ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

「第二の不可能」を追え! 理論物理学者、あり得ない物質を求めてカムチャッカへ

ポール・J・スタインハート 訳・斉藤隆央 みすず書房 2020.9.1ポール・J・スタインハート 訳・斉藤隆央 みすず書房 2020.9.1

読書日:2020.12.26

あり得ないと言われていた準結晶を理論的に予想していた理論物理学者が天然の準結晶を求めてロシアのカムチャッカ半島まで行くことを語る本。

わしは 翻訳本の副題が気に入らないことが多いのだが、この本は副題に目が行って、読もうと思った。カムチャッカにあり得ない物質? どゆこと?

この本ではあり得ない物質、準結晶を、著者のスタインハートが理論的に考察するところから始まる。

結晶というのは同じ原子構造が繰り返している状態のことをいう。タイルでいえば、三角形や四角形のタイルを同じように敷きつめた構造のことだ。この場合の原子構造は周期的なものになる。つまりある2つの原子を結んでちょうど2倍のところに必ず別の原子があるという構造だ。

一方、タイルではすきまなく、しかし周期的ではない敷き詰め方が知られていて、それを発見したペンローズにならってペンローズ・タイルという。ペンローズ・タイルイスラム教のモスクなどに実際に使われていることが知られている。

インフレーション理論を研究している宇宙理論物理学者である著者は、1980年代に、ペンローズ・タイルのように非周期的に原子が並んだ物質があるのではないかと考えた。そして、まずはそういう構造があり得るのかについて、大学院生と一緒に探し始める。

この辺にまずはうなってしまった。ペンローズ・タイルのことは、わしも1990年代には知っていたと思う。ところが、ペンローズ・タイルのような非周期的な構造を持つ物質があるはずだ、とは考えもしなかった。なぜそういうことが思いつかなかったのか、自分でも不思議な気がした。こういう当たり前のことが思いつくのが天才ということなんだろうと思う。

さて、ペンローズ・タイルは2次元だが物質は3次元なので、頭の中のイメージでは限界がある。著者らは発泡スチロールと棒を使って、いろいろ検討を重ねる。こういう考察を続けているなかでさんざん言われるのは、あり得ない、という言葉だったという。

スタインハートは、著名な物理学者、ファインマンの教えを受けたことがあって、あり得ない、には2種類あると教わる。1つ目は原理的にあり得ないことで、この場合はまったく可能性がない。しかし、理由ははっきり言えないが常識的に考えてあり得ない、という第2のあり得ないの場合は、やってみる価値があるというのだ。

宇宙物理学者としても第2のあり得ないに挑戦し続けていた著者は、そういった外部の言葉に惑わされることなく、研究を続ける。そうして、ペンローズ・タイルのような非周期的な敷き詰め方に、ある重要な数学的性質があることに気が付く。ペンローズ・タイルは周期がないわけではないのである。通常の結晶では分割は整数的に分割される。しかし、ペンローズ・タイルの世界では分割は無理数で分割されているのだ。そしてその分割比は黄金比になっているのだ。(そしてタイルの並びはフィボナッチ数列を形成している)。

周期的な構造が見つかったことから、これを準結晶と名付ける。準結晶が周期的な構造を持っているのなら、X線回折に影響があるはずだ。計算してみると、5回対称や10回対称という、通常の結晶ではありえない対称性を持つことが分かった。

これらを論文にして発表すべきか、というところでスタインハートは躊躇する。なんら実験のサポートがないこの種の論文は、思い付き程度に受けとめられ、反響を呼ばないのではないかという躊躇だ。

ところで、科学の世界では、同時期に同じような研究結果が発表されることがよくあるが、著者らが準結晶について重要な特性について気が付いたころから、なぜか世界中から準結晶が実験室で合成されるようになる。こうして実験的なサポートがあるので、準結晶の理論は、意外にあっさり受け入れられたのである。

ファインマンに発見した準結晶について説明して、あり得ない、と言われたことがこの理論編のクライマックスだ。ファインマンの場合、あり得ない、は最大の賛辞なのだった。

めでたしめでたしだが、ここまでが最初の3分の1ぐらいで、研究はまだまだ続くのだ。

準結晶という構造は認められたが、実物の準結晶は研究室で慎重に環境を整えた場合にしかできなかった。スタインハートは、準結晶は自然でもできているはずだと確信していた。しかし世の中の鉱物学者は天然の準結晶は、あり得ない、と言った。

