ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

日本進化論

落合陽一 SBクリエイティブ 2019.1.8
読書日:2020.2.1

落合陽一が各界のひととグループディスカッションをした内容をまとめたもの。

グループディスカッションという形態のせいか、いまいち切れが悪いように感じた。なにか総花的なの。どの議論もどこか新聞や雑誌で出てきた議論をなぞっているような感じがして、得るところが少ない。

たとえば高齢化社会を考えるときに、車の運転のことばかり議論されて、それは自動運転で解決できるみたいな。そりゃそうだよね。そんなのみんなわかってるんじゃないの?

日本に財源がない。それじゃあ、生産性を上げましょう、テクノロジーをがんがん使えば生産性上がって、給料も上がって、財源問題も解決。そりゃそうだよね。

なんか万事がこの調子なので、どうも得るところが少ない。

こんな平均的な意見ではなくて、極論でもいいから、もっと視野を広げるような、話が聞きたいなあ。

★★☆☆☆

 


日本進化論 (SB新書)

情動はこうしてつくられる 脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

リサ・フェルドマン・バレット 高橋洋・訳
読書日:2020.2.5

情動が構成主義的に脳により作られていると主張する本。

近年、脳がどのように働いているのかが分かってきて、情動(emotion)がどのようにつくられてくるのかについても、新しい考え方が生まれてきた。著者は構成主義の立場を取り、情動はそのときの状況に応じて、脳が構成するのだという。

すべての精神活動は脳が作り出すのだから、脳が情動を構成するといっても当たり前のような気もする。ではこの考え方のどこが新しいのだろうか?

こんな話を聞いたことがないだろうか。人間の脳は進化的に発展してきて、基本的な生命活動を担う最古の脳の上に、情動を担う古い爬虫類の脳があり、その上に理性をつかさどる人間の新しい脳があると。つまり、人間の脳は三層構造でできていて、人間は新しい脳の理性で動物の荒々しい情動を押さえ込んでいるというのだ。

この考え方では、(爬虫類の)脳の特定の部位が怒りとか悲しみといった情動を担っていることになる。しかし、科学者がいくら探しても、そんな部位は発見できなかった。著者は、情動は特定の部位ではなく、脳全体で作り出していると主張しているのである。

脳全体で構成するとはどういうことだろう。もう少し詳しくみてみよう。

クオリアという言葉がある。これは我々が感じる質感のことで、我々は新鮮な果物のみずみずしさ、鋼鉄の冷たく固い感じなど、現実の世界を生々しく体験することができる。なぜこのような生々しさを感じるかというと、われわれが生の現実の世界に生きていると思ったら大間違いで、実際には脳が再構成した現実の中を生きているのである。この時、脳が再構成した現実にはその物質の質感に対する「予想」の情報も含まれているため、生々しく感じるのだ。ときどきその予想が外れて、例えばふかふかで柔らかいものだと思って触ってみたら、固い材料でできていたというような勘違いはいくらでも起きる。予想が外れたわけだが、このとき脳は素早く現実を作り直す。すると、一度固いと認識したものは、二度と柔らかいと思えなくなる。

このように、予想して再構成した現実に付加する情報のひとつに、自分がどう感じるかという情動の予想も含まれるのである。

なにかひどい差別的なことを言われて怒りを覚えたとき、なにか失敗してみんなに見られてばつの悪い思いをしたとき、そんなときはその状況にあわせて、脳は情動を構成する。それは文化的、社会的な文脈を考慮して、脳が予想した情動なのだが、まさしくわれわれはそれを現実だと信じ生々しく感じるのである。(そして、その生々しさのために、自分の内部にもともと備わっていたものであると、勘違いしてしまう)。

こうした情動に対する構成主義的な考え方は、まだ一般的ではないが、脳の動きを観測できるようになるとともに徐々に広がりつつあるようだ。

しかし、もしも情動がこのように作られることが理解されると、その影響はものすごく大きい。あらゆる人間活動が再定義されなくてはいけなくなる。

例えば、「彼女がせせら笑ったとき、激情に駆られて彼女を殴りました」というとき、この激情はとはなんだろうか。激情に駆られるとは、理性で押さえつけられないほどの感情の高まりのことだと従来は考えられてきた。なので、激情に駆られたときには、ある程度情状酌量の余地があるように思われていた。なにしろそれは激情をつかさどる古い脳のせいなのだから。しかし、脳全体で情動が構築されるとすると、そういった情状酌量の余地はなくなってしまう。したがって裁判などの法律の領域に大きな影響を与える。

