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ダルタニャンの生涯 −史実の『三銃士』−

佐藤賢一 岩波新書 2002.2.20
読書日:2020.6.6

フランスの歴史小説を得意とする佐藤賢一が、ダルタニャンのモデルとなった本物のダルタニャンの生涯を語るというノンフィクション。

三銃士は読んだこともあるし、映画も観たことあるが、まさかモデルがいるとは知らなかった。しかもダルタニャンだけでなく、アトス、ポルトス、アラミスの三銃士にもモデルがいるのだ。実に不思議で意外な事実である。

で、この4人に共通するのが、フランスとスペインの国境地帯にあるガスコーニュ地方の出身者、ガスコンであるということなんだそうだ。ガスコンはフランス軍の軍人を輩出した地方で、田舎貴族で次男、三男で家督を継げなかった若いガスコンは、フランス軍に職を求めるというのが定番だったらしい。当時、フランス国王は常備軍を整備していた頃で、職業としての軍人が選択肢としてあり得る形になってきた頃だという。

ダルタニャンは四男だったらしく、当然家督に縁がなかったので、一旗揚げようとパリにやってきた。当時は縁故採用が普通だったので、銃士隊にいるガスコンの親戚を頼って、無事に銃士隊に入隊することができたらしい(1633年頃)。当時、三銃士の悪役だった枢機卿リシュリューの時代だったが、この時代のダルタニャンはどんな感じだったのか、まったく動静がわかっていない。

リシュリューはその後しばらくして亡くなり、その後を継いだのが枢機卿マゼランだった。ダルタニャンはそのマゼラン枢機卿の秘書として突然、歴史に姿を現す。そして、枢機卿の代理のような立場で、あちこちの戦場や有力者の間を飛び回っていたらしい。そのころ、フランスはドイツ三十年戦争に介入していたのだ。

そこに三十年戦争の戦費のために課した重税に反発してフロンドの乱が発生する(1646年)。マゼラン枢機卿は絶体絶命になり亡命する。ダルタニャンはこの乱の間、マゼラン枢機卿への忠誠を近い、この乱が収まってマゼラン枢機卿が復活したとき、近衛隊長代理に就任する。その後、いろいろあって結局、精鋭部隊である近衛銃士隊の隊長代理になり、出世の足場を固める。(銃士隊の隊長は国王なので、実質的な隊長)。

やっぱりダルタニャンといえば銃士隊で、史実のダルタニャンも近衛銃士隊のトップになったのだ。

その後マゼラン枢機卿が亡くなり、その後を継いだ実力者が財務長官フーケだった。しかし国王ルイ十四世は、邪魔になったフーケを失脚させることにし、その逮捕、監禁の任をうけたのが、国王に信任の厚いダルタニャンだった(1661年)。この仕事は非常に難しいものだったが、ダルタニャンは見事にその仕事をやりとげ、国王の信頼を不動のものにしている。しかも、相手のフーケにも男気のある親切な対応をして、二人の間には友情のようなものまで育ったという。

こうしてしっかりとフランス政府内に地位を確立したダルタニャンは、戦時には将軍のような立場で遇されていたが、リール市の総督を務めたあと、オランダのマーストリヒトで銃弾に倒れて亡くなったという(1673年)。部下に慕われていた彼が倒れたとき、銃弾が降ってくる中、何人もの部下が彼を運んだという。

なお、亡くなったあと、遺産はほとんどなく、借金すらあったという。出世はしたが、蓄財には縁がなかったのは、いかにもダルタニャンらしいと思った。

さて、その後、1700年に、サンドラスという作者の《ダルタニャンの覚え書き》という偽の回想録が出版され、さらにそれをもとにしたデュマの《三銃士》が1844年に発表されると、この歴史の中に埋没してしまっても不思議ではないダルタニャンは、フィクションとして不朽の名声を博してしまう。

しかし、敵にも味方にも愛される、自分の信念を貫く熱血漢という点に関しては、フィクションではなく史実だったのだ。

佐藤賢一も言っているが、初めて訳したひとはよく「三銃士」と訳したものだと思う。「銃士」という言葉には、騎士に近い、人間の生き方のようなものを感じるではないか。

★★★☆☆

 


ダルタニャンの生涯―史実の『三銃士』 (岩波新書)

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