そこで天然の準結晶を探すことにする。ここで、イタリア人の研究者ルカが登場する。ルカはスタインハートの天然の準結晶を探すというアイディアに魅了されて、一緒に探索を開始する。そしてついにフィレンツェに保管してあった鉱石のなかに、準結晶を発見する。

ところが、この時、鉱石をばらばらにしてしまったので、準結晶がどのような状態で存在していたのかの証拠がなくなってしまい、本当に天然の準結晶と言えるのか分からなくなり、スタインハートたちは窮地に陥ってしまう。

そこでこの鉱石がどこから来たのか必死で探っていくうちに、冷戦時代の旧ソ連から来たことが判明する。それはカムチャッカの小さな川で得られたものなのだ。なんとその鉱物を発見した人も見つかり、こうしてもう一度カムチャッカ準結晶を含んだ鉱物を探しに行くことになるのである。もちろんこの時も、広いカムチャッカから探し出すのは、干し草から針を探すようなものだ、あり得ない、と言われたのだが。

カムチャッカの冒険の様子も面白いが、結論だけ言うと、それは見つかったのだ。そしてそれは隕石のかけらであることが確定する。

すると次の疑問が生じる。これらの準結晶はいつ頃、どんなふうにできたのか。太陽系ができる前にできたのか、それとももっと最近の話なのか。

これまた結論をいうと、一部は数億年前に、その他はその数億年前より以前にできていたらしい。数億年前にできたものはたぶん小惑星同士の衝突だろう、ということで、似たような材料にマッハ3で剛体をぶつけてみると、あっさり準結晶ができてしまい、しかもこれまで謎だった部分も再現できてしまい、研究はいまなお広がり続けているという状況なのである。著者はいまその隕石のもとになった小惑星を探しているのだそうだ。

こんなふうに30年以上にわたって、まだ謎を追い続けるというのもすごいことだ。

どうも科学研究もビジネスと同じように、誰もやらないニッチやブルーオーシャンを見つけることが大事なようだ。あり得ない、と誰もが言っても、それは原理的にあり得ないのか、それともその世界の常識からみてあり得ないのか。第2のあり得ないなら、それに挑戦して壁を乗り越えると、その向こうには青い海が広がっている、ということらしい。

★★★★★


「第二の不可能」を追え!――理論物理学者、ありえない物質を求めてカムチャツカへ

地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」

細谷 功 東洋経済新報社 2007.12.7
読書日:2009年01月15日

この本が出た頃、ある書評にこの本に載っている「日本に電柱が何本あるか」というフェルミ推定の問題が書いてあったので、さっそくやってみたことがある。本に書いてあるのと違ったアプローチを取った。

・日本の世帯数を5千万とする。
・90%は都市部とその郊外、10%を過疎部とする。
・都市部では、効率がいいので、電柱1本あたり5世帯に繋がっているとする。したがって、電柱の数は4500万÷5=900万本。
・過疎部では逆に効率が悪いので、世帯数の5倍あるとする。500万×5=2500万本。
・したがって日本の電柱数は、900万本+2500万本=3400万本。

答えは3300万本だそうで、ほとんど一致した。なんだわしは地頭力があるのか、ということで関心を失い、そのままになっていた。(笑)

半年ほど前、またなんかのコラムでこの本のことが出ていたので、やっぱり読んでみるかと図書館で予約して、ようやく順番が回ってきたしだい。

フェルミ推定の話なのかと思っていたら、そうではなくて、フェルミ推定的な発想をしなくてはいけない、という本だった。内容的にはおおいに納得。

最近はあまりしないけど、新しいお店に入るとついつい、このお店は客単価がどのくらいで、1日の売り上げがどのくらいで、賃貸料、従業員の給料がどのくらいで、じゃあこのくらい儲かってるんだろうなと考えてしまう。(経験ではたいていはトントンぐらいで、激しく儲かってるところはあんまりないよね)。

こういったところがフェルミ推定の練習と言えないことはないのかも…というか、フェルミ推定というには簡単すぎるか。

★★★★★

 