これまで人はいろんなことを情動のせいにしてきた。だが、今後は情動のせいにできないとするとどうすればいいのだろうか。

情動が脳の予想(シミュレーション)に過ぎないとすれば、不適切な情動というのは、つまり予想が外れたわけだ。脳が質感の情報を素早く訂正できたように、情動の予想も外れたら、それはもう一度再構成しなおすことができることを意味している。したがって、われわれは情動の起こり方を制御できるようになれるはずなのだ。今後はどうやら、人は情動を制御する方法を学ばなければいけない、ということになりそうだ。

そのほか、うつ病自閉症などの脳に起因する心理的な病に対する理解も大いに変わることが予想できるのである。

★★★★☆

 


情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

 

ナイルパーチの女子会

柚木麻子 文春文庫 2018.2.10
読書日:2020.1.30

(ネタばれあり。注意)

この著者を全く知らずに読みましたが、絶対女子高出身だろうと思ってたら、本当にそうだったようです。(笑)あまりにも女子間の微妙なニュアンスに詳しすぎる。

何人か主要な登場人物がいますが、事実上の主人公は商社に勤める栄利子。仕事はできてますが、女友達が全くできず、楽しそうな女子会にあこがれています。では男に好かれているのかというと、かわいいのでそれなりに近づいてくる男もいるようですが、結局長続きしません。でも、それは気にならないらしく(男はどうとでもコントロールできると踏んでいるのかも)、ともかく女友達と楽しく過ごすような生活にあこがれています。

ストーカー気質で、お気に入りの脱力系主婦ブロガーの翔子にあこがれ、彼女の行きつけの喫茶店で知り合うことに成功。自転車の後ろに乗せてもらい送ってもらうと、本当の友達になれた、と感動しますが、最初のここんところが二人の関係のピーク。その後、翔子につきまといますが、彼女が自分の思い通りの行動をしないと、彼女の弱みを握って脅迫し、友達ごっこを続行。こんなのでうまく行くはずもなく、そのことにようやく気が付いて、女子会を解散することになるというのが、あらすじですが、ところどころ栄利子の発想に驚かされます。

たとえば、派遣社員の真織の婚約者で同僚の杉本と寝てしまい、真織が怒って、罰として結婚式までに同僚の男23人全員と関係を持つようにと言うと、本当にそのミッションをこなそうとします。よく分かりませんが、ミッションを与えられると、それを完遂しようとする、不思議な性格のようです。頭はいいのですが、どこか基本的なところでバカすぎて、めまいがします。

女子会がなくなり、すべての人間関係が行き詰まるのは、4分の3ぐらいのところで、残りの4分の1はそれぞれが自分の道を探すような成り行きになります。この辺はほんわかする方向で進みますが、自分としてはさらに極端に進む方を期待していましたので、ちょっと意外。

ところで、わしは栄利子みたいな子は、会社の経営をするか、海外のバックパック一人旅ぐらいをすると、大いに成長するんじゃないかと思いながら読んでましたが、最後は本当に栄利子は自分から遠くへ行こうとするところで終わっています。こういうことを大学時代までにやっておけばよかったのに。

栄利子は商社の水産部に所属していて、彼女の仕事は、アフリカのタンザニアからナイルパーチという魚を輸入すること。外来種ビクトリア湖の生態系を変えてしまったくらい凶暴で、共食いも辞さないそうです。なので、ナイルパーチの女子会とは、仲間外れ同士が集まるけれど、共食いになってお互いに傷つけ合う女子会、ぐらいの意味でしょうか。

まあ、男で女でも友達とのポジションで悩むことはあるわけで、そういう意味では誰もが思い当たるところがあるから、なんとなく栄利子の気持ちも分かるので、身につまされる気になります。

笑ったのは、芋けんぴが杉本に刺さって血だらけになるところ。本当に芋けんぴが人に刺ささって血だらけにできるのか、気になって会社の帰りにスーパーで買ってしまいました。どうですかね。刺さりますかね?

