誰かが他人よりも富を蓄えると、周り中の人々が、それを分配するように強要する。この結果、人々に富を蓄えようとするインセンティブが欠け、やがて最低限のこと以外しなくなり、誰もが生きていくのがやっとの状態になる。そんな社会もあるのだ。これは全員が極貧になっても平等の方がいいという社会だ。平等はあるが自由がない。

つまり、強力な国家は人を押さえつけがちだが、強力な社会も人を押さえつける。国家と社会、どちらも人の自由を奪うのだ。

この状態を打破するには、国家と社会がお互いに牽制しあう状態を作ることがひとつの解になる。お互いに牽制することでどちらの力も削ぎ、国家と社会の両方から人を開放することができる。

強力な社会が問題なら、強力な国家を作れれば解決することがある。強力な中央集権的な国家なら、たとえば私有財産を保護する憲法を作り、個人が蓄えた財産を社会に奪われないようにすることができる。こうやって強力な国家は社会から個人を守ることができる。

一方、国家が強力で、大きな力で国民を抑えるのなら、それに抗議する強力な社会が必要になる。強力な社会があれば、例えば、自由選挙の制度を国家に作らせ、国家に自分たちの代表を送り込むことによって、国家の強さを抑えることができる。さらには国家に公共サービスを要求することもできる。たとえば健康保険、義務教育や社会的なインフラだ。

こうして、人は、国家と社会を互いに牽制し合う状態にすることで、国家からも社会からも自由になれる。さらには、国家と社会がお互いに能力を高めるようにすることで、自由の範囲をさらに広げることも可能なのだ。

しかしこのバランスを取ることはなかなか難しいようだ。まずバランスを取った状態にすること自体が非常に難しい。なにしろ一見同じような状態から出発した2つの国が、一方はバランスが取れた状態に達して国民が自由を得るが、一方は専横的な国家になることもあるのだ。そしてようやくバランスが取れた状態になっても、何かのきっかけでそのバランスが崩れてしまい、自由を失ってしまうこともある。

著者たちは、この国家と社会の微妙なバランスが取れた状態を「狭い回廊」と呼び、この回廊に入れた国、逆に回廊に入れなかった国(こっちの方が多い)、また一度は回廊に入ったが回廊から外れてしまった国などについて、いちいち具体的に国名をあげ、その国の歴史をかなり詳しく説明している。なにしろ歴史上には多数の国が発生しているので、どの例もたくさんあるようだ。

しかしここでは、それぞれの場合について詳述するのはやめ、一番気になる国々について著者たちがどういう評価を下しているのか見てみよう。

その国のひとつはもちろんアメリカだ。著者らのアメリカに対する評価は、けっこう辛口だ。

アメリカは建国時に社会(州政府+民衆)の力が大きかった。建国の父たちは強い中央政府が必要だと信じていたが、反発が大きく、結果としては弱すぎる国家ができてしまった。この結果、奴隷制という非人権的な制度が残ってしまった。また連邦政府には全国的に公共サービスを提供する手段が極端に限られてしまった。例えば警察や医療保険は提供できなくなってしまった。それで州政府の専横から国民を守る手段がなくなってしまったのである。

南北戦争後、奴隷はいったんは解放されたかに見えた。だが、警察は州が握っていたので、黒人を犯罪者に仕立ててしまえば黒人を好きなように扱うことができた。こうして、黒人差別はもとに戻ってしまい、それは21世紀の今も尾を引きずっている。

また、連邦政府は公共サービスが提供できないので、連邦政府はほとんど全ての公共サービスを民間とのパートナーシップで提供するようになった。たとえば大陸横断鉄道は、民間の鉄道会社に敷設を任せた。そのインセンティブとして、線路の周辺の土地を与えるという方法を使った。(鉄道会社は土地を売って大儲けした)。

国家事業は民間とのパートナーシップが基本のため、戦争においてすら民間の会社を活用するようになっており(イラク戦争で民間の戦争請負会社が存在することが分かって世界を驚かせた)、医療保険も民間を中心にしたいびつなものになっている。

連邦政府はあとになって、さまざまな制度を秘密裏に作って国家を強化することになった。例えば連邦国家の警察能力であるFBIは、司法省内にひそかに発足し、後になって実際に制度化された。似たような方法で発足した組織にはCIAのほか、スノーデン事件で有名になったNSAなどがある。これらの組織の問題点は、秘密裏に発足した経緯もあり、誰にも説明責任を負っていないということで、大統領すらその実態を掴めないという。(記憶ではFRBもかなりどさくさに紛れて秘密裏に設立された気がする)。

こうして、アメリカの場合、国家の力が弱すぎたために、今でも狭い回廊の中にいるものの、国家の能力を増やして行く方法は限られており、今後も国家の問題に対応していけるかに問題を抱えている。最近の新型コロナ蔓延のさなかに起きたミネソタ州のジョージ・フロイド事件を見ても、アメリカの問題は多くは解決されていない。

もう一つの国はもちろん中国である。

かつて鄧小平が中国を開国に向かわせたとき、世界は中国も豊かになれば民主化が進むだろうと期待して、協力した。中国は豊かになったが、中国共産党は中国国民を監視し抑圧を強めている。もちろん少数民族の人たちも香港人も抑圧しており、中国が民主国家になる気配はない。

結局のところ、中国には国家に対抗する社会の力はまったくない、ということである。歴史的に見ても、中国は基本的に法家の思想によって治められている。法家の思想は国家が社会を押しつぶすことで秩序を作ることを基本にしている。一方、儒教は皇帝に民の声を聞く「仁」の政治を勧めいる。たが、その場合でも皇帝の権威は絶対で、民が政治に参加することを認めていない。

このように、社会の力がまったくないため、中国は回廊の中にはいることはあり得ないという。そして自由が全くないところではイノベーションが起きず、経済発展は限られるという。

この理論は非常に分かりやすいため、自由について、それぞれの国がどのような方向に向かうかを考えるのに、一定の枠組みを提供していると言えそうだ。

著者たちは、自由の狭い回廊が今後どうなるかについて懸念を強めているようだ。特に世界的なポピュリズムの中で、専横的になっていく国家に対して社会が対抗できるのどうかを心配しているようだ。そこにはもちろんトランプ政権を抱えるアメリカが含まれる。しかし、ジョージ・フロイド事件で、アメリカ中市民がデモに立ち上がった様子をみると、アメリカの社会はまだそうとう力強さを保っていると言えいえるのではないだろうか。

なお、日本については別に議論したい。

www.hetareyan.com

最後に、この本で使っている特別な用語についてメモを残すことにする。

リヴァイアサン》:ホッブスの本の題名。無秩序を抑えるための力のこと。伝説の海獣の名前。

《専横のリヴァイアサン》:民衆を支配しようとする国家のこと。

《不在のリヴァイアサン》:民衆を押さえつける社会のこと。

《足枷のリヴァイアサン》:国家と社会がお互いに牽制されて、どちらも大きな力を発揮できないようになった状態。狭い回廊にいる状態。

《赤の女王効果》:国家と社会がお互いに牽制し合う中で、お互いに能力を高めていく効果のこと。鏡の国のアリスの話からきている。

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