地頭力を鍛える

負債論 貨幣と暴力の5000年

デヴィッド・グレーバー 監訳・酒井隆史 訳・高祖岩三郎、佐々木夏子 以文社 2016.11.15
読書日:2020.12.17

貨幣の起源は負債にあり、負債の起源は人間のモラルにあると主張する本。

貨幣の起源について述べるのは普通なら経済学者である。しかし、クレーバーは人類学者なのだ。なぜ経済学者ではなく人類学者なのか。

どうも経済学者は思考の範囲が非常に狭いようで、人間の本質を観察する人類学者の視野の広さにはかなわないようだ。そして、経済学者はしょっちゅうあり得ないような仮定を持ち出すのに対して(たとえば人間はいつも合理的に行動する、とか)、人類学者の方が自分の思い込みではなく、客観的な観察から真実を導き出すことに長けていると言えそうだ。

経済学が描く貨幣の誕生はこういう感じだ。昔は貨幣がなかったので、物々交換を行っていた。しかし、お互いにほしいものを持っているとは限らないし、交換したいものが手に入る時期や季節が違うかもしれない。こうなってくると非常に不便だから、やがて保存できてよく使う商品を仲介して交換をするようになり、それが貨幣に発展した、というものだ。

この話が困るのは、そんな物々交換を行っている社会がこれまでどこにも発見されたことがないということだ。どんなに原始的な狩猟採集民であっても、そんなばかげたことをやっている社会はないのである。

ではどうやっているのかというと、普通に人間がやっているような貸し借りの世界なのである。足りないものがあったら、誰かに分けてもらう。自分が持っているものかあれば分けてあげる。こうしたお互いのやり取りはちゃんと覚えており、それなりに帳尻が合うようになっているのである。

これは完全に信用の世界だ。このような心の帳面に貸しと借りが記載する方法だと、そもそも貨幣など必要なはずがない。

もちろん、ひとりの人間がやり取りを管理できるのは限られた人数になるだろう。だが、それが大きな町になっても、そしてそれが国家に発展しても問題はないのである。帳面にそれを記載してあればいいのだ。メソポタミアではそうしていた。メソポタミアで見つかる楔形文字の文書のほとんどはそういう貸し借りの帳面、つまり負債の記録だったのである。

そもそもメソポタミアで国家が誕生したのは紀元前4000年のことだ。そして貨幣が初めて現れたのは紀元前500年のことだ。とすると、国家が誕生して3500年の間、貨幣なしでなんの問題なかったのである。おそらく、誰かに貸したという記録は、それ自体が価値を持って、他の人に譲渡され、実質的に貨幣と同じ役割を果たしていたと考えられる。

紀元前500年ごろに何が起こったのかというと、戦争である。これまでとはケタ違いの戦争が起きるようになり、兵士の給料として貨幣が配られるようになった。帳面による記録は、お互いに信用しあってるその国の人間だけに有効であり、異国の兵士はそのシステムに含まれていないから、帳面で帳尻を合わすわけにはいかない。なので、貨幣というものが重宝されたのだ。アレクサンダー大王の遠征のときには一日の兵士の給料が金0.5トン必要だったという。もちろんこうした金属は、征服した国から調達し、鋳つぶして作ったのである。そしてなぜ商人がこの貨幣を受け取ったのかというと、もちろん、相手が武力を持っていたからである。

そういうわけで貨幣と武力は切っても切れない関係があり、いまでもドルが世界最高の通貨なのは、よく言われるように、アメリカが世界最強の軍事力を持っているからなのだ。

貨幣が誕生するとたちまちそれが普及して貨幣なしではいられなくなった、というわけでもなく、ローマ帝国が滅んで中世に入ると、また人々は貨幣ではなく帳面の世界に戻って、貨幣なしで経済活動をすませるようになっている。

産業革命が起こり、資本主義が始まると、今度は金属の価値に依存する経済体制、つまり金本位制がとられるようになり、帳面に依存したバーチャルな信用経済はなくなってしまった。ところが1970年代に、ニクソンが金とドルの関係を絶ってしまい、貨幣はあるが、事実上バーチャルな世界の揺り戻しが起きているのが現在だ。

結論を言えば、貨幣は最初、帳面に負債をつけ、その負債のやり取りが通貨として機能したバーチャルな信用経済の時代があり、その後物質の金属をもとにした実物的な貨幣の時代が到来したが、その後は時代ごとに信用と実物の両者の間を行ったり来たりしていたということだ。そして強調したいのは、バーチャルの信用がすたれ、実物の貨幣が重んじられるときは、戦争が切実な問題となっている時代なのである。