この本、じつは会社の同僚(女性)に勧められたもの。全然期待していなかったけど、めちゃくちゃ面白かった。でも、勧められていなければ絶対に読まなかった類の本ですね。

★★★★☆

 


ナイルパーチの女子会 (文春文庫)

 

危機と人類

ジャレド・ダイアモンド 小川敏子・川上純子・訳 日本経済新聞出版社 2019/10/26
読書日:2020/1/28

久しぶりに日本の出版社の題名の付け方に殺意を抱いた。普通こういうような題名で著者がジャレド・ダイアモンドなら、人類がこれまで絶滅の危機にどのように立ち向かったか、という話だと思うじゃない、少なくとも数千年のスケールの?

でも、原題は「UPHEAVAL: Turning Points for Nations in Crisis」で直訳すれば、「大変動:危機における国家のターニングポイント」というわけで、人類というスケールではまったくなく、危機に陥った国家(それも近代の国民国家)がどうやって危機を乗り越えるのかという話なのでした。

最後の方で、人類全体の危機についても述べるから、間違っているわけではないが、非常に誤解を招く題名で、もちろんわざとやってるんだろうけど、わしのようにジャレド・ダイアモンドの新作なら中身も確認せずに読もうとする人は、きっと不意打ちを食らってしまったことでしょう。(しかもこのページ数で上下2冊に分冊とは)。

さて、ダイアモンドは、国家の危機を分析するにあたって、個人が危機に陥ったときの対処の方法と比較している。それによると人は危機に陥ったときの対応として、12の要素に分けられるといい、それをフォーマット化している。例えば、まず危機に陥っていることを認め、対処するべき部分を明確にし、周りに助けを求め、一度で諦めずに別の方法を試す、などといったことである。こういう分析用のフォーマットを作るのは悪くない。

前半では、ここ200年内に起こった危機を迎えた国家をいくつか述べている。とくに日本についての言及が多く、明治日本の対処方法は典型的なケースとしてかなり詳細に語られている。その他では、フィンランドインドネシアの例が、わしには興味深かった。

後半では、今起こっている危機についてダイアモンドが語ってくれるのだが、それにも日本のことが詳しく書かれてある。ダイアモンドにとっては日本は危機だらけの国のようだ(苦笑)。

それによると、日本は戦争を起こした歴史を直視ないことで韓国と中国と関係が問題になっているとしている。だか、韓国との関係では従軍慰安婦や徴用工問題を例に出しているのはいただけない。この2つはどう考えても捏造なのだが、ジャレド・ダイアモンドのような人もこれを事実と捉えられていることにすこしめまいを感じる。

とはいえ、日本が戦争を直視していないことは事実で、学校でも教えていないし、こちらから攻めたことについては何ら反省もせず、なんかひどい目にあったぐらいの自己憐憫の感情しかなさそうに思える。戦前と戦後で歴史的な感覚が繋がっておらず、なにか別の国の話をしているかのように感じるのはわしだけではないのでは。

たぶん日本人はまだ負けたショックから本当に立ち直っていないと思う。事実を客観的に直視できないのではないだろうか。このショックから立ち直るにはまだ時間が必要で、わしの見立てでは、たぶんあと数世代かかるんじゃないの? もしかしたらそのためには新しい戦争の危機に直面する必要すらあるのではないかという気がする。(そういう意味では中国に期待(苦笑))。

日本についてはその他に、資源収奪的な外交を続けているという。日本には資源が少ないから、石油、鉱物の資源を確保することに全力をあげなければという思い込みのようなものがあるという。したがって本当は先頭を切って脱石油に邁進し、環境問題にコミットしなくてはいけないのに、そうなっていない。これには賛成で、国は再生可能エネルギーに投資をもっと振り向けてくれないだろうか。

日本の他には、アメリカ自身のことについて詳しく書かれてあり、その危機の中には戦時的な分断と非寛容により、民主主義が危機に陥っているという部分が強調されている。アメリカがチリのように民主主義から独裁国家になる可能性すらあるという。でもアメリカの国としての地政学的な盤石さは羨ましい限りです。

人類全体の危機に関しては、核兵器と環境問題をあげている。これまで、人類はこのような全地球的な危機を解決した例はないが、希望はあるようだ。国際連盟国際連合のような超国家組織をいくつも作ってきたし、複数の国家でグループをつくり交渉してきた経験もある。牛疫や天然痘のような病気を撲滅するのに全世界が協力した例もある。

しかし、彼が、そもそも国民国家というシステムになんら疑問を持っていないのはどういうことなの? わしも国民国家は少なくともあと数百年は存続すると思うけど、ジャレド・ダイアモンドくらいのレベルなら、国民国家自体について議論してほしい。でも、彼も86歳だそうだから、そろそろ限界かしらね。この本からなにか新しいものを得た人は少ないんじゃないの?

