アイン・ランド, 藤森 かよこ 2004.7 ビジネス社
読書日:2005.11.8、(当時書いた感想が気に入らずに2019年12月に書き直したもの)
ご存じリバタリアンの始祖アイン・ランドの主要著書のひとつ。1943年に発表され、アメリカ人にはとてもなじみの深い小説です。アメリカ人の文章にはよく、「水源のハワード・ロークのように」などと自分と主人公を比べる文章がでてきます。そんなわけで長いことこの小説の存在は知っていましたが、リバタリアン的な考え方が日本人にはなかなか理解できないのかずっと翻訳されず、なんと発表から60年たってようやく日本に紹介されたという作品です。しかし、2019年のいまではリバタリアンという言葉もずいぶん普及しました。
主人公のハワード・ロークは建築家ですが、芸術家タイプとでもいいますか、個人の創造性を最大限に発揮する仕事をしようとします。世間でありがちな設計や創造性のかけらもない仕事はしません。かといってそういう仕事をする人たちを強く軽蔑したり非難するというわけでもなく、彼自身はそういう仕事はしないというだけです。しかも、誰かが彼のデザインを他人が盗んだとしても、それを声高に主張することもありません。ただ自分の才能を発揮する仕事をしたいだけで、そういう世間的なものには興味がないのです。
当然ながら、雇われていてはそういう仕事はできませんから、自分で事務所を開いたりしますが、うまくいくはずもなく、事務所は潰れたりします。
彼のことを最も理解しているのは、恋人となるドミニクですが、この二人の関係も変わっていて、ドミニクはわざとハワードが困難な道を行かざるを得ないような行動をとって、しかもハワードがそれを理解しているという、ちょっと変態的な関係です。お互いに相手を理解しているからこそ、何の妥協もないといいましょうか。
しかし、この小説がもっとも素晴らしいのは、ハワード・ロークの敵となる人間の設定の仕方にあります。それはエルスワース・トゥーイーという人物で、彼は強力な権力欲を持っていますが、しかし豊かな生活をしたいというわけではないのです。彼はそういう物質的な欲望が全くない人物として描かれています。彼が望むのは権力だけなので、彼が理想とする世界は、国民全員が貧乏で不幸であっても、たぶん自分自身も貧乏であっても全く問題ありません。世界中を堕落させることで、自分が権力を握る、そういうことを目指している人物です。おそらく旧・ソ連のスターリンやブレジネフなどを思い浮かべるといいかもしれません。
そんな彼にとっては、誰かが個人的な才能を発揮して、そういう人物がヒーローになることこそ問題なのです。
ですから、トゥーイーはすぐにハワード・ロークがその種の人間であることを敏感に察知して、徹底的に彼の邪魔をします。彼は新聞社で評論家として働いており、ハワード・ロークの邪魔をする一方では、新聞社の労働者を組織して、新聞社を乗っ取ろうと画策しています。
それにしても個人と個人を中心にした社会の進歩の否定、それこそが完全な悪であることをこれほどはっきりと示した作品はないのではないかと思います。この考え方は次の「肩をすくめるアトラス」でよりはっきり出てきますが、肩をすくめるアトラスは、いくぶん空想的な世界で、アメリカが共産主義的な勢力に(軍事的にではなく、思想的に)乗っ取られるという世界ですが、エルスワース・トゥーイーという人物は、現実に身の回りにいても不思議ではないというふうに描かれています。実際に、だれでも、エルスワース・トゥーイー的な考え方をする人物に会ったことがあるのではないでしょうか。
このように実在する悪というものを、これだけはっきり示してくれたことが、この小説のもっとも大きな部分であるのだと思います。悪を描き出すのはとても難しいものです。世界征服をたくらむ類の悪については、そういう存在を実際に想像することはほとんど不可能です。しかし、アイン・ランドが示したように、文明や社会の発展を憎む存在というのは十分あり得る話です。
ですから、ほとんどアイン・ランドだけが人類全体の悪について表現することに成功したのではないか、という気がします。彼女は実際にその悪そのものとしか言いようのない経験をしてきたらしいので、明確に意識することができるのでしょう。
人間は自由と自立を求める一方、公平さ(平等)も希求します。しばしば公平さこそが正義という感覚に我々は襲われます。しかし、個人の自由と自立を否定した徹底した公平さは、社会の堕落を招き、我々自身の破滅に繋がります。こうした公平さにたいする幻想は人類の心根に深く染みついています。公平さに基づく正義の声に注意しましょう。そこにはしばしば悪が紛れ込んでいるのです。
★★★★★