以上が大まかで表面的な貨幣の歴史なのだが、クレーバーが言いたいのはそのような表面的なところだけではない。彼は、なぜ借りたものは返さなくてはいけないのか、というモラルの部分を問いたいのだ。なぜ人間は借りをそんなに気にするのか。負債とは何なのか。

わしは強盗や殺人といった凶悪な犯罪が起きて、その動機を聞いてときどきびっくりすることがある。犯人は借金をしていて、犯罪はその借金を返すためだった、ということが結構あるのだ。犯罪を犯してまで借金を返そうとする、その本末転倒さに驚くのである。負債とは、人間をそのような犯罪行為に駆り立てる部分がある。

なぜそんなに必死になって負債を返そうとするのか、ということについて、残念ながらクレーバーは十分に解答を与えてはくれない。クレーバーが進化心理学者だったら、人間は社会的な暮らしを続けていくうえで信用が重要だから、とか、社会脳がどうした、とか、そんな話をしてくれたのかもしれない。でも人類学者であるクレーバーはそんな話はしてくれない。しかし、負債が人間にどのようなことをさせるかについては、いろいろな知見を語ってくれる。

そもそも負債がないのに、お前には生まれながら負債を持っていると宣言して、その負債を一生その人に負わせて縛りつけることも可能だ。例えば宗教だ。神がお前を作ったと言えば、それが原罪となって、神に負債を返すために宗教に縛り付けることができる。(ついでに言うと、罪sin,guiltyと負債debtの単語にはつながりがあるそうだ)。または、いまお前がいるのはお父さん、お母さん、ひいてはずっと昔の先祖のおかげだ、その恩を返さなくてはいけない、といって一族のために奉仕させることもできる。

国の場合は、どこかの国を植民地にすると、いきなり税金を設定し、つまり負債を設定し、負債を返させるために先住民を強制的に働かせたり、負債漬けにしてすべてを取り上げることもできる。クレーバーによれば、ヨーロッパでローマ帝国が滅んだあと中世が始まったのは、自由な独立した農家が借金で没落し、かつての自分の土地を耕す小作人になってしまい、土地に縛り付けられてしまったからだという。(そういえば、現代でも返しきれない借金を貸し付けて、その国の資産を取り上げてしまう、某中国という国もありますなあ)。

スペイン人は南アメリカで原住民を奴隷化して、金山などの鉱山で働かせて、ありえないほど悪逆非道なことをしたが、そもそもスペイン人たち自身のほとんどが借金を返すためにアメリカにきたのだ。そしてスペイン国王も借金漬けで、せっかくの金や銀も借金返済に回されたのだという。(奇妙なことに金、銀は最終的には中国に渡ったのだという。)

負債を負わせられると、ひとは最後には自分自身も売り飛ばして自分から奴隷になってしまう。ここでびっくりなのは、資本主義に必要な概念である「私的所有権」も、奴隷と関係があるという指摘である。私的所有権はローマ法で初めて規定された権利で、所有している物に対していかなることをしてもいいという権利だ。で、この「物」というのが、じつは端的に奴隷のことを表しているというのだ。ローマ法では、所有とは人が物との関係を結ぶことなのだという。だが、人が物と間に関係を結ぶとはどういうことか。そもそも物と関係が結べるのか。しかし、ここで言っている物とは奴隷(=人間)のことだと分かれば、それが納得できるというのだ。

それだけでなく、奴隷という制度は女性の地位も下げていったという。かつてメソポタミアでは女性の地位はそんなに低いものではなかったのだそうだ。ところが奴隷という制度が生まれると、だれかが女性を「彼女は奴隷ではない」と守る必要が出てきた。そういうわけで、それが家父長の地位を上げることになり、逆に女性の地位がさがったというのだ。

さらにいうと奴隷は民主主義の根幹の自由とも関係がある。自由であるとは、端的には奴隷でないということだからだ。そして賃金労働者というのは(われわれのことだ)、自分の時間を売り渡し、自由を減らして金を得ているのだから、奴隷の概念ととても近い。

このように、負債というのは人間にとんでもない負荷をかけるものなのだ。したがって、何かを人に与えるときには、それがその人への負い目にならないように慎重に振る舞うことが必要になる。