驚いたのは彼の経歴で、彼は最初は生理学の研究者だったそうだ。鳥類の研究や人類学の研究を始めたのはかなりあとのことで、何度も研究分野を変えながら、世界に影響を与えているのいだから、これはとてもすごいことですね。

★★★☆☆


危機と人類(上下合本版)

肩をすくめるアトラス

アイン ランド, 脇坂 あゆみ・訳、ビジネス社 2004
読書日:2017年04月23日


**** ネタバレあり。注意 ***


アイン・ランドの作品を読むのは「水源 」以来だ。「水源」では、主に個人が問題だった。自由や才能を押しつぶそうとする社会の中で個人がどのように生きていくかに焦点が当たっている。だが、本書で問題になるのは社会自身だ。個人の自由よりも平等が優先される社会が構築されると、いったい何が起きるのかが語られる。

端的に結論を言うと、個人の知性や創意工夫、意欲などが全く評価されず、その成果が搾取されるような社会が誕生する。もちろんそんな社会はまったく持続可能ではなく、社会は文明以前の状態に崩壊してしまう。そんな様子が描かれている。

驚くのはその崩壊していくスピードだ。最初の崩壊の兆候は20世紀モーター社という企業で起こる。そして社会が崩壊するのは、それからたった12年後なのだ。何しろ舞台は資本主義の権化、科学技術がもっとも発達したアメリカである。いくらなんでも、こんなに短期間に崩壊してしまうということがあり得るだろうか。

だが、例えば、現在、ベネズエラという国が崩壊しつつあるベネズエラ社会主義化してから19年である。意外に12年というのは的を得ているのかもしれない。

ベネズエラでは石油という資源に国民全体があぐらをかいて、個人の才能を伸ばす教育投資などはまったく行ってこなかった。国中が「たかり体質」になってしまったのだ。なにしろ世界最大の石油埋蔵量を誇っているのに、生産技術が維持できずに、石油を輸入しているのだ。まさしく「肩をすくめるアトラス」の現実化である。

しかし、社会主義や計画経済というのは目に見える社会の形でしかない。アイン・ランドの真骨頂はなにがこのような状況を生み出すのかという、人間の道徳の根源に迫ろうとしている点だ。アイン・ランドによれば、それはあるがままに現実を見る理性の軽視だ。そして理性ではなく、願望で世界を見る神秘主義がはびこったときに、崩壊が始まる。そして神秘主義者は、罪悪感に訴えて、能力ある個人の利益を搾取する。そんなに儲けて恥ずかしくないのか、という論調で。彼らの願いは全員が貧困になる、貧困による公平化なのだ。そして憎むのは知性と進歩だ。

人間の歴史を振り返ってみれば、個人の自由、才能を褒め称えるという傾向が出てくるのは、ほんの最近のことに過ぎない。たぶん、ここ数百年のことで、10万年程度の人類史のほぼすべての期間で「自由」よりも「公平性」の方が幅を利かせていたはずだ。しかも現代でも、個人の自由を最大限まで認めているのは、たぶんアメリカという国に限られているように思える。

物語の方に戻ろう。計画経済により崩壊していくアメリカの様子はリアリティたっぷりに語られるが、社会から搾取される側にされてしまった資本主義者(ビジネスマン)や知性を重んじる者たちがとった行動の方は、いまいちリアリティがない。

彼らはストライキを行う。その結果、頭脳を失った社会はますます崩壊の速度を速める。そればかりでなく、彼らが少しずつ消えていなくなる。彼らはどこへ行ったのか。コロラドの山の中の秘密の谷に集まって、自分たちのコロニーを作るのだ。そこでは未知のモーターによりエネルギーが供給され、空から発見されないように蜃気楼のカーテンを張り巡らす。彼らはそこで、社会が崩壊した後の世界を再建する準備をしているのだ。科学技術で守られたそこは、まるで、アイザック・アシモフファウンデーション・シリーズのようだ。そこでは産業の自由な活動を保証する新しい憲法まで準備されている。

それにしても、「水源」のときにも思ったことだが、アイン・ランドの「悪」の定義には脱帽だ。知性と進歩を憎む神秘主義者こそが悪なのだが、厄介なのは、彼らは権力欲のみは旺盛ではあるが、自分たちで富を独占したいとか豊かに暮らしたいとか、そういう願いはまったくないことだ。それどころか、彼らは自分が生きたいのか、生きる意欲を持っているのかも自分で確信がないのだ。ただただ、全員を道連れに滅んでいくことを目指す。これは、本当に最大の「悪」ではないだろうか。