狩猟採集民の世界は徹底した平等の世界で、必要な物資はすべて一族でシェアする世界だった。このような世界で、たとえば誰かが大物の動物を捕らえたとか、そういうときに他の人にそれを分けたりするときには、それがまったく大したものではないというふうに振る舞わなくてはいけない。「全然大したものじゃなくて、こんなもので恥ずかしいんだが。。。」みたいなことをさんざん言って、分けるのである。与えた人に対して負い目を与えないために気を使っているのだ。日本人が、つまらないものですが、といって物を渡すのと同じことだ。

いっぽうで、負債は負の側面だけではなく、人と人をつなぐものでもある。ある人がアフリカに引っ越したとき、近所の人がさっそく贈り物をもって訪ねてきたのだそうだ。次の機会に、お返しに同じ価値のものを返したら、ひどく怒られたのだそうだ。同じ価値の物を返すのは、それはお互いの関係を精算するときで、関係を続けたいときは、少しだけ少なく返すか、少しだけ多く返すものだという。そうすると、どちらかに負債が残り、貸し借りの関係は途切れず、関係はずっと続くからなのだという。なるほどねえ。こうやってちょこっとの貸し借りをしながらずっと人は繋がっていくのかもしれない。この話は、この本のなかでほっこりした数少ない話の一つだ。

負債に関連してさまざまなテーマがかなり自由にあちこちに話が飛びながら語られるが、内容が面白いので、混乱しながらも最後まで読み切ってしまう、これはそんな本だった。

★★★★★

 


負債論 貨幣と暴力の5000年

 

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの

ジャレド・ダイアモンド 訳・楡井 浩一 草思社 2005.12.21

読書日:2009年06月04日

「文明崩壊」という題名がついているのだが、ちょっと違うんじゃないかと思う。この題名では、ローマ文明はほろびヨーロッパは中世に入った、などという話と勘違いしてしまう。そうじゃなくて、これは人間社会が文字通り滅んでなくなってしまう状況を研究した本なのだ。キーワードは持続可能性(サスティナビリティ)、人間が社会を維持できなくなるパターンを研究している。

事例は意図的に選ばれている。ポリネシア人が入植したイースター島やバイキングが入植したグリーンランドが非常に大きな割合を占めている。これらはそもそも人口が数千人しかいない。だから文明とは呼べない。なんでこんなところが事例としてふさわしいのか。それはすでに地球が1つになり、どこにも新しい土地がなくなった状態だからだ。ほかに進出する領地がない場合、いったい何が起きるのかを考えるために、このような孤立した集落がどのように滅んでいったかを調べる意義があるのだ。大部分は取り返しのつかない環境破壊の結果、人口を維持できなくなり、崩壊する。その崩壊の過程では、読んでいると気分が悪くなるようなこともたくさん起こる。

日本は江戸時代に森林を管理し、崩壊を食い止めることに成功した事例として紹介される。しかしそれは外部との接触を絶った江戸時代の間だけだ。いまは食料や木材を大量に輸入するために、環境破壊を他国に輸出している国となっている。いまや自分の国だけの環境保全を考えていては、地球全体が滅んでいってしまうと著者はいう。地球環境を破壊すれば、その残った環境で維持できるだけの人数まで世界の人口を減らすしかない。その瞬間は絶頂期のすぐあとに来ることが多い。そしてその崩壊の過程ではおこる眼も覆うような悲惨な状況がこれでもかこれでもかと示される。

観念にはまったく流されず、具体的な事例で環境破壊の結果を示してくれる好著。著者の関心の幅の広さは驚異的。

★★★★★


[まとめ買い] 文明崩壊

菌世界紀行 誰も知らないきのこを追って

星野保 岩波現代文庫 2020.9.15(オリジナル単行本は2015.12)
読書日:2020.12.12

雪腐病菌(ゆきぐされびょうきん)というきのこの研究者が、きのこを追って北極や南極の極地をめぐる体験を述べた本。

申し訳ないがほとんどの人と同様に、きのこを含む菌類には興味がありません。(多少、粘菌には興味がある)。なので、純粋に面白い旅行記として読みました。

人間が「これを一生の仕事」と決めるのは一体いつなんだろう。わしはほとんどの人は二十歳前後なんじゃないかと思う。著者の星野さんも、大学時代に師匠というべき人に出会って、雪腐病菌というほぼ人が行かない道に踏み込んだ。

この人の場合、きっと他の人が行かないニッチな領域が必要だったのではないかと思う。そして、北欧で標本を集めた師匠もシベリアでは標本を採集していないときいて、シベリア行きを決意する。この辺も無用な競争を避けて人のしないところで勝負しようという気質が垣間見える。