小説としては理念先行で、物語が少々退屈なところが残念。理想に近い男が現れるたびに乗り換える女性主人公のダグニーについては、まあ、どう表現してよいやら(苦笑)。自分に正直と言うべきなんでしょうね。

 


肩をすくめるアトラス

肩をすくめるアトラス 第一部

肩をすくめるアトラス 第二部 二者択一

肩をすくめるアトラス 第三部 (AはAである)

パスタぎらい

ヤマザキマリ 新潮新書 2019.4.20
読書日:2020.1.26

イタリアと日本を行き来する漫画家ヤマザキマリの食を巡るエッセイ。

題名のパスタ嫌いというのは、イタリアで貧乏学生だった頃、一生分のパスタを食い切ったからというのが理由らしい。彼女によると、ペペロンチーノは、パスタは一食あたり50円ほどで、それににんにく、鷹の爪、オリーブオイルでできるので、100円未満でできるのだそうだ。なので、お腹が空くとそればかり食べる羽目になる。

貧乏学生はみんな同じで、みんなが集まって熱心に議論するけど、お腹が空くと誰かがパスタを茹で始め、ペペロンチーノを食べるのが定番だという。

パスタ嫌いだが、日本テイストのパスタ料理、ナポリタンは大丈夫なのだという。イタリア人に言わせると、パスタにケチャップを入れるなんてありえないと誰も反対するのだが、実際に食べるとまあまあいけるという反応になるのだという。しかし、最後には、これはパスタではないよね、という最終回答になるのだという。(そりゃそうだよね)。

イタリア人にしてもどの国にしても、食に関しては非常に保守的で、新しいものには懐疑的な態度を取るのに、日本人(とアメリカ人)の食に関しての開明的な態度は非常に珍しいという。日本人は他の部分は保守的なのに、食に関してだけはチャレンジングなのだそうだ。

その他、おにぎりやラーメンなど、どちらかというとB級グルメを巡って、ヤマザキさんの文章が続くのだが、所々で爆笑した。(とくに動物愛護よりも肉にいってしまうところ)。

ヤマザキマリが若い頃に北海道放送局で温泉とグルメのリポーターをしていたときの話があったが、その頃のヤマザキマリを見てみたいなあ。どこかに動画がアップされてないかしら。

★★★☆☆

 


パスタぎらい (新潮新書)

失われた女の子 ナポリの物語4

エレナ・フェッランテ 飯田亮介・訳 早川書房 2019.12.19
読書日:2020.1.21

(ネタバレあり。注意)

天才的なリラと努力家のレヌーのナポリの物語もついに最終巻の第4巻を迎えた。

この物語の発端を思い浮かべてみると、第1巻の最初で、リラが自分がこの世に存在していたすべての痕跡を消して、自分自身も消えてしまうところから始まっている。それに反発したレヌーが、小さいときからの二人の物語を書くことにしたというのが始まりだった。

つまり、読者は最初から結末を知っているわけで、作者はリラがそうすることにした事情を明確に物語る必要がある。では作者はこの結末を説得力ある物語として語ることができたのだろうか。

結論を言えば、半分ぐらい成功と言えるだろう。結局、リラの心の中は誰にも理解できないのだから、謎は謎のままで残るのである。そういう意味ではレヌーの目を通して物語が語られるというのは、いいことである。読者はレヌー以上に理解することはできない。それでいいのだ。

リラの最後の行動を納得させるためだろうか、この第4巻は、これまでと少し趣が異なっている。これまでは二人が遭遇する困難は社会の中からきていた。貧困、暴力、女性であること、などである。これらの困難はすべて現実のものであり、通常の世界の範囲内である。しかし、リラを追い詰めるにはこれでは足りない。何しろ通常の世界の普通の困難は強い意志力で乗り越えてしまうのがリラなのだ。

そのせいか、今回の困難は社会の外からやってくる。通常ではない困難として。そのような通常ならざる出来事が背景にずっと流れているのがこの第4巻の特徴になっている。したがって、これまでと異なる傾向なので、多少違和感がある。が、ともかくその出来事を見ていこう。