で、当時のロシアは、ソ連が崩壊してしばらくたった90年代後半だったから、けっこう社会が不安定なころだ。そんなロシアのシベリアを放浪するには現地の人間の助けが必要だ。そこで日本で開かれた国際会議に来ていたやっぱり雪腐病菌のロシアの研究者、オレグ・トカチェンコ博士と知り合い、シベリアに一緒に行くことにする。ニッチな研究者はお互いに助け合うのだ。

このふたりのシベリア紀行がこの本の一番面白い部分で、ロシアのあちこちでの経験が語られる。

例えば、ロシア人と言えばウォッカだが、やっぱりどこに行ってもやっぱりウォッカを飲むことになり、本人も酒が好きなので泥酔したりする話とか、宿に泊まろうとしたら、物騒だからトイレに入るときはナイフを口にくわえて小便をするように言われるといった経験とか。また、ロシアの研究者は貧乏なのでいろいろやりくりする(でもウォッカはなぜかふんだんに出てくるんだけど)ところがけっこう面白かったりする。ロシア人の生態は、ほぼ部族民の基本的な物資をシェアする形態に近い気がする(共産主義だけに?(笑))。

シベリア以外にも、北極、南極の極地を回っていろいろ標本を集める話もあるが、まあ、やっぱりロシアの話が一番面白い。

著者はこの貴重な経験を語った本書で一躍人気者になり、本業の菌類関係の本も出している。やっぱり人と違った経験をするものである。

★★★★☆

 


菌世界紀行――誰も知らないきのこを追って (岩波現代文庫)

凡人として生きるということ

押井守 幻冬舎 2008年7月
読書日:2008年09月23日

押井守はアニメ界でこそ有名な監督だが、説教をたれる文化人ではなかったはずだ。だが、自他共に認める「オヤジ」となったいま、その資格を得たようだ。

ここで述べられていることは、押井がこれまで一生をかけて考えた結果がまとめられているので、単なる文化人の戯言というわけには行かない。実際、薄い本なのに、読み進めるにはけっこう時間がかかった。無視していい言葉が少ないからだ。

押井は根本のところで疑問を呈する。「若さに、青春に価値があるというのは本当か」「自由が最高の価値であるというのは本当か」「友達が本当に必要か」などである。

押井の作品がこういう根本的な疑問から発想されているというのは驚きだった。たとえば最新作の「スカイクロラ」は永遠に若いままで青春を繰り返す人たちの物語なんだそうだ。若さや青春に本当に価値があるのなら、最高のユートピアになるはずだが、そうはならない。こういう発想をするひとなのだ。

自由の問題では、自由というよりも自在感がより重要だという。実際に人は自在に何かを成し遂げられるとき、自由だと感じる。そしてオヤジになるほどできることが増えて自在感が増すので楽だという。

友達も必要ではないという。とはいってもコミュニケーションをしないわけではなく、何かテーマをもってそのテーマに限定してコミュニケートする。つまりそれは仕事ということである。何かテーマを持って接すると、自分の好悪を越えた人間関係が築ける。ただしそれはテンポラリーで損得がからむ。それが彼にとっては友達であり、それ以外の友達は必要ないという。

この意味は非常によく分かるし、わしもそうだと思っていた。しかし何の損得も関係なく、一生縁が切れずに付き合っていく、そういう人間関係はかなりの確率で実際に存在する。わし自身は、こういう関係はなんだろうか、と思う。

もちろん、押井はそのような関係を否定しているわけではなく、必須ではないといってるだけなのだが、押井自身も認めるように、そういう人間関係は押井の作品には登場しない。考える基板すら持っていないからだろうが、作品の幅を狭めているような気がする。

天才ではない凡人の人生の闘い方など、興味深い言葉多数。

★★★★☆

 


凡人として生きるということ

財政赤字の神話 MMTと国民のための経済の誕生

ステファニー・ケルトン 訳・土方奈美 早川書房 2020.10.15
読書日:2020.12.7

MMT(現代貨幣理論)は財政赤字の神話を突き崩し、国民の幸福のために国家財政を使うことを可能にすると主張する本。

ケルトンは、経済学を学んでいた修士のときにMMTに出会ったのだという。友人に勧められて、ウォーレン・モズラーの「ソフト・カレンシー・エコノミクス」という本を読んだのだそうだ。モズラーはMMTの父と呼ばれている人で、経済学者ではなくウォール街の投資家なんだそうだ。

ケルトンは、本を読んでぎょっとしたという。伝統的な経済学を学んでいたケルトンには到底受け入れられない内容だったからだ。首尾一貫しているが、正しいはずがない、そう思ったのだそうだ。

しかし、ここからが彼女のすごいところで、ケルトンはモズラーに実際に会いに行ったのだ。この辺の行動力は見習うべきものがある。そして、議論するうちに、MMTが正しいことを確信して、宗旨替えをしたのだ。

さて、モズラーの話で面白いのが、自分の家庭でMMTを実践した話だ。

モズラーは家が荒れているので、子供たちに掃除をさせようと思った。そして子供たちが行ったサービスに値段をつけて、サービスに応じて自分の名刺を配ったのだそうだ。つまり通貨を発行したのだ。

ところがすぐにそれは効果がなくなり、また家は荒れ始めたのである。子供たちによれば、「パパの名刺にはなんの価値もないから、集めてもしょうがない」のだそうだ。

そこでモズラーは子供たちに、月に30枚の名刺を支払わないといけない、と宣言した。支払わないとテレビもプールも使わせない、ショッピングモールにも連れて行かない、とした。すると、子供たちは一生懸命働き始めたのである。つまりモズラーは税を設定したのだ。子供たちは税金を納めるために懸命に働いたのだ。

ここになぜ国が通貨を発行し、なぜ税を取るのかの意味が凝縮されている。国民を一生懸命に働かせるためだ。実にひどいシステムだ(苦笑)。しかし、もともと国家とはそういうシステム(国民を強制労働させるシステム)なので、いまさら言ってもしょうがない。

さて、この話から次の簡単な事実が分かる。

通貨、つまりお金は、まず政府(国)が発行して支出する。政府が支出すると、それは政府の借金になる(マイナスになるから)。そののちに、一部を税金として回収する。つまり、
 支出 → (税金+借金)

しかし、通貨の利用者、つまり国民は通貨を発行できないので、まずお金を集めないと使用できない。だから国以外の国民は、
 (収入+借金) → 支出
となる。

国民は使う前にまず金を稼ぐ(もしくは借金をする)という感覚が染みついているので、国の場合も
 (税金+借金) → 支出
だと勘違いしている。実際には国はいくらでも自由に通貨を発行し支出できる。さらに、借金をしてもそれを返済できないことはあり得ない。これがMMTの主張だ。

ケルトンは財政に関するこうした神話、もしくは都市伝説のようなものをMMTの見方で論破している。例えばクラウディングアウトもそのような都市伝説の類だと説明している。クラウディングアウトとは、国が国債を発行すると、民間からお金を吸い上げるので、民間が投資をするお金が無くなるから民業圧迫だとする説である。

しかし、実際には、国がまず支出をして、その同額を国債に置き換えているだけなので、民間からお金を吸い上げているわけではない。国債は民間に売却されるが、国債は事実上の通貨と同じなので、これは「緑色のドル(普通のドル紙幣)」を「黄色のドル(国債)」に交換しているだけだという。緑のドルと黄色のドルの違いは黄色のドルが利子付きのドルだという以上の意味はない。利子がついている方がいいので、銀行は喜んで緑のドルを黄色のドルと交換する。つまり、国債を発行すると、その分だけ国民の富が増えるのである。

というわけで、MMTが正しいなら、日本の財務省が言うこと、たとえば高齢者の福祉のために消費税を上げなくてはいけないという言葉はまったくの嘘である。国は増税なしでどんな政策も実行可能だ。高齢者だけでなく、貧困層の撲滅、教育の無料化、住宅の保証、インフラの構築、ベーシックインカムだってなんだって予算上の制約はない。

予算上の制約はないのなら、なんでもできる? 本当に?

もちろん、そんなわけがない。労働力だけを考えてもそれは分かる。働ける国民の数(労働力)は決まっているのだから、どんどん政策を増やすとそれを実行する労働者の数がどんどん必要になり、いつか限界に達する。そうなると、それ以上実行できなくなる。

それでも無理に実行しようとすると、労働者の奪い合いになる。労働者を他から奪うには、他所よりも高い賃金を払うしかない。こうして労働者の賃金は高くなり、それはインフレいう現象となって現れる。

つまり物やサービスの供給の限界が、実行できる政策の限界だ。限界に達したかどうかは、インフレが発生しているかどうかで確認できる。

逆に、供給体制がきちんとできていれば、インフレは起こらない。元FRB議長だったグリーンスパンは、社会保障の給付を行うには財政は限界に達しているのではないか、と議会で質問されてこう答えたという。

「政府が必要なだけ貨幣を発行し、給付を実施することを妨げる要因はなにもない」と。そして給付できるかどうかではなく、「制度を通じて提供される実物資産を確実に生産する体制をどう作るべきか」という供給体制の確保が問題だ、と答えたのである。

現状では、まったく供給能力は限界に達していない。それどころか世界的にデフレ気味なので、供給は大幅に超過であり、需要が足りていない状態だ。インフレの危険がない以上、政府はもっと世の中に役に立つ政策を実行すべきなのである。予算を気にせずに。

しかしながら、MMT自体は通貨に関するものの見方を変えるためのものにすぎず、政府の予算の使い方をどうするべきかということは教えてくれない。ケルトンはいくつかあげているが、最も重要なのは、すべての希望する人に仕事を与えるという就業保証政策だろう。

資本主義では景気の波は避けようがない。民間で失業した人が発生した時には、国がすべての失業者を雇う。そして、景気が回復すると、その人は民間に移っていく。こうして、景気の波の影響は避けられるという。

国が与える仕事はどうやって用意されているのだろうか。なんの準備もないと、クソくだらない仕事が増えるだけになるだろう。

ケルトンによれば、あらかじめ仕事のリストを地域社会で用意しておいて、不況になったらそれを実行するということになるらしい。そのやり方で本当にいいのかどうかは疑問だが、就業保証の政策はベーシックインカムよりもいいかもしれない。人はなにもしないでお金がもらえるよりも、何らかの仕事をして人の役に立ってお金がもらえた方がきっといいだろうから。

さらに、こうした就業保証プログラムは自動的に始まって自動的に終わる自動運転型の政策だから、MMTの政策としてはもっともよいものになるだろう。他の政策、例えば医療の不足や教育の不足などに対応した政策は、一度始めるとたとえインフレになったとしても急にやめるのは難しいだろうから。

さて、このようなMMTの見方は普及するのだろうか?

ケルトンは2010年にモズラーと一緒にクリーバー議員のところに行って、MMTの見方を説明したときのことを語っている。最初は、MMTの話にそんなバカなと言っていた議員だったが、やがてMMTが正しいことを理解した。だが、最後に議員はこう言ったという。「私にはそんなことは言えない」と。周りの人間と見方が異なると、総スカンをくらってしまい、議員には大変にリスキーだったからだ。

それから10年が経った。少しはMMTの考え方は普及したが、まだまだ異端の状態が続いているようだ。ケルトンの苦闘はまだ続きそうだ。

 

(付記:リフレ派はなぜ失敗したのか)
日本が90年代にデフレに陥ったとき、リフレ派という人々が現れた。彼らはこう主張した。インフレやデフレは貨幣的な現象だから、貨幣の量を調整することでインフレにもデフレにもできる。インフレは貨幣の価値が減少することだから、国債を買ってお金を大量に供給すれば、お金の価値が下がり、インフレが起きる、と。

実際にこの政策が実行され、日本中にお金があふれた。しかしインフレは起きなかった。リフレ派は何を間違ったのだろうか。MMTの見方ならこれは当たり前だ。

結局、値段は需要と供給のバランスで決まっていて、供給が圧倒的に大きい状態では、過当競争で値段が上がりようがなかったのだ。MMTのような政策を実行して、需要を増やす、ということをしなければならなかったのだ。(それなのに政府は消費税をあげて、デフレを助長していたのだから)。

さらに言うと、国債と現金は利子がついているかどうかの違いだけで、国債を買い上げても実質的にはお金は増えていない。ケルトンの言う、黄色のドル(国債)を緑のドル(現金)に交換しただけだ。つまりリフレ派の政策は事実上、お金を増やすことに失敗している。おそらく利子がつかないお金に変わったので、何とか利子を得ようと銀行が融資を増やそうと努力することを期待したのだろうが、需要が増えず供給が多い状況では、期待したほど融資も増えなかったのだ。

(一方、株などの実物資産を買うのは、それなりに効果があるんじゃないかな)。

★★★★☆

 


財政赤字の神話 MMTと国民のための経済の誕生

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