まず起こるのはナポリの大地震である。これは史実であろうが、この地震はリラに衝撃を与え、彼女の意外な弱さを見せるのである。

リラはこれまでも彼女が周縁消滅(ズマルジナトゥラ)と呼ぶ精神状態に襲われていた。これは自分や物体が溶けて混じってしまうような感覚に襲われ、その結果、自己を保てなくなるような精神現象である。

地震はそのズマルジナトゥラが現実に起きたような感覚をリラに与えたのだろう。リラは判断不能状態になり、何の行動もできず、レヌーに助けられるのである。

もうひとつの事件はもっと不可解である。

リラの幼い娘ティーナが行方不明になってしまうのだ。それもみんなと一緒にいる広場から忽然と。そしてティーナに何が起こったのか、最後までわからない。まさしく神隠しであり、超自然的な印象を与える。(なお、ティーナは第1巻で失われた人形の名前と同じ)。

こういう、現実を超えたような雰囲気がずっと背景に漂っているので、リラの行動もさほど不可思議ではなく、あり得るような気がしてくるのだ。

しかも現実の社会でも、リラは大きな挫折をする。

おそらく、リラの頭の中では、言葉というものが非常に力のあるものと認識していて、言葉による糾弾で世の中が、ナポリが変わりうるという希望を持っていたはずである。彼女はビジネスを通してソラーラ家の犯罪の証拠を集めていて、それを文章にしてレヌーの名前で発表する。これはリラの10代からの悲願だったことである。それを実現したのだ。

それで何が起こったかというと、何も起こらなかったのである。警察の捜査は行われたが、ソラーラ兄弟への捜査はいつしか消えてしまう。そればかりではない。ソラーラ兄弟は結局、何者かに殺されてしまうのだが、これはリラにとってはちっとも良いことではないはずだ。暴力に対してはそれ以上の暴力でしか対抗できないことを示しているのだから。

これでリラは言葉に対する信頼を失ってしまったのだろう。ティーナがいなくなると、リラはナポリの未来に興味をなくしたようだ。

息子のリーノは麻薬中毒になり、ビジネスも売らざるを得なくなり、パートナーのエンツォとも別れ、実家の家族とも縁が切れてしまう。すべてを失う中で、リラはただナポリの過去に興味を示すようになる。もしかしたら、何があっても、ナポリが今後も存在することを、歴史の力を通して確認したかったのかもしれない。

じきにレヌーもトリノへ去り、残されたリラは自分の存在を消すことにするのである。リラはあれだけの才能を示しながら、結局後世に残る物は何もなかったのだ。

一方のレヌーについては、もちろんたくさんの事件が起こるが、その中には不可解なことは何もない。

第3巻で、レヌーはニーノとの愛に走ったわけだが、結局ニーノは不誠実な恋人であることが発覚する。このエピソードはそれなりに楽しめるのだが、それほど重要ではないと思う。このニーノとのエピソードは、レヌーがナポリに、そして生まれ育った地区に戻るきっけかけになることが重要なのだ。ニーノの不誠実さとそれが引き起こす事件とその経過については、とてもよく書けている。

こうしてリラとレヌーは再び、地区で密着した生活を送る。レヌーは自分の内部から創造の種を発見できないタイプなのだから、リラと一緒にいる必要があるのだ。レヌーは結局、十年以上を生まれた地区で、リラのアパートのすぐ上の階で過ごす。そしてすでにリラから発想をいただくのにまったく躊躇しない。なにしろ彼女は、作家として生き残る必要があるのだから。

ほとんどの登場人物が悲惨な最後迎えたり、破滅したり、逮捕されたり、あまり良い目にあっていないのに、レヌーとその娘たちは概ね順調な人生を送る。ニーノもまあまあ、いいところまで行く。

さて、この第4巻をどう判断するべきだろうか。とても面白く、夢中で読めたことは事実なのだが、どうもこの巻は、わしには技巧に走りすぎている印象がする。物語を収束させようとする意図がはっきり出すぎているように思う。

そのせいか、最後の人形を使った印象的なエピソードも、大きな感動というふうにはわしにはならなかった。わしとしてはできればティーナの失踪のような、特殊なエピソードを使わずに、この話を終わらせてほしかった。

とはいえ、全巻まとめて非常によくできた物語であり、誰に対してもお薦めだ。

それにしても、女性のみなさんは、この物語をどのように読むんだろうか。フェミニズムの話と読むとちょっと違う気がするのだが。

★★★★☆

 


失われた女の子 (ナポリの物語 